19歳の未来なき幽霊と
文字数 3,696文字
ぐらっと頭が揺れるような、強烈な線香の匂いに包まれていた。
実際に、人通りの少ない脇道の、道路の真ん中で、
俺、霧切ちづるは、何かに突き動かされるように、頭と身体を大きく揺らし、寺院墓地の門を見上げた。
門から横へ続く、塀から伸びる大きな木々の間と、葉と枝の隙間から、
太陽の光が、光の線のようなものが、俺に向かって伸びている、気がした。
何か不思議な感覚だ。錯覚だろうか。
線香の匂いは、その扉が開ききった門の奥の方からしていた。
強烈な線香の匂いが、門を超え、道路まで届き、あたり一帯を呑み込んでいる。
すべて錯覚なのだろうか。
ハッとして、
俺は左手首の内側を、自分の鼻に押し付けて、その匂いを嗅いだ。
そこにつけた香水の匂いを確認するために。
女物の、華やかな香水の匂い。線香の匂いを打ち消すほどの、毒のような強い匂いだ。
だが少し腕を離せば、また強烈な線香の匂いが、俺の鼻腔をくすぐってくる。
俺は、腕を近づけては離す、
近づけては離す……
近づけては、離す……
その動作を、数回繰り返した。
ものの十秒ほどのことだったと思う。
その間に二人くらいが脇道から繋がる大通りを通り過ぎていった気がした。
腕を近づけては離す、という動作を繰り返しているうちに、だんだんと二つの匂いは混じりあったのか、ただの錯覚なのか、でも俺は、別の匂いがするような気がしてきていた。
俺はその匂いが、とても気に入った。
俺は、そろそろ行かなくてはいけないと思えて、行くべき方向へ、一歩踏み出した。
その時、
『こんにちは』
と背中から、すぐ近くから、少し高い男のような声がしたけれど、
俺は、後ろを振り向くことなくそのまま歩き出した。
季節は九月。真夏は過ぎたものの、よく晴れて、じわじわと暑さを感じる、昼下がり。
『えーー!?スルーですか?さすがに傷つくんすけど俺ぇ〜!』
と言って、そのナニカは、俺の前にスッと立った。
いや、立ってはいなかった、その足は地面についていなかったからだ。
俺はそれを避けて、なおも平然と歩いた。
『あ、やっぱり!お兄さん、俺のこと見えてるでしょ?今明らかに俺を避けたし!それにさっき、塀に座ってた俺と、目があったもんね?』
俺は《あぁ、見えてる》と、返した。
『まじか!やっぱね!よっしゃぁ!!』
と、ナニカは、歓喜の声を上げた。
『お兄さん名前は?なんていうの?
俺はねぇ、山田達矢!誕生日は10月16日、命日は9月24日、つまり三日前!
19歳でこの世を去ることになったんすよぉ!』
と、少し演技がかった泣く仕草をしながら、山田達矢と名乗るナニカは言った。
《俺は……霧切だ。年齢は24》と、返した。
『霧切さん!24歳かぁ、じゃぁやっぱりお兄さんだねぇ!』と、山田達矢は少年のような笑みを浮かべた。
山田達矢は俗に言う、幽霊というものらしい。
彼は最初に、なぜ俺が自分を見えるのか、自分を見て驚かないのか、と俺に尋ねた。
俺は、見える理由はわからないと答えたが、
驚かなかった理由は答えなかった。
えー、なんですかぁ〜?と、山田達矢は、ずいっと俺の顔を覗き込むように見たが、
《別になんだってほどの理由なんかないよ》と、俺が顔を背けて歩き出したからか、それ以上は追求してこなかった。
俺たちは俺の行くべき方向へ歩いている。
正確には、彼は俺の左肩あたりを浮いている。頭の後ろで手を組み、足はあぐらをかいて、何もないはずの空中に寝そべるようにして浮いていて、俺の歩く速度に合わせてついてくる。
山田達矢は、べらべらと自分のことを話していた。家族のこと、学校のこと、生前のこと、好きなもののことを話していた。
でも時々、俺に話をふって、俺の好きなことや意見を聞いてくる。
俺は曖昧に返事をしていた。
俺は彼の話を、正直、ほとんど聞いていなかった。
俺は話を聞かないかわりに、さりげなく、気づかれないように、彼を観察していた。
肌は色白、目は二重ようだが、目の下は少しくぼんでいて、青黒いクマができている。
それに対して、髪は栗色の明るい茶髪。癖っ毛かパーマかわからないがくるくるしている。
服は白装束などではなく、彼の私服だろうグレーの長袖パーカーで、胸のあたりに大きく緋色でスポーツブランドのロゴが入っている。
普通のよくあるパーカーだが、下に履いている細身の白のパンツと、パーカーと同じスポーツブランドの緋色の運動靴が、
よく知らないこの山田達矢という幽霊に、
とてもよく似合っていると、俺は思った。
ふと、前から歩いて来た男の目線が俺の左肩を見た気がした。
50代か60代くらいの、少し髪が薄い、青いチェックのシャツを来た男だったが、
俺は瞬間的に、その男が寺院墓地の、寺の住職だと思った。
なぜかそう思った。
男はちらっと彼を見ただけで、そのまま俺の横を通り過ぎて行った。
『ねぇ霧切さん、聞いてるー?』
男には全く気づかず、不思議そうな顔で俺の顔を除く山田達矢。
《ぼーっとしてた》と返すと、
『やれやれ、ぼーっとしてて赤信号渡ったりしないでよねぇ』と、山田達矢はいたずらっぽく笑った。
『お兄さんは今24歳だよねぇ、仕事は何してるの?』
先程までしていた山田達矢の自分語りが、俺の話題に変わった。
俺は下を向いた。
《俺は……仕事をしていない。新卒で就職して、二ヶ月でやめて、それからたまに日雇いのバイトをしている》と山田達矢に伝えた。
『あー、それは大変だねぇ』と軽い同情の声が返ってきた。俺は正直な彼の反応に苦笑した。
《入社当時は、人の役に立つアプリを開発するぞって意気込んでいた気がするけれど、いまはそんな気も起きない。
情熱とか野望を持たずに生きているなんて、そんなのは人の生き方じゃない、と思っていたのに、いまは一日中、部屋で動画サイトを見て、漫画を読んで、ゴロゴロするだけのスローライフも満更じゃないと思ってる》
俺の心は、19歳の未来ない少年相手に、ひどくどうしようもない自分をさらけ出す。
《俺は本当にダメな人間なんだと、最近よく思うんだ。今月なって一回もバイトに行ってない。ずっと部屋に引きこもっていて、一緒に住んでいるはずの家族とさえ話していない。生きてる価値もない人間かもしれないって思えてくるんだ……》
俺は幽霊相手に、なんて酷いことを考えているんだと思った。やはり俺は酷い人間だ。
『そんなの嘘ですよぉ!』
立ち止まってしまった俺に、山田達矢が叫んだ。
『ほんとの霧切さんは、もっとちゃんと情熱とか野望を持った人だと俺は思います!
それに霧切さん、いま俺と話してるじゃないですかぁ!霧切さんは、何かきっかけさえあればきっと変われる人だと思います!』
彼は俺を励ましてくれていた。
その表現はさっきまでと違い、俺を励まそうと真剣な表情をしていた。
未来のない19歳の幽霊が、生きることを諦めている24歳の俺を励まじてくれている。
『霧切さん、俺、あんたのことを助けたいです!俺もう死んじゃったけどぉ、霧切さんのためになんか出来ること見つけたいです!』
山田達矢は、潤んだ瞳を俺に向けて、手を伸ばした。
口に溜まった唾を飲み込んだ俺は、彼の手に自分の手を伸ばした。
「君は生前、きっと、人に好かれる人だったんだろうね」
俺は初めて山田達矢に言った。心ではなく、言葉で。
山田達矢が、一瞬目を見開いて、そして笑った。
カーン
指が、彼の手に触れる寸前、
もう片方の手が、鉄塀に触れた。
その瞬間、山田達矢の姿が、ぱっと消えた。
彼の手を掴みかけた俺の手は、何も掴めずに拳を握った。
そして、もう片方の手はしっかりと、神社の鉄塀を握っていた。
ものの十秒ほどのことだったと思う。
その間に二人くらいが脇道から繋がる大通りを通り過ぎていった気がした。
俺は力んでいた両の手の力を緩めた。
鉄塀を離しても、もうそこに山田達矢の姿は現れなかった。
「俺は嘘つきだな……」
霧切ちづるは、誰にいうでもなく小さく呟いた。
確証があったわけではなかった。できれば消えないで欲しかった。それでも山田達矢は消えた。神社の力で祓われてしまった。
山田達矢は幽霊だった。
だから祓われてしまった、のかもしれない。
だがあるいは、
山田達矢は悪霊だった。
だから祓われてしまった、のかもしれない。
彼は嘘をついていて、俺を助けるふりをして、俺に憑依しようとしていたかもしれない。
あるいは俺が死ぬようにしむけようとしていたかもしれない。
もう消えてしまった山田達矢の真意は、俺にはわからない。
けれど、俺にとっての真実は、
俺は線香の匂いがする19歳の幽霊を成仏させたかったということだ。
実際に、人通りの少ない脇道の、道路の真ん中で、
俺、霧切ちづるは、何かに突き動かされるように、頭と身体を大きく揺らし、寺院墓地の門を見上げた。
門から横へ続く、塀から伸びる大きな木々の間と、葉と枝の隙間から、
太陽の光が、光の線のようなものが、俺に向かって伸びている、気がした。
何か不思議な感覚だ。錯覚だろうか。
線香の匂いは、その扉が開ききった門の奥の方からしていた。
強烈な線香の匂いが、門を超え、道路まで届き、あたり一帯を呑み込んでいる。
すべて錯覚なのだろうか。
ハッとして、
俺は左手首の内側を、自分の鼻に押し付けて、その匂いを嗅いだ。
そこにつけた香水の匂いを確認するために。
女物の、華やかな香水の匂い。線香の匂いを打ち消すほどの、毒のような強い匂いだ。
だが少し腕を離せば、また強烈な線香の匂いが、俺の鼻腔をくすぐってくる。
俺は、腕を近づけては離す、
近づけては離す……
近づけては、離す……
その動作を、数回繰り返した。
ものの十秒ほどのことだったと思う。
その間に二人くらいが脇道から繋がる大通りを通り過ぎていった気がした。
腕を近づけては離す、という動作を繰り返しているうちに、だんだんと二つの匂いは混じりあったのか、ただの錯覚なのか、でも俺は、別の匂いがするような気がしてきていた。
俺はその匂いが、とても気に入った。
俺は、そろそろ行かなくてはいけないと思えて、行くべき方向へ、一歩踏み出した。
その時、
『こんにちは』
と背中から、すぐ近くから、少し高い男のような声がしたけれど、
俺は、後ろを振り向くことなくそのまま歩き出した。
季節は九月。真夏は過ぎたものの、よく晴れて、じわじわと暑さを感じる、昼下がり。
『えーー!?スルーですか?さすがに傷つくんすけど俺ぇ〜!』
と言って、そのナニカは、俺の前にスッと立った。
いや、立ってはいなかった、その足は地面についていなかったからだ。
俺はそれを避けて、なおも平然と歩いた。
『あ、やっぱり!お兄さん、俺のこと見えてるでしょ?今明らかに俺を避けたし!それにさっき、塀に座ってた俺と、目があったもんね?』
俺は《あぁ、見えてる》と、返した。
『まじか!やっぱね!よっしゃぁ!!』
と、ナニカは、歓喜の声を上げた。
『お兄さん名前は?なんていうの?
俺はねぇ、山田達矢!誕生日は10月16日、命日は9月24日、つまり三日前!
19歳でこの世を去ることになったんすよぉ!』
と、少し演技がかった泣く仕草をしながら、山田達矢と名乗るナニカは言った。
《俺は……霧切だ。年齢は24》と、返した。
『霧切さん!24歳かぁ、じゃぁやっぱりお兄さんだねぇ!』と、山田達矢は少年のような笑みを浮かべた。
山田達矢は俗に言う、幽霊というものらしい。
彼は最初に、なぜ俺が自分を見えるのか、自分を見て驚かないのか、と俺に尋ねた。
俺は、見える理由はわからないと答えたが、
驚かなかった理由は答えなかった。
えー、なんですかぁ〜?と、山田達矢は、ずいっと俺の顔を覗き込むように見たが、
《別になんだってほどの理由なんかないよ》と、俺が顔を背けて歩き出したからか、それ以上は追求してこなかった。
俺たちは俺の行くべき方向へ歩いている。
正確には、彼は俺の左肩あたりを浮いている。頭の後ろで手を組み、足はあぐらをかいて、何もないはずの空中に寝そべるようにして浮いていて、俺の歩く速度に合わせてついてくる。
山田達矢は、べらべらと自分のことを話していた。家族のこと、学校のこと、生前のこと、好きなもののことを話していた。
でも時々、俺に話をふって、俺の好きなことや意見を聞いてくる。
俺は曖昧に返事をしていた。
俺は彼の話を、正直、ほとんど聞いていなかった。
俺は話を聞かないかわりに、さりげなく、気づかれないように、彼を観察していた。
肌は色白、目は二重ようだが、目の下は少しくぼんでいて、青黒いクマができている。
それに対して、髪は栗色の明るい茶髪。癖っ毛かパーマかわからないがくるくるしている。
服は白装束などではなく、彼の私服だろうグレーの長袖パーカーで、胸のあたりに大きく緋色でスポーツブランドのロゴが入っている。
普通のよくあるパーカーだが、下に履いている細身の白のパンツと、パーカーと同じスポーツブランドの緋色の運動靴が、
よく知らないこの山田達矢という幽霊に、
とてもよく似合っていると、俺は思った。
ふと、前から歩いて来た男の目線が俺の左肩を見た気がした。
50代か60代くらいの、少し髪が薄い、青いチェックのシャツを来た男だったが、
俺は瞬間的に、その男が寺院墓地の、寺の住職だと思った。
なぜかそう思った。
男はちらっと彼を見ただけで、そのまま俺の横を通り過ぎて行った。
『ねぇ霧切さん、聞いてるー?』
男には全く気づかず、不思議そうな顔で俺の顔を除く山田達矢。
《ぼーっとしてた》と返すと、
『やれやれ、ぼーっとしてて赤信号渡ったりしないでよねぇ』と、山田達矢はいたずらっぽく笑った。
『お兄さんは今24歳だよねぇ、仕事は何してるの?』
先程までしていた山田達矢の自分語りが、俺の話題に変わった。
俺は下を向いた。
《俺は……仕事をしていない。新卒で就職して、二ヶ月でやめて、それからたまに日雇いのバイトをしている》と山田達矢に伝えた。
『あー、それは大変だねぇ』と軽い同情の声が返ってきた。俺は正直な彼の反応に苦笑した。
《入社当時は、人の役に立つアプリを開発するぞって意気込んでいた気がするけれど、いまはそんな気も起きない。
情熱とか野望を持たずに生きているなんて、そんなのは人の生き方じゃない、と思っていたのに、いまは一日中、部屋で動画サイトを見て、漫画を読んで、ゴロゴロするだけのスローライフも満更じゃないと思ってる》
俺の心は、19歳の未来ない少年相手に、ひどくどうしようもない自分をさらけ出す。
《俺は本当にダメな人間なんだと、最近よく思うんだ。今月なって一回もバイトに行ってない。ずっと部屋に引きこもっていて、一緒に住んでいるはずの家族とさえ話していない。生きてる価値もない人間かもしれないって思えてくるんだ……》
俺は幽霊相手に、なんて酷いことを考えているんだと思った。やはり俺は酷い人間だ。
『そんなの嘘ですよぉ!』
立ち止まってしまった俺に、山田達矢が叫んだ。
『ほんとの霧切さんは、もっとちゃんと情熱とか野望を持った人だと俺は思います!
それに霧切さん、いま俺と話してるじゃないですかぁ!霧切さんは、何かきっかけさえあればきっと変われる人だと思います!』
彼は俺を励ましてくれていた。
その表現はさっきまでと違い、俺を励まそうと真剣な表情をしていた。
未来のない19歳の幽霊が、生きることを諦めている24歳の俺を励まじてくれている。
『霧切さん、俺、あんたのことを助けたいです!俺もう死んじゃったけどぉ、霧切さんのためになんか出来ること見つけたいです!』
山田達矢は、潤んだ瞳を俺に向けて、手を伸ばした。
口に溜まった唾を飲み込んだ俺は、彼の手に自分の手を伸ばした。
「君は生前、きっと、人に好かれる人だったんだろうね」
俺は初めて山田達矢に言った。心ではなく、言葉で。
山田達矢が、一瞬目を見開いて、そして笑った。
カーン
指が、彼の手に触れる寸前、
もう片方の手が、鉄塀に触れた。
その瞬間、山田達矢の姿が、ぱっと消えた。
彼の手を掴みかけた俺の手は、何も掴めずに拳を握った。
そして、もう片方の手はしっかりと、神社の鉄塀を握っていた。
ものの十秒ほどのことだったと思う。
その間に二人くらいが脇道から繋がる大通りを通り過ぎていった気がした。
俺は力んでいた両の手の力を緩めた。
鉄塀を離しても、もうそこに山田達矢の姿は現れなかった。
「俺は嘘つきだな……」
霧切ちづるは、誰にいうでもなく小さく呟いた。
確証があったわけではなかった。できれば消えないで欲しかった。それでも山田達矢は消えた。神社の力で祓われてしまった。
山田達矢は幽霊だった。
だから祓われてしまった、のかもしれない。
だがあるいは、
山田達矢は悪霊だった。
だから祓われてしまった、のかもしれない。
彼は嘘をついていて、俺を助けるふりをして、俺に憑依しようとしていたかもしれない。
あるいは俺が死ぬようにしむけようとしていたかもしれない。
もう消えてしまった山田達矢の真意は、俺にはわからない。
けれど、俺にとっての真実は、
俺は線香の匂いがする19歳の幽霊を成仏させたかったということだ。