サラバイロ

文字数 4,118文字

 初めてペディキュアというものに手を出してみた。実際に色を塗っているのは足だけど。
 別に急に色気づいたわけじゃない。朝も昼も夜もバレーボールを練習していたら、足の親指に血豆ができたのだ。がっつり真っ黒な爪を見ると、さすがにげんなりする。
 げんなりするまえに、ちょっとは自制しろよ。そもそもなんでそんなにバレーボールを練習するんだよと聞かれれば、楽しいからとしか答えようがない。わたしはバレーボール部ではない。うちの学校にバレーボール部はない。バレーボール部どころか、バスケット部、テニス部、野球部、サッカー部といった世の中でまあまあメインを張っているような部活動は一切ない。
 顧問の先生たちの負担が大きすぎるからだ。全国を目指してる学校はもちろん、目指してなくても高校生の熱量に浮かされて、練習時間はどんどん延びていく。すると比例式のように、先生たちの残業時間もどんどん延びて、明日の授業に差し支えが出る。そんな状況に学校も教育委員会も、禁じられているかのように配慮などしない。
 先生たちがやつれていったり、屋上から飛んだりしては困るので、うちの学校ではそういう部活動を一斉に廃部にした。代わりに残ったのは、生徒たちが自主的に進められる文化系の部活動か、ペタンク部くらいだった。ペタンクだけは生きのこった。もともと貴族のスポーツらしいし、わあわあと白熱するタイプの競技ではないから、そこまで帰りは遅くならないだろうという理由だった。大人たちの目論見はめずらしく的中した。
 わたしは決して体育会系ではないのだけど、お遊びでやる程度にはスポーツが好きで、ただ楽しいだけのスポーツならもっと好きだった。もともと勝ち負けに執着するのは好きじゃない。皆、目の色を変えるのが怖いし、気合い出せよなんていう根性論は心底苦手だった。
 純粋に余暇をつぶすだけのバレーボールは楽しい。ルールもけっこういい加減で、敵味方もあいまい。どれだけボールを落とさずにいられるかという耐久戦になると、その場にいる全員が運命共同体になる。つないでいく。数字を重ねていく。それが楽しい。それだけで楽しい。
 で、気がついたら血豆ができていた。するとアオイが、
「赤く塗りつぶせ!」
 と、清楚な顔立ちに似合わぬ台詞とともに真っ赤なペディキュアをくれた。目立たないようにするには、どぎついくらいのビビッドな色がいいらしい。
 閉めきった部屋で爪を塗っていると、どんどん独特のにおいがこもっていった。アオイはこのにおいがクセになるらしく、たまに蓋を開けて鼻をくんかくんかさせている。彼女の将来が少し心配になる。
 わたしは片足でけんけんしながら、窓を開けた。瞬間、ざあっとざらついた風が吹きこんでくる。遠く向こうのほうで、白い光が爆発する。
「カラノ星人だ!」
 誰かが叫んでいるのが聞こえた。ええ、またか。わたしはまぶしさに目を閉じながらうんざりした。最近、あいつら出しゃばりすぎ。カラノ星人が声明を発表するたび、見せしめに微生物をばらまくたび、明日のワイドショーがそれ一色になる。
 おかげで推しのデビュー曲発売も話題にならなかった。はっきり言って、マジでウザい。



 真っ白な発光は、かなり長い時間続いた。目を閉じていても、まぶたの裏側に強烈な光が焼きつく。うかつに目を開けたりしたら、視力を奪われてしまいそうなほど暴力的な白だった。
 やがてまぶたの裏側が、いつもどおりなにかの残像みたいな影だけになって、ようやくわたしはおそるおそる目を開く。まだ視界がかすむ。ぼんやりとにじむ世界は、白いベールに覆われているようだった。
 窓の外の夜空も、壁に貼ってある推しの笑顔も、真っ赤に塗りつぶした足の爪も、全部真っ白に見えた。
 何度もまばたきを繰りかえす。手探りでポーチの中の目薬を取りだして差してみる。全部真っ白のまま。一色も戻らない。心臓の音がだんだん大きく速くなっていく。呼吸が浅くなる。嫌な汗をかく。なにこれ、と不安が暴れだしそうになったとき「大丈夫?」と部屋のドアが開いた。
 そこに立っていた母親が全身真っ白で、おそらく流しているだろう涙も真っ白だと気づいたとき、わたしは本気で泣いた。ペディキュアの瓶が倒れた。中からこぼれた液体も真っ白で、すぐにカーペットと同化していく。



『カラノ星人が投下した物体は、生物非生物問わず、すべての色を奪うものだということだけが判明しています。したがって今、この国は真っ白な状態です。おそらくは近隣諸国も同じ状態だと思われます。無色になる以外は、健康に害を及ぼす影響は今のところ確認されておりません。皆さま、落ちついて、普段どおりの行動を心がけてください。繰りかえします。カラノ星人が投下した――』



「普段どおりとか無理」
 お上が言うなら休校にはならない。けれど、ならば自衛しかないと各家庭の判断で欠席をする子が大半だった。わたしは部屋にこもっているほうが頭がおかしくなりそうなので、親の制止を振りきって登校してみた。実際はこもっていたほうがよかった。たどりつくまでの通学路で、もう頭がおかしくなったような気がした。
 輪郭は間違いなくいつもの道なのに、色の抜けた景色はわたしを混乱させる。方角はわかっているのに迷子になる。意味もなく電柱や家々の壁に手をついて、震える体を引きずって進んだ。何度も吐き気がこみあげてくる。
 必死にたどりついた学校さえも知らん顔で、こんなに頑張ったのにと勝手に裏切られた気持ちになる。やばい。来たってことは、同じ思いをして帰らなきゃいけないんだ。
 復路の存在に気づいて本気で号泣しそうになったところを、アオイが「よっ」と声をかけてくれたことでこらえることができた。アオイももちろん真っ白だった。でも校門の向こう側で仁王立ちしているアオイは、いつものアオイだった。
 わたしは結局泣いた。アオイは乱暴にわたしの頭をなでてくれた。そうすると魔法にかけられたみたいに、脳の奥のほう、鼻の付け根あたり、腹の底で固まっていたなにかがするするとほどけだして、涙となって溶けていく。
 アオイは泣きじゃくるわたしの背中を押しながら、体育館へと連れていってくれた。ワックスで光っていた床も白いし、厳かで深い紅色みたいな緞帳も白い。毎日毎日なじんでいたはずの体育館さえ、どこかよそよそしい。わたしはいくらでも泣ける。アオイは淡々としている。
「びっくりしたよね」
 アオイは不意に言った。言葉とは裏腹に全然びっくりしてなさそうで、完全にこの状況を受けいれているような口ぶりだった。広い体育館の中、わたしは隅っこでうずくまる。まぶたの裏側にある影だけが、唯一残された色だ。
「学校来る途中さ、仕事とか行かなきゃいけない人たちとすれ違ったんだけど。あれ、いっつも同じ人に見えるんだよね。皆、似たようなスーツ着て、似たようなメガネとかかけてさ。でも、不思議。今日は一人一人が違って見えた」
 アオイの言葉が影を点々と落としていく。シューズのキュッキュッという音で、アオイが今どこらへんを歩いているか想像する。
「なんで? むしろ真っ白で皆、同じじゃん」
「だよね。本当、不思議」
 アオイが低く笑った。めずらしい。彼女はクラスでもクールビューティだの冷血魔女だの好き放題言われていて、あまり感情を表に出さない。
「ペディキュア、似合ってるね」
 わたしは顔を上げた。目の前は真っ白で、脳を揺さぶられたように一瞬めまいがした。アオイは真っ直ぐにわたしを見ている。右手にはバレーボールを持っている。
「似合ってるもなにも、わかんないじゃん」
「わかるよ」
「だって、色なんかないじゃん」
「似合ってるよ」
 あまりに自信満々に言ってのけるから、からかわれているだけかもしれないのに、わたしの顔に熱が集中した。頬が染まっているのを気づかれないのだけはラッキーだった。目を細めたアオイは、それさえもお見通しなのかもしれないけれど。
「ほら」
 アオイは持っていたバレーボールを軽くアタックしてくる。とっさにつくった体勢で、レシーブをする。身についた習慣って恐ろしい。弱々しく返ったボールを、アオイは満足げにキャッチした。
「バレーやろうよ」
「二人で?」
「いつも人数もルールも適当でしょ」
 アオイがサーブする。わたしはそれをトスして高く上げる。アオイもトスをする。またトスをする。高く高く上がるボールは白い。二人きりのバレーボールは安定して、いつまでも続きそうな気がした。
「ねえ、これ何回目標?」
 わたしが問うと「要る? 目標とか」としらけた答えが返ってくる。
「要るよ! そのほうが燃える!」
「たーんじゅん」
「はああああ?」
「うそうそ。じゃあ百?」
「オッケー! あと、なんだ、八十くらい!」
 適当な計算に自分で笑ってしまった。目標の数字があると、簡単にやる気が出てくる。わたしは目の前のことしか追えない。きっと百を越えたとき、また目の前の白さに絶望するんだろうと思う。
 そうしたら、今度は二百を目指す。アオイは付きあってくれるかな?
「三十五!」
「いや、今の三十六でしょ。はい、三十七」
「えー、アオイ、ズルしてない?」
「あんたが雑なだけ」
「三十……八っ!」
「三十九ー」
「ねえ、百いったらなんか変わるかな! よーんじゅう!」
「夢見る少女か。四十一ー」
「いいじゃん。夢くらい見させろ。四十二っ!」
「あんたらしい……四十三。じゃあ、ごほうびあげるよ」
「えっ! ごほうびっ! なになに? と、うわああ、四十四っ! あぶなっ」
「走らせんなよー。四十五っ。ごほうびはー」
「うわっ、ひどっ。短いっつーの! よんじゅう、ろくうう!」
 ボールをかろうじて拾い打ちあげると、目の前にアオイが立っていて、勢いよくその胸に飛びこむかたちになってしまった。
 遠くのほうでバレーボールがドン、と床をつく音が響いた。「中途半端な数だったな」とアオイは耳元で小さくささやいた。
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