第5話

文字数 6,725文字

 いよいよ修学旅行当日。春音は飛行機の中から外を見下ろしていた。隣にいる千春は寝ている。
(修学旅行、ちゃんと時間通りに行動できるかな……千春と一緒だと、ギリギリでも大丈夫って思っちゃうし……)
春音が思わずため息をつくと、横からあきれた声がした。
「ちょっと、何ため息ついてんの? せっかくの修学旅行なのに」
「千春……!」
寝ていると思っていた千春の目が開いている。
「もしかして、飛行機怖いの?」
「違うけど……」
からかうような千春の視線に、春音は不満げな顔で見返す。そして、小さく言った。
「……ちょっと不安なの。時間守れるかとか。それに、あのことも……」
「もー、忘れよ忘れよ! 忘れて楽しもうよー」
あっけらかんとした千春の態度に、春音の肩の力は抜けてしまった。楽しもう。そんな気持ちになれた。
「……そうだね」
飛行機から降りると、もうそこは別の街。それに、気温も違う。
「うわぁ、やっぱり北海道って寒いね」
「見て、息が白い!」
千春の声に、春音も息を吐いてみる。白い霧のようなものが見えて、さっと空気に溶けていった。
少し外で待つだけでも、体に寒さが染み込むようだった。バスの中の暖房が嬉しい。
旅館に着くと、千春はさっそく畳の上に転がった。
「ちょっと千春。だらしないよ」
「まあまあ、桃香も寝てみなよ。リラックスできるよー」
千春は桃香の渋面にも構わず、それどころか手招きまでしている。
「もう……たしかに気持ちいい」
桃香は千春にあきれながら畳に転がり、あっさりと陥落した。春音も寝転んでみる。たしかに気持ちよくて、落ち着く感じがした。
「気持ちいいけど、いつまでも寝転がってるわけにはいかないのよね……ほら、起きるわよ」
桃香に揺さぶられ、みんなのろのろと身を起こしていく。千春は、最後までぐずぐずしていた。
「じゃあ、千春の分のご飯も食べてきちゃうからね」
そう言われて、やっと千春は動き出した。
「お腹すいたー。北海道って、ご飯おいしいんでしょ?」
「海鮮系のものとかは新鮮だと思うけど」
千春は「楽しみー」といかにも楽しそうな顔をしている。
夕食には、お刺身が出た。桃香の言っていたとおり、普段食べたことのないくらい新鮮だった。
「あー、おいしかった!」
千春が満面の笑みで言い、みんなそれに同調する。
「ほんとだよね」
「さすが北海道って感じ」
春音も満足そうな顔をしている。
「私、北海道の大学行こうかなー」
「志望動機は?」
「食べものがおいしいからですー」
「真面目に答えろって怒られるわね」
千春と桃香の掛け合いに、みんなで笑う。いつのまにか、春音の心配事は消え去っていた。
次の日は自主研修だ。それぞれの班に分かれて夜まで行動する。
「じゃあ、行こうか」
千春が先頭で歩きだす。
「……千春。曲がる方向逆よ」
「あ、あはは……」
「しっかりしてよ?」
桃香の横で、春音もうなずいた。
「頑張るって。さ、行こう」
千春に手を引かれる。春音は微笑んで歩き出した。
事件は地下鉄に乗っているときに起きた。啓介が寝てしまったのだ。降りる駅に着く前には起こしたのだが、まだ寝ぼけていたようだった。
「山本くん、降りますよ」
「うん……」
啓介はゆるゆると立ち上がる。千春たちはもう降りてしまった。春音と啓介も降りようとすると、ドアが閉まった。
「え、ちょっと……」
啓介もやっと目が覚めたらしい。慌てたように立ち上がる。電車は驚いた顔の千春たちを置いて、動き出してしまった。
「どうしよう……」
春音がパニックになりかけていると、横で啓介が笑った。春音はその能天気さに腹をたてる。
「何笑ってるんですか? 誰のせいでこうなったと思ってるんですか」
「大丈夫だって。すぐ戻れるよ」
「でも、その分時間を無駄にしてるじゃないですか」
電車内なので、小さい声でのやりとりだが、春音が怒っているのは嫌でもわかる。
「ごめんね、迷惑かけて」
眉を下げて謝る啓介から、春音は目をそらす。そんな風に謝られては、逆に落ち着かなくなる。
「降りるよ」
考えこんでいた春音の手を、啓介が引いた。また乗り過ごしそうだった。
次の電車を待っている間に、春音は千春に電話をかける。
『春音!』
千春はすぐ電話に出た。
「千春、ごめんね。もうすぐそっち行きの電車来るから、すぐ戻るね」
『わかった、待ってる』
千春との電話を終えた春音は、小さく息をつく。
「あ、電車来た」
啓介が春音に言う。春音は彼を無視した。
「そんなに怒らないでよ」
「あなたはそれだけのことをしたんですよ?」
春音の声は厳しい。
「わかってるよ。俺のせいで、伊藤さんにも、みんなにも迷惑かけたって」
啓介は真剣な顔をしている。思わず、春音はその表情に見とれた。
「……俺、道覚えんの苦手だから、必死に覚えてたんだ。それで、昨日も旅館で調べてたから寝るのが遅くなって……ごめん、やっぱり言い訳だよな」
啓介は苦しそうに眉を下げた。
「……寝不足は、だめだと思います」
春音の言葉に、啓介はますますうなだれる。
「でも、あなたががんばっていたのはわかりました」
春音は、うなずいた。啓介の表情が、少し晴れた。
電車を降りると、千春たちが駆け寄ってきた。
「もう! 啓介、何やってるの!」
「ごめん! もう寝ません」
「ちょっと走るからね」
「もう、どこでもついていきます」
啓介はおとなしくなってしまった。
千春たちは、移動で走って次の目的地には時間通りに着いた。
「ちょっと……千春たち速すぎ……」
桃香は完全に息を切らせていた。他にも、膝に手を当てて息をしている人がいる。
「春音……陸上部に入れば……?」
「あれだけ走って息切れしないって……千春並みじゃん……」
褒められているのかどうかが、よくわからない。
「みんなごめん……俺のせいで、走ることになって……」
啓介は手を合わせて謝る。さすが男の子といったところだろうか、息は完全に整っていた。
「……許さないわ」
桃香が恨みがましい口調で言う。
「あのね、桃香……山本くんはね……」
春音は桃香に耳打ちをする。
「ほほう」
桃香は怪しげな笑みを浮かべる。春音は桃香に話したことを、後悔した。
「啓介ー。地図はちゃんと覚えられた?」
啓介がどきりとした顔をした。
「寝ちゃダメよ?」
啓介は焦った顔で春音を見た。春音は目をそらす。
「なんで言ったの」
「フォローになるかと思って……」
「逆効果だよ……」
啓介はあきれたように言った。春音も、申し訳なさそうな顔をする。
「ま、いいよ。伊藤さんと一緒だったから、一人で迷子っていう最悪の事態にはならなかったし」
啓介は笑った。春音は怒ってないのだとわかり、少し安心した。
「あ、じゃあ、俺のお願い一つ聞いてもらってもいい?」
「何ですか?」
「……名前で呼んでもいい?」
春音は固まった。
「ほ、ほら、千春と同じ名字だし、わかりにくいし……」
「千春のことは、千春って呼んでるので、混ざらないと思いますけど」
「うっ……」
啓介は痛いところをつかれたという顔をする。
「でも、いいですよ、名前で呼んでも」
「本当に⁈ やった!」
ガッツポーズをした啓介の肩を、周りの男子がぽんぽんと叩いていた。
「春音、なに言ったの?」
千春と桃香が春音に聞く。
「名前で呼んでもいいって言ったの」
「進歩!」
「春音、心広くなったね」
千春と桃香も、自分のことのように喜んでくれる。
「啓介は、態度に出しすぎなのよね。クラスで春音が好きだってこと、知らない人いないし」
「でも、春音が知ってるってことにはまだ気づいてないのよ」
「鈍感なのよね……」
千春はため息をついた。
「逆に気が楽にならない?春音」
「……落ち着かない」
「そりゃそうか」
春音たちはその後、自主研修を続けた。時間も、ある程度計画通りだった。
「春音、今日はありがとな」
自主研修ももうすぐで終わりそうな頃、春音は啓介にお礼を言われた。
「……なんでですか」
「だって、見捨てないでくれたじゃん。俺が寝過ごしてもさ」
「それは……当たり前じゃないですか。同じグループなんだし」
春音は啓介の顔を直視できない。
「でも普通は、ほっといて降りると思うんだ、みんなみたいに。だから、春音は優しいと思って」
そう言って、啓介は笑う。その笑顔が、やけに眩しく見えたのは気のせいだろうか。
「そう、ですか」
「あ、敬語やめてよ。クラスメイトなんだし」
春音は諦めて敬語を使うのをやめる。
「……うん」
啓介の顔が、一段と明るくなった。
部屋に戻ると、春音は千春と桃香に質問攻めにされる。
「どうなった、啓介とは」
「名前呼びってことは、進展したってことでしょ」
「ちょっとちょっと。私、山本くんのことが好きだなんて、言ってないじゃない」
千春と桃香は意地の悪い笑みを浮かべる。
「だってねえ」
「そうだよ。あんなに仲良さげにしちゃってさ」
「あれは誰が見ても、そういう関係……」
「どういう関係?」
「え?わかるでしょ〜」
「いい感じの雰囲気だしね」
春音は、口を尖らせて膝を抱える。
「……知らないもん」
ふくれっ面の春音に、千春と桃香は絡む。
「知らない割にはしゃべってたし?」
「電車も二人で乗り過ごしたし」
「あれはだって、みんなが置いてっちゃうから……」
春音の言い訳は、全て聞き流される。
「恥ずかしがらなくていいのに」
「違うもん……」
春音がふと千春を見ると、千春は腰をさすっていた。
「千春、腰どうかしたの?」
「なんか最近腰痛くて。年かなー」
「そんなわけないでしょ、まだ十七歳なんだから」
「じゃあ、歩きすぎて筋肉痛?」
「陸上部の千春に限って、そんなことは無いと思う。病院行った方がいいんじゃない?」
「病院ってなんか大事じゃない?いいのよ、どうせすぐ治るから」
そんな話をしている間に、ほかのグループの人も帰ってきた。桃香が持ってきたトランプで、盛り上がってしまい、春音は千春の腰のことはすっかり忘れてしまった。
「春音ちゃん、春音ちゃん。なんかね、啓介が売店に来てほしいって言ってたよ」
トランプに夢中になっていた女子たちは、色めき立つ。
「とうとう……!」
「啓介も決心がついたか」
「春音、いってらっしゃい」
千春も桃香も、ついてこようとしない。春音がねだるような目で見ても、二人とも首を振るだけだ。
「春音。行ってきな」
「大丈夫。どんな選択しても、私たちは受け入れるから」
桃香と千春の言葉に励まされ、春音は一人で部屋を出て売店に向かった。
「春音」
啓介の顔が、嬉しそうにほころぶ。
「よかった、来てくれて」
「私が、来ないと思ってた、の……」
敬語を使わないでと言われたのを思い出し、語尾が曖昧になる。しかし、啓介にそれを気にしている余裕はなかったらしい。
「どうして売店に……?」
「だって、部屋どころか女子部屋のフロアに行くのも禁止でしょ? ここしかなくて。立ってても怪しいから、中入ってもいい?」
「いいけど……」
啓介は自然に売店に入ると、キーホルダーを見始めてしまう。
「……これ、可愛くない?」
「……可愛い」
「ちょっと買ってくる」
啓介は春音を置き去りにして、レジに行ってしまう。買い物に付き合ってほしかっただけなのだろうか。でもそれなら、男子でもいい気がする。
「はい、あげる」
「え?」
春音は、反射的に啓介が差し出したキーホルダーを受け取った。
「け、啓介くんが買ったのに」
「もともと春音にあげるつもりだったし、俺も同じの持ってるし」
啓介が開いた手の中には、同じキーホルダーが入っていた。
「どうして私に?」
「っ……す、好きだからに決まってんじゃん!」
春音は息を飲んだ。なんとなく察していたとはいえ、頰が蒸気するのを抑えられない。
「春音が転校してきた時から、ずっと気になってた。悲しそうな顔ばっかりしてたから、笑ったらもっとかわいいんだろうなって」
「かわいい……」
春音はつぶやくように繰り返す。
「そう。でも、春音あんまり笑わないから。俺が、これから笑わせてあげたらいいんじゃないかって、思って」
「私だって、楽しいときは笑うよ」
「じゃあそれって、普段は楽しくないってことだろ」
啓介の指摘に、春音はどきりとした。千春や桃香といるときは、楽しいというよりも、ホッとしているという方が正しいかもしれないからだ。
「楽しくないってことは、ないけど……」
「けど、笑わないんだろ。でも多分、俺なら春音のこと、毎日笑わせてあげられると思うから。だから、近くにいたい。いさせてほしい。だめかな?」
「……構いませんけど」
それが春音にできる精一杯の返事だったが、啓介はまだ続ける。
「つまり……俺と、付き合ってほしい」
啓介の目はまっすぐで。きれいに澄んでいて。信じてみてもいいと思えた。変わろうと思った。今、この状態から。啓介みたいに、勇気を出して。
「……はい」
春音は、微笑んでうなずいた。啓介の目が、みるみるうちに丸くなってくる。
「マジで? いや、俺から言ったことなんだけど、信じられない……」
啓介は、目に見えてオロオロする。それを見て、春音は笑う。胸が、温かくなった。
啓介と別れて部屋に戻ると、全員から注目される。みんなの聞きたいことを代表して、千春が口を開く。
「春音、どうだったの?」
「……うん」
なんと言っていいのかわからなかったので、春音はとりあえずうなずく。それだけでわかったらしく、春音は囲まれる。
「詳しく聞かせて」
桃香も興味津々でそう言ってくる。
「えっとね、売店で……」
春音は起こったことを大雑把に話した。話を追うごとに、女子たちの体温が上がってきている気がする。告白されたところに至っては、きゃあ、と歓声が上がった。
「じゃあ、春音ちゃんの彼氏は、啓介ってこと?」
「……そうなる、かな」
「う、うらやましい〜」
女子たちが言うも、春音に実感がないので、本人はきょとんとしている。
「まだ、そんな実感はないんだけど……」
「そうか〜。たしかに、まだ告白されてから十分くらいしか経ってないもんね」
「春音が一番に彼氏できちゃったね」
「ちゃったって何よ。春音はかわいいんだから、当たり前でしょ」
千春が自分のことのように自慢する。春音は恥ずかしくなってしまった。
「今日ね、啓介が電車降り遅れたのよ。私たちは置いてっちゃったんだけど、春音だけ残ってあげてたの。その時、何かあったのよね」
「……別に、何かあったってわけじゃないんだけど。名前で呼んでもいいかって言われたぐらいで……」
「名前呼びってめっちゃ進歩じゃん!」
春音は顔が火照るのを感じた。春音と呼ばれたこともそうだが、自分も啓介のことを名前で呼んだことを思い出したのだ。
「春音? どうしたの、顔めっちゃ赤いけど」
「名前呼び思い出して照れてるの? 啓介じゃないけど、本当にかわいいと思う」
「なんか、啓介の気持ち、わかる気がする」
「私が男でも、彼女にしたいと思うもん」
女子たちのコメントに、春音は丸くなる。穴があったら入りたいくらいだ。
「みんな、そろそろ点呼の時間じゃない?」
「やば、ちっとも片付いてないじゃん!」
桃香の冷静さに、春音は色々な意味で救われた。みんなで荷物を整理し始める。
「点呼しますよー」
学年主任の先生が来た。ハイスピードで片付けられた部屋は、何事もなかったかのようにきれいだ。
「じゃあ、始めるわよ。伊藤千春さん」
「はい」
点呼は何事もなく終わり、先生も出ていった。そのとき、春音の携帯が鳴った。
「誰?」
「啓介くんから……」
「なんて?」
春音の周りにみんな集まり、携帯をのぞき込む。
「おやすみのスタンプ……」
春音の携帯の中では、熊のスタンプがピコピコと動いていた。
「初々しいわ……」
「尊い……」
周りの女子たちが、なぜか悶えていた。
「マジで、推しカップル」
「このリア充なら、全然あり」
「推し……?」
首をかしげる春音に、千春は笑いかける。
「公認ってことよ。おめでとう、春音」
千春に笑いかけられると、すごくいいことなのだと思える。春音も、一番の笑顔を見せた。
「ありがとう」
なんだか、とても幸せだった。
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