第1話

文字数 2,035文字

 夕雨(せきう)にひきずりこまれ、夜燭に照らされた夢は、酷く恐ろしかった。
 夜ごと繰り返し見る夢である。
 頭上の月は日を追うごとに欠けていき、それが今日、とうとう光が消え、薄らと白い枠だけが残った。
 浮煙を掴もうとして、静けさの渡るその束の間、黒く融けた草叢から面妖な獣が飛びかかる。
 牛を思わせる巨大な身体に、馬の尾を持つ。
 その(あやかし)精精(せいせい)と鳴く。
 咄嗟に槍を構え、風に踊る花びらのように舞いあがり、ひらりと獣を追い詰めた。あと一息で仕留められると柄を握り直した直後、風折れた枝のように折れ曲がった腕を見て、たまらず絶叫した。
 夜来の雨が残る明け方、垂れ込める空に、闇から抜け出したかのように黒い鳥の声に目が覚める。
 仄暗い居室に消え残った燭の煙が、心細げに燻っていた。土壁の冷たさが、悪夢の感触を生々しく残す。
 嫌に現実味を帯びた痛みである。鼓動は荒々しく弾み、今も両腕が痺れているよう。
「お嬢さま……。また、夢を見られたんですか?」
 盥を運んできた下女の顔は、まるで気味が悪いとでも言いたげである。実際、彼女に仕える下女たちは、毎晩主を悩ませる悪夢に不吉さを感じていた。
 三日と続くだけならまだよかった。それが五日、十日、さらにはひと月経ってもおさまらないと聞けば、誰も娘の傍に近づきたがらない。
「腕を、折られるの。それが、夢なのにとても痛いのよ」
 鈴蘭が揺れるような愛らしい声色である。紅を重ね、桜花が匂う唇は、度重なる悪夢にうなされて罅割れていた。痛々しく語る少女こそが禍を練り上げるように思われて、下女は恐ろしく感じられた。
 視線を落とし、しばらく考え抜いた末、聞いた話ですが、と切り出す。
「西の坊に、夢を解くという女がいるそうです。一度、見ていただいてはいかがです」
 牀を下りる娘の髪は豊かに流れ、まるで雲のように美しかった。碧紗は華やかな刺繍を施して、肩にかけた薄絹を風に靡かせては、まるで蝶が化けたよう。
 幽探(ゆうたん)(さぐ)る人あれば、その名は牡丹(ぼたん)
 西の坊とはいうが、ほとんど荒れ果てた都の外れ。彷徨う牡丹はまさに幽玄とした山林を探しあるくよう。
 足を止める下女に促されて注意を向ければ、その築地は徒草に覆われて崩れかけていた。朽ちた門からあふれ出す香煙がゆるやかな渦を描きながら牡丹の足に絡みついた。導かれるように中庭を進むと、淡い花の色が靡く、一面の梅の木である。まるで霞がのぼるような甘い匂いを放っている。
 曙色の枝の下、細くうねる小径を厳かに辿っていくと、下女のさす翳の影から堂が見えてきた。
 水陰を宿すどこか寂しげな堂である。その透かし細工の戸の中に、白露のような女が目を伏せて、物音に耳を傾けていた。
 杖を握る、盲目の女。
「どうぞ中へ。お入りください」
 口ぶりは夢幻を語るように儚い。きめ細やかな肌は猛然と匂い立つ白百合のようで、その手弱女ぶりは宮中の姫にも勝る気品を纏っている。
「どうぞ、お入りください」
 二度、すすめる声は力強い。
 牡丹は唾を飲み、煙の満ちる堂へと踏み込んだ。楊に腰掛ける女の他に、部屋の中は荒ぶる獣の気配がたっぷりと覆っている。頭上を掠める鼻息は荒々しく、背後に響くうなり声は機嫌が悪そうである。
 針に刺されているような痛みを感じながら胸の前で手を組み、下女と身体を寄せ合った。
「ひと月も同じ夢を繰り返し見ます。一日ずつ月がかけていき、今日、とうとう魄だけとなりました」
 告げる牡丹に、女はしとやかな唇を開く。
「精精と、鳴く獣がいませんでしたか?」
「浮煙を捕まえようとすると、その獣に腕を折られてしまうのです」
 女はゆっくりと頷いた。玉のような指は僅かに開いた扉を示し、隣の部屋にいるよう促した。
「次に来るお客が、あなたの欲しい夢をもっています。それを、狩るといい」
 牡丹は目を見開いた。
 大人しそうな顔をして、なんて乱暴なことをいう人。
「狩る、とは、どういうことです」
「精精は何も悪いことはしません。ただ、夢を渡り歩くだけ……」
 さあ、と促され、牡丹はたじろぐ。下女と顔を見合わせた。
 しかしこのまま帰っては、再び夢に苦しめられるだけ。意を決して小さな部屋の中へ入っていく。楊に腰掛け、落ち着きなく来客をまったが、そのうち妙なる香りに包まれて、微睡みに落ちかけた。その狭間に精精の影を見る。
 はっとして飛び上がり、慌てて追いかけていくうちに見覚えのある場所に出た。
 生い茂る草の中に横たわるのは娘。
 振り返ると、遠くぼやけた堂の明かりがほのかに浮かび上がっていた。その小さな丸窓には夢解きの女と血まみれの少女の姿が見える。彼女は何度も死ぬ夢を見ていると訴えていた。
 ――狩れ!
 厳めしい声に弾かれて、牡丹は駆け出した。槍を振るい、倒れる少女の身体に突き刺す。
「浮煙は魂です。死人が再び蘇ることは許されない。精精はあなたをあの世に引き留めようとしているだけ」
 女の冷たい声を耳にして、牡丹はこの場所で、野盗に襲われて力尽きたことを思い出した。
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