文字数 2,723文字

 「好きなんです」
 遠くから夜の街を楽しんでいる老若男女の声が、後ろ頭のずっと奥の方で幻聴みたいに響いていた。現実に絞り出した自分の声は、出した瞬間だけ現実のものになり、空気中に消えてしまった後は、実際に自分の口から出たものか、夢であったか、わからなくなった。それから私は夥しい時間、正面にある居酒屋の下りたシャッターを無心で見つめていた。
 「そっかぁ、んー、知らなかったなぁ」
 ああ、困らせてしまった。鼓動が忙しなく響き、流れる血液を四肢の先端まで感じていた私の体は、彼の困ったように苦笑いしている声色により急激に冷えていった。喉の奥が詰まり、上手く声が出せない。
 勘違いしていた。私、特別じゃなかったんだ。

 朝、いつも通りいつものバスに乗る。いつもの席に座り、一息つく。思ったよりも大きなため息が出てしまった。ため息と一緒に昨日の記憶も出ていって空気中に溶けてしまってほしい。そんな願いも虚しく、何度ため息を溢しても昨日の記憶は、私の胸につっかえたままで、澱んで、思考にまで影響を及ぼしている。インクが出なくなったペンをチラシの裏に滅茶苦茶にぐるぐると書き殴っているみたいだ。思考がはっきりしない。
 窓の桟に肘を掛けて頬杖をつき、窓の外を眺める。景色が流れていくのを眺めていると無心になれるから好きだ。だが、今は流れる景色が、会社に近づいていっているということを感じさせるからとても憂鬱だ。寝てしまおうか。寝てしまいたい。いや、今日は寝れていないから、ここで寝たら絶対寝過ごしてしまう。でも、昨日泣きすぎて目の奥がガンガンと痛むから、目だけでも閉じてしまいたい。ぐるぐるとまとまらない思考や頭痛、全てがうるさく感じて、耐えきれずに目を閉じた。
 昨日は、結局居心地が悪くなり、体調不良だと言って飲み会を途中退席してしまった。彼は優しいから、きっと自分のせいだと思ってしまうだろう。あれから一夜経った今は、自分を責めているであろう彼に対して、悪いことをしてしまった、自分を責めないでほしいという気持ちと、そのまま自分を責めて私のことが頭から離れなくなってしまえばいいのにという気持ちが、私の中で入れ替わり立ち替わり忙しい。
 結局、目を閉じても眠れなかった。諦めて目を開けたらもうあと少しで降りなければならないバス停だった。抱きしめていたバッグからIC乗車券を取り出して降りる準備をする。バスが会社近くのバス停に着いた。
 バスから降りて、会社へと歩き出すと、後ろから声が聞こえた。心臓が跳ねた。頭痛も気にならなくなった。ああ、馬鹿、昨日振られたじゃないか。朝の通勤者が多い道でも、耳が自然に彼の声を拾ってしまう。振り向くなと自分に言い聞かせながら、足を速める。後ろ頭が熱い。

 やっぱり昨日は泣きすぎたみたいだ。昼休みに頭痛薬を飲み、外の空気を吸おうと会社の中庭に出た。石のベンチに座り、空を見上げて目を閉じ、細く長く息を吐いた。何度か深呼吸を繰り返す。
 ベンチについていた右手に何かが当たる感触がして、驚いて目を開ける。手元を見ると、会社の近くのコンビニの袋が右手のすぐそばに置かれていた。不思議に思っていると、右側から名前を呼ばれる。一番聞きたくて、一番聞きたくなかった声だった。声の方に顔を向けると、同じベンチの端に座っている彼と目が合った。
 「あー、今日、体調悪そうだなと思ってさ、もし良かったらそれ、あげる。」
ビニール袋の中を覗くと、水と頭痛薬が入っていた。
 「全然、全然大丈夫!これ申し訳ないし、いいよ。でも、ありがとう、ね。」
そう言いながら、何度も座り直し、目線もどんどん下がっていってしまう。
 「ん、いや、受け取って!ね、今いらなくてもデスクの引き出しにでも入れておいたらいつか役立つかも!ははは、ごめんね、あー、俺仕事戻らないとだから、ごめんね。」
彼の背中を見送り、また手元に目線を落とす。バレてんじゃん。全部。
 重ねられた「ごめんね」の消えていった余韻を追うように空を見上げ、この恋が終わってくれることを祈った。

 帰りのバスに乗り、頭も肩も背中も、全部重く感じて、乗ってすぐ近くにある二人席の通路側に座る。バッグを抱きしめて座席に沈む。何分か経ったところで、自分の名前を呼ぶ声がして顔を上げる。同じバス路線を使う大学時代の同期がいた。彼とは久しぶりにバスが一緒になる。久しぶりだと挨拶を交わして、彼は私の二つ後ろの席に座り、一息つく。
 「最近バス一緒になってなかったけど、元気にしてた?」
バスには私たち二人の他に乗客がいなかったため、席が離れてはいるがそのまま世間話をしていた。
 「最近どう、恋愛とかしてんの?」
 なんだこいつは。不躾な。思わず息をするのを忘れる。冗談で返そうかと思い口を開いたが、冗談が出て来ずに、何度か口を開けたり閉じたりして結局またため息しか出なかった。一息ついて、口を開いた。
 「あのさ、振られちゃったんだよね。好きな人がいたんだけどさ、私、特別だと思ってたの。違ったみたいなんだけどさ。」
努めていつもより1トーン高い声を出した。
 「勘違いしてたっぽい。」
全部、いっそ全部、勘違いだったらよかったのに。そう思えば思うほど、終わるよう祈った彼への恋心が再びほの明るく浮かび上がり、私の全身を震わせる。息が詰まり、目の前がぼやけてくる。いつになったら涙は出なくなるんだろう。バスが停まり、人が次々と乗ってくる。急いで涙を拭うが、出てくる涙に追いつけない。
 「奥詰めて。」
二つ後ろにいた同期が、いつの間にか横に立っていた。
 「俺、通路で邪魔になっちゃってるから、早く。」
窓側の席に移ると、隣に座ってくる。私の方に半分背中を向けて斜めに座る。記憶していたよりも大きな背中で、通路への視界は遮られる。強張っていた体がゆるゆると解けていく。深呼吸し、席に身を預ける。まだ涙は勝手に出てくる。好きなようにしてくれ。拭うのを諦めて、目を閉じる。ふと、右肩に温もりを感じる。その温もりと、大きな背中が作ってくれた私の空間と、少しの薄暗さに安心する。
 だんだんと呼吸が落ち着いてきて、ほっと息を吐く。いつの間にか涙は止まり、右隣の背中をぼんやりと見つめる。やっぱり、思ってたより大きい。その背中と座席に溶け合っていくように、自分の体をその隙間に沈ませる。未練たらしい私は、また思い出したら泣くのだろう。実らなかった恋心は、目を逸らしたくなるほど純粋なまま、私の中で化石になっていくのだろう。消えてくれない想いとの向き合い方はまだ分からない。大きな背中が、その駄々っ子のような気持ちのままでいることを許してくれているようだった。
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