第一話

文字数 10,063文字



 17歳の夏休み。つまり高校二年生の夏。
 俺は家で、菓子やジュースを飲み食いしながら、ひたすらテレビ・ゲームをやっていた。
 RPGをやり、アクション・ゲームをやり、パズル・ゲームをやっていた。菓子を食い、ジュースを飲みながら。
 ゲームをすることに飽きると、漫画を読み耽った。
 そうしていれば、父親がうるさかった。ようするに勉強しろと小言を言われた。
 俺は、父親のことが好きじゃなかったので (というかほとんど憎んでいたので) 、絶対に言うことをききたくはなかった。それに、仕事の鬱憤を晴らすことの名目で、説教をしている節すら感じられた。
 だから俺は、頑なに勉強をしなかった。ようするに、反抗期の真っ只中にいたのだ (反抗期だけが理由でもない気もするが) 。
 ただ、あまりにも父親がうるさかったので、自宅から離れたかった。それもできれば、遠いところに。

 「叔父さんのところに行ってくる」と俺は父親に言った。
 その叔父は京都に住んでいる。母方 (俺の母親はもう死んでしまった) の叔父で、俺とは血が繋がっていないが、俺のことをよく可愛がってくれている。
 父親も叔父のところだったら、文句を言わなかった。
 バイト代がまだ残っていたので、京都・東京間の往復代くらいは出せた。
 俺はリュック・サックを背負って、家を出ると、地元の駅へと歩いて向かった。
 電車で東京駅まで行き、そこから京都行きの高速バスに乗った。
 高速バスは街中を走っていき、少しして高速道路に入った。
 俺はスマートフォンとイヤホンで音楽を聴きながら、持ってきた漫画本を読んでいた。



 「お前、何かやりたいことはないのか?」.と叔父は言った。
 「え?」と俺は顔を上げた。
 そのとき俺は、叔父の店で、カウンター越しに叔父と対面していた。叔父は京都で小さな喫茶店を営んでいた。
 そのとき午後の二時ごろで、客は誰もいなかった。夕方ごろになれば、客足が増えてくるので、そのころに店を出ればいいだろう。
 「叔父さんまで説教かよ」俺はげんなりとした。
 「何も勉強しろって言ってるんじゃない」と叔父は続けた。「お前、何が好きなんだ?」
 「好きなこと?」と俺。「ゲームと漫画……」
 「他には?」
 「絵を描くこと……」
 「なら、それをやってみればいいだろ」と叔父は言った。「追求してみろよ」
 「どんな意味が?」俺は欠伸を噛み殺した。
 「自分自身になれる」と叔父は答えた。
 「はぁ?」と俺は眉をひそめた。
 なに言ってんだ、このオッサン?
 
 そのとき、扉の鐘がカランカランと鳴った。
 「こんにちは」と入ってきた青年が言った。
 「久しぶりだな」叔父は彼に言った。
 彼は、俺から二つ離れた席に座った。
 「進んでるか?」叔父は彼に水を出しながら尋ねた。
 「いや全然」彼は肩をすくめた。「ちょっと逃げてきました」
 俺と同じ歳くらいに見えた。
 細身で銀縁の眼鏡をかけ、青いシャツを着ていた。肘の辺りまで、袖をキッチリと折っていて、ボタンは襟元まで、留められていた。シャツには皺ひとつなかった。紺のジーンズに、真っ白なテニス・シューズ。
 中性的な雰囲気で、どこか涼しげだった。
 彼は叔父と一言二言交わすと、熱いコーヒーを頼み、文庫本を開いた。



 「昨日、店に来た人いるじゃん?」俺は叔父に言った。
 「え?」と叔父は、箸を止めた。
 その夜、俺は叔父と、叔父の家のキッチンで夕食をとっていた。
 「北村くんのことか」と叔父は言った。「眼鏡をかけてた男の子だろ」
 「知り合いなんだ?」俺は、焼鮭を箸でほぐした。話しぶりから、なんとなく察せられたが。
 「作家をやってる」叔父は味噌汁を飲んだ。
 「部活動で?」俺は、白いご飯を食べた。
 「お前、サッカーと勘違いしてるだろ」叔父は顔をしかめた。「作家だ、さっか」
 「小説?」おれは箸を止めた。
 「去年新人賞を獲ったらしいぞ」叔父は、温かい緑茶を啜った。
 「ちょっと逃げてきました」と彼が言っていたのは、締め切りか編集者のことか、と俺は思った。
 「叔父さん、俺と彼を比較して、あんなこと言っただろ?」俺は顔をしかめた。
 「お前が根無し草のように見えたんだ。彼を見ていたらな」叔父は食事を終え、箸を茶碗の上に並べて置いた。
 「まだ根無し草でもいいんだよ」俺は、温くなった緑茶を飲み干し、椅子から立ち上がった。「俺には、俺の人生プランってものがある」
 「聞かせてみろ」叔父は俺を見上げて言った。
 「秘密」俺は流しに茶碗を持っていった。
 ちなみに、そんなプランなど存在しなかった。



 翌朝、起きると、俺は駅前にでかけた。たまにはカフェで朝食でもとろうと考えたのだ。
 俺は、淹れたてのコーヒーの香り、そして、溶けたバターが乗ったトーストを夢見ながら、町中を歩いた。
 京都駅付近は、人で混み合っていた。
 俺は京都が好きだ。流動的だからだ。ここには、遠くから来た学生たちや、旅行者たち、あるいは外国人たちが大勢いる。彼らは、どこかからかやってきて、一定のあいだこの街に留まり、そしてまた去っていく。俺は彼らを眺めたり、彼らの中に身を置くことで、少なからずホッとした。
 それに京都の街は東京と比べて、空気が重たくないのだ。明らかに。
 俺は今でも時々、時間を見つけては、一人で京都にブラリとでかける。一度、旅行にでかけたところは、まず二度とは行かないのだが (一度行けば満足してしまうので) 、京都だけは別だった。そして、安い旅館やホテルをとって、京都駅近くのバーにでかけて、そこで外国の美味いビールを飲む。
 そうすると、俺は解き放たれた気分になってくる。他の旅行先でも解放感はあるのだが、京都では、よりそれに浸れるのだ。

 俺は、駅前の喫茶店に入った。店は朝から混み合っていた。
 俺はレジでコーヒーとトーストを注文すると、お盆にコーヒーを載せて、席を探した。奥のほうが良かった。
 一番奥の席には、細身の男が背中を向けて座っていた。
 「よぅ」と俺は彼に言った。
 彼は後ろを振り返った。やはり北村だった。
 「座る?」北村は俺のほうを見て微笑んだ。
 彼はその日は、光沢のある深緑のシャツに、黒いチノパンという姿だった。やはりシャツは、肘の辺りまでキッチリと折られていて、ボタンは襟元まで留められていた。シャツには皺一つなかった。ちゃんとこまめにアイロンをかけているのだろうか。
 やはりどこか涼しげだった。
 「執筆は進んでる?」俺は冗談めかして言って、彼の前の席に座った。彼の机の上には、厚いノートが広がっていて、そのそばにはシャープ・ペンシルが置いてあった。
 「どうしてそれを?」北村はキョトンとした。
 「叔父から聞いた」
 「ああ、マスターか」北村は微笑んだ。「なんとなく二人は親戚なんだろうな、とは思っていたんだけど。二人の話ぶりからね」
 「ちなみに執筆はイマイチだ」北村は顔をしかめた。「というか今は構想を練ってる段階」
 「もしかして、邪魔か」俺はいつも、思考よりも行動が先行してしまい、人に迷惑ばかりかけていた。
 「いや、煮詰まってたからナイス・タイミングだ」北村は笑った。



 俺たちは、そのあと映画館に行った。なんとなく、そういう流れになったのだ。
 北村の観たいという映画に付き合った。
 それはリバイバル上映で、昔のヨーロッパ映画だった。俺は欠伸を噛み殺しながら、それを見ていた。芸術ものだったからだ。
 一方、隣の北村はといえば、真剣にスクリーンの方を向いていた。
 「おい、千円払って昼寝したぞ」俺は文句を言った。
 「面白かったけどなぁ」と北村は答えた。
 俺たちは、その映画館の中にあるハンバーガーのチェーン店で昼食をとっていた。
 「映画はよく見るのか?」俺はハンバーガーに齧りついた。
 「シナリオの構成の勉強になるからね」と北村はアイス・コーヒーを飲んだ。「映画一本で、長編一冊程度だ」
 「構成って、起承転結か?」
 「いや、実際に使われているのは、三幕構成が多い」と北村。「ハリウッドは、まずこれだ。ピクサーなんかは、これでガッチリと作りこんでる」
 「それと、ヒーローズ・ジャーニーという構成法もある」と彼は続けた。
 「なんだそりゃ」と俺。
 「言葉で説明するよりも、図を見てもらったほうが早いかもな」北村はそう言って、スマートフォンを操作し、俺に画面を見せた。
 そこには、何かの図があった。円が描かれていた。
 「ジョーゼフ・キャンベルという神話学者の概念で、神話の中にあるというパターンだ。ハリウッドは、これを応用して作品を作っている」と北村は言った。「『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカスはこれを使った。多分、宮崎駿もだ」
 「円のてっぺんにいた男が、そこをぐるっと一周して、元いたところに帰るみたいに見えるけど?」と俺。
 「でも、ただ帰るわけじゃない」と北村は言った。
 俺はその図をもう一度よく見てみた。
 その男は、「宝」を持ち帰っていた。
 「僕は思うんだけど」と北村は続けた。「これはもしかしたら、僕たちの人生をも表しているんじゃないか」
 「俺たちも冒険するのか」俺は冗談めかして言った。
 「人生は、冒険みたいなものだ」北村は微笑した。
 ついていけないな、と俺は嘆息した。



 「あいつは変なヤツだ」俺は、叔父に言った。
 「あいつ?」叔父は、湯呑みから顔を上げた。
 俺と叔父は、家のキッチンで夕食をとっていた。
 「北村」俺は、焼いた鯵の開きに大根おろしを乗せて食べた。
 「お前、北村くんと友達になったのか」叔父は、驚いたというか、意外そうな顔をした。
 「偶然会って、ちょっと話しただけだよ」俺は熱い味噌汁をすすった。茄子の入った味噌汁だった。
 「作家なんて、普通の人間には、務まらないだろう」と叔父は答えた。正論だった。
 「人生は冒険だってさ」と俺は温かい緑茶を飲んだ。
 「なんだそりゃ?」叔父は片眉を上げた。
 「シナリオの構成と、俺たちの人生は似ているんだと」と俺。
 「キャンベルの神話論のことか?」叔父が尋ねた。
 俺はお茶を吹き出しそうになった。「知ってるのかよ!」
 「俺は読書家なんだ」叔父は冗談めかして言った。
 「キャンベルのそれは、確かに人生に当てはまるかもしれないな」叔父は沢庵を食べた。ポリポリという小気味良い音が響いた。「少なくとも、人生のスタート・ラインを切った人間にはな」
 「スタート・ライン?」
 「生きてても、スタート・ラインを切ってない人間なんていくらでもいるさ」と叔父は言った。「たとえ有名企業に勤めていたり、政治家になったとしてもな」
 「俺はキャンベルの本を読んで、今までに読んできた多くの自伝に、キャンベルの神話論を当てはめてみたんだ」と叔父は続けた。「そうしたら、それらは見事に当てはまった」
 「ふぅん」と俺は言った。「叔父さん自身は?」
 「さぁな」叔父は言って、茶碗の上に箸を並べて置いた。
 叔父はスタート・ラインを切っている、と俺は思った。
 叔父は35歳で、この店を持つまで、アメリカに行っていた。「美味いコーヒーを淹れる」という理由のためだけに。
 そして彼の淹れるコーヒーは誰のそれよりも美味いと俺は確信していた。



 俺と北村は、度々会うようになっていた。
 俺たちは、スマートフォンの電話番号を交換した。
 俺は暇つぶしのために、北村は執筆の気分転換のようだった。
 俺たちは、京都市内を歩いて、くたびれると、喫茶店でコーヒーを飲んだ。
 あるいは、有名な神社仏閣を見て回った。伏見稲荷神社 (千本鳥居のある) や、金閣寺、清水寺なんかを。北村には、それらは見慣れているだろうが、俺に付き合ってくれていた。神社仏閣を見物した帰りには、やはり、その近くの喫茶店でコーヒーを飲んだ。

 ある昼下がり、俺たちは哲学の道を歩いていた。
 石畳の道に沿って水路が伸びており、流れる水が、太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。辺りは新緑で溢れていた。歩いているだけで、俺は心が満たされる思いがした。
 「ジョーゼフ・キャンベルの話だけど」俺は北村に言った。「確かに、俺たちの人生みたいだ」
 そのあとで、俺は叔父の受け入りを話した。格好つけで、それが受け入りだということは伏せておいた。
 「つまり、キャンベルの神話論は、人の自己実現をも表している、ということか」と北村は言った。
 「まぁ、そういうことだ」と俺は答えておいた。「自己実現」という言葉の正確な意味までは知らなかったが。いわゆる「なりたい自分になる」とかそういうのだろう (それは間違った理解だったのだが) 。
 「そうかもしれない」と北村は続けた。「ただ、それだけじゃないかもな」
 「というと?」と俺。
 「入れ子構造かもしれない。ロシアのマトリョーシカみたいにね」と北村。「つまり、人生という円があり、そのなかに、自己実現という円があるんじゃないかな」
 「よくわからないな」
 「あの神話論を人生に喩えた場合、あの円のスタート地点は生まれること、そして、ゴール地点は死ぬことだ」
 「なるほど」と俺。なるほど。
 「そして、その生と死のあいだには、中間生があるのかもしれない」と北村。
 「ちゅうかんせい?」
 「あの世だ」と彼は躊躇なく答えた。
 俺はまた嘆息した。なにを真面目な顔をして言うんだ、と。



 「ただいま」叔父が家に帰ってきたとき、叔父は目を見張った。
 「おかえり」俺は台所に立ち、味噌汁を作っていた。
 他にも、冷蔵庫の中のありあわせのもので、簡単なおかずを何品か用意していた。
 野菜炒め、だし巻き卵 (関西風) 、それから冷奴。
 「どういう心境の変化だ」叔父はキッチン・テーブルの前で、怪訝そうに言った。
 「ヒマだったんだよ」と俺は答えた。
 叔父は、味噌汁の入ったお椀を持ち、口許に持っていった。その瞬間、眉をひそめた。「お前、味見したか?」
 俺も味噌汁を啜り、その瞬間、「げっ」となった。砂糖と塩を間違えた。
 あまりにベタ過ぎて、全身から力が抜けた。
 「一つ失敗したってことは、一つ前に進んだってことだ」叔父はそう言いながら、その味噌汁の入ったお椀を手元から遠ざけた。「その失敗を覚えていればの話だけどな……」
 料理をするようになってわかったのだが、 「一つ失敗したということは、一つ前に進んだということ」というのは、真理だということだ (料理に限らずだが) 。それは、あまりにシンプルな事実なのだけれど。
 だから失敗したって、クヨクヨする必要などないのだ。
 それに、それは時として、「反省」という名の逃げにもなりかねない。「ちゃんと落ち込んだのだから、その問題からは解放された」というように……。本当の反省とは、その失敗から何かを学ぶ取ろうとすることだ。



 その日の夜遅く、俺は叔父の家を出て、町をぶらぶらと歩いた。
 気がつくと、鴨川のほうまで来ていた。
 鴨川に架かる橋の真ん中辺りの欄干にもたれ、暗い水面を眺めていた。
 水面は街灯や町の灯を反射し、キラキラと光っていた。
 月が、奇妙なほどに明るかった。
 いやに立体的な巨大な雲が、夜空を流れていて、そのうちの一つが、月を隠した。
 以前から、自分の人生に、どこか虚しさを覚えていた。
 具体的に言えば、日常に耐えられなかった。
 そしてその日常が、死ぬまで続くのかと思うと、心の底からウンザリとした (そして、輪廻転生があるとしたならば、それが永遠に続くのだ) 。
 かといって、自殺を図るほどのことでもなかった。ただ、真綿で首を絞められているかのような感覚のなかで生きていた。ゆっくりと、しかし確実に自分が蝕まれていくようななかで。
 そして、その日常を忘れるために、俺は漫画を読み、ゲームをし、そして友人たちと、カラオケにでかけ、そこで馬鹿騒ぎをした。
 しかしそれが、根本的な解決でないことはわかっていた。心の底では。あくまで、それらの行為は気休めに過ぎないのだと……。
 そのとき俺は、17歳だった。
 そろそろ、自分の人生について真剣に考えてみてもいいのかもしれない、と思った。
 巨大な雲から、月がそっと顔を出し、俺を静かに照らした。
 そして地面の上に、俺の影を落とさせた。



 雨が一週間ほど、降り続いた。
 わりに強い雨で、永遠に降り続けるかのようだった。
 しばらく、北村とは会わなかった。俺からも連絡をしなかったし、向こうからも来なかった。
 俺は叔父から借りていた自室で、机の前に座り、窓からぼんやりと雨を眺めた。
 窓の外は、藍色に染まっていた。電気を点けていなかったので、部屋の中も藍色になっていた。
 そして部屋の中にも、雨の匂いと雰囲気が満ちていた。
 叔父の家には、ゲーム機も漫画本もなかったので、叔父の部屋から勝手に本を持ってきて、 それを自室や、あるいは台所のテーブルで読んだ。叔父が自分で読書家だと言うのは、伊達ではなく、叔父の部屋の本棚には、所狭しと本が並んでいて、積み上げられていた。
 ジャンルは様々だった。文学に哲学、歴史に宗教学、そして自伝。それから仕事関係の本も (つまり、コーヒーに関する本だ) 。
 雨の中、家の中で一人で本を読んでいると、世界にたった一人取り残されたような気分になった。しかし、その感覚はそれほど悪いものではなかった。
 本を読むことにくたびれると、やはり窓の外の雨降りを見た。窓の外を伝ってゆく雨粒と、屋根から落ちていくそれを眺めた。
 そして雨が屋根に当たる、バタバタという音と、雨樋から流れ落ちる雨水の音を聴いた。
 時々は、叔父の店にでかけて、そこで本を読んだ。雨で客足が少なく、叔父も暇そうだった。グラスを全て磨き上げてしまうと、叔父は新聞を読んだり、あるいは文庫本を開いていた。

 ときどき、自室やキッチン・テーブル、あるいは叔父の店で、ノートに絵を描いた。コクヨのノートにだった。
 そのとき、そのとき思いついたことを絵にしていく。取り留めもなく。
 そうしているうちに、自分にとって絵を描くこととは、とても大事なことなんじゃないか、と思えてきた。俺にとって絵を描くこととは、「生きる」ということなんじゃないのか?と。呼吸をすることみたいなものなんじゃないのか……。
 そしてそれが、自分の人生から虚しさを消すための唯一の方法なのでは、と思えてきた。
 そして、あらゆる「しがらみ」から、解放されるための。
 叔父がある日言っていた「自分自身になれる」という言葉、そして北村がいつか言っていた「自己実現」という言葉が、俺の頭の中で、甦ってきた。そしてそれが、しばらくのあいだリフレインしていた。



 雨が上がって、しばらくしたころ、北村から俺のスマートフォンに、メッセージが来た。そろそろ俺からも、連絡を入れようかと思っていたので、丁度よかった。
 「今晩、会わないか?」とのことだった。
 俺は家を出て、叔父から借りた自転車に跨った。
 ペダルを踏み込んだ。長い雨の後だからか、夏の空気のなかに、少し秋の匂いが感じられた。もう、夏が終わるのだ。



 「やっ」北村は、自転車でやってきた俺のほうを向いて、微笑んだ。
 北村は、鴨川に架かる橋の真ん中辺りに一人立っていた。その日は、黒のポロシャツに青いジーンズという姿だった。
 「それは?」北村が、俺の乗る自転車のカゴのなかにあるコンビニの袋を見やった。
 「ツマミと酒」と俺は当たり前のように言った。
 「未成年だ」北村は悪戯っぽく笑った。
 「ちょっとくらいならいいだろ」と俺は言って、自転車から降りた。

 俺たちは、鴨川の芝生の上に座り、お互いチューハイのプルリングを空けた。
 小気味いい音が、夜の静寂のなかに響き渡った。
 「規則というのは、あくまで基準だ。絶対的なものじゃない」と北村は言って、缶に口をつけた。
 「例えば、道路標識。40キロ以内という標識があるけど、それにキッチリと従って走っているのはむしろマイノリティだ。だからといって、その規則が機能していないわけじゃない。その規則がなければ、どの道もアウトバーンみたいになってしまうだろう。『40キロ以内』という規則があるから、彼らが飛ばすといっても、せいぜい50キロや60キロ程度で留まる」
 「絶好調だな」俺は嘆息して、チューハイを飲んだ。その相変わらずさに、どこか安心している自分がいた。
 「お前、そんなんで、よく学校でハブられないよな」俺は感心して言った。俺が北村だったら、確実にクラスで袋叩きに遭っているだろう。
 「猫を被ってるからね」と北村。「つまりペルソナを被ってる。適応。社会化だ」
 これでも中学のときは不登校だったんだけどね、と北村はまたチューハイに口をつけた。「学んだんだよ。痛い思いをしてね」
 「実際の自分を曝け出すのは、信用できる人間の前でだけだ」と北村は続けた。
 「俺は、そのうちの一人か?」と俺。
 「そういうことだね」と北村。
 「それは光栄だけど——」俺は冗談めかして言った。「その基準って何だ?」
 「直感と経験」と彼は答えた。
 経験ねぇ、と俺はチューハイを飲み干した。こいつ、歳をごまかしてるんじゃないか?
 「それに君はここの住人ではないからね。多くの大学生たちや旅行者たちと同じように」と北村は続けた。「ときどき、彼らのことが羨ましくなることがある。遠い空を飛ぶ、渡り鳥みたいでね」
 「それはわからなくもない」と俺は答えた。
 俺が、京都駅近くを往来する彼らを見る目と、北村が彼らを見る目は、きっと同じなのだろう。



 「君は死にたくなったことはないか?」彼が不意に言った。
 「はぁ?」と俺は、北村のほうを見て言った。
 「自殺したくなったことだ」
 「ねぇよ」俺は笑って答えた。「考えたこともない。俺はそれほど頭がよくないんだ」考え過ぎて発狂した、どこかの哲学者みたいには。
 「頭がいいかどうかは知らないけれど——」と北村が言った。「僕にはあるんだ」
 「酔ってるな」俺は新しいチューハイのプルリングを開けた。
 「何度も試したんだ」と彼は続けた。「『自殺マニュアル』を買ってきて。首吊りから、飛び込み、飛び降りまでね」
 「だけど、勇気がなかった」北村は続けた。
 「そういうのは勇気じゃない」俺は少し怒りを覚えつつも言った。「馬鹿って言うんだ」
 「そうかもしれない」彼は微笑した。いくぶん自嘲気味に。
 親が悲しむとは——、と俺は言いかけて、口をつぐんだ。俺の親父の顔が脳裏に浮かんできたからだ。
 それにお袋はもう、この世にはいない。そして俺は、あの世の存在なんて信じてなんかいない。
 「そのとき、僕はわかったんだよ。自分は生きるしかないんだ、ってね」と北村は言った。
 俺は黙って、その話を聞いていた。アルコールが回って、いくぶんぼんやりとした頭で。
 「死ぬことができないのなら生きるしかない」と北村は続けた。「当たり前の話なんだけどね」
 「エリック・ホッファーという哲学者が、若いころに自殺を図った」と彼は言った。「毒を仰いでね。だけど、死ぬことはできなかった。吐いてしまってね。そして、『一本の、曲がりくねった道が頭に浮かんだ』らしい。『どこへ行くのか、何をもたらすのかもわからない、曲がりくねった終わりのない道』が——」
 俺は黙っていた。
 「そして僕の頭にも、それが浮かんだんだよ」と北村は続けた。「その、『一本の、曲がりくねった道』がね」
 「そのときに小説を書こうと思い立ったんだ」と彼は言った。
 「どうして?」と俺は尋ねた。
 「死ぬことができないのなら生きるしかない。生きるしかないのなら、なるべく意義のある人生を送りたい。僕にとっての『それ』は、小説を書くことだったんだよ」
 「『意義』なんて言葉を使ったけど、実はそんな高尚なものじゃない」と北村。「ただ、小説を書いていると、なぜか自分の人生から虚しさが消えるんだ。シモーヌ・ヴェイユという哲学者が、著書のなかで『重力』という概念を——それはもちろん、比喩だろうけど——用いているけれど、彼女の言葉を借りるなら、小説を書くことで、僕は重力を感じずにいられるんだ」
 「自己実現か」と俺は言った。
 「その通りだ」と彼は答えた。「自分自身のネイチャーを見つけ、その可能性を開拓する。そして、それに情熱をぶつける」

 明るい月が、鴨川の水面を照らしていて、キラキラと輝かせていた。そして、俺たちの影を芝生の上に長く落とさせていた。
 対岸には、町の明かりと街灯が、ポツリポツリと見えた。遠くのほうからは風の音が、遠い海鳴りのように聞こえていた。そして車のエンジン音や、犬の鳴き声が、その中に混じっていた。
 「俺も何かやるかな」俺は小さく呟いた。
 「何をやるんだ?」北村がこちらに顔を向けた。
 「秘密だ」俺は二杯目のチューハイを仰いで、一気に飲み干した。
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