ある夏の日の雨宿り

文字数 5,514文字

夕方の帰宅ラッシュの満員電車から解放され、駅の改札を出たころで空を見上げてみると、まだ明るい西の上空に大きな暗雲が広がっていた。
朝方の天気予報で言っていた通り、夕立が来るのだろう。
私の家まではここから徒歩で30分ほどかかる。
家はあいにくバスの路線から大きく外れた場所にあり、自転車は駅前の駐輪場代を払うのがもったいないと思っていたので、徒歩以外の帰宅手段はタクシーしかないのだが、途中で夕立に打たれそうだとしてもタクシー代を払う気にはなれなかった。
家は駅から西の方向にあるため、あの暗雲に向かって歩いて行くことになる。
途中で夕立に見舞われないことを願いながら、私は家に向かって急ぎ足で歩き出した。
200メートルほど続く直線の道に沿った駅前の商店街を歩いていると、雷鳴が聞こえてきた。
蒸し暑い夏の夕暮れ時を早歩きしているせいで、あっという間に全身から汗が染み出してシャツやズボンが不快に体に張り付き始めていたが、私はさらに歩くスピードを速めていた。
商店街を抜けたあたりにある十字路を左に曲がり、緩やかな下り坂を3分ほど歩くと、東西に細長く広がる公園の出入り口がある。
その公園の中を西方向に15分ほど歩いて公園を抜け、そこから更に徒歩で10分ほど西に行くと私の家がある。
公園の出入り口の前に来たところで、私の体はいきなり突風に煽られた。
暗雲は思ったよりも早い速度で東方向に進んでおり、雷鳴の音もかなり大きく聞こえだしていた。
私は公園の中を小走りに進んでいたが、しばらくして大粒の雨が降り出し、あっという間に辺りには闇が降りてきた。
鞄から折り畳み傘を取り出してさしてはみたが、風に煽られた横殴りの雨はすぐさま全身をびしょ濡れにした。
私は雨宿りをするために、100メートルほど先にある公園内の公衆トイレに向かって走り出した。
その公衆トイレは緩やかな土の坂道を少し上がった場所に位置しており、トイレの出入り口の前には濁った水溜りが既にできていて、そこから茶色い水が土と一緒に坂道を下って流れ出していた。
それは男女用別々に仕切られている公衆トイレで、雨宿りをするには十分な広さがあり、天井にある3つの昼白色の蛍光灯が男子用トイレの室内を明るく照らしていた。
私は公衆トイレに駆け込むと、男子用出入口のすぐ脇の壁に1列に並んだ3台の洗面台の1つに鞄を置いて、ハンカチでびしょ濡れになった髪の毛や顔を拭いた。
まだ夕方の6時過ぎだというのに辺りはすっかり闇に包まれ、木々の暗い影が風で大きく左右に揺れているのが見える。
明かりの灯った公園の街灯に降り注ぐ大粒の雨は、線香花火の火花のように煌々と弾けていた。
突然、稲妻のまばゆい閃光が辺りを一瞬鋭く照らすとすぐさま雷の爆音が轟き、私の体を一気に硬直させた。
どうやら雷雲はこの公衆トイレのすぐ上空にあるらしい。
公衆トイレ周辺の草木を叩きつける雨音は、上からも下からもまるでサラウンド・システムのように全方向から強く鳴り響いていた。
私はタバコに火をつけ大きく吸い込むと、スマホの天気サイトを開いた。
一刻も早くここを出たかったが、この雨雲がこの辺りを通過するのには30分はかかりそうだった。
私は壁に寄りかかって、スマホのニュースサイトを見ながら時間をつぶすことにした。

しばらくして、けたたましい雨音に交じって聞こえてくる人の声に気が付いた。
女の声のようだった。
辺りを見回したが男子用トイレには私しかいない。
おそらく隣の女子用トイレには、私と同様にここで雨宿りをしている女がいるのであろう。
雷鳴は相変わらず鳴り響いており、その度に隣の女子用トイレから女の悲鳴のような声が聞こえてきた。
女子用トイレで雨宿りをしているのはどうやら一人ではないらしい。
音程の異なる複数の女の声が同時に聞こえているのだ。
私は雷鳴の音に少し慣れたせいか、もう体を硬直させるようなことはなかったが、それでも雷鳴が響くとやはり幾ばくかの恐怖心のようなものを感じていたので、女達が黄色い声を上げるのも無理はないと思っていた。
女子用トイレから鈍くエコーの効いた籠ったような声が聞こえる。
どうやらそこには二人の女がいて、何やらひそひそと会話をしているようだ。

女A「ねぇ、知ってる?以前ここの男子トイレで自殺した人がいたんだって」
女B「うそぉ!知らなかった。それいつ頃の話?」
女A「3か月くいらい前よ。高校時代の友人から聞いたの」

私は手に取ったスマホでニュースサイトを見てはいたが、神経は女達の会話に集中していった。
だが、雨音と雷鳴音のせいで会話の内容は断片的に抜け落ちて聞こえていた。

女A「今日みたいな夕立の日に雨宿りしようとしてここに来た人が発見したんだって」
(雷鳴)
女B「でも、どうやってこんな場所で.............したの?」
女A「なんでも、トイレのドア....に...........ていたらしいの」
女B「.........................は......................」
女A「.............よ」
女B「ちょっとぉ、まさか、その自殺した人の霊がでるとか」
女A「そんなんじゃないんだけど。でもね、遺書が見つからなかったとかで、警察は当初他殺の可能性も疑っていたんだって」
女B「で、どうなったの?」
(雷鳴)
女A「他殺の可能性の根拠として他にも..............が...............」
女B「えっ!.................」
女A「.................................................................」
女B「でも最終的には自殺ってことになったんだよね?」
(雷鳴)
女A「それがね、どうもその死に方が........で..................」
女B「...........」
女A「しかも死んだ人は................」
女B「自殺にしては不自然だよね」
女A「でしょう?!しかも男子トイレでなんておかしくない?」
女B「うん、おかしいと思う」
女A「でもね、自殺にしても他殺にしても決定的な証拠がなかったので、結局1か月後には自殺として処理されたみたい」
女B「そうなんだ…だけど遺書はなし…か」

すべての内容を聞き取ることはできなかったが、どうやら今私がいるこの場所で3か月前に自殺があって、当初警察は他殺の可能性もあると考えていたらしい、という内容のようだ。
この辺りに住んで20年ほどになるが、私はそんな話は聞いたことがなかった。
気が付くと雨でびしょ濡れになった私の上半身には鳥肌が立っていた。
突然私の耳元でカツンカツン!と硬い音が響き、ビクンと私の両肩を跳ね上がらせた。
見ると隣の洗面台の蛍光灯の周りを飛び回る一匹の大きな蛾の体や羽が蛍光灯に当たる音だった。
雨の勢いは相変わらず激しく、時折風に吹き飛ばされた雨粒がトイレの床にまき散らされた。

女A「自殺扱いになるまでの1か月間、発見者を含めていろんな人が疑われたみたいだよ」
女B「つまり容疑者扱いされたってこと?」
女A「うん、疑われた人の中には鬱になったり、周囲の目に耐えられなくて会社を辞めた人もいたみたい」
女B「そうなんだ、だけど本当に自殺だったとしたら少し迷惑な話だよね、疑われた人達が気の毒だな」
女A「もしかしたら、その人達に対して復讐とか嫌がらせをするために意図的に遺書を残してなかったりして」
女B「それって2時間ドラマの見すぎじゃない?」

なんだ、一体なにが他殺の可能性を示唆したというのだ?
警察が他殺の根拠とした部分がよく聞き取れないことに、私は少しフラストレーションを感じていた。

それから女子トイレには沈黙が続いた。
私は暇つぶしに警察が他殺の可能性を疑った根拠を推測してみることにした。
まず、遺書が見つかっていないことだ。
これははっきりと聞き取ることができたし、確かに他殺の可能性を示唆する状況証拠と言えるだろう。
自殺の方法だが、「トイレのドア」と言っていた。
この公衆トイレの出入り口にはドアがない。
ここには男子用の6つの便器と個室トイレが3室あり、その個室トイレには当然のことながらドアが付いている。
他にはドアがないので、恐らく個室トイレのドアのことだろう。
ネットで調べてみると、ドアを使用した自殺の方法がいくつか見つかった。
こんな方法があるのかと少し驚いたが、いずれの方法も他殺の可能性を示唆するようには思えなかった。
そうだ、たしか…自殺にしては不自然な死に方だった、と言っていた。
しかし私にはネットで見つけたドアを使用した自殺の方法が不自然な死に方と言えるかどうかなど、皆目見当もつかなかった。
私は個室トイレのドアを眺めながら、ネットにあったようなその死に様を想像してみたが、急に背筋に言い知れない悪寒を感じると、反射的に個室トイレから顔を背けて目を固く閉じてしまった。
待てよ…そもそも自殺した人間の人物像が全く分からないではないか。
男子トイレで自殺したわけだから男だとは思うが、年齢や性別に関しては実際に聞こえてきてはいないので分からない。
いや、そう言えば男子トレイで自殺するのはおかしい、と言っていたのではなかったか?
つまり、自殺したのは女なのだろうか?
他にも他殺を匂わせる何かがあったようだが、それも全く聞き取れなかった。
あと分かっている事は……自殺として処理するまでの1か月の間に、発見者を含め周囲の何人かが容疑者扱いされ、中には鬱になったり会社を辞めざるを得なくなった人間がいた、ということだけだ。
しかし、本当に自殺だとしたら、女が言っていたように、死んだ人間が何らかの恨みを抱いていた人間に対する復讐の可能性もあるのではないだろうか。
だとしたら、実に忌まわしい話だ。

突然トイレの壁や床が一気に眩い紫色に発色したかと思ったその時、振動を伴って何かを強烈に叩きつけるように雷の轟音が鳴り響き、続いてゆっくりとしたリズムの重低音が緩やかに続いてフェードアウトしていった。
女子トイレから悲鳴が聞こえていた。

それから暫く、警察に他殺の可能性を示唆したその「何か」を推測してはみたが、「遺書が見つかっていない」ということ以外は何も思い浮かばなかった、というか、無限に思いつくことができるような気がして考えることを止めてしまっていた。
女子トイレでは話題が変わってしまったようで、引っ切り無しに笑い声が聞こえていた。
恐らくもう女達の会話はあの自殺の話題には戻らないだろう。
私にしても、もう推測などしようとは思っていなかった。
考えてみれば、警察が関与するようなこういった事件に関する知識を何一つ持ち合わせていない私がそんな事をしようとすること自体がバカバカしいことだったし、部外者である私がその人間の死についてあれこれと詮索するのは決して良いことだとは思えなかった。
それに、そもそもこの話が本当なのかさえも怪しいのだ。
雨宿りの間のよい暇つぶしにはなったとは思うが、こんな話を一瞬でも真に受けてあれこれと推測などしてみようとした自分の馬鹿さ加減にあきれてしまっていた。
もうこの事は考えまい。
私はスマホのスケジュールアプリを開き、明日の客先でのミーティングの時間と場所を確認した。

それから10分ほどすると雨は小康状態になり、雷鳴は遠のいていった。
ここから見える外の木々の黒い陰も揺れてはいない。
女子トイレからはもう声がしなくなっていた。
女達はここを出て行ったのだろうか。
私は鞄を手に持ちトイレの出入り口の前に立った。
闇の中に光る街灯の明かりの前をゆっくりと通過して落ちていく細かい雨粒が見えると、私はここを出て家に向かうことにした。
トイレの出入り口の前の土はさっきまでの激しい雨に深く抉られており、そこに大きな楕円形の水溜りができていた。
足元を濡らさずにここを出るには、その水溜りを飛び越さなければならない。
水溜りの向こう側までは1メートルほどありそうだ。
私は出入り口から数歩奥に下がり、勢いをつけてその水溜りを飛び越した。
その時一瞬、水溜りの中に、雨で抉られた土の底に埋まった状態で、その半分ほどが地表から露出した白い封筒のようなものが見えた気がした。
水溜りを無事に飛び越すと、私は薄っすらと街灯に照らされた薄暗い木道を公園の西側にある出入り口に向かって速足で歩きだした。
歩きながら水溜りの中に見えた白い封筒のようなもののことを考えていた。
その表面には黒くて太い大きな文字が書いてあったようだったが…
ひょっとしたら………「遺書」という文字だったのだろうか?
でもだとしたら、あの自殺の話は本当に起こったことで、自殺した人間は遺書をあの公衆トイレの出入り口の前の地中に埋めていた、ということか…?
つまり、それは誰かに対する復讐だったのか…?
まさか……そんな事があるわけがない、単なる私の愚かな妄想だ、今日の私はどうかしている。

しかし、公衆トイレに引き返してあの白い封筒のようなものを確かめてみたい、という衝動が沸き上がってきた。
だが、私は頭の中からその衝動を振り払うかのように頭を強く左右に振ると、薄暗い木道を駆け出していた。
公園の出入り口が見えきた。
その出入り口を抜けると、私は更に速度を上げて家に向かって走り続けた。
雨上がりの暗く煙った住宅街に、濡れたアスファルトを叩く私の靴音が硬く大きく鳴り響いていた。

沸き上がったその衝動は、私をついさっきまで公衆トイレに閉じ込めていたあの雷雲のように、私から次第に遠のいていくようだった。
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