第1話

文字数 1,934文字

 二階のアパートの窓を開けると初夏の朝の熱気を含んだ透明のゼリーのような新鮮な空気が白いカーテンを押しのけてぼくの部屋にぬるっとはいってきた。窓の外の眼下には砂利を敷いただけの駐車場が見えた。かつての小規模な地元のスーパーマケットの跡地が駐車場に変わったのだ。里奈(りな)とその駐車場でバドミントンをやったのはいつだったか。目に暑い光が入ってきた。駐車場を挟んで向こう側に建つ一戸建ての民家が激しい炎を上げて燃えていた。台所のやかんがガスコンロの上でしゅうしゅう音をたてていた。窓を閉めてエアコンのスイッチを入れた。エアコンの冷気とゼリーがせめぎ合いしていたがほどなく冷気が圧勝した。さっきの民家の窓が強烈な朝の日差しを反射し、ぼくのアパートを照らしていた。ガスコンロの火は、ぼくが消しにくるのを待っているようだが、ぼくの代わりに里奈がコンロの火を消しに戻ってくることはないようだ。ぼくの出勤前のルーチンは、窓を開けてよどんだ空気を入れ替えることと、コーヒー豆を挽いて淹れたてを飲むこと。アパートは一人で住むには狭くはないが里奈の気配を常に感じるにはいささか広すぎた。同棲していた彼女の気配は部屋の中のいたるところに残っていた。でも、よどんだ空気はそれを邪魔する。ぼくは新鮮な空気の中で里奈の気配を感じながら淹れたてのコーヒーの香りを楽しむのだ。
 ぼくは荒く挽いた粉を円錐型のコーヒーフィルターの上に乗せてやかんの湯をゆっりと注いだ。コーヒーフィルターの下には里奈とおそろいで買った白いマグカップが芳醇な褐色の液体の落下を待ち受けていた。最初は粉全体を湿らせる。粉が湯を含んでいった。コーヒーの持つ独特の香りが湯に移っていき、その香りは湯気とともに立ち上ってきた。湯を含んだ新鮮な粉はそれに内包する二酸化炭素のガスを放出し、そのガスの力で粉をあたかも東京ドームの屋根のように膨らませた。そのドームはところどころ、泡が噴いていた。ぼくは顔をドームに近づけて香ばしい匂いを嗅いだ。ふと、ドームの下の方に、まるでドームの入り口のようなトンネルの形をした泡の穴があるのを見つけた。ぼくはさらに顔を近づけてそのトンネルの中を覗いた――。

 トンネルの中は豊かな香ばしい香りで満たされていた。円弧状をしたその天井には細かな穴が無数にあり、その穴からは揺らぎながら、やさしい光が細かなシャワーのように降り注いでいた。足下はひらたく、まるでふかふかの絨毯の上に立っているようだった。そして時折天井から滲みおちる褐色のしずくは、その光のシャワーを屈折し、拡散し足下の絨毯に多彩な色彩を与えていた。しかし、トンネルの行き先はすべての光を吸収しているかのような漆黒が続いていた。ぼくはその漆黒に吸い込まれるようにゆっくりと歩き始めた。

浩介(こうすけ)。まだ迷っているの?」 ぼくの背後で里奈の声が聞こえた。
振り返ると大きな目に笑みを浮かべた里奈が地図を持って立っていた。 
「大丈夫だよ。ぼくは迷わないよ」
「でも。はやくしないと。時間がないよ」
里奈の姿が天井から降り注ぐ褐色のしずくに触れて虹色になって拡散した。
ぼくはトンネルの先に進んだ。天井から降り注ぐ光のシャワーは次第に集まり、太い束に
なり、やがて大きな滝に変わり始めた。足下の絨毯が柔らかくなりそして深い沼のように
なっていった。
ぼくは天井を仰ぎ見た。大きく裂けた天井の割れ目から里奈とぼくが顔を近づけて楽しそうに話をしているのが見えた。

 ぼくはマグカップの褐色の液体を口に含んで飲み込んだ。舌の上でざらざらした苦みが残った。ぼくは里奈が置いていった地図を本棚から取り出した。
ぼくは中堅商社でコーヒー豆の買い付けをしていた。コーヒーベルトと呼ばれる赤道を挟んで北緯二十五度と南緯二十五度の間にあるコーヒー栽培に適した国や地域を頻繁に訪れていたのだ。そんな中、南米への駐在の打診があった。現地生産者と協力して農園を運営し、より上質なコーヒーを安く、安定供給することが求められた。数年間は日本にもどれないだろう。ぼくの心は躍った。里奈は大賛成だった。彼女は、市役所で地域活性化プロジェクトの中心的な役割をになっていた。ぼくは迷った。そんなとき、里奈はアパートを出ていった。部屋には駐在地の地図と里奈の手紙が添えてあった。
「しっかりがんばりたまえ。浩介は方向音痴だから迷わないでね。ばいばい」
世界地図には、付箋が貼られて、そこに大きな矢印が赤字で書いてあった。
「さすがに迷わんやろ」ぼくはひとりごちた。

 ぼくはコーヒーを飲み干すと里奈の気配で満たされたアパートの部屋から勢いよく出た。
                                    <了>
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