第1話

文字数 5,127文字

 神奈川にある、農学研究科の農場に、教授と大手食品会社の研究員が来ていた。ビニールシートの中には多くのトマトが栽培されている。教授と研究員は、じっとトマトを眺めていた。僕は彼らの後ろから、ビニールシートの中に入っていった。
「これはすごいですね」
 研究員はそう言って、トマトを一つもぎ取った。
「君がこのテーマを担当してから、三年になるけど、よくここまでやったと思うよ」
 普段は口数の少ない教授が、僕のことを褒めるのは珍しかった。
「いくつか、新しい遺伝子を発見したんです。卒業までに論文にするつもりです」
「特許の申請は、助教の中西先生と進めなさい」
 僕は礼を言って、ビニールシートから去った。二人はまだ話をしていた。自分の研究が上手くいったことに安堵していた。
 研究棟に戻って、デスクの上を確認すると、一枚の手紙が置いてあった。

 佐々木君へ
 中野です。今日の夜、自由が丘駅の前で待ってます。私は実験が終わったので、先に帰ります。

 デスクの前に座る、中野さんからの手紙だった。最近僕らは親しくなって、一緒に過ごすことが多かった。
 僕は胸に淡い期待を抱えながら、研究棟を後にした。周りは、林や畑や田んぼが点在していて、大きな道路の前で信号を待っていた。信号が青になると、歩き始めたが、トラックが突っ込んでくることに気づいた。
 まずいなと思った時は手遅れだった。僕は吹き飛ばされて、意識を失った。

 目を覚ますと、天井は木目調だった。僕はベッドに横になっていた。
「起きたんですか?」
 一人の女性が、僕にコップを持ってきてくれた。
「ここはどこですか?」
「あなたが河原で倒れていたから連れてきたんです」
 僕はいったい何が起こったのか理解できず、ただ辺りを見渡していた。女性は僕にコップを差し出して、僕はそれを飲んだ。甘い飲み物だったが、体がリラックスするのを感じる。
「これは何て言う飲み物ですか?」
「マーロって言います。サンクル草を煮出して、砂糖と牛乳を加えたものです」
 僕はとりあえず、それを飲み、ゆっくりとベッドから起き上がった。記憶の中に、トラックに吹き飛ばされた光景が蘇ってくる。
「僕は死んだんです」
 彼女はじっと僕の目を見つめている。
「あなたの名前は?」
「圭介です」
「私はリンカです」
 
 その日の夜、小屋の中で食事をした。出てくる料理は、ある程度僕がいた世界と同じだった。彼女の話によると、牛や鶏や豚がいるらしい。ただ植物に関しては僕の知らない名前だった。

 翌朝、目を覚ますと、僕はベッドの上に寝ていた。リンカはまだ寝ているようで、見渡す限り誰もいなかった。朝の青い光が窓から差し込んでいる。おそらく早朝だろう。体を起こして、外に出ると、家の周りにはたくさんの植物が生えていた。果物の木もあって実が付いていたので、おそらく農場だろう。遠くに小屋が点在していて、川が見えた。僕は川の方まで歩いて行き、太陽が昇るのを見た。
 小屋に戻ると、リンカがキッチンに立っていた。
「外は広いでしょう?」
「僕が元いた世界とは違いますね。なんだか落ち着いています」
「どうしてあなたは死んでしまったの?」
 リンカはテーブルの上にコップを置いた。中にはマーロが入っている。この飲み物を飲むと安心した。
「道を歩いている時に大きな車にはねられたんです」
「そうだったんだ。そういえば今日、採れた野菜を売るために街へ行くのだけれど、あなたも来る?」
「ぜひ。この世界のことを知っておきたいので」
 朝食はパンと野菜のスープだった。僕らが食事をしている間、鳥の鳴き声が聞こえた。僕はこの世界がとても穏やかなものだと知った。
 食事を終えると、荷台がついた車に、農場の食物を積んでいった。僕はリンカに指示された通りに動き、積み終わると、車に乗って、小屋を出発した。
 外の光景は、どこまでも大地が続いている。リンカは車を運転しながら、鼻歌を歌っていた。
 街に着くと、たくさんの煉瓦の建物が並んでいた。商店が連なっていて、野菜や肉や穀物が売っている。道を通り過ぎて行くと、市場があった。リンカと僕は荷台に乗せた食物を、市場へ運んでいった。
「よお。リンカ。そいつは誰だ?」
 一人の男性が僕らに声をかけた。
「異世界から、来たみたいよ」
「へえ。そりゃあすげえな。お前さん、ここでゆっくりしていくといいよ」
 男はそう言って、別の場所へ向かった。
 市場で、リンカは、店の人と交渉していた。僕は隣で彼らの話を聞いていた。十分ほど話し合った後、店の若い男性はリンカに、硬貨を渡した。
「終わったから、帰りましょうか。今日の流れはわかった?」
「大体わかりました」
「いずれ圭介にもこの仕事を手伝ってもらおうと思う。そうすれば仕事になるし、ゆくゆくは自分の小屋も建てられるから」
 僕らは車に乗り、小屋に向かって走った。僕はその間、仕事について考えていた。今日、売った食物以外にも食材があるのではないか。もし新しい食材を見つけたら、それはビジネスになる。
 途中、森が見えた。僕は直感で、リンカに止まってほしいと言った。
「どうしたの?」
「ちょっと森に入ってみたいんです」
「どうして?」
「新しい食材が見つかるかも」
「まだ午前中だからいいけど、夜の森は危ないから、早めに帰ってきてね。帰り道はわかる?」
「大丈夫です」
 僕はそう言って、車を降りて、森に向かって歩き始めた。
「気を付けてね」
 後ろの方からリンカの声がした。

 森の中に入ると、虫の鳴き声が辺りに響いていた。木々の葉が視界を覆っていて、地面には様々な植物が生えている。地面を見ながら歩いて行くと、赤い実を見つけた。僕はそれを手に持っていた食物を入れていた麻の袋に入れた。日光が木々の間から、差し込んでいる。僕は中野さんのことを思い出した。結局、僕は死んでしまって、彼女と会うことはもうなくなってしまった。そう思うと悲しい気がしたが、胸の中はぽっかりと穴が開いてしまったみたいに、あまり感情を感じなくなっていた。
 時間は昼になり、僕は森の中の開けた場所に座り込んだ。鳥の鳴き声が聞こえる。この世界は前にいた世界よりもずっと落ち着いている。この世界で生きるのも悪くない気がした。リンカの農場で働き、お金が貯まったら独立するのも悪くないかもしれない。
 日が暮れる前まで、森の中を歩き、ひたすら果実を集め続けた。草に関しては種類が多すぎて切りがないので、別の日にすることにした。今日集めた果実の中に新しいものはあるだろうか。可能性は低かったが。これらの種を農場で栽培して、育種するのもありかもしれない。
 帰り道は夕暮れだった。街灯はないので、早歩きで帰った。途中川が流れていたので、川沿いを進んでいく。小屋に帰った時には、もう辺りは暗くなっていた。
 小屋の扉を開けるとリンカが料理をしていた。
「ずいぶん遅かったじゃない」
「いろいろ果実を集めたんです」
 麻の袋は果実で膨らんでいた。
「ちょっと見てみるわ」
 僕はテーブルに中身を出した。彼女はじっとそれらを見つめている。
「これは、ザルド、ケイル、スーロ……」
 彼女は果実の名前を読み上げていった。
「これはなんだろう?」
 彼女が手に取ったのは青くて丸い果実だった。どことなく林檎に似ている。
「新種ですか?」
「わからないけど、食べてみる? でも、毒があったら大変かも」
「毒があるものは、大体舌が反応するので、すぐに吐き出せば大丈夫だと思います」
 彼女はナイフを持ってきて、その果実の皮を剥き、小さく切った。中身は肌色で、見る限りはおいしそうだった。
 僕はそれを舌の上に乗せたが、毒のような苦みや辛味はなかった。ただほとんど味がしない。僕はそれを飲み込んだ。
「特に味はないですね」
 僕がそう言うと彼女もそれを一欠片、口に入れた。
「初めて見たけど、誰もこれを食べようとは思わなかったのかな」
 彼女がそう言った時、僕は視界が変わっていくのを感じた。小屋の中が歪んで、虹色の光が見える。その時、僕はこの果実が幻覚作用を持っていることに気が付いた。僕はなんとかベッドまで、歩いて行き、横になった。彼女も幻覚を見ているのか、椅子に座ったまま動かない。しばらくすると、脳に快感がした。おそらくこれは地球で言うところの麻薬だろう。
 一時間ほど経つと、幻覚は治まった。
「こんな果実があるなんて」
 リンカはそう言って驚いていた。
「おそらく僕が元いた世界では麻薬と言われるものです」
「麻薬?」
「快感がする物質で、中毒になる危険なものです」
「これは危険なの?」
「おそらく」
「とりかえず、この果実を魔術師の元へ持っていきましょう」
「魔術師?」
「魔術が使えて、病気の人を治したり、この街の問題を解決してくれるの」
 僕らはその日の夜、食事をして、眠りについた。魔術師とはいったいどんな人物だろうと思った。この世界は不思議なことばかりだ。

 目を覚ますと、リンカがテーブルに座って、本を読んでいた。僕は体を起こしたが、体の感覚がなくなっていた。いったい何が起こったのかと思い、リンカの向かいに座った。
「体の感覚がなくなっているんです」
「感覚がないの?」
「目が覚めたらそうなっていました」
 僕らはいつものように朝食を食べて、車に乗り、街まで行った。魔術師は五階建ての大きな建物にいるらしい。入口のところには銅像が建てられている。
「体の感覚がなくなったことも、ここで聞いたらいいわ」
 建物の中に入ると、執事が出迎えた。リンカと執事はしばらく話をし、階段を上って魔術師のいる部屋に通された。
 テーブルの向こうに、魔術師と言われる男が座っていた。端正な顔立ちで、目は澄んでいる。年は三十代くらいだろう。
「今日はどうされたんですか?」
「新種の果実と、この人の体の感覚がなくなってしまったみたいなんです」
 魔術師は出された果物を手に取り、眺めた後、「二人だけにしてもらえますか?」と言った。リンカはお辞儀をして部屋を後にした。
 扉が閉まると、魔術師は果物をテーブルに置き、僕の側へやってきた。
「君は地球から来たんだろ?」
 少し悲し気に彼は言った。
「そうです。昨日これを食べてから、体の感覚がないんです」
「時々この世界には、地球から人がやってくるんだ。理由はわからないけどね。この果実はアルクという名前で、食べると元の世界に戻る魔力を持っているんだ」
「リンカさんも食べたんですが」
「彼女はこの世界の人間だから、何も起こらないよ。それにしても、こうして地球にいた人と会うなんてな」
 僕は、ぼんやりと部屋の中を見渡していた。大きなテーブルが中央に置かれて、壁には本棚が連なっている。
「あなたは地球のことを知っているんですか?」
「僕も地球からやってきたんだ。もう何年になるだろうな。当時は研修医だったんだ」
 彼はその後、自分の身の上話をした。僕は興味深くその話を聞いていた。
「おそらく、今夜が山だろうな。僕はこの世界が気に入っていてね。いずれ帰ろうとは思っているんだけど。でも魔術が使えるから、楽しんでいるんだよ」
 僕は話をした後、部屋を後にした。下の階で、リンカは椅子に座っていた。
「どうだった?」
「今夜、元の世界に戻るみたいです」
「そっか。私もそんな気がしていたんだよね」

 夜、リンカと一緒に僕らは料理をしていた。帰りに街で買った牛肉に下ごしらえをして、強火で焼いた。農場で採れた野菜でスープを作った。僕の意識は澄み渡って、あまり生きている感じがしなかった。
 リンカは食事の時に、一つの瓶を持ってきた。
「これは家で作ったお酒なの。せっかくだから飲みましょう」
 僕らは食事をし、そのお酒を飲んだ。
「なんだか寂しいな」
 彼女の目には涙が滲んでいる。
「僕もできるなら、ここにいたかったです」
 ステーキを口に運ぶと脂が乗っていておいしかった。僕はぼんやりと部屋の中を見ていた。不思議なことが多すぎて何が何だかわからなくなっているのは事実だ。
 食事を終えると、二人でソファに座った。僕らはお酒を飲みながら、話をした。
「もうじき、消えるみたいです」と僕は言った。
「元の世界でも頑張ってね」
「過ごした数日間は楽しかったです」
「私も楽しかった」
 意識は消えかかっていた。僕は最後の言葉を言おうと思った。
「さようなら」

 意識が戻ると、白い天井が見える。体に力を入れても動かずに、痛みが走った。僕の腕には点滴が刺さっていた。横を見ると、窓があって、ビルが並んでいた。僕はその時、自分が死んでいなかったことを知った。しばらくするとドアが開き、看護師が入ってきた。
「意識が戻ったんですね」
 看護師はそう言って微笑んだ。
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