第1話

文字数 21,661文字

 毎朝、六時頃にアラームが鳴る。
今朝も変わらずピピピッと電子音が鳴り、四ツ葉哲(よつばさとし)は目を覚ました。アラームを止めるために伸ばした手が冷たい空気に触れる。部屋の中はすっかり十一月下旬の、冬の空気だった。
 六時に起きる予定で眠り、今スマホの画面には五時五十分と記されていた。
 ベッドの中で身じろいで伸びをすると背骨がパキッと小気味よく鳴って息が漏れる。
 気持ちの良い目覚めだった。
 以前の四ツ葉は睡眠時間の総量に意識が向いていたから、十分であろうと起床の予定時間よりも早くに起こされることを良しとしなかったけれど、今は設定した時間の三十分前から、眠りが浅くなったタイミングで起こしてくれるアラームを使っている。六時に設定したら、五時半から六時までの間で音が鳴るのである。
 枕の横に置いて寝るだけのスマホのアプリでなにが分かるのか仕組みはよく分からないけれど、半信半疑で使ってみたらこれが案外良かったのだ。
 四年近く不眠症と付き合ってきて、最近になってようやく導入剤を使用せずに眠れるようになった。なにはともあれ、自然な入眠も、自然な目覚めも良いものだった。
 本庁の捜査二課から所轄の生活安全課へ異動してきたのは今年の四月。
 三月のある日肩を叩かれ、「ちょっと休んでこい」と言われた。
 生活安全課は係員で、刑事ではない。刑事というのは刑事課の捜査員のことを指す。刑事ではなくなる悔しさで泣きそうになったけれど、そのあとに原宿署のと付け加えられて、涙が涙腺の奥で止まったときのことを最近よく思い出す。


 二課ではそれなりに上手くやっていたのだけれど、それは自分で自分の不調を誤魔化し続けていただけで、結局綻びが出て壊れてしまった。
 あのとき、年単位の長い時間をかけて慎重に内偵していた政治家と企業の癒着の案件があって、ようやく証拠が揃って令状をとって踏み込んだら企業側の担当者が首を括って死んでいて、積み重ねたものが塵となって手のひらからこぼれ落ちた。
 二課の刑事は、滅多に死体など見ない。
 全てが台無しになったことを頭で理解するには時間がかかった。
 慌てて死体を担ぎ下ろそうとする者、関係各所に連絡を入れる者、周囲は騒々しかったけれど、その輪から切り取られたみたいで騒々しさに現実味がなく、立ち尽くしていた。
 そこで、ぽつんと一雫、恐らく尿だろう水滴が、濡れたズボンの裾から落ち、足元の水たまりに波紋を作った。首を吊ると、窒息のショックで失禁することがあると聞いたことがあった。それが、まだポタポタと落ちてくるということは、さほど時間が経っていないということだ。
 下ろされた死体の顔が、ぐらりと揺れて四ツ葉を見た。
 浴槽の中で大量の書類が燃やされ、灰になっていると声がした。
 一つ一つのピースがゆっくり合わさって、目の前が真っ暗になった。
 前日の夕方には令状はとれていた。それを翌朝にしろという指示に従った。
 張り込み班からは昨夜遅く、対象者の部屋の明かりが消えたと就寝の報告を受けていた。
 四ツ葉は生まれて初めて、膝から崩れた。無力感と後悔で、しばらく立ち上がることができなかった。
 医局の医師に、バーンアウトだと言われた。燃え尽き症候群というやつだ。この時までは、そこに足を突っ込んだって、燃え尽きている暇などない、四ツ葉は本気でそう思っていた。
 これ以前からも、睡眠については問題があった。
 平行捜査をしていた億単位の不動産詐欺の案件では、その背景にいる暴力団を別方向から張っていた組対と揉めに揉めた。犯行グループは他人の土地を勝手に売る詐欺師たちだ。親から相続したはずの土地に、気づいたら分譲住宅が建っていたり、古い家でつつましく暮らしていたら、ある日建設会社の作業員たちが測量にやってきたり、露見したときにはすでに巨額の資金が動いたあとで、当然詐欺師たちは姿をくらませている。多くの人員が集められて、やっとの思いで詐欺師たちを探し出し、調べ尽くして送検したら証拠不十分で不起訴になり、やつらの大半が野に放たれてしまった。
 他にも挙げればきりがなくて、少しずつ少しずつ、悪いものが沈殿して、身体から力を奪っていった。
 二課の仕事は細かい。細かくて、時間がかかる。見えるのはほんの少しの怪しさで、その奥の奥の水面下で不正な金が動いている。
 眠れず集中力を欠いた状態では迷惑なだけだった。
 それはじゅうぶん分かっていたから、肩を叩かれたときは悔しさや情けなさもあったけれど、当然だという思いもあった。自分が足を引っ張るわけにはいかない。足を引っ張るくらいなら飛ばされた方がいい。その方が、全ての人のためになる。
 だから戦力外なら相談センターの電話窓口とか、免許センターとか、山の駐在なんかを想像していたのに。
「……原宿、ですか」
「気分転換にはちょうどいいだろ」
 普段笑うことなどない二課長が少し笑った。
 戸惑ったけれど、その、休んで来いというわりに休ませるつもりのなさそうな人事に少なからずホッとしたのも事実で、四ツ葉も苦笑をもらした。

 そうやって始まった原宿署員としての生活は、確かに四ツ葉の生活を明るい方へと導いていった。家に帰れて、自分の時間を持てる。そしてなによりも、接する人が変わった。これが一番大きいのかもしれない。
善良な一般区民と顔を合わせる機会が多い。防犯に協力してくれるボランティア、DVで駆けこんできた被害者や、保護シェルターの人たち。その他の雑多な相談をしにくる人々。同僚も生安課は少年係を抱えているため、女性の係員や、ベテランでも面倒見の良い人たちが多い。
 思い返せば四ツ葉は、警察学校を出て配属された交番も丸の内で住宅が少なく、その後すぐに知能犯係になり、警察官として市井の人々と接する機会が少なかった。二課では隣の捜査員がなにを調べているのか知らないということもざらだった。
 それに比べて、生安課は血の通った場所だった。

 官舎の狭い部屋の中をコーヒーの匂いが満たしていく。
 少しずつ人間らしさを取り戻していく過程で、夏が終わった頃から、ただ飲んでいたコーヒーの味が気になるようになってきた。自分は酸味の強いものよりも、苦味の強いものの方が好きだったと思い出して、豆を選ぶためわざわざ専門店へ買いに行くようになった。
 毎朝テレビの情報番組を背中で聞きながら身支度をするのだけれど、ふと、しばらく新聞を読んでいないことを思い出したのもその頃だった。
 それから顔を洗ってぼやける視界で鏡を見て、誕生日だと気が付いたのは二週間前の朝だった。その日、三十五歳になった。年齢に四捨五入など意味がないけれど、それでも四十代が見え始める三十五というのは、やはり考えさせられることが多い。
 四ツ葉は視力がすこぶる悪い。小学三年くらいから徐々に視力が落ち始めたので自分の素顔に馴染みがなく、眼鏡をかけた顔しか知らない。人に冷たい印象を与える顔付きをしていることは認めていた。
 そこでコンタクトを買ってみようかと思いついた。
 二課のままなら絶対にこんなこと考えはしなかった。
 新しいことを始めようと思いつく、行動に移す、それを生活に馴染ませる。その全てに必要な余裕を持ち合わせていなかったし、冷たく見えてもそれで結構だと思っていた。
 結果的に、朝の支度に非常に手間取るようになった。

「いってぇ……」
 同じ姿勢で何分も頑張ったため疲れた腕を振りながら舌打ちする。
 時間をかけたって成功しないことの方が多くて、今朝は左はすんなり入ったのに、右は一向に入る気配がない。鏡の横に置いてある時計に目を向けると、ちょうど背後のテレビから七時の時報が聞こえた。七時は四ツ葉が決めているタイムリミットだった。せっかく入った左目のコンタクトを、これまた苦労して取り出した。
 それから、昨夜作ったミネストローネを火にかけてトーストを焼く。テレビでは毎朝恒例の星占いが始まっていた。
 スープがぐつぐつし始めると眼鏡がくもる。
「今日の一位はさそり座!」
 くもった眼鏡を外して、ワイシャツの裾で拭きながらテレビに目を向ける。
「新しいチャレンジが実を結びます! 今まで見えなかったものが見えて世界が広がる予感! 難しい仕事にも積極的にチャレンジして!」
「……」
 新しいことを始めて、失敗したところなんだがなと鼻で笑って、スープをカップに移して朝食にした。


 出勤すると、夜の間に補導されてきた少年少女たちの聴取が終わっていなくて、生安課の中は深夜帯のような騒ぎだった。素知らぬ顔して化粧をしている少女もいれば、しくしく泣いている少女もいる。まだ酒に酔っているのか喚き散らす少年もいれば、緊張感なく隅で寝ている少年もいる。
「ああ、日曜か」
 土曜の夜の街の名残を眺めながら自席の椅子を引いた。隣の席の柴田は昨夜当番勤務で、一睡もできなかったとぼやきながら、赤い目をして栄養ドリンクを飲んでいる。
 生活安全課の捜査員は係員と言っても、この柴田などは違法風俗の摘発を何件も行っていて、やっていることは刑事とさほど変わらない。風営法関連のことから、家出人やDVやストーカー、サイバー犯罪もここにあるし、二課、即ち所轄でいう知能犯係の人手が足りないと詐欺案件は生安に回ってくる。そもそもオレオレ詐欺の窓口はここにある。そこらの落書きも銃刀の申請やパチンコ屋の新台入れ替えの申請なんかも取り扱う。
 警察も役所なのでどの部署も書類作成は年々大変になっているけれど、生安課は取り扱う案件の種類が多いから覚えることが多い。
「イルミネーションがつくと本当に補導が増えるんだな」
 そう聞いていたけれど本当だった。寒い夜にうろつくのは若さの現れだ。
「クリスマスが近付いたら地獄ですよ」
「まだ想像がつかないな」
 一人、また一人と、保護者が迎えに来て減っていく。
「二課はイベントとか無縁ですもんね」
「そうだねえ。選挙くらいかな」
 面白いことを言ったつもりはないが、柴田は「選挙って」と吹き出して笑っている。
 二課の話しを振られて軽く返せるようになったのも、最近のことだった。
 選挙以外にも、決算や年度末前の公共事業の駆け込み入札なんかもその類だけれど、こういう活気ではなかった。四ツ葉はしばらく少年係の喧騒を眺めていた。若さと権力がぶつかるのは正常なことで、ある意味微笑ましかった。
 そこへ内線が鳴った。受話器をとると受付からで、家出人の相談に来ている人がいるという。家出、蒸発、失踪の行方不明者は、世間の人が思うよりもはるかに多いと頭で知ってはいたけれど、その窓口の生安課で対応する現実は、想像よりももっと多かった。
 事件性がなければ警察は動けないけれど、目の前で相談を聞く肌感覚で、事件でもないのに居なくなられてしまうことは、家族にとって気持ちのやり場がなく、余計につらい。
 空いている個室に通してもらうよう伝えて、四ツ葉は腰を上げた。




 昼休み、昼食をとるため食堂へ向かった。
 食堂の大きな窓から秋晴れの清々しい空が見えた。四ツ葉は入口近くの、下膳コーナーの脇のテーブルに腰をおろし、遠目に空を見た。
 雲一つないと言いたくなるほど空は青いけれど、よく見ると雲は多い。日の光を遮らない、薄く小さな雲がたくさん浮かんだ空だった。
 体調が良くなった理由の一つに、昼にちゃんと昼飯を食べることもある。こうやって当たり前のことを省略せずに暮らすのは、思ったよりも効果がある。今日の日替わりはハンバーグ定食だった。
 ふう、と一息ついて肘をテーブルにつき、腕時計のある手首を耳に寄せる。チッチッチッと小さな音が鼓膜を震わせる。脳をノックされるみたいで、秒針の音を聞いていると落ち着く。そうして、午前中に対応した案件を頭の中で反芻していると、
「ここにいたのか」
 と上から声が降ってきた。声の主は矢野だった。
「お疲れ様です」
「下で探したんだ」
 矢野は今、ここの組織犯罪対策課の刑事だった。
昔、四ツ葉が刑事になりたての頃の教育係で、当時は池袋の知能犯にいた。右も左も分からないときに二年間面倒を見てもらった。元の四ツ葉を知る内の一人だ。二年池袋で過ごした後、二人同時に赤羽署に異動した。けれどもそのとき矢野は組対へ、四ツ葉は知能犯へと行き先が分かれたため、以来疎遠になっていて、ここへきて久しぶりに顔を合わせることになった。
「ここ、いいか?」
 四ツ葉が本庁の二課へ行ったことも、体調を崩して所轄へ戻ることになったのも、どこから聞いたのか全部知っていた。
 矢野はテーブルに缶コーヒーをコツンと置いて、隣の椅子を引いた。スーツから煙草の臭いがする。
「どうしたんですか?」
 食事をするでもなく、四ツ葉を探してここへ来たというからには用事があるのだろう。
「どうだ最近は」
「別に変わりませんよ。でも、自由な時間が増えて、自分のことを考える時間ができて。あ、コンタクトを買いました」
「つけないのか」
「難しいんです。そもそも眼鏡を外すと自分の指がよく見えない」
 矢野はじっと四ツ葉を見ていた。もう少し雑談を聞いてやろうか迷っている顔だった。なのでもう一度、どうしたのかと水を向けた。矢野は「うん」と頷いて、頼みがあると言った。
「話を聞いてやってほしいやつがいる」
「話ですか」
「そう。本人はストーカーだって言うんだけど、どうもなあ……。俺たちが出張ってもいいけど、いろいろあるだろ」
 わざわざ探してまで持ちかけてきた理由を思うと相当面倒臭そうである。
「いや、たぶん大丈夫なんだよ、気にしすぎなんだと思うんだ。でも俺たちが言っても納得しねえからさ」
 そりゃあ、端から気にしすぎと言われて納得するくらいなら騒ぎはしないだろう。
「いつでも窓口に来てくれればいいですけど」
 ストーカーの相談は生安課にくる相談カテゴリの上位だ。おまけにデリケートだし、凶悪事件に発展する恐れもある。そんな、安易に「大丈夫」だなんて言えるものではない。
「窓口は嫌だって言うんだよ」
「対策室もありますけど」
 矢野は「んー」と後頭部の髪をかき混ぜながら「もっとダメだろうなあ」とぼやく。
「……難しい人なんですか」
「ああ、ちょっとな。な、聞くだけ頼むよ」
 組対の刑事がここまで気を遣う相手。
 協力者か、潜入捜査中の共犯者か。まさか組員ではあるまいと思うけれど、それならそれこそ、個人的に接触して巻き込まれるのは御免だった。どう断ろうかと考えながらハンバーグをフォークで切り分ける。
「今日何時頃上がる?」
 口に運びかけたハンバーグの切れ端を取り落としそうになった。
「え? まさか外でですか」
「礼はする。頼むよ」
 矢野は四ツ葉の肩に手を置くと「お前痩せたなあ」と大袈裟に驚いて、
「美味いもん食わせてやるから」
 と言いおいて去っていった。
 矢野の手の感触が肩の骨に残る。置きっぱなしにされたコーヒー缶を見ながらハンバーグを口に運ぶ。
「……」
 うん、美味くない。レトルトか冷凍か、ともかく手作りではない味がする。


 午後、書類整理に倉庫へ行って戻ると、机の上にメモが置いてあった。メモには『組対の矢野さんから内線ありました』と、矢野の携帯番号が書かれていた。

 定時を少し過ぎて仕事を切り上げ外へ出た。
 十八時過ぎ、もうすっかり真っ暗だった。今年の冬は寒い。去年も寒くて、久しぶりに子供の頃のように頬がぴりっと凍る寒さを感じたものだった。
 イルミネーションがそこらじゅうの街路樹に巻きついて、夜道を真っ直ぐ、テールランプと並走して遠くまで照らしている。
 イルミネーションはきれいだし、本来明るくなるのは治安の面でもいいことだけれど、明るいといつまでもそこに人がたむろする。明るいだけで、人はその場所を安全だと思ってしまう節がある。
 生安課にきてから街を歩くと、少年少女の声がよく聞こえるようになった。何を話しているのか、何に笑っているのか、手元の端末で何を見ているのか気になるようになった。単純に少年少女の多い街というよりも、四ツ葉自身の耳が、地面の音を拾うようになったようだった。
 これまで街を歩きながら、なにを見ていたのか、なにが聞こえていていたのか、もう思い出せない。
 光る街路樹を背景に自撮りに勤しむ少女たちを尻目に、矢野から送られてきた地図を開いて場所を確認した。
 メモを見つけたあと矢野に連絡をとると、今夜早速店を予約したと言い出した。どこの誰が来るのか、そんな酒席に出ていいものかと迷った。しかし矢野は笑って答えてくれず、あとで地図を送ると言って通話を切ってしまった。
 冷たい風が吹く。マフラーを巻き直して道を急いだ。



 告げられた店は大衆的なちゃんこ鍋を出す居酒屋だった。中高年の男性率が高く、壁にずらっとボトルキープの日本酒や焼酎の一升瓶が並ぶ、ざわざわした店内だった。怪しく薄暗い地下組織の巣窟のようなバーなんかでも困るけれど、こんなにも騒々しい場所でストーカーの相談を受けることに、それはそれで疑問を覚える。
 店員に尋ねるまでもなく矢野を見つけることができた。そして、矢野の隣に大きな男が窮屈そうに座っていた。太っているわけじゃなく、単純にガタイがでかい。壁側に矢野、手前にその大男がいるので足が見えるけれど、その足がデカい。普通の靴屋には置いていないサイズではなかろうか。
 おまけに今でも成長を続けているのか、着ているスーツがパツパツだった。特に腕が窮屈そうで、首も顔と同じくらい太い。
 よくない店の用心棒、四ツ葉がまず抱いた印象はそれだった。それにしては、世間標準の『一人分』の空間を認識しているらしく、その見えない立方体からはみ出さないように縮まっている人の良さも見える。おそらく隣の矢野が怖いのだ。矢野に窮屈な思いをさせないように気を遣っているのだ。
 矢野は一体なにを連れてきたのだろうか。
 奥に座敷が見える。テーブル席じゃなく座敷にしてやればそいつもゆったりできるだろうに。
 矢野は四ツ葉を自分の正面に座らせると、隣の男を「こいつは佐武」と紹介し、宙に指で書きながら「タケは武士のブ」と言う。「んでこっちが四ツ葉」と手のひらを向ける。二人は会釈した。初対面の相手は誰でもそうだけれど、佐武も多分に漏れず「よつば?」と呟いた。その目がそわそわ、と動いて、助けを求めるように矢野を見た。
 手元で何かをしているので覗くと、割り箸の袋でなにかを折っていた。図体のわりに気が小さいのか人見知りなのかなんなのか、ともかく正体がつかめない。
 店員が熱いおしぼりを持ってやってきたのでビールを頼んだ。先に飲み始めていた二人が適当に注文をしてくれているという。
 ふと見ると、四ツ葉の隣の席には皿も箸も置かれていなかった。
「……」
 おかしいな、と思う。
「これで揃いですか?」
「そうだけど」
 と、いうことは。
「……っえ? この人が?」
 この人がストーカー被害の相談をしたいというのか。
 人を見た目で判断してはいけない。人を大きさで判断してはいけない。人を風貌で決めつけてはいけない――。それは分かっているのだけれど、あまりにも衝撃的でつい本音が零れてしまった。そりゃあ矢野も「大丈夫」と言う。慌てて口に手を当てて謝ると、矢野が声を上げて笑った。
「ほんと、元気になってきてるみたいで安心したよ」
「おかげさまで。あ、失礼しました」
 一応、佐武にも謝る。
「顔色も良くなってきたし、寝れてるか」
 佐武という男は、分からない話を眼前でされていても、分からないなりに四ツ葉になにかがあったことは察したようで、大人しく矢野とのやり取りを聞いていた。
そうこうしていると四ツ葉のビールが届いてジョッキを合わせる。
「ほら、鍋が来る前にさっさと話聞いてもらえ」
 矢野はそう促すと、もう自分の役目は終わったような顔をして壁に貼ってあるメニューを眺め始めた。
「なんか、いるんすよ、いつも」
 佐武がぼそっと口を開き、突然本題に入った。
「……ええと、なにがいるんですか」
「えと、女」
 声が小さくて聞き取りにくい。
「じょ、女性? 女性がどこにいるんで――」
「お前ちゃきちゃき話せや!」
 いきなり矢野が佐武の背中をバシッと叩く。絶対に手形がついた音がした。その勢いで佐武の手から小さく折られた割り箸の袋が飛んできて枝豆の山に落ちた。箸袋で折り紙をする人は十中八九箸置きを作る。例にもれず佐武も箸置きを折っていたが、箸先を乗せるための山の部分の先端に恐ろしく小さい鶴が折られていた。
「ンなボソボソやってたら組対の恥さらしだろーが!」
 矢野が椅子を鳴らしながら席を立った。ハンガーにかけていたコートから煙草を取り出す。
 そたい?
「そ、組対? 組対の方なんですか?」
 佐武が小さく頷くより先に、矢野が「そうだよ!」とデカい声を出す。
 そんな矢野に佐武がまた小声でなにか言っている。これは完全に四ツ葉には聞こえなかった。なんだろうと思っていると、矢野が苦笑して、佐武の肩を乱暴に揺らす。
「そういや似てるけど、大丈夫だよ。こいつは監察じゃない、元二課、今は生安。俺が育てたからな、優秀で信用できるやつだ」
 優秀だの信用できるだのというこそばゆい言葉よりも、監察という単語が耳に残る。
 監察は、身内である警察官を調査する部署だ。警察官本人が被疑者となった場合や、警察官として逸脱しているのではと疑いがもたれた場合に監察官から監察を受ける。監察の取り調べは本当に恐怖だと聞く。
 こいつは監察を受けたことがあるのか。
 受けたとしても、現場にいるのだから問題なしと判断された訳だけれど、それにしても何をしたのだろう。
 確かに四ツ葉はどちらかといえばそっち側の顔つきをしている自覚はある。だからコンタクトをつけられるように毎朝苦労しているのだ。今朝は失敗したけれど。
「こいつもいろいろあってさ。一服してくるから話し進めててくれよ」
 矢野の表情は同情的だった。それは、佐武が何かをしたというより、何かに巻き込まれて割りを食った方の監察なのだと言っているような顔。
 矢野は佐武の後ろを「狭い狭い」と騒ぎながら抜けて外へ出て行った。矢野は十歳上だから今年四十五だけれど、いつまでも元気な男だった。
「組対の方だったんですね」
「あ、そうです。いま矢野さんの下にいます」
 どこかの組の若いのだったらどうしようかと思っていた。
「ところで佐武さん、身長どのくらいですか?」
「百八十六っす」
 不思議そうな顔で答えた。
「ああ、変なこと聞いてすみません。さっきから、足がすごい大きいなと思ってて。身長はどのくらいかと」
 机の下の足が、見れば見るほど大きくて気になっていた。
「足、三十なんすよ。すっげー不便っす。便所のスリッパとか入んないし、靴もあんま売ってないですし」
 三十……。そっと足を寄せて並べてみた。長さもだけど、幅もすごい。三十センチの靴に足を入れてみたい思いが沸き起こる。
 そこにタコの刺身が運ばれてきて我に返った。話しを進めなければ、また佐武が怒鳴られてしまう。
「で、ええと? 女性がいるんですよね? どこにいるんですか?」
 尋ねると、また脇をきゅっと締めて小さくなろうとする。癖なのだろうか。
「電柱のとこっす」
「電柱」
「家に帰って窓開けて、空気入れ替えたりカーテン閉めたりするときに見えるんす」
 佐武のマンションは建物の裏側にベランダがあって、そちら側は道も狭く、街灯も店もなく夜は暗い通りなのだと言う。不審者に気付いたのもたまたまで、普段は洗濯物を干す以外でベランダに出ることもないし、何もないからその道路を見下ろすこともないのだと言う。
 ある日たまたま、秋風が涼しくて窓辺で風に当たりながら缶ビールを飲んで、ふと気づいたらしい。
「自分北海道出身なんすけど。田舎なんで夜は本当に真っ暗なんす。でも東京は街灯がなくても、全く見えないとかないじゃないすか」
 そこに、黒づくめの輪郭が見えるのだという。その、見えないけれど見えるという微妙な加減はなんとなく分かる。
「どう考えても怪しいんで、何回か見に行ったんすけど、その度に誰もいなくて、見間違いかなって思うんすけど、いないの見てから部屋に戻って上から見ると地面が見えるんで、おかしいなーって」
「それが、佐武さんのストーカーじゃないかと思ったきっかけはなんだったんです?」
「休みの日にずっと見ててもいなくて、その次の日っすかね? 裏道から帰ったんすよ。そしたら誰もいなくて、部屋に着いて灯りをつけずにこっそり覗いたら、やっぱり何かがいるように見えたんす」
 そこで初めて、まさか自分があとをつけられているのかと浮かんだという。
「その女の人に心当たりは?」
「全然」
 即答だった。
「うーん」
 危ないからあまり自分で見に行ってほしくないけれど、佐武自身が刑事なのでどうしたものかと悩んでいると、矢野が帰ってきた。どおよ、と聞きながら、元の席には戻らず四ツ葉の隣の椅子を引く。佐武の後ろを通るのが狭くて隣に腰かけたのかと思ったけれど、矢野はコートを着たままだった。様子を見て帰るつもりなのだろう。昨夜当番だったというから、早く帰りたいのも分かる。着たままのコートに冷気が沁み込んでいて冷たかった。
「今聞いただけだと、なんとも。……あ、そうだ」
 カバンを開けて、署から持ってきたパンフレットを取り出した。
「ストーカー被害に悩んでいるアナタへ」
 矢野がパンフレットの表紙を棒読みし、佐武に渡す。佐武は両手で辞令のように受け取ると、パンフレットを開いた。パンフレット自体が女性向けのものなので、女性向けらしい配色やイラストが使ってある。しかしストーカー被害の相談も三割は男性というからデザインを考え直すか、男性向けのものも作るべきだと思った。
 そこへ店員が「失礼します!」と元気にコンロを持ってきた。矢野は店員に、自分は帰るから取り皿は二人分でいいと言っている。
「その、見てる以上のことは? 嫌がらせとかは」
 佐武は頭を小さく一度だけ横に振った。
「そんな女いるか? アイドルでもあるまいし。こいつだぞ」
 矢野の言いたいことは分かる。だから佐武自身もしばらく危機感を抱かなかったのだろう。矢野は枝豆を咥えて財布を出した。
「いや、ほら、人の好みはいろいろですから。それに、佐武さんだって刑事じゃないですか。刑事の勘があるんでしょう」
 矢野と二人で見つめると、佐武はしっかりした声で「はい」と答えた。
「まあなあ、どっちにしろ相手が女じゃ走って追いかけた時点でこいつが不審者にされかねないからな」
 そうして矢野は佐武に一万円札を握らせ、「ここは馬刺しも美味い」と言って帰って行った。佐武が矢野を見送りに行っている間に店員が灰汁取り壺や取り皿を運んできてコンロに火を点ける。
「馬刺し頼みますか」
 戻ってきた佐武に聞くと、嬉しそうに食べると笑う。余程好きなのか、余程美味いのかどちらだろうかと思いながら店員に注文をした。
 鍋に火が入ったから、そのうち眼鏡がくもる。今朝コンタクトチャレンジに失敗したことを悔やんだ。
「じゃあ、食べながらですが早速」
 膝に抱えたカバンを隣の椅子に移し、そこからメモ帳を取り出した。メモ帳を構えた四ツ葉を見て、佐武が大きな身体の居住まいを正した。その様子に四ツ葉が笑うと佐武も笑った。
 以前はいつだって胸元やポケットの中にメモ帳を入れていたけれど、いつの間にか携帯しなくなっていた。生安に来てから用意したメモ帳は、半年以上経つのにまだ一冊目の半分ほどしか使っていない。
「佐武さん、下のお名前は?」
「龍平です。難しい方のリュウにタイラ」
 年を聞いたら同い年だった。ただ、佐武は早生まれでまだ誕生日が来ていないので三十四。辰年だから龍なのだろうか。
「それ、いつ頃からなんです?」
 大きな竹ざるに山盛りに盛られた野菜や鶏肉を、ぽいぽい鍋の中へ入れていく佐武に尋ねてみる。菜箸があまり大きく見えなかった。
「分かんないんすけど。気づいたのは、九月の半ばくらいすかね」
「家どのへんなんですか」
 佐武が鍋の面倒を見てくれるので、地図アプリを起動させて尋ねる。佐武が身を乗り出し地図を覗き込む。太い指が画面に触れて地図を操って拡大する。
「ここで、電柱は裏通りっす」
 そして地図をストリートビューに切り替えて問題の裏道を見た。
「なにもないね」
 佐武の住むマンション、隣は貸しビル、小さなビジネスホテル、その隣のマンションまで行ってようやく、一階が駐輪場になっているのか、建物への入り口があって、自動販売機がある。
「昨日もいました?」
「はい」
「一昨日も?」
「もう、本当毎日っす。なんでか休みの日はいないんすけど。あ、でも飲んで帰ったりする日もいないことあります」
 佐武が「ここ」だという電柱の陰に人が立っていたら、ストリートビューで見てさえ不自然だった。佐武のマンションが通り沿いにあって、その並びの建物はみんな大通りの方を向いている。電柱は狭い道路を挟んだ反対側にあって、そちら側は高い壁がずっと続いている。壁の中は大きなマンションが何棟か建っていて、芸能人なんかが暮らせるような、駐車場のセキュリティも高いマンションだった。だから見えるのは佐武のマンションだけ。要するに、そこにいる意味がなにもないのだ。
「ここに、ただ立ってるだけなんですよね。怪しいですが、それだと被害とは言えなくて」
 つきまといは難しいところがある。まず、相手が確かに佐武をターゲットとしてそこにいるのかを調べなければならない。そうでなければ、「つきまとい」とも呼べない。
 鍋がぐつぐつ煮えてきて、湯気が眼鏡をくもらせて仕方がない。視界が真っ白になるのは慣れているし我慢出来るけれど、くもった眼鏡を着けているという対外的な羞恥に負けて眼鏡を外す。
「明日この辺りの防カメを調べておきます」
 そう言うとぼやけて見える佐武が身を縮めて頷いた。
「四ツ葉さん苦手なものありますか?」
 ないと答えると、佐武が手を伸ばして椀をとって取り分けてくれる。
 そうしてコト、と手元に椀が置かれる。椀に手を伸ばすと想像よりもずしりと重たくて、よく見たら、ここまで盛るかというほど山盛りに盛られていた。湯気で眉間が温かい。眼鏡を外していて正解だった。
「うま……あれ、でも今のなんだろう」
 人参だと思って口に入れたものが人参ではなかった。
「鮭っす」
「ああ、鮭か」
 道理で口の中でほろほろと崩れたわけだ。
「大根?」
「いや、ネギっす」
 箸で摘んだものも、色しか分からない。くすくす笑う声が重なる。見えないのも煩わしくてまた眼鏡をかけた。
「四ツ葉さん目ぇ悪すぎじゃないすか」
「うん。最近コンタクトを買ったんだけど、まだ上手く入れられなくてね」
「そうなんすね。眼鏡ないと、若く見えます」
 笑って油断するとすぐにまたくもる。
 佐武は見るからによく食べそうではあるけれど、それにしても美味そうによく食べた。
「自分食ったぶん全部身になるんすよ」
 佐武はほんの少し訛っている。訛りというか、喋りがゆっくりで、田舎の優しいおばあちゃんみたいな話し方をする。
「分かるよ」
 だから自然とつられて四ツ葉も柔らかな声が出る。
「でも太ってはないよね」
 胸も腕もスーツの上からでも尋常の筋肉ではないのが分かるけれど、腹は出ていないのだから、運動もしているのだろう。
 聞けば、学生時代はずっと柔道をしていたという。
「小学生のときからずっと相撲部屋にスカウトされてて」
「はは、ちゃんこが似合う訳だよ」
「相撲はやってないっすよ?」
 柔道の高校総体で優勝した経歴があって、そのあとは相撲部屋に加え大学や企業の柔道部、レスリングやプロレス界からも声がかかったという。
「でもそっちの世界には行かなかったんだ」
 ほんの一瞬、佐武は口をつぐんだ。なにか思うところでもあるのか、へらっと笑った。
「自分も人も、痛いの嫌なんすよ」
「優しいんだな」
「え、でもみんな痛いの嫌じゃないすか。人が嫌がることはしない、これが自分のモットーなんすよ」
 本当の優しさっていうのは、強さだと思っている。守る力があるというのは耐えられることで、耐えられなければ守るものも守れない。強さは自信と余裕のためにも必要で、その上で、強くなっても守るもののことを考えられることが強さだと、四ツ葉はそう考える。
「今でもたまに思い出すんすけど、自分SAT誘われたの断ったんすよ」
「うん」
「後悔とかじゃないんすけど、上手く言えないんすけど、よかったのかなーって、思うんすよ」
「うん」
 佐武のビールがなくなった。お代わりを頼むかと聞いたら、組対の焼酎ボトルがあるという。
「焼酎飲みますか?」
「なに焼酎?」
「芋っす」
「ビールで」
「……」
 黙ってしまったので、構わずに飲みたければ飲めばいいじゃないかと言う。飲めないこともないけれど、芋は臭いが苦手だった。苦手だけれど、他人が飲むのにとやかく言うほどのことではない。数分悩んで、佐武は焼酎を頼んでいた。
「どうして断ることにしたの、SAT」
「どうしてですかね、助けたいのはそっちじゃなくてってことっすかね」
「そっち、か」
 政府要人よりも、もっと身近で困っている人、苦しんでいる人を助けたいということか。そもそもそれを求めて警察官になる者がほとんどだ。
「それならまあ、分かるよ。俺もここに来て思い出したし、いろいろ考える」
 佐武が、運ばれてきた水割りセットの氷のバケツを引き寄せた。グラスよりもバケツの方がしっくりしている。しっくりし過ぎて違和感がないから、バケツで水割りを飲んでも店員は気づかないかもしれない。
 酒と鍋の熱でほろほろと酔ったようだった。店内の喧噪も、佐武の口調も声も心地よくて穏やかな時間が流れる。
 聞き覚えのある懐かしい演歌が流れ始めて、カウンターの中高年がフンフンとハミングしていた。
「ああ、そういえば、昨日と一昨日の帰宅時間は? 大体でいいよ」
 防カメをチェックするため時間帯を絞りたかった。
 そうして、世間話を九割、佐武の悩みは結局一割くらいしか聞けなかったけれど、食べつくしたところで会計をした。

 外に出ると空気の冷たさに鼻の奥がツンとして、涙ぐむほどだった。
「っあー。さっむ」
 カバンからマフラーを取り出しながら、佐武を振り返る。
 佐武はコートのポケットからニット帽を引っ張り出して被った。頭頂に大きなボンボンがついていた。百八十六センチ、こんなに高い場所にあるボンボンを初めて見た。
 佐武は東京の冬は寒すぎると言う。寒いのが嫌で北海道から出てきたのにといじけるように言ってコートの襟を立てた。
「それで警視庁受けたの?」
「はい。それに警視庁ってかっこいいじゃないすか」
 屈託ない笑顔を見て、そういえば監察を受けたと言っていたことを思い出した。なにがあったのかと気になったけれど、このタイミングで聞くことでもないかと聞かないまま、くれぐれも危ないことはしないようにと釘を刺して、互いの家への分岐点で別れた。



    *    *


 翌日書類仕事をしているとカウンターから声がかかり、見ると矢野が立っていた。
「ちょっと二、三分いいか!」
 大声で言うから周囲の誰もダメとも言えない。
「昨日はごちそうさまでした。馬刺し本当に美味かったです」
「いいんだよ、あれくらい。なんか随分話し聞いてくれたんだってな。あいつ嬉しそうにしてた」
「それは良かったです」
 四ツ葉も久しぶりに楽しかった。でも次があるならせめて前日に教えてほしい。そしたらなにがなんでもコンタクトをつけていく。
「で、どうなった?」
 矢野は相変わらず面倒見がよかった。刑事になりたての、矢野に世話を焼いてもらっていた頃のことを思い出す。結局、食堂の脇にある喫煙所まで連れて行かれた。この時点で既に二、三分経っている。
「佐武さんの家の周辺の防カメをチェックしてみます。本当に女性がいるのかどうか、まずはそこから」
「本当にいるのかよ」
「それが分からないから調べるんですよ」
「まあ、そうだけど。仕事増やして悪いな」
「いいですよ。証拠集めは得意なんで」
 それももともとは矢野から教えてもらったことだけれど。
 矢野が煙を吐きながらやれやれと首を振る。
「あいつほんと女運がなくて。刺されたことあるんだよ」
「……は?」
 本当に驚いた。
「あ、プライベートじゃなくて潜入先でな、一緒に死んでーつって」
「……」
「だから変に感情向けられんの怖いんだろ」
「え、それちょっと詳……」
 矢野のジャケットの中でスマホが鳴った。
 プライベートじゃないからいいとかそんな話ではない。どこを刺されたのだろう。それが監察に繋がったのだろうか。
 聞きたいことが山ほどあったのに、矢野は電話に出ると直ぐに顔色を変え、舌打ちしながら四ツ葉に謝ると、煙草をもみ消して走って行ってしまった。


 その日の夜、通常業務を終えてから、佐武の家の周囲のカメラをチェックした。問題の電柱周辺には残念ながらカメラがなく、確認する範囲を広げた。
「珍しいですね、残業ですか」
 隣の席の柴田がカップめんを持ってやってきた。昼間見かけなかったけれど、このあと人と会う約束があるという。聞けば教えてくれるだろうけれど、きっと相手は風俗街の情報屋だろう、四ツ葉は深く聞くことはしなかった。
 ちょうど四ツ葉がやってきた四月の日に、不法滞在の外国人をつかっていた風俗店にガサに入って相当な人数を引っ張ってきたことをよく覚えている。
「そう、ちょっと頼まれごとで」
「頼まれごと?」
「うん。ストーカーかどうか、っていう」
 隣から、いい匂いがしてきた。
「ストーカーですか」
「うん」
 まずは昨夜の佐武の帰宅時間あたりの映像を流している。
「あ、いた」
 昨夜の佐竹がいた。四ツ葉と別れてからコンビニにでも立ち寄ったのだろう、手にビニール袋を持っている。プリントした地図を引き寄せ、佐武が映っているカメラの位置に印をつけた。
 キイ、と軋む音がして、隣の柴田の体がこちらを向いた。
「そこそこ人通りがありますね」
「ストーカーってどのくらい離れてついてくるものなの」
 柴田は、うーんと唸った。
「目的によりますかね」
 匂いにつられて四ツ葉も腹が減ってきた。でも、このデスクの引き出しに食べ物は何も入っていない。
「そりゃあね、あとを着けて路上でなにかしたいやつと、ただ帰宅を見届けたいやつは違いますよ」
 それを聞いて、それもそうかと納得した。
 例えば職場の同僚の場合、仕事中に「今日は飲みに行く」とか「買い物をして帰る」とか「早く帰って寝たい」とか聞くこともあると思うし、一緒に職場を出ることも可能だ。そうでなければ、まず駅まで着いていく。人流もあるだろうし、どこかに立ち寄るかもしれないから多少は近づくと思う。でも、家の最寄り駅で降りて、家への道を歩き始めたら、あとは距離をとっても部屋の明かりがつくのが確認できれば満足というパターンもある。ドアを開けたタイミングで押し入りたいやつは当然近づくし、先回りもする。
 昨夜のカメラでは、佐武のあとをつける黒づくめの人は確認できなかった。柴田が麺をすする音を聞きながら一昨日のデータに切り替える。佐武から聞いた、一昨日の帰宅時間は二十時頃だったという。
 コーヒーで空腹を誤魔化しながら映像を見ていると、十九時四十七分、スマホを耳に当てた佐武が画面に現れた。手元の紙に時間を書く。
「あれ、佐武さんですか」
「うん、そう」
 画面から目を離さず返す。繁華街の店はどうしたって暴力団と繋がっている。その関係で組対とも関わりがあるのだろう、そんなことを考えていると、足早に画面を横切った黒づくめの人がいた。冬は全身黒い服の人は多いけれど、それにしても違和感を覚えるほど全てが黒かった。
「こいつか……」
 呟いて、その時間をメモする。四十九分、佐武の二分後だった。巻き戻して静止画をプリントしていると内線が鳴った。当番の係員が対応している。地域課が補導した未成年が刃物を持っているという。夜間は人員が少ないので係に関わらず対応をする。電話対応をしていたのは保安係の係員で、普段は銃刀法の申請などをしているけれど、受話器を置いて出ていった。
 内線だけでなく、所轄系の無線からは外勤の警ら隊や、管内にいる機捜からの無線が入り、通信指令本部からも通報内容が飛んでくる。
 いつまでも残っていると帰りそびれてしまう気がして、急いで三日前の映像をチェックした。メモを見る。三日前の佐武の帰宅時間は二十時半過ぎ。
 二十時十分から再生する。
「あの」
 カップ麺を食べ終えてコートを着込んだ柴田が申し訳なさそうに声をかけてくる。再生したばかりの映像を一時停止して顔を向けると、
「佐武さんにほんとでかい借りがあるんですよ。必要だったら協力するんで声かけてください」
 普段四ツ葉に見せない、緊張したような真面目な顔でそう言うと、柴田はもう一人の係員と出て行った。
「借りか……」
 呟いてコーヒーを口に運んで、映像を再生する。
 佐武はデカいので見つけやすくて助かる。この日は、肉まんかあんまんか、ともかく中華まんを食いながら歩いていた。見ていると余計に腹が減る。歩くたびニット帽のボンボンが揺れて、なんだか可愛かった。
 そして佐武が画面から消えた直後に、見つけた。佐武も女も二十時二十五分だった。この日の静止画もプリントした。前日に比べて女がゆっくり歩いている。
「信号かな……」
 前日は女だけが信号にでも引っかかり、そのため二分離れて足早に駆けて行ったのだろうと予想し地図を見た。二分というのは、歩くと結構な距離になるものだ。署からその地点までにある交差点を探した。なるべく、そこに近くて、大きな……。
「あった」
 調べると案の定、二日前は佐武が横断中に信号は点滅を始め、女は取り残されていた。女は黒い帽子を目深に被り、ストールを鼻まであげていて人相までは確認がとれない。それでも、正面からの画像が手に入ったことは大きい。


 それから二日経った日の夕方、十六時半に窓口を閉めてから管内の保護シェルターへ出かけた。十一月の末日、この日は朝から薄暗い一日で都心でも霜がおりたとニュースで言っていた。用事を済ませて署に戻るころにはすっかり気温が下がっていた。
 駐輪場に自転車をとめていると、裏口と繋がっている地下駐車場から突然大きな音がした。
 ちょうど家庭内暴力や虐待の話を聞いた帰りだったこともあって、咄嗟に最悪の事態が浮かぶ。聞き取れない複数の男の怒鳴り声に慌てて駐車場に駆け込む。
捜査車両が並ぶ駐車場の奥、太い柱の向こうに数人のスーツの男たちがいた。一体何事かと駆け寄ると、柱の向こうに佐武の大きな背中が見えた。ゆらりと身体を反転させた佐武は腕で顔を覆っていた。
 騒ぎを聞きつけて、署の中からも制服警官たちが駆け出してきた。
 そしてまた柱の死角から怒鳴り声が聞こえたと思うと佐武が顔を上げた。その顔面は血に濡れていて、佐武は自分のグレーのスーツについた血を見た。
 次の瞬間佐武が動き、離れた場所で叫ぶ男に突進していく。男がベルトのようなものを振り回しているのも構わず胸ぐらを掴むと、骨のぶつかる音がするほどの頭突きをした。それは一瞬の出来事で、佐武が手を離すと、男の膝が折れて崩れ落ちた。
 途端に広い駐車場は安堵の空気に包まれる。
「あー、いってえーなちくしょう」
「公務執行妨害も追加ーって聞こえてねえか」
 組対の刑事たちはため息と悪態をつきながら、男が落としたベルトを拾いあげ、男を引きずり立たせると担ぎ上げて署の中へ入っていく。
 駆け付けて取り囲んでいた制服警官たちも持ち場へと戻って行った。
 び、っくり、した……。
 四ツ葉はこういったいわゆる「現場」に不慣れな警察官だった。知能犯でも二課でも、暴れる被疑者はいなかった。暴れて逃げれると思わせるほど甘い追い込みもしないし、暴れるだけ損だと分からないような奴はそもそも二課の案件にかからない。不敵に笑うくらいのもので、ずっと静かに手錠をかけてきた。
 それだけじゃない。
 佐武の姿にも、あんな顔をするのかと驚いていた。
 帰りに組対に寄って、街角の防犯カメラの画像を佐武に渡すつもりだったのを、このときの衝撃ですっかり忘れて帰宅した。



 この日の夜、佐武から電話がかかってきた。二十二時少し前で、四ツ葉は早々に寝支度をしていて歯ブラシを手に取ったところだった。昼間のあの騒ぎを思い出し、ああいうのを検挙するとこのくらいの時間までかかるものなのかとか、鼻は大丈夫だったのかと、一瞬でいろんなことが浮かんだ。
『夜分遅くにすみません、あの』
 しかし電話の向こうの佐武は切羽詰まった様子ではっきりとおかしかった。
「……うん、どうしました?」
『接触しないように言われてたんすけど』
「え、接触したんですか?」
 ストーカーの精神状態は不安定なので、通常の思考では思いつかないようなことが容易に起こる。
『いえ、してないんですけど、あの』
 声が震えていた。昼間目にした容赦ない頭突きをかました男の声が震えている。一体なにがあったんだと聞く前に上着を掴んでいた。
「佐武さん、家ですか?」
『家です、あの、電柱の、』
 女性のストーカーで厄介なのは、暴力を振るわれたと自作自演するタイプだった。佐武はあのガタイで、まだ被害届も作っていない。今なにかがあったら目も当てられない。
「そっちに行きます! 家の中で待っててください!」
 慌てて草履で飛び出しかけて、直ぐに気づいて戻り、靴を履いた。そうして階段を駆け下りて大通りまで走り、タクシーに飛び乗った。
 佐武の家の場所を告げて車窓に目を向けると、青いライトの電飾が積もった雪のように光っていた。運転席の時計が二十二時ちょうどになった。繁華街の夜は始まったばかりだ。対向車線をパトロール中の警ら隊が走って行った。

 佐武のマンションに近付いて、スマホを取り出した。電話をかけるとワンコールで出た。話しながらエントランスに入ると、すぐに自動ドアが開き「三階っす」と声がする。
 階数パネルの「3」を押して、扉を閉める。操作する自分の指を見て、胸ぐらを掴んでいた佐武を思い出し、手のひらを開いたり握ったりしてみる。それと、今聞いた静かな声。電話をかけてきたときの震えた声。
 三階になど、あっという間に着いた。
 玄関を開けて迎えてくれた佐武の顔を見て驚いて変な声が出た。
 鼻にガーゼがべたりと貼り付けられていた。
「っあ、これ、これは関係ないっす。ちょっと今日被疑者が暴れて」
「ああ、うん。それ見てた。署の駐車場で」
「はい、折れてはないんで……。あ、それより見てほしいものがあるんす」
 そう言って佐武は上着を取るため一度部屋に引き返していった。
 足元に大きな靴があった。これが三十センチの靴か、と足を並べてみるなどした。
 他人の部屋の独特の匂いと、すぐそこにある小さなキッチン。床に四十五リットルのゴミ袋が置いてあって、中にはアルミホイルのトレーが大量に入っていた。それはよくスーパーなんかで売っている、直火にかける一人用の鍋の残骸だった。それと、水のペットボトルがずらっと並んでいる。シンクの上にはプロテインの大袋があって、水洗いされたシェイカーが伏せてあった。
 出てきた佐武はもこもこのダウンジャケットを着て更に大きく見える。そしてまたボンボンのついたニット帽を被っていた。鼻の白いガーゼが悪目立ちしている。
「さっき帰ってきて、いつもみたいに窓から見たら、また居て」
「うん」
 今日は捕り物もあって帰宅が遅くなったという。郵便物を見ながら缶ビールを飲み始めて、しばらくして覗いたらいなくなっていたから、電柱のところまで降りていったのだという。
「ダメって言ったのに」
「すんません。なんか気になって。行きたくなって」
 佐武はエレベーターに乗らず階段へ向かった。
「今日だけ?」
「……すんません」
 小さく首を振る佐武にため息を吐いて、いいよと肩を叩いてやる。
「責めてるんじゃない」
 佐武は、昨日も一昨日も見に行ったという。エントランスから外へ出ると、通りを北風が吹き抜けていく。明日の朝にかけて、また気温がぐっと下がると天気予報で言っていた。冷たい風に吹かれながらマンションの裏手へ回る。

「これなんすけど」
 佐武が指さしたのは、電柱の壁側に近い面。そこには丸っこい字で「佐武龍平」と佐武のフルネームが書かれていた。
「これは……気持ち悪いな」
「俺、まじでびっくりして」
 顔を近づけて見ると、佐武がスマホのライトで照らしてくれた。よくある油性ペンで書かれているらしかった。
 高さは、身長百七十四センチの四ツ葉の視線より顔ひとつ分ほど下だった。
 こんな小さな落書きと言えど立派な器物損壊である。その上、勝手に他人のフルネームをこんなところに書くのは名誉棄損にも該当するだろう。
「佐武さん。この女はあなたをつけてる」
「え?」
「一昨日あっちの通りの防カメを調べて見つけてたんだ。女ってのも確認した。で、この高さ。まず同一人物と考えていい」
 人は、こうして壁に向かってものを書くとき、目の高さで書くことが多い。
 実際現場に立ってみて、この場所は思っていたよりも暗かった。佐武曰く、二階の部屋に明かりがついているときはもう少しだけ明るいという。
そのマンションの一階には部屋はなく、エントランスと管理人室があるという。こちら側には換気扇があるだけで窓がない。ベランダもレンガの箱をくっつけたような造りで、階下にほとんど光を落とさない。
「さっき、昨日も一昨日も見に来たって言ってたけど、昨日もここ見たの?」
 佐武は、昨日は書いてなかったという。
「今夜初めて書かれた。それは確かなんだな」
 念を押すと佐武は頷いた。
「昨日休みで、女は来なかったんすけど。昼間買い物行ったついでに見に来たんで、間違いないっす」
 ストーカーはエスカレートするものだという。これも、エスカレートの一つなわけだ。ただ、帰宅を眺めていただけに留まらず、これは佐武に気付いてほしい気持ちの現れなのだろうか。
「どうしたらいいすか」
 鼻をガーゼで覆われた不安顔で、大きな身体を丸めて四ツ葉のコートをぎゅと掴んでいるのがおかしかった。
「うん。悪いけど、これは消さないよ」
 つきまといだけでは警告止まりだけれど、名誉棄損なら検挙できる。電柱に名前を書かれたままにしておくのは嫌だろうけれど、消すわけにはいかない。
「官舎だけど。うち来る?」
 聞くと佐武が顔を上げる。
「防カメの画像も見せようと思ってたんだ」
 あまりにも不安そうだし、今後の予定も立てたかった。
「生安じゃまだ大して役に立てないけど、証拠を集めるのは得意だよ」
 不謹慎だけれど、あのとき指の間から零れてしまったものが手の中に戻ってきた。長い眠りから覚めたような気分だった。


 大荷物の佐武を伴ってまたタクシーを拾う。官舎の場所を伝えると、タクシーの運転手はルームミラーで佐武を見て、鼻どうしたんですかと聞いていた。
 普通の体格ならそのまま連れ出したって、明日のワイシャツも部屋着も貸すことができるけど、それが叶わないから全部持ち出すことになって、三泊くらいの旅行へ出るような荷物の量だった。
 タクシーの中でも、官舎に着いても、佐武はずっと「すんません」と縮こまっていた。いいからとソファーに座らせる。時刻は二十三時になろうとしていた。
 外でも佐武の大きさは見慣れないのに、自分の家の中で見ると元から狭い部屋が一層狭く見える。
「今日これを渡しに行こうと思ってたけど、バタバタしてたから持って帰ってきてたんだ」
 言いながら、カバンから出したクリアファイルを渡した。
「あ、これ」
「その人?」
「そうっす、この人」
 佐武は食い入るように画像を見ていた。誰だかは分からない、それでもシルエットがこの人だという。
「三枚目、正面からの画像があるから見てみて」
 四ツ葉は冷蔵庫から缶ビールを二本持ってきた。佐武に一本渡して、自分はベッドに腰掛けプルタブを開ける。
 交差点での画像。帽子とマフラーで顔はほとんど見えないけれど、歩いている横向きの画像よりも幾分かはマシなものだった。
「分かんない?」
「んー。見たこと、あるような、ないような」
「そうだよな。で、提案だけど。佐武さんの家のベランダにカメラをつけようと思う」
 カメラなら生安課にいくらでも転がっている。ただ、それを設置するには、佐武に届けを出してもらわねばならない。
「届けっすか」
「そう。出してもらわないと、万が一のときに守れないから」
 なにかの拍子に佐武が強姦魔に仕立て上げられないように。それから捕まえたあとの処分のためにと説明する。
「分かりました」
「明日、時間取れそう?」
 朝一で届けを出してもらって、小一時間くらいなら三、四人動かしたって構わないだろうと頭の中で予定を組み立てる。それから明日の晩、ストーカー女のあとをつけて住所を割り出そうと考えていた。
「迷惑かけてすみません」
「いや――いいリハビリになると思う」
「リハビリ?」
「うん」
 思えば、「捕まえたい」が先行していた二課時代から、原宿署に来ていろんな人の悩みや相談を聞いて「助けたい」を覚えた。
「その鼻どのくらいで治るの」
「ちょっと切れてるんで十日くらいっすかね」
「ふうん。じゃあ、それが治る前に解決してあげる」
 佐武がなにか言いかけたとき、隣の部屋から物音がした。

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