第2話

文字数 2,737文字

 3月16日の事だった。
「別に故意でやった訳じゃないってゆうか、事故ってゆうか。ふとしたときに松岡さんが、課長の抱えている簡単な整理整頓の作業を内緒で手伝ってるの見えちゃって。あたし、思わず『そんなことしたって童貞課長が気づくはずないんだから、好きな食事とか、好きな店とか上目遣いで伝えてやれよ』って言っちゃったんすよ。そしたら松岡女史、真っ赤な顔になっちゃって、『はあ? 課長が童貞なことぐらい、承知ですけど!』って、気づいてなかったのそんなに悔しいのかよって、あーあ、完全に誤算でした」峰さんはすまんすまんと手刀を切った。
 私は、部下のしでかしをフォローすることにも慣れているくらいの課長歴を誇っていたので、峰さんには『ちゃんと素直に話してくれてありがとう』と言ってデスクに戻った。
 状況を整理する。
 まず現状、私が松岡さんに嫌われていることは間違いない。というよりアラフォー童貞なんて、バレた瞬間にゲテモノ扱いなのだから裏読みとか、ワンチャンスとか考えなくていいのが楽だ。金を払って入ったキャバクラでさえ、のけ者にされるほどの地雷原である、自覚はある。
 かと言って、言及される明確なセクハラ行為など、一切彼女に対してしでかしてないので、嫌われているのなら嫌われているままで良い。何も変わらない。無視。
 私の女性経験のなさが女性社員三人にバレたのだが、女性社員というのがまだ救いがあり、いたずらに精神攻撃を仕掛けてきたり、マウントをひたすらとってきたりしないだろうし、飲み会で変に絡まれたりすることもしないだろう。これも無視でよい。
 私の願望を第一に構築してみよう。何よりも業務が滞りなく進行し、部下たちが健やかにあればそれでよい。ならば、私が行うべき、忘れていた行動はただ一つだった。
 私は付箋を取り出し、メッセージを書いた。
『キングファイルの整理ありがとうございました。おかげ今日も定時退社できそうです。今度、私にも恩返しをさせてください。どんな作業でも手伝いますので』そして、松岡さんのノートパソコンのモニターに貼った。

 3月16日の夜の事だった。
『なんでこの流れで定時退社してんだ、くそ課長! 松岡女史、やきもきしすぎてロッカールームで発狂してるぞ!』
『あたしら松岡さんを居酒屋に連れてくんで。課長もすぐ着替えて来てください。10分でも遅れたらせっかく更新し終えた会社のホームページをクラッキングします。容赦しねーからな!』

 3月16日の夜の事その2。
 私は指定された居酒屋に着いた。急いでいたものの身なりを多少整えた。とはいえ、白いチノパンに黒のセーター、アウターに茶色のブルゾンで、居酒屋ならこれで良いだろうといった妥協点だった。この後女性社員3人からファッションチェックが入ることを想像すると、あと一時間悩んでも完璧な答えなんて出ない。
 居酒屋は小ぎれいな隠れ家と言った様相で、外見も中身も木材の素朴な味わいをそのままに生かした、和風テイストの店だった。表の看板もごく控え目であり、好感が持てた。週半ばということも相まって、店内は飲み屋と思えないほどの静けさ。簾で仕切られたテーブル席に、峰、大野、松岡の三名は座っていた。三人とも、どう見ても事前に準備された私服姿だった。怒りのメールで呼び寄せられた私は、肩透かしにあったわけだが、彼女たちはすでに出来上がっており、ニコニコとまたはゲラゲラと、実に楽しそうにグラスをあおっていた。
「あ、来た来た、課長ー、遅ーいぃんー」
 私は促されるままに松岡さんの隣に腰を掛けた。梅キュウリを持ってきた店員にハイボールを頼む。
 テーブルには空のグラスが二つと、半分の梅酒サワー、松岡さんは何かしらのカクテルを両手でしっかりと抱えていて、峰さんはマス酒なんて口にしている。明日会社に来る気あるのか。
「お疲れ、お疲れー」
 形だけ乾杯を済ませると、すぐに私は松岡さんに向かって頭を下げた。
「不愉快な思いをさせてしまって、大変申し訳ない」私はハイボールをグラス三分の一ほど飲み干した。酒よ、力を!
「私は、女性の気持ちを推し量るのがすごく苦手で、すぐに周囲をイライラさせてしまうんだ」
 すると、峰さんと大野さんはそろって同じタイミングで声を上げて笑った。松岡さんは笑いをこらえた様子で後ろを向いている。
「あのさ、課長。別に方法や手段なんてどうでもよくってさ、うちら、三人ともこの状況に持ち込みたくて、ここ数日の間行動してたんだ。言うならウィン・ウィン・ウィンな状態が今なワケ。あとは課長が楽しめればそれでいいんだよ。駆け付け即謝罪って、顧客か! あたしらは! ほらほら玉子焼き食べなよ。サラダもう一皿たのもうか?」
「ってゆうか、美女三人に囲まれてお酒飲めれば天国だよな、だよな!」
「すみませーん、一人オバサンが混ざっててすみませーん」
「きゃはは、そう言う当のオバサンが一番気合入ってて捕食者なんだよな! なんだその大人フェミ! 童貞殺す気か!」
 一拍あいて、周囲の視線が私に集まった。
「こっ」
 酒よ! 力を!
「殺されちゃいましたー」
 はい、爆笑。
 はやく、はやく彼女たちに追い付かなくては。羞恥心に背中をかきむしられて立ち直れなくなってしまう。そう思いながらハイボールを飲み干した。

 3月16日の夜の事その3。
 しかし、飲み会というのには波があって。楽しいお酒をひたすら長時間続けられる体力が、社会人としての我々にはなかった。その場の空気が、急に店内の有線のチャンネルに同調したり、峰さんの顔を真顔にしたりした。
「課長ってさ、身長いくつ?」
 特に大した意味合いもなさそうなので、「178」と、さらっと答えた。
「BMIは?」「20ちょい」
「年収」「700かな」
「趣味は?」「ゴルフと水泳」
「禿げてないし」「…」
「5年前に婚活始めてれば、秒で結婚相手見つかったと思うよ。なんで一人なの?」
 松岡さんの視線が左頬に突き刺さるようだった。
「苦手なんです。恋愛。ただそれだけです」
「まあ、そうなんだろうね」
「なんか、テンション上がらなくて。ずっと沈み込んでいくだけなんです。人の真似とか、友達のアドバイスとか、本とか読んで試してみても、全然うまくいかなくって。なんか、法則とか、ルールとか、全然把握できなくて。コツをつかめないスポーツっていうか、知らない国の言葉の、知らないゲームをやらされてるような感覚があるんです。子供の時からずっと」
「違うでしょ」
 松岡さんが俯きがちにこぼした。
「面食いなんでしょ。惚れる相手間違えてきたんでしょ」
「そりゃあ、あんたのことだろ松岡」
「いや、私もそういうところあります」
「課長、いいって、こいつの事だから」
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