第1話

文字数 1,013文字

23時。彼女が悲しい叫び声をはりあげる。小型の雑種犬で16才。両目の視力がほとんどなく、認知症をわずらっている。
 名前はダージョ。イタリア人の彼カルロがつけた。私が彼女に接する時、知らず知らずよく使う言葉「だいじょうぶ?」を耳にしたカルロが、ダージョと呼ぶようになり、名前になったのだ。
(人間だと80歳か…。母さんより年上ね。)
離れた町で一人暮らす母は、夫に先立たれた後の気ままな暮らしを楽しんでいる。
ヒイーン!ワン!
小刻みに首を振るダージョ。青白い白内障の瞳を大きく見開き、襲いかかる認知症の不安な波を泳ぎはじめた。深夜のパニックは、2時間ほど続く。
「大丈夫?」
細い体を抱き上げても、彼女は私の顔を見てくれない。大きな恐怖から逃れたいように、四本の足で虚空を激しくけり続ける。
(何がそんなに怖い?教えて、ダージョ。)
私の心の叫びも、彼女は受け付けない…。
―16才が80才?ぼくのマンマと同じだ!
カルロは、ダージョが暴れてもかまわず抱きしめ、キスの嵐を浴びせかける。彼の明るい声を聞くと、さわやかな風が吹き抜けるけれど、私は、同時にある言葉を思い出す。
 重い病気と認知症で衰弱していたダージョを保護施設へおしつけ、行方をくらました元の飼い主が残した言葉。
―16才まで生きたんだから、もう、いいでしょう…。
(もういい?あなた、自分が80歳になる時、もういいでしょと捨てられていいの?)
顔も知らない人間へ、ふつふつと怒りがこみあげる。今が幸せならいいさと笑うカルロを見習いたいけれど、根暗な私はそうはいかない。
(でも私、母さんがもし認知症になって、深夜に泣き叫んだら…大丈夫?ってやさしく言える?)
 紙おむつをつけたダージョのお尻をなでていると、激しくばたつかせていた手足が少しずつスローになり、青白い瞳も細くなってきた。
 カルロがトイレに立ち、トゥットベーネ?とささやいた。そう、ダージョを迎えてからの3ヶ月、彼の口癖もイタリア語の「大丈夫?」になった。
 トゥットベーネも、日本語の大丈夫と同じで、クエスチョンマークをつけて語尾を上げれば大丈夫?で、下げて言い切れば大丈夫!の意味になる。
カルロの「トゥットベーネ?」と、はげしいパニックの末に到着するダージョの寝顔。その二つが、目の前と未来の暗い沼から、私を救い上げる。
「大丈夫。トゥットベーネ!」
24時50分。天使の笑顔に戻るダージョが、私たちにトゥットベーネをくれる時刻だ。
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