第1話 メロンパン
文字数 3,197文字
『懲役5年の刑に処す』
証言台の前に立ち、その言葉を聴いてから、10年が経った。
午前4時、遼一 はカレンダーを見詰 める。あの日と同じ、3月7日。赤いマジックペンで今日の日付の欄にバツを書く。
額 を横切るように大きく引っ掻かれたような傷痕がある。黒髪、短髪で、髭 はしっかりと毎日剃っており、鼻が高く端正な顔立ちをしている。体型はがっしりしていて、30代の中盤だが腹は出ていない。身長は175cm、足はそれほど長くない。
腕まくりをして、しっかりと手を洗い、ハンドソープをつけて泡を作り、泡をこれまたしっかりと洗い流す。清潔なタオルで手を拭き、「よし」と呟 くと、作業に取りかかる。
まず、ドウコンディショナーの様子を確かめる。前日から生地が冷蔵してあったが、タイマーによって庫内は自動で発酵温度まで上がっている。残り時間の表示を見て、並行してできる別の作業を開始する。
縦型ミキサーのギアがニュートラルの状態であることを確認し、金具を取り付け固定する。ミキサーに最初に投入する砂糖、塩、牛乳、セミドライイーストを計量していく。
強力粉は袋からそのまま投入し、計量した材料と、前日から寝かせてあった湯種も順番に入れていく。続いて、決まった量の水道水をバケツから流し入れる。ハンドルを回してボウルの位置を上げ、ガードをカチッと音がするまで閉じたら、ギアを2速に入れる。
ミキサーが軽快に動き出す。後 でバターを入れることになるが、ずっと眺めているわけにもいかないので、すぐに次の作業に移る。
ドウコンから出した生地は丸く分割されており、頭の中で計算した必要な数だけ、作業台の上に置いていく。
生地を両手で押して回転させながら横に広げる。今度は引きながら更に広げ、細くしたら、台の奥に置いていく。それを繰り返す。
作業台の下の冷蔵庫の扉を開け、業務用のウインナーが入った袋を取り出す。ハサミでふちを切り取り、袋を広げると、ウインナーの芳醇 な香りが鼻先に届いてきた。業務用とはいえ、卸から仕入れたそこそこ値が張るものだ。
ウインナーを袋から取り出す。表面に細く長くした生地をくるくると巻いていき、最後に少し潰して固定する。成形したら焼成用の天板に置いていく。
残った生地はめん棒と手の平を使い丸く平たく潰す。冷蔵庫からクリームの入った容器を取り出し、デジタルの計量機の上に置く。
パレットナイフでクリームを必要量、削り出す。計量機の表示を見て、グラム単位で調整して生地の上に乗せる。包むように生地を丸め、天板に置いていく。
こうして、成形し、生地を休ませて、焼成の準備をしていく。ドウコンから取り出した別の生地も、成形したり、ドライフルーツを混ぜたり、ピザにしたりと、およそ20種類のパンを焼くための準備を続ける。
途中、ミキサーで捏 ねられている生地にバターを加えたり、フライヤーに油を入れたりして、この後 出勤する叔母 がすぐに作業できるように支度をしておく。
オーブンに天板を4枚差し、焼成 を開始する。
背中を丸めて作業していたため、大きく伸びをしていると、叔母 の明日花 が裏口の戸を開けて出勤してきた。
染めた茶髪を後ろで縛っており、三角巾で髪が落ちないようにしている。化粧っ気はないが、不思議と肌は綺麗で、昔はモテたんだろうと思わせるような整った顔立ちをしている。少しぽっちゃりしていて背は低い。だから遼一からは見下ろすように話すことになる。
「おはよ、遼 ちゃん。何か変わったことは無い?」
「はよっす。いつも通り。毎日同じことの繰り返しだよ」
明日花はコロコロと笑う。
「遼ちゃん、それでいいんだよ。毎日毎日色んな事が起きたら、しんどいでしょう」
「まあ……そうかもね」
それでも、カレンダーにバツを付けないと、今日が何日なのかも忘れそうなくらいに、仕事をしている。店舗の休みの月曜日にも新しいパンを試作したり、料理の腕が落ちないように練習しているから、この店の主というか、地縛霊 にでもなってしまった気分だ。
彼女は手をしっかり洗うと、すぐに自分の作業を始める。
テキパキとした動きに、さっきまでの緩い時間の流れが一変 し、少しの緊張感が生まれる。
それから1時間、焼き上がったパンを店内に並べていると、時計を確認した明日花が遼一に指示を出す。
「開店準備、してくれる? ちょっと手が離せないから」
「オッケー。今日は雨、降らないよね」
「うん。多分ね。テーブルと椅子は出していいと思うよ」
遼一は立て看板と、イートイン代わりのテーブルを外に出す。ベンチと椅子も外に出し、のれんを掛けて、準備中の札を裏返して営業中に変える。
外には、既に常連3組が待機していたことに気付き、挨拶を交わす。
自動ドアのスイッチをオンにして、店の外壁に取り付けられた看板のLED照明も点 ける。
『ベーカリーやなぎ』
茶色地の上で、店名が白く光る。遼一の店は朝の7時に開店する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大学生の久美 は、お腹を空 かせていた。
今日は1限から授業があったわけだが、寝坊してギリギリで授業に出席したから、朝から何も食べていなかった。
背は高い方だが童顔なので中学生くらいに見られることもある。行きつけの美容院でプリンの状態を解消したばかりの綺麗な長い金髪、ピンクのシャツにデニムパンツという出立 ち。今朝は時間がなくて、最低限の化粧しかしていない。
午前中で授業は終わり、彼女は本日の苦役から解放された。夕方からの居酒屋でのバイトまで時間を潰す必要があり、とりあえず昼食をどうしたものかとペコペコのお腹をおさえながら、街の中をフラフラ歩いていた。
チェーン店に入る気分ではないし、流行りのドラマよろしく初めて入る店で独り言を呟 きながらゆったりとご飯を食べる気にもなれなかった。
「ヤバい。このままじゃ野垂 れ死 ぬわ」
自分が今、何腹 なのかも分からずに彷徨 っていると、パン屋らしき建物が目に入った。
大きなガラス窓を通して、店内をじっとりと眺める。
お客さんがちらほらいて、トングを使い、トレーにパンをすいすい乗せている。
……なんだかとっても美味 しそう。ゴクリ。
久美は吸い寄せられるように自動ドアの前に立つ。スーッとドアが開くと、中から店内BGMとパンの焼き上がる時の心地良い匂いが溢 れ出してきた。
久美はトレーとトングを取るのも忘れて、パンを見定めていく。
その様子に、焼き上がったパンを補充していた遼一が気付く。トレーとトングを持つように彼女へ伝えようとした時、その事件は起きた。
久美は、メロンパンを手に取ると、そのまま齧 ってしまった。
「お、お客さん、食べたいなら買ってからにしてください!」
あまりの空腹に我を忘れていた久美が、正気を取り戻す。
「あ! すいません! あまりにも美味しそうで、あとお腹 が空 きすぎて、つい……」
遼一は小さく息を吐 き、諦めの表情になると、レジの方に回り数字を打ち込む。
「メロンパン、1個200円です」
「分かりました、払い……はら、い……」
財布の中身を確認した久美が、顔面蒼白になる。冷や汗のような滴 が額 から流れ落ちる。
「お金、足りません。ウフフ」
ウフフじゃないよ。と遼一はツッコミを入れようとするが、その口を開く前に、さらに久美は意外な行動に出る。
「明日! 明日返しますから!」
そう叫ぶと、メロンパンを咥 えて自動ドアを開け、ものすごい速さで走って逃げて行った。陸上選手か何かだろうか。
……じゃなくて、万引きじゃないか!
走り去る姿を呆然と眺める遼一に、明日花が後ろから声をかける。
「いいの? メロンパン、持ってっちゃったけど」
「……なんだったんだ。アレ」
この小さな事件はいずれ、ふたりを取り巻く世界を変えることになるのだが、当事者である遼一も久美も、それはまだ、知るはずもないことなのであった。
証言台の前に立ち、その言葉を聴いてから、10年が経った。
午前4時、
腕まくりをして、しっかりと手を洗い、ハンドソープをつけて泡を作り、泡をこれまたしっかりと洗い流す。清潔なタオルで手を拭き、「よし」と
まず、ドウコンディショナーの様子を確かめる。前日から生地が冷蔵してあったが、タイマーによって庫内は自動で発酵温度まで上がっている。残り時間の表示を見て、並行してできる別の作業を開始する。
縦型ミキサーのギアがニュートラルの状態であることを確認し、金具を取り付け固定する。ミキサーに最初に投入する砂糖、塩、牛乳、セミドライイーストを計量していく。
強力粉は袋からそのまま投入し、計量した材料と、前日から寝かせてあった湯種も順番に入れていく。続いて、決まった量の水道水をバケツから流し入れる。ハンドルを回してボウルの位置を上げ、ガードをカチッと音がするまで閉じたら、ギアを2速に入れる。
ミキサーが軽快に動き出す。
ドウコンから出した生地は丸く分割されており、頭の中で計算した必要な数だけ、作業台の上に置いていく。
生地を両手で押して回転させながら横に広げる。今度は引きながら更に広げ、細くしたら、台の奥に置いていく。それを繰り返す。
作業台の下の冷蔵庫の扉を開け、業務用のウインナーが入った袋を取り出す。ハサミでふちを切り取り、袋を広げると、ウインナーの
ウインナーを袋から取り出す。表面に細く長くした生地をくるくると巻いていき、最後に少し潰して固定する。成形したら焼成用の天板に置いていく。
残った生地はめん棒と手の平を使い丸く平たく潰す。冷蔵庫からクリームの入った容器を取り出し、デジタルの計量機の上に置く。
パレットナイフでクリームを必要量、削り出す。計量機の表示を見て、グラム単位で調整して生地の上に乗せる。包むように生地を丸め、天板に置いていく。
こうして、成形し、生地を休ませて、焼成の準備をしていく。ドウコンから取り出した別の生地も、成形したり、ドライフルーツを混ぜたり、ピザにしたりと、およそ20種類のパンを焼くための準備を続ける。
途中、ミキサーで
オーブンに天板を4枚差し、
背中を丸めて作業していたため、大きく伸びをしていると、
染めた茶髪を後ろで縛っており、三角巾で髪が落ちないようにしている。化粧っ気はないが、不思議と肌は綺麗で、昔はモテたんだろうと思わせるような整った顔立ちをしている。少しぽっちゃりしていて背は低い。だから遼一からは見下ろすように話すことになる。
「おはよ、
「はよっす。いつも通り。毎日同じことの繰り返しだよ」
明日花はコロコロと笑う。
「遼ちゃん、それでいいんだよ。毎日毎日色んな事が起きたら、しんどいでしょう」
「まあ……そうかもね」
それでも、カレンダーにバツを付けないと、今日が何日なのかも忘れそうなくらいに、仕事をしている。店舗の休みの月曜日にも新しいパンを試作したり、料理の腕が落ちないように練習しているから、この店の主というか、
彼女は手をしっかり洗うと、すぐに自分の作業を始める。
テキパキとした動きに、さっきまでの緩い時間の流れが
それから1時間、焼き上がったパンを店内に並べていると、時計を確認した明日花が遼一に指示を出す。
「開店準備、してくれる? ちょっと手が離せないから」
「オッケー。今日は雨、降らないよね」
「うん。多分ね。テーブルと椅子は出していいと思うよ」
遼一は立て看板と、イートイン代わりのテーブルを外に出す。ベンチと椅子も外に出し、のれんを掛けて、準備中の札を裏返して営業中に変える。
外には、既に常連3組が待機していたことに気付き、挨拶を交わす。
自動ドアのスイッチをオンにして、店の外壁に取り付けられた看板のLED照明も
『ベーカリーやなぎ』
茶色地の上で、店名が白く光る。遼一の店は朝の7時に開店する。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大学生の
今日は1限から授業があったわけだが、寝坊してギリギリで授業に出席したから、朝から何も食べていなかった。
背は高い方だが童顔なので中学生くらいに見られることもある。行きつけの美容院でプリンの状態を解消したばかりの綺麗な長い金髪、ピンクのシャツにデニムパンツという
午前中で授業は終わり、彼女は本日の苦役から解放された。夕方からの居酒屋でのバイトまで時間を潰す必要があり、とりあえず昼食をどうしたものかとペコペコのお腹をおさえながら、街の中をフラフラ歩いていた。
チェーン店に入る気分ではないし、流行りのドラマよろしく初めて入る店で独り言を
「ヤバい。このままじゃ
自分が今、
大きなガラス窓を通して、店内をじっとりと眺める。
お客さんがちらほらいて、トングを使い、トレーにパンをすいすい乗せている。
……なんだかとっても
久美は吸い寄せられるように自動ドアの前に立つ。スーッとドアが開くと、中から店内BGMとパンの焼き上がる時の心地良い匂いが
久美はトレーとトングを取るのも忘れて、パンを見定めていく。
その様子に、焼き上がったパンを補充していた遼一が気付く。トレーとトングを持つように彼女へ伝えようとした時、その事件は起きた。
久美は、メロンパンを手に取ると、そのまま
「お、お客さん、食べたいなら買ってからにしてください!」
あまりの空腹に我を忘れていた久美が、正気を取り戻す。
「あ! すいません! あまりにも美味しそうで、あとお
遼一は小さく息を
「メロンパン、1個200円です」
「分かりました、払い……はら、い……」
財布の中身を確認した久美が、顔面蒼白になる。冷や汗のような
「お金、足りません。ウフフ」
ウフフじゃないよ。と遼一はツッコミを入れようとするが、その口を開く前に、さらに久美は意外な行動に出る。
「明日! 明日返しますから!」
そう叫ぶと、メロンパンを
……じゃなくて、万引きじゃないか!
走り去る姿を呆然と眺める遼一に、明日花が後ろから声をかける。
「いいの? メロンパン、持ってっちゃったけど」
「……なんだったんだ。アレ」
この小さな事件はいずれ、ふたりを取り巻く世界を変えることになるのだが、当事者である遼一も久美も、それはまだ、知るはずもないことなのであった。