第1話

文字数 1,329文字

 世界のどこかには、公でありながらその実態が知られていない場所がある。たとえばとあるタレント事務所だ。表向きは真っ当な事務所だが、実際は裏の有名な人材斡旋場だった。

 ここは人通りの多い通りの両脇に並んだ建物の一つ。テナントの中にそのバーは存在した。表向きはシックな印象の内装が人気の店だが、集まる客は曲者揃いである。

「あら、先客がいたのね」

 きい、と扉を開けて入ってきた女は、その美貌を見せつけるかのような格好をしていた。丈の短いスカートに、胸の前で交差させた意匠が特徴のワンピース。
  先客の男は指を立てた。

「マスター、彼女に好きな酒を」

「あら、気前がいいのね」女はくすっと笑った。

「交渉の前に、出方を伺いたいだけさ」

「そう・・・マスター! カクテルを頂戴」

 女は人差し指を立てた。

「・・・種類は?」

「林檎とオレンジ」

  マスターは頷いてカクテルを作りにかかった。男は先に注文しておいた自分の酒を呷った。

「強いお酒が好みなの?」女が尋ねた。

  男は答えなかった。

「頼んでいた件、引き受けてくれるか?」

「そうね、条件によっては上を納得させられるかもしれないけれど、今じゃ無理ね」

「・・・二倍でどうだ?」

「平行線! その攻め方じゃ他のグループと大差ないわ。金額の問題じゃないのよ」

「ウチはそっちほど大きい組じゃない。金額で満足してもらえなければ、他に何を差し出せばいいんだ」

「そうね・・・たとえばあなたを」

  男の手が止まった。

「冗談で言っているのか?」

 女はマスターからカクテルを受け取り、一口飲んだ。

「うちのボスがあなたのこと気に入ってるのよ。気弱だけど仕事はできる。臆病だからこその才能だってね」

「・・・額は」男は手を震わせた。

「言い値でいいわ」

  男はマスターを見て言った。

「マスター ・・・ 水を」

  マスターは新しいグラスを用意して男の卓に送った。

「不満だったかしら」女が言った。

「そんなことはない。むしろ願ったりだ。君とは昔から仕事をしてみたいと思っていた」

「あら、そんな話術(テク)ももってたなんて、ずるいわね」

「本心だ」

「・・・・そう、見る目あるのね」

  女はカクテルを持った。

「けど残念。私、もうすぐ組を抜けるの」

  男はじっと女の声に耳をかたむける。

「やっとまともな人生が歩めるのよ」

「よかったな」

  男は酒を一口飲んだ。

「他に言うことはないの?」

「君の幸せを願っている・・・本当だ」

  男の言葉に、女は席を立った。男が驚く間、女は男の酒に手を伸ばし、一飲みに呷った。

「辛っ」

 度数は優に五十を超える。純正のウイスキー。女はグラスを勢いよく卓に置くと、男に向かって言った。

「そういうことじゃないでしょ! レジスト」

「アグリ・・・飲めたとのか、お前」

「なわけないでしょ。フラフラよ・・・」

 おぼつかない足取りに、レジストはアグリの腰に手を寄せた。

「お前が、そんなにだらしない奴だとは知らなかった」

「ふふ・・・幻滅した?」

「いいや」

  レジストは首を振り、卓に残った女のカクテルに手を伸ばした。

「甘いのは嫌いじゃなかったの?」

「ああ、だが思ったより悪くなかった」

「それじゃあ、ウチで飲み直しましょう」

  そうして二人は店を出た。
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