第1話

文字数 5,732文字

男が突然、向かいの席を引いてそのままどこかへ持ち去ろうとしたので、無礼な態度とその行動原理となっている男のなかにあるひやりとしたものに、僕はまず最初に驚き、それから喜びを覚えた気がする。それは、モヤモヤを発散できる絶好の機会が予期せず舞い込んできたからで、僕は膝の裏で自らの席を後ろに倒すくらい猛烈に立ち上がり、すこし離れた彼の背に「おい」と怒鳴った。彼が振り返るときにはすでに暴力のための拳が握られていたのだが、僕はそれをすぐに解いてしまった。立ち上がりと大声のエネルギーを消費しただけで、生まれたばかりの怒りは萎えた。椅子を起こして、何も言わずにそのままゆっくりと腰を下ろした。僕はまた、何も残っていないグラスを見つめた。グラス以外、とくにみるものがなかった。深くため息をつくと、すべてがどうでもいい気分に戻っていく。これらの一連の行動に、男は何の反応も示さなかった。それは椅子をそのままどこかへ持ち去っていったというわけではなく、表示板のない鉄柱のようにただ静かにそこに立っていたということだ。
彼は僕のことを見下ろし、尋ねた。
「君は一体どうしたいの?」
「わからない」と視線をグラスに固定したまま応えた。
僕がこれ以上なにも言及しないことがわかると、男がさっきの行動の解説をはじめた。
「俺は遠くからずっと君のことを観ていたんだが、といってもここに来たのは10分前とかだけど、君がずっと俯いたまま空虚なそのグラスを見つめているんでね。すこし心配になって、だけど他人に話しかけるっていうのは、俺にとって、いささか勇気がいることなんだ。だから『君に話しかける意義』を創り出す必要があった。そこで俺は、社会学的な実験をすることにした。正確に言うと、社会学的実験をする院生という仮面を被ったのさ。いきなり他人のテーブル席の椅子を引いたら、人はどういう反応を示すのという実験を、明日朝10時期限のレポートのために、これから急いで行わなければならない。そう考えると、便所のドアみたくすんなりと引けたのさ。それに対して君が反応してくれたので、俺は今こうして君と話すことが出来ている。心配で起こしたことだったんだが、君に不快な思いをさせてしまったかもしれない。すまなかったね」
そういうと、椅子をもとの位置に戻してなぜかそのまま座ったので止めるべくもなく彼と向かい合う形になった。
彼は目の前にあるビールが半分ほど残っている方のグラスを手で円卓の脇に寄せ、頬杖をついた。それから女にでも振られたのかと訊いてきた。
誰かと話したい気分ではあったのだが、僕が話そうとする話は、おそらく誰にも分かってくれそうにない類のものだったので、話してみようか、いややっぱりやめようかと何も答えられないでひたすら俯いたままでいると、男が急に信じられないくらいの大声で店員にビール2つとフライドポテトを注文したので、僕は思わず吃驚して体をすこしのけぞらせた。すこし離れたカウンターの奥から、気が抜けていたのか、やや遅れて聞こえてきた返事は情けないほど裏返っていた。
気づくと店内には僕ら2人を除いて客が誰もいなかった。天井の隅に取り付けられたJBLのスピーカーからRadioheadのcreepがとても静かな音量で流れていた。

ビールが来るまで互いに無言だった。店員が冷えた大きなジョッキと湯気が盛んに立っている熱々のフライを運んできて、新しいのと引き換えに古いのを持ち去っていったとき、男が沈黙を破った。男はジョッキを口に突っ込みゴクゴクと一息に半分ほど鯨飲すると、音をたてずにそっとテーブルに置いた。それから、もう4月か。ようやく寒い冬が終わったなという台詞と飲んだ量に明らかに比例していない小さなゲップを吐いた。フライドポテトは3本手にとり、それらを横に引き裂くと、中から湯気が立った。6本に分裂したポテトをまとめて口の中に放り込み、咀嚼せず飲み込んでしまった。
そうか。もう4月か。どうりで外が暑いわけだ。僕は目の前に置かれた凍っているグラスに入ったビールと彼の喉が奏でた、まるでCMでしか聞かないような嚥下音によって、自分がどれほど潤いを求めていたかを自覚せしめられていた。ジョッキを手にとり、負けじと半分ほど一気に飲み込み、大きなゲップをした。鼻と口から汚い空気が一斉に噴き出てスッキリした。ここのポテトは、ビールによく合った。男と一緒にビールを飲み、ポテトを食べ、ビールをたくさん飲んだ。

男はグレーのスーツをほどよく着こなしていた。髪はワックスで七三に分けられたうえにオールバックになっていたので、男がどんな顔をしていたかなんて、すぐに思い出せるはずだった。けれども不思議なことに、まったく思い出せない。その他のデティールは、例えば、指毛とかはあまり処理されておらず、太ももは広くてパンツがややタイトに映った。革靴はマットブラックで先端部分を中心によく磨かれていたと思う。しかし彼の顔に、髭があったのかさえ思い出せない。霧雨のようなモザイクが顔の部分だけを覆い、回想を阻害する。もちろん、彼は知り合いでもなんでもない。僕の頭のなかには、スーツを着たどこにでもいるような30代後半男性という印象が残るばかりだ。
ところで、あなたは一体誰なんですか?といういささか失礼だが遠回りせずに質問をぶつけようと口を開きかけた時、「なぁ、4月に100%の女と出会う方法を教えようか」といって男は残りのビールを全部飲み干した。
どこかで聞いたことのあるようなセンテンスだと思ったので、4月、100%、女の3つの単語を頭のなかで消化するように反芻していると、それが村上春樹の短編のタイトルにとてもよく似ていることに気がついた。この男は今から村上春樹の短編の話をしようとしているのか、あるいは短編の題名とただ偶然似ているだけで全く違う実践的な方法論を教えてくれるのか。村上春樹のことなんかここ数年考えたことなかったが(村上春樹は好きだった)、実はちょうど先程まで100%の女の子について思案していたところだったのだ。思いがけない一致に、彼の話の導入には興味が湧いていた。ぜひとも知りたいと返事をした。それから僕は人の話を聴くときにするいつもの癖で目を閉じて、この時は終わりまで一度も開けることなく、彼の話に耳を傾けた。

結論から言うと、彼の話はそのどちらでもあり、また、なかった。構造自体は村上春樹の小説みたいだったし、出会うための多少のSuggestionみたいなものはあったが、とにかく気味が悪かった。男が一体どんな奴なのかもいまだに謎なままだった。なぜなら、僕はこの話を聴いたあと、恐くなって1000円札を財布から何枚かは忘れたが適当に抜いて机に置き、そのまま店を飛び出したからだ。せめて彼の顔だけでも思い出せれば、10分我慢した小便くらいにはスッキリするのになぁ。ちょっと待てよ。今なら思い出せそうな気がする、、、ああダメだ。やっぱり思い出せない!

以下、彼の話を記す。

あるところに、男と女がいたんだ。年齢はたしか互いに20くらい。
2人は東から西へ向かう電車の中にいた。3月初旬にしては暖かい、土曜の正午少し前くらいで、みんなが昼飯に何を食おうかを必死に考える一番平和な時間だ。陽の光が車内を満たしている。ドア付近に立つ彼女は窓の外の景色を眺めていた。正確に言うと、東京の慌ただしく変化する街並みを観察していて、変化前と変化後のどちらがよかったかの判断を下していた。
2人はウディアレンの新作映画を観た帰りだった。2人とも土曜の朝一で映画を観ることを好んだ。朝一番の上映は人が少なく、休日を有効活用できるからだ。残念ながら、同じ街だがそれぞれ違う映画館にいたようだ。試しに2つの劇場のスクリーンマップをアクリル板に写し、重ね合わせてみると、2人は隣同士になったので、もし同じ映画館で観ていたのならば、この話はここで終われたんだが。
まぁとにかく、彼らは正真正銘の100%の恋人になれる可能性を間違いなく秘めていた。女は特に美人という訳ではないが(スタイルはモデル並みだった)、彼にとっては全くもって100%の女の子だった。男もハリー・スタイルズという訳ではないが、彼女にとっては顔も性格もすべてが100%だった。先に相手の存在に気づいたのは、女の方だった。男は対角線上にいて左右に誰もいない席にゆったりと腰かけていた。彼女は別に惚れやすいという訳ではなかったのだが、彼をみた瞬間、彼とのありとあらゆる未来が瞬時に漫画のコマ割りのように浮かび上がり、それが上から下へとまるで映画のエンディングクレジットのように頭の中に流れてきた。そして、前方に座る男が自分の運命の相手であることに気づいた。彼女はまっすぐに、運命の相手に自分の存在を気づいてもらうようみつめはじめた。話しかけるところまで至らなかったのは、彼女は2か月前に、3年間片想いをしていた相手に散々遊ばれた挙句棄てられたばかりで、傷口は深く生々しいままだったからだった。つまり、もし話しかけて、無視されでもしたら、もう戻ることができないところまで自分が落ちることがわかっていたので自己防衛がつよく働いてしまい、動けなかった。でも、運命ならば、彼と目が合うだろうと思った。わたしのことがわかるだろうと。実際に運命の相手だったわけで、女は彼のことを信じて待つことにした。
一方、男はスマホの画面に夢中だった。左手でiPhoneを持ち、右手の人差し指で右へ左へフリックし、画面に映る女の子の写真を事務的に仕分けていた。
目がどうとか胸がこうとか鼻の形とか。振り分ける基準は、彼が様々なメディアによって植え付けられた月並みな価値観によって、であった。彼は自分にとって100%の女の子というのがまだわからなかった。こんなことを毎日していてもまだ一度も返事が来たためしがなく、馬鹿馬鹿しい努力だとわかってはいた。5分くらいしたら一日の制限を迎えたので彼はアプリを閉じスマホの電源を切ろうとしたんだけど、YouTubeからプレミアリーグのハイライトの通知が来たので、Wi-Fiを使わずみるかちょっと躊躇ったが、まだ月初めということとあと少なくとも15分は電車に乗らなければいけないということを考慮し、彼はイヤホンを装着して動画を視聴することに決めた。

女はこちら側の窓はもう見飽きたわというように、反対側の窓の景色をみる振りをして彼に相変わらず視線を投げかけていた。
もう、すでに2駅乗り過ごしていた。あと1駅だけ待ってみよう。
もしかしたら、違うのかもしれない。信じていた相手に裏切られたばかりで、自信を完全に喪失していた彼女は哀れにも今回も男を信じてしまった。しかし彼女の直感は、今回は100%正しかったんだ。電車が減速し、街並みがくっきりしてきた。男はまだ顎を下に引いてスマホを観ている。最後の希望としては、彼がこの駅で降りることだった。電車は停まりドアが開く。降りる人は全員降りて乗る人が全員乗っても、彼女はまだドア付近で躊躇していた。最後のところで、自分の直感を信じることが出来なかった。ドアが閉まるぎりぎりで身体を横にして狭い隙間をすり抜けながら降りていった。振り返ると、彼はまだ俯いたままだった。彼女は彼のその姿を醜いものとして記憶した。彼女はこれから先、自分の本能や直感なるものを否定して生きていかなければならなかった。彼に対する名残惜しみを消し去り、タイミングよく来た西から東へ向かう電車へ飛び乗った。しかし、何度も言うが、彼女にとって彼が100%の相手だったのだ。

時が経ち、それは4月のある晴れた朝だった。いや朝といっても10時はまわっていたかもしれない。彼は外で朝食を食べ終え、ショッピングをするために原宿へ向かっていた。すると前から鮮やかな古着のブルージーンズを履いた100%の女の子がやってきた。
遠くからでも気づくほど、100%だった。直感が耳元で「運命の相手」と囁くも身体はどう行動すればいいかわからなかった。その間にも互いの距離はどんどんと縮んでいく。手が震えだす。そして花屋の店先ですれ違った。男の隣を歩くアプリで出会った、いかにも流行りだというチェック柄のワンピースを身に着けた彼にとっては50%の女が、水仙の花を見て綺麗ねと呟いた。男はああ、きれいだと答えた。水仙はラッパの形をしていたのに、何も語りかけてこなかった。

隣を歩く女の顔は、間違いなく彼の好みだったのだが、ブルージーンズの娘とは何かが違うとはっきりわかった。男には彼女とすれ違いざまに目が合ったとき、彼女がとても哀し気な表情を浮かべたことがどうも引っかかっていた。古着屋に入ると、女は趣味の悪いバケットハットを手にとり、かわいいといって被ったりした。カフェに入ると、チョコレートケーキにはオレンジがなきゃ、チョコレートケーキじゃないなんてほざいた。彼女との会話は、過去の話ばかりで退屈だった。最悪なことに、彼女は本も読まなければ、映画も観ない人だった(彼女が最後に観た映画は、高校生の頃に観たという新海誠の「君の名は」だった)。男はそのデート中、ずうっとうわの空で、女が興味を示すものに悉く興味が湧かず、浮かぶなのは100%の女の子の哀しげな表情ばかりだった。ディナーまで我慢していたのだが、50%の子は決して馬鹿ではないので、結局、彼に重たい平手打ちをくらわして、スカートの裾を揺らしながら颯爽と店を出ていった。男は暗い店内にひとりぽつんと取り残された。

現実世界において仮定法で考えることほどクソなことはないが、あの時にもし彼がスマホなんか見てないで顔を上げていれば、もし彼女が勇気をだしていれば、もしお互いが直感を信じていればと思わずにはいられない。結果として、誰一人として幸せになれなかったのだから。我々が我々自身をカオスにしている。
ブルージーンズの彼女と君が次に会うのは今から20年後だ。なぁ、これって悲しい話だと思わないか?           終                  
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