第1話

文字数 30,986文字

「船長。獲物がいたぜ。」
 最初にその船に気が付いたのは、操舵手のマッキーであった。
「どこだ。」鋭い声で、操舵手が指差す方向を双眼鏡で見渡したセドリック・シャープ船長は、「なんだ。あれは。」と不審の声をもらした。
 午後いっぱい行方を捜していたシャルマン国の船団とは明らかに違う。
 一隻だけ。そして、途方もなく大きい。全長は200メートルを軽く超えていそうに見える。
「おい。あんなデカい船のこと聞いたことあるか?」船長は、窓の外を見たまま、操船室内にいる男たちに尋ねた。
「今では、あんな大きな船は使われていないはずですぜ。」副長のバラキエフが即座に答えた。「タンネンベルク号が大爆発をおこした事故で、ああいう豪華客船を飛ばしていたDRAG社は倒産しちまいましたからね。ほかにも、七王国連合の海軍が巨大な飛行軍艦を飛ばしていた時期がありましたが、それも事故で全部なくなったはずです。」
「じゃあ、あれは何なんだ?」シャープ船長は、双眼鏡でさらに仔細に、今日初めての獲物となるはずの船を観察した。
 葉巻型の美しい流線型の形。船体全体を骨格で組み上げ、その中に水素ガスの気嚢を収める「硬式飛行船」と呼ばれるタイプのものだ。このタイプは大型で頑丈な船が作られる代わりに、建造のコストが高く、特殊な運航ノウハウも必要となるので、今では飛行船の主流は、ゴールデン・ウォーラス号のような、竜骨部分以外は骨格を持たない、より小型で高速な「半硬式飛行船」に移っている。
 夕暮れの光をあびてバラ色に染まった積乱雲の峰々を背景に、巨大な飛行船はゆっくりと西に向かって航行していたが、奇妙なことに、そこだけ別の世界に属しているかのように船体から白い仄かな光を発している。
「気味悪いな。幽霊船じゃないのか?」操舵手マッキーが身震いした。
 飛行船乗りの間では、無人のままで漂流する飛行船に出会ったとかいうような話がよく聞かれる。
 乗組員の一人が「幽霊船に出会った奴は、必ず死ぬって言うぜ。船長、どうします?」と聞いた。
「馬鹿野郎。」船長は一喝した。「俺達は、命知らずの空賊だぞ。あんな立派な獲物をみすみす見逃せるか。斬り込み用意。」
「了解。野郎ども斬り込み用意だ。」バラキエフ副長が即座に伝声管で命令を伝えた。全長50メートルばかりのゴールデン・ウォーラス号には、操舵手や航法士、機関士などのほか、斬り込み要員6人が乗り組んでいる。船内は、たちまち、あわただしくも高揚した喧騒に包まれた。
 空賊船は、少量の水素ガスを放出し、船首を下に向けて降下すると、巨鯨の如き飛行船と水平に並走する位置につけた。距離は200メートルばかりとなり、相手の様子が格段によく見えるようになった。
 まだ新しそうだ。近くで見てもやはり白っぽい光を放っているが、シャープは、それは飛行船の被膜に塗られたアルミ塗料が夕暮れ時の微光を反射しているからだと判断した。船名は、よく読み取れない。はっきりと分かるのは、Eの文字とその次のIの文字だけだ。
「逃げる様子はねえな。」バラキエフが言った。マッコウクジラの口のように突き出たゴンドラ(艦橋のある部分)の内部はガラスに夕日が反射するせいで何も見えない。
「ジョリー・ロジャー(海賊旗)を上げろ。」セドリック・シャープ船長が命じると、空賊船の上部から、短いマストが立ち上がり、スルスルと黒地に真紅の薔薇、その下に交差した2本の白いサーベルが描かれた旗が揚がって、高度1000メートルの空に風に吹かれて、アイロンで伸ばされたようにピンと広がった。
 それを見ても、相手は逃げようともせず、これまで通りの速度で飛び続けている。
 「接近しろ。斬り込むぞ。」意を決したシャープの声に、操舵手は方向舵の舵輪を回し船体を右旋回させ、副長は「野郎ども、斬り込むぞ。」と伝声管に叫ぶ。それを聞いて機銃手たちは目標に狙いを定め、斬り込み隊はカットラス(斬り込み刀)やピストルに手をやって、装備に不足がないことを確認する。
 風を切ってゴールデン・ウォーラス号は、空飛ぶ巨鯨に急接近した。先方は相変わらず巡航速度を保ったまままっすぐに進んでいる。
「こいつは、250メートルはあるな。世界最大クラスの船だぞ。」窓を引きあけて、外に顔を出したシャープは、毛皮のついた重たい襟を強風にはためかせながら、驚嘆の声を放った。彼のハンサムな顔貌はゴーグルとマフラーですっかり覆われている。
「船長、ゴンドラの中…」操舵手マッキーがひきつった声を上げた。
 夕焼けの残照も衰え、ようやく見えるようになった敵船のゴンドラに設けられた司令室の中には、あるいはその他の部屋にも、一人の人影もなく、ただ舵輪や梯子らしきもののシルエットだけが確認できたのである。
「やっぱり、幽霊船だ。」乗組員たちの間に動揺が走る。
 シャープ船長は双眼鏡で眺め渡した。確かに、飛行船のどこにも人がいる気配はない。しかし、彼は「今の世に幽霊なんてものがいるのなら、見てやろうじゃないか。」と言い放ち、「敵の真上に付けろ。乗り移るぞ。」と命令を発した。
 空賊船は機首側のバラスト(重りの水)を放出して機首を上げ、自分の5倍くらいの大きさの怪物の背中の上に上がると、素早く舞い降りた。左腰にカットラスを吊り、反対側に大型の拳銃を提げた空賊たちが、ゴールデン・ウォーラスの艦橋の下に開いた出入り口から、3メートルほど下の敵船の手すりひとつない滑りやすい船体の上に次々に飛び降りていく。皆、ゴーグルを下ろし、毛皮の裏をつけた分厚いバッファロー革の飛行服に身を包んでいる。6人の斬り込み隊の後に、やはりゴーグルをかけ飛行服のボタンをしっかりと留めたセドリック・シャープ船長と、無双の戦士と呼ばれるルスラン・バラキエフ副長が降り立った。
 船長の飛行服は彼好みの黒色で、胸元にはトレードマークの紅い薔薇。このような気障な自己演出ゆえに人は彼を「洒落者」と呼ぶ。
 巨漢の副長はカイゼル髭を風に靡かせ、サーベルと呼べるほどに長い刀を腰に吊るした堂々たる姿。年も船長より一つ上で、押しも押されもせぬシャープ一党の二本柱である。
「ハッチを探せ。」副長が指示を出し、男たちは飛行船の上の稜線に沿って、前後に分かれて進み始めた。突風に飛ばされないように両手も下についている。
「あったぜ。」前後双方からほとんど同時に声が上がった。
「鍵はかかっているか?」船長の問いに、どちらも「かかってる。」との返事。
「よし、前の方から攻め込むぞ。」大きな身振りを交えてシャープは命令をくだす。後ろ側に向かっていた者たちは、前方の上部ハッチへ急ぐ。ハッチと言っても、軽量化が求められる飛行船では枠がジュラルミンなだけで、あとは布製である。刀を使って穴をあければ、手をまわして錠を開けるのは簡単だ。
 分厚いグローブがハッチを引き開けた途端、その下の暗闇から、異様な生臭いにおいが吹き付けてきた。 
「うわっ、くせえ。なんだ、この臭いは?」ハッチの周りにいた男たちは、のけぞった。下をのぞきこむと、狭い昇降シャフトで、木製の梯子がずっと下まで伸びているようだ。
「ぐずぐずするな。早く降りろ。」副長の野太い声にせかされて、慌てて空賊たちは梯子に取り付き、猿のように素早く順番に下降していった。
 バラキエフも、梯子に足をかけて、その臭気に気が付いたが、「なるほど、これは妙な臭いだ。」とだけ言って、梯子を下りて行った。
 最後になったシャープ船長は「なんで飛行船の中でこんな臭いがするんだ?」と、不審を覚えて動きを止めた。これまで幾多の危機を乗り越えてきた彼の研ぎ澄まされた危険察知能力が、この先にはとんでもない危険が待っていることを告げていた。しかし、それなら、なおさら先に行った仲間たちのあとを早く追わなければなるまい。船長はハッチを開けたままにして、大急ぎで梯子を下りて行った。
 それを見届けて、マッキーが船長を代行する空賊船は、ひとまず巨鯨の背中を離れると、付かず離れずの距離を飛び始めた。
 ちょうどその時、太陽が分厚い雲の山脈の向こうに沈み、巨船の上も周囲の空も、にわかに数を増してきた雲も、すべてが一瞬にして黄昏の薄明かりの世界に変貌した。

 空賊たちは、船体の最底部を通る竜骨通路と思しき、人が4人並んで歩けるほど広い廊下に集結していた。10メートルおき位にうすぼんやりした丸い電燈が支柱の上に燈っている。
「こっちだ。」船長が先頭に立ち、船体前方のブリッジの方向に向かって大股に歩きだした。
 飛行船は頭部と尾部がすぼまっているので、竜骨通路は前方と後方にむかって徐々に傾斜角が増す緩やかな上り坂になっている。そのため、遠くまでは見通すことができない。
 通路の左右には簡素な手すりがあるばかりで壁がなく、天井もない。昼間であれば、船体の被膜を透かして入ってくる外光によって、空飛ぶ巨鯨の胴体内の非現実的に大きい骨組みや支柱やガスを満たしたいくつもの気嚢を望むことができたはずなのだが、今は漆黒の闇。空賊の一人が好奇心に駆られて懐中電灯をサーチライトのようにめぐらし、そのうちのごく一部分を照らし出したが、遠くの方までは光は届かない。
 どこか遠くから、竪琴をかき鳴らしているような奇妙な音が、聞こえてくる。ボロンボロンと連続して鳴る時もあれば、しばらく途切れることもある。遠くなったり、ごく近くで聞こえたり、低くくぐもったり高く澄み渡ったり。
「おい、なんだよ。このへんな音楽は。」一味の一人が、恐ろしそうに上下左右を見回した。
別の一人が、「お前、硬式飛行船に乗ったことねえのか。これは、船の中の骨組みが撓んだり戻ったりする時の音さ。それが、ガス袋とか表面の皮とかに跳ね返って妙な音になってんだ。」と応えた。
 通路上には人の姿はなかった。動かない空気中には、相変わらず、あの生臭いにおいが漂っている。
 先に進んでいくと、左右に船員居室らしい部屋がいくつも並ぶようになった。一味は、敵の襲撃を警戒しながらそこを通り過ぎ、ブリッジ目指して急ぐ。しかし、誰も現れはしない。
廊下の左右に上に向かう階段が現れたあたりから、周囲の様子が一変した。
「すげえ、こんな豪華な飛行船は見たことがねえ。」何人かの手下が嘆声をもらした。
 床には上等なじゅうたんが敷き詰められ、高級木材を磨き上げてニスをたっぷり塗った壁が続き、黄金のプレートが「化粧室」や「シャワールーム」、「喫煙室」あるいは「クルー食堂」、「厨房」、「士官食堂」を示す重厚な扉が並んでいる。天井もアーチ状の木製で、柔らかな光で豪華な空間を引き立てる間接照明が仕込まれている。灯りはほかにもあって、壁面にアールデコ風の分厚いガラスの照明がいくつも取り付けられている。
 ここにも人の姿はない。
「船長、この船が何か分かりましたよ。」周囲を見回していたバラキエフ副長が、緊張をはらんだ声で話しかけた。「これは、2年前に乗客を載せて新大陸に向かったきり行方が分からなくなった、あの豪華客船ラインゴルト号ですよ。」
「そうだ。そうに違いない。これはラインゴルトだ。俺の兄貴が乗り込んでいた船だ。」
熱に浮かされたように言い出したのは、空賊の中でも最年少の、まだ口髭もまばらなシュナイダーという男だった。
「なんだって?」船長は、シュナイダーに顔を向けた。「お前はこの船を知っているのか?」
「はい。」若者は答えた。「3年くらい前のことですけど、ラインゴルトがドックに入っている時に、この船の営繕長だった兄貴に頼み込んで船の中をこっそり見せてもらったことがあるんです。その時に、このガラスで出来た電気ランプを見ました。」と言って彼は、壁に取り付けられた凝った造りの照明器具を指差した。半透明の乳白色のガラスに水浴びをする3人の裸身の乙女の姿が巧みに彫り込まれている。「兄貴は言ってました。これは、ラディックとかいう売れっ子のガラス職人がつくった作品だけど、その職人が亡くなったので、このきれいなガラスのランプは、世界で唯一、この飛行船でしか見られないんだって。」
 不気味な沈黙が空賊たちの間に広がった。
 シャープは、当然その原因を理解していたが、「それで、お前はこの船が幽霊船だと思うのか?」と若い空賊に聞いた。
「幽霊船?とんでもない。」シュナイダーは、首を振った。「見ての通りこれは本物の飛行船です。ラインゴルト号は、生きて還ってきたんですよ。きっと俺の兄貴もどこかにいるんだ。」彼の眼は希望に輝いていた。
「その通りだ。シュナイダー。さあ、お前の兄貴を探しに行こうじゃないか。」陽気に言ったシャープ船長は部下の肩をたたくと、「よし、兄弟たち、行くぞ。」と先頭に立って足早に進み始めた。
 手下たちは、「おう。」と威勢よく答えて、後に続いた。

 旅客区画が終わると、通路は再び簡素になった。両側に大きな半円形の窓がいくつも設けられており、船首が近いため、先へ行くに従って上に向かう勾配が強くなっている。ここも照明は点いているものの、船員の姿は全くなかった。
 感覚を研ぎ澄ましているためか、しばらく忘れていたあの生臭い臭気が再び気になり始めた。およそ飛行船には似つかわしくない臭いだ。
「この船の中には水族館でもあるのか?」シャープは、周囲を見渡したが、においの正体を暗示する徴候はどこにも見つからなかった。
 「燃料庫」「水タンク」と書かれた扉の前を通り過ぎ、無線室と郵便荷物庫を過ぎると、床の右側の一部が開け、そこから下に向かう梯子が下に続いているところがあった。
「ここだ。ブリッジはこの下だぞ。」セドリック・シャープ船長が言った。
「船長、俺が先に行く。」斬込隊ではリーダー格のギャグニーという男が進み出ると、床に伏せ、床に開いた開き口に這いよると、大型拳銃を構えながら梯子の下の部屋をのぞいた。「ブリッジだ。だけど、誰もいねえ。人っ子一人いねえ。」
 半ば予期していたことではあったが、多くの空賊たちの顔には恐怖と当惑が表れていた。
「とにかく降りてみよう。」船長に促されて、ギャグニーがまず最初に梯子を下り、次にバラキエフ副長、そしてシャープ船長が下に降り、手下たちも後に続いた。
 ほとんどの居住区を船体の中に収めた硬式飛行船の中では、ブリッジ、つまり船の司令部が置かれたゴンドラは、ごく小さな部分に過ぎない。しかし、それでもゴールデン・ウォーラス号のそれに比べれば2倍以上、中型の漁船くらいの大きさがあった。
「俺たちの中には、操縦士が誰もいないな。」バラキエフがつぶやいた。
「ああ、うっかりしていたぜ。本当に誰も乗っていないとは思ってなかったからな。」シャープが答えた。
 バラキエフは、「俺は、若い頃、輸送船の操舵手をやったことがあるし、空賊船でもバラストやガスの放出を手伝ったことがあるから、なんとかなるかも知れません。」
と答えた。
「そうか。だったら、頼むぜ。舵を取ってくれ。」シャープは喜んで言った。
 副長は試しに昇降舵を右に回してみた。傾斜計の針が少しだけ動いた。
「舵はちゃんと効くか。」船長が聞いた。
「大丈夫です。」副長は自信を持って答えた。「下に向かってますよ。」
「よし、舵を戻して高度を一定に保ってくれ。」
 副長は舵を回して昇降舵を水平に戻した。それから、舵の上に両手を置き、「さて、これから、どうします船長?」と問いかけた。「どうも俺はこの船が気に入らんのですがね。人の気配がどこにもないくせに、何かこう肌がヒリヒリするような、やばいことがそこまで迫っているような嫌な感じがさっきからしてるんです。」
 シャープも同じことを感じていたのだが、敢えて口に出さず、「これまでに、そんなヒリヒリする感じを感じたことはあるか。」と聞いた。
「ありますよ何度も。」と副長。「そういう時は必ず死人が出るんです。」
「なるほど。」シャープはうなった。
 船長を信じる乗組員たちが、じっとこちらをうかがっている。
「よし。」シャープ船長は決心して、命令を下す。「ざっと船内を調べてみよう。だが、もし、やばそうなことになったら、すぐにゴールデン・ウォーラスに戻るとしよう。」
 シャープは、二人の手下を指名して、エンジンの様子を見に行かせることにした。この飛行船が、ディーゼルオイルを燃焼させてプロペラを駆動させているのを確認すれば、これが幻ではなく現実の飛行船なのだと実感できそうな気がしたのだ。二人には、少しでも危険があればすぐに引き返してくるようにと言い聞かせておいた。
 彼らが緊張した様子で出ていくと、シャープたちはブリッジの中を細かく調べ始めた。
 360度ガラス窓の視界良好な操縦室だ。ゴンドラは下に行くほどすぼまっているから、窓は斜めになっていて、顔をくっつければ、真下を望むことができる。だが、今は何も見えずただ黒い空虚が広がっているだけだ。
 一番先頭に大きな舵輪があり、さらにその左側にも舵輪がある。前者は左右の向きを変える方向舵に、後者は上下の動きをコントロールする昇降舵につながっている。その周辺に大きなジャイロコンパスや速度計、高度計、傾斜計、それにエンジンの状態を示す計器類がぼんやりとした光を放っている。異常な数値を示しているものはないかバラキエフがひとつひとつ確認していく。
「現在の高度は1500メートル。速度は120キロ。風向きは南西の風、5メートルです。エンジンは8基とも順調。少し水素ガスが足りなくなっていますが、すべて異常なしですな。それに、自動操縦装置まで付いていますよ。」と副長が報告する。
「燃料は?」船長が尋ねる。
「あと2日は飛べます。」
「そうか。船体にも操縦系統にも異状はないし燃料も十分に積んでいるんだとしたら、この船に何か事故が起こって、乗っていた連中が脱出したというわけではなさそうだな。ルスラン、こいつを俺たちの島まで操縦することはできるか?」
「リバタリアまでですか。200キロはありますぜ。」俄か操縦士は困惑した表情を見せたが、「まあ、やってみましょう。」とやや小さな声で頷いた。
 船長は、懐中電灯を持っている手下の一人に、母船に向かって、「ワレキチニムカウ」と電燈暗号を送るように命じた。懐中電灯を明滅させ、一味だけに通じる符牒で合図を送ると、少しの間をおいてゴールデン・ウォーラスの方からも、明滅する光で、「リヨウカイ。ワレモムカウ。」と返信が有った。
 すぐにバラキエフが舵輪をぐるぐると回し、巨大な飛行船は大きく回頭した。
天高く上がってきた円い月が、周囲の雲を幻想的な蜂蜜色に染め上げている。右側の窓からは、彼らの母船がくっきりと天空にシルエットを描いているのが見えた。
 空賊たちは、操縦室内をさらに調べた。舵のすぐ後方には、重りの水を放出するバラスト制御装置と飛行船を浮揚させる水素ガスを放出するガス制御装置が設けられていた。右側の窓には電信機が取り付けられているが、今は何も音を発していない。
 これら操縦スペースの後ろには、航法スタッフが仕事をするための、コンパスが埋め込まれた机と、着陸時の誘導に使う電波受信機が据え付けられている。
 すべては整然と整えられており、予期せぬ厄災に見舞われたことを示すものは何もない。
「あの、船長。」シュナイダーがおずおずと申し出た。「船の中を見てきていいですか?俺の兄貴を早く見つけたいんで。」
「まあ、待て。」シャープは、年若い部下の一途な眼差しを受け止めて、答えた。「ここを調べ終わったら、船内を捜索するから。」
「分かりました。」シュナイダーは頷いたが、辛うじて感情を抑えていることが見て取れた。
船長はそれに頷き返し、「それにしても、エンジンを見に行った二人は遅いな。そんなに遠くないはずなんだが。」と誰に言うともなくつぶやいた。
バラキエフが「1基ずつ全部見て周ってるのじゃないですか?だとしたら、まだまだ時間がかかるはずです。」と言った。
「そんなことを頼んではいなかったんだがな。」シャープ船長は、心配のため苛立って腕時計に目をやった。彼らを最後に見てから20分以上が経過している。一番近いエンジンなら、5分少々で戻って来られるはずなのだ。
 すぐに連中を探しに行くべきかと迷っていたその時、航法デスクの上に置かれた一冊の冊子が目に入った。水色の古びたノートブックで、堅いしっかりとした表紙に手書きで「航空日誌」と端正に記されている。 
「そうだ。なんで気が付かなかったんだ。」シャープは額をぴしゃりと叩いた。「航空日誌だ。これを調べたら、この飛行船に何が起こったかがわかるじゃないか。」
 早速、彼はそのノートを開き、一番最後のページまで繰っていった。最後の書き込みは、1917年6月10日となっており、「15時の方向に小島発見。航空図になし?」との文句が書き込まれていた。
「おい、これって・・・」船長は、それを腹心のバラキエフ副長に示した。大きな躰を折って、副長は覗き込み、顔色を変えた。「これは、もしかして、ラインゴルトが遭難した日ではないですか。」
 シャープは、シュナイダーを手招きして、航空日誌のその個所を指で指し示した。「1917年6月10日っていうのは、ラインゴルトが連絡を絶った日か?」
 若い空賊は、「そうです。間違いありません。」と即答した。「忘れられるわけねーです。あの日です。でも、どういうことなんでしょう?なんで、この日で日誌が終わっているのか・・・」彼の顔に不安が、吸い取り紙に染み渡るインクのように広がっていく。
「わからん。」船長は、正直に言った。「この飛行船の中を見た感じじゃ、2年も前から人が乗っていないとはとても思えないんだが・・・この航法デスクにしたって塵一つないし、ついさっきまで航法士がここで作業をしていたような感じだからな。」シャープは、手で周囲を指し示した。
 バラキエフ副長が、「でも、ここにクルーが居たのなら、航空日誌も書いているはずですぜ。」と当然の疑問を呈した。
「全くだ。そうでなきゃおかしいよな。」シャープ船長も認めた。
「もしかして、」シュナイダーが口を挟んだ。「2冊目があるのかも。」
「まさか。ノートにはまだ白紙がいっぱい残ってるぜ。」シャープは眉をひそめたが、バラキエフは、「でも、いちおう調べてみましょうや。」と提案した。
 そこで、船長と副長は、航法デスクの引き出しや本立てを片っ端から調べて行った。だが、見つかったのは、より古い日付けの航空日誌1冊とあとは地図や手順書ばかりだった。
「もう一度さっきの航空日誌を見てみようか。」そう言って、机の上に手を伸ばそうとしたシャープは、「おい、ないぞ。航空日誌がない。」と叫んだ。
「本当だ。航空日誌が消えている。」バラキエフも驚いて、机の上や下や引き出しの中を探した。ほかの書類に混じってしまいこんでしまったのだろうと思い、しつこいほど何度も探したのだが、あの青いノートブックは出てこなかった。
「ついさっきシュナイダーに見せたばかりだぞ。それから誰もこの航法デスクには近付いちゃいない。」シャープ船長が言った。
「そのとおりです。唯一の例外は、」と言ってバラキエフはシュナイダーに鋭い目を向けた。
「え、俺?俺が盗ったって言うんですか?」若者は、驚愕して目を見開いた。「とんでもない。だって、船長も副長もずっと見ていたでしょう。」
「そう。全くその通り。俺はお前を疑ってなんかおらん。だが、悪いが念のため改めさせてもらうぞ。」副長は、シュナイダーの袖の下や飛行服の合わせ目などを手で探って調べ始めた。
「疑ってるじゃないですか。」シュナイダーは、憤りをあらわにしたが、副長は気にも留めなかった。
 シャープ船長が見かねて、「もういい、ルスラン。彼は盗ってなんかいない。」と止めた。
 バラキエフは、「持っていないようですな。」と頷き、「悪かったな。シュナイダー。」と詫びた。
 シュナイダーは、「気にしなくていいっすよ。」とボソッと答え、すぐにそっぽを向いた。
 シャープは、「まったくおかしなことばかり起こる船だな。航空日誌が無いんじゃ、ここで何があったのか知りようもない。やはり、引き上げた方がいいか…」と弱気になった。
 その時。
「船長、あれ。」手下の一人が、窓の外を指差した。ゴールデン・ウォーラス号が、ライトを点滅させて合図を送っている。手下がそれを解読して告げる。「燃料漏れであと少ししか油がないから、カンフォーラ島に向かうって言ってますよ。」
 カンフォーラ島というのは、このあたりでは一番近い飛行船繋留施設がある空の島で、空賊仲間にしか知られていない「秘密の入り江」のような場所なのだが、最近は住む人もなく打ち捨てられていると言う噂もあり、燃料の蓄えがあるのかは、不明だった。
「カンフォーラ島を目指すって、よっぽど切羽詰ってんだな。」手下の空賊たちが不安そうに言葉を交わした。
「あの島には、こんなデカい飛行船を留めることはできないですよ。」副長が船長に意見した。
「ああ。俺たちは、このままリバタリアを目指すしかない。」シャープは頷いた。
「あちらの乗組員をこちらに回収することもできますが。」副長は、それほど薦めるつもりはないという調子で言った。
「それは、だめだ。ゴールデン・ウォーラスを失うわけには行かないからな。」船長は、きっぱり首を振った。
「そうですな。」副長も頷く。
 シャープ船長は、母船に向かって、「リヨウカイ。ワレハリバタリアニムカウ。コウウンヲイノル。」と信号を送らせた。向こうからは、「リヨウカイ。」との返信。2船は、別々の方角へと別れることになった。
「やれやれ、俺たちは、この薄気味の悪い飛行船と一蓮托生になっちまったぞ。」シャープとバラキエフは顔を見合わせた。不味い状況になったら母船に戻れるという安心感はもうなくなってしまった。
「まあ、ゴールデン・ウォーラスが燃料切れ寸前なんだから、むしろ渡りに船だったと言えますね。こちらに来てる人数分でだいぶ重量は減ったはずですから。」バラキエフが言った。
「そうだな。さあて、しばらくはこの船から逃げられないのだから、じっくり中を見て回ることにするか?」と言って部下たちを見回したシャープ船長は、その中に一番年下の童顔が見当たらないのに気付き、舌打ちした。「おい、シュナイダーの野郎がいないぞ。」
「本当だ。あいつ、勝手に一人で行きやがったな。」とバラキエフも腹立たしそうに言った。

 月光が差し込む舷側通路を船尾に向かって歩く一つの人影があった。まだ髭も生えそろわないあどけない顔には不安と焦りが広がっている。ここまでひとりで広い船内を捜索して来たが、豪華な旅客スペースにも船員の居住区にも人っ子ひとり見つからなかったのだ。
「兄貴。どこにいるんだ。いるんなら、出てきてくれよ。」シュナイダーは心の中で呼びかけた。
 町の不良少年たちの仲間入りをして親からも見限られた自分と違って、誰からも尊敬される秀才で、難関のDRAG社の選抜試験を突破し、空の豪華客船の士官になった兄。自分とは正反対なのに、何故か彼だけは、いつも出来の悪い弟を大らかに受け入れてくれた。飛行船乗りになることを勧めてくれたのも兄だった。結局、自分は道を誤って空賊稼業に入ってしまったけれども。
「どこにいるんだよ。兄貴。」涙で視界がかすむ。
 廊下は、わずかにカーブしながら先へ先へと続いている。赤い絨毯を敷いた床に降り注ぐ眩いほどの月の光。平和で心落ち着かせる情景は、ここが1500メートルの高所だということを忘れさせた。
「あ、あれは。」シュナイダーは、前方に目を凝らした。
 廊下の先に動くものがあった。人だ。この船に乗り込んで初めて出会う人の姿。こちらに背中を向けて足早に歩いている。船員の白い制服に白い帽子。短く刈った髪。たくましい背中に、引き締まった下半身。わずかに右に傾ぐ独特の歩き方。
その後姿はよく知っていた。
「兄貴!」若者は、狂喜して叫んだ。
 しかし、呼ばれた方は振り返りもせずどんどん先へ進んでいく。聞こえなかったのか?
 シュナイダーは走り出した。
 兄らしき男は、廊下を右に曲がった。シュナイダーがその曲がり角に来ると、そこから飛行船の中心部分に向かって延びる昇り階段が暗闇に口を開けていることが分かった。
「こんな向きに階段が付いてるなんて、変だな。」若者は、立ち止まった。通常このあたりは水素ガスを詰めた気嚢で埋め尽くされているはずで、外壁から真っ芯に向かう階段などあり得ないように思えた。
 しかし、現にそれはあった。先の見えない闇の中から、あの正体不明の生臭いにおいが吹き付けてきて、シュナイダーに悪寒を感じさせた。出来ることなら、この先には進みたくない、と痛切に思った。しかし、兄はここを昇って行ったのだ。だから、後を追わなければならない。
 ほとんど何も見えない狭い階段を、手で壁を探りながら、シュナイダーは上がっていった。金属性のステップを踏む音が、不気味に反響した。
 10数段上がったところで、階段は行き止まりになっていた。
 当然、ここには扉があるはずだと考え、シュナイダーはノブを手探りした。あった。右手でつかんで右にひねるとノブは軋みながら回り、前方に押すと扉はあちらに開いた。
 ほのかな光と、何とも言えない不快な臭いが漏れ出してきた。
 思わず鼻と口を手で押さえながら、中を覗き込んだシュナイダーは、声を失って、その場に凍りついた。それは、あまりにも予想外で信じがたく、かつてどんな悪夢の中でも見たことのない程におぞましい光景だった。
 立ち尽くす彼の後ろで、独りでに扉が閉まった。シュナイダーの口から絶望に満ちた叫び声が発せられた。

 ブリッジでは、セドリック・シャープ船長が航法デスクに向かい、六分儀と鉛筆を手に持って、航空図に正確な針路を描こうとしていた。進むべき方角を確定すれば、後は自動操縦装置にそれをセットして、しばらくはブリッジを無人のまま残し、全員で船内を捜索しようという考えだった。もうこれ以上、仲間がばらばらになることは避けなければならないからだ。
 船長たる者、例え空賊船であっても、多少は航法が分かるのが常である。空の男たちは、飛行船の針路を定めることもできない者に船長を任せることを良しとしないからだ。シャープ船長も、普段は針路の確認は航法士に任せているが、いざとなれば自分で航空図に線を引くことは出来た。
「よし、現在位置がはっきりしたぞ。10時15分に針路をとって、自動操縦装置にセットしてくれ。」船長はバラキエフ副長に指示した。
「了解。」副長は手際よくそれを実行する。
「さてと、では、この怪物の中を探検してみよう。まず、厨房に行って食い物を探そうぜ。腹が減って仕方がないからよ。」
 とシャープ船長が言ったその時、ブリッジの中でけたたましいベルの音が鳴り出した。
「なんだ、これは。非常ベルか?」シャープたちは音の出どころを探そうと、あたりを見回した。
 ベルの音は、ゴンドラの一番後ろから聞こえてくる。
「これだ。」空賊一味は、そこに非常警報装置があるのを発見した。装置には飛行船の断面図が描かれており、描かれた区画ごとに小さな表示灯が付いている。そのうちの一つが赤く発光していた。「第7ガス嚢」の文字がある。
「シュナイダーか最初に偵察に行った連中が助けを呼んでるに違いない。」バラキエフ副長が言った。
「ああ、何かまずいことが起こってるみたいだ。行こう。」船長はピストルを引き抜いて、駆け出した。手下たちもすぐにそれに続く。
 ブリッジの梯子を昇り、竜骨通路に出ると船尾方向に向かって走った。
 旅客スペースを通り抜けようとしていると、照明が付いたり消えたりを繰り返すようになった。そして、暫く後には完全に消えてしまった。
 あたりは隣にいる仲間の顔も分からないくらいの暗黒となった。
「畜生。何から何までうまくいかねえな。」船長が珍しく愚痴めいた悪態をついた。
 手下の一人が一つだけ手元にある懐中電灯を付けた。無いよりましだが、この乏しい明かりでは敵に襲われたりした時を考えると心もとない。
「こういう大きな客船には、散歩用の舷側通路が横っちょに付いていることがありますよね。」副長が進言した。「今夜は月が出ているから、舷側通路ならかなり明るいはずです。」
「でも、これまで見た限りではそんな通路は無かったぞ。」
「この先に上に行く階段がありましたよ。階段の上は客室とか展望ラウンジとかがあるはずですが、そこから外側のプロムナードに出られるかも知れません。」
「よし、それだ。上の階を見てみよう。」シャープは元気を取り戻し、「みんな離れずについて来いよ。」と先に立って進み始めた。
 懐中電灯の光を頼りに、滑らかな木の壁を触りつつしばらく行くと、上階に上がる階段のところに来た。シャープたち5人は、そこを昇り、船客用メインデッキに出た。
 展望窓から差し込むやわらかな月光が男たちの緊張を和らげた。こちらも電燈が消えていて、詳しくは様子が分からないが、何本かの廊下が飛行船の前後方向に対して横向きに伸びており、そこに客室が並んでいるようだ。壁も天井も磨き上げた上等の木材でつくられている。
 客室区画の舷側は広いラウンジになっていて、下界を眺められるよう下向き45度の角度で取られた大きな窓から月の光が注ぎ込み、椅子や低いテーブルが長い影を引いている。ラウンジの船尾方向には、副長が予想した通り、散歩用の通路がつながっていた。
「こっちだ。」副長が手で指示し、急いでその通路に向かう。
 半ば下向きに付いた窓が2メートルおきくらいで続く通路は、月の光にあかあかと照らされていた。窓から外をのぞくと、複雑に入り組んだ雲の峰々が、或るところは昼間のように照り輝き、或るところは謎めいた闇に沈む、淡い光と影のグラデーションを描いていた。
「どこかでベルが鳴っている。」
 空賊の一人が気が付いた。廊下の前方から、非常ベルと思われる連続音がかすかに聞こえてくる。どこか壁の向こうから漏れてくるような間接的な聞こえ方である。
 先へ進むと次第に音は強まり、廊下の中途に現れた、飛行船の中心方向に向かう別の通路…それはすぐに昇り階段となっている…のところで、急に大きくなった。ベルは、この階段を上った先で鳴っているらしい。真っ暗な階段からは、腐った魚を思わせるあの不快な臭いが、死神の吐息のように吹き下ろしていた。
「武器を用意しろ。」
 船長が命じ、みなはピストルかカットラス(斬り込み刀)を手に取った。バラキエフは右手にピストル、左手に刀を提げた。
 ひとつだけの懐中電灯の光を頼りに、階段を上がっていくと、すぐに扉の前に行き着いた。ギャグニーが扉を押し開いた。ぼんやりとした光と一緒になって、強烈な臭気が外へあふれ出した。
 中を覗く。
「何だ、これは。」命知らずの空賊が驚異に打たれて立ちすくんだ。
 次々に部屋になだれ込んだ残りの4人も、しばらくは驚きのあまり声が出なかった。
 水素ガスが充満した気嚢があるはずのこの場所に、小さな教会堂なみに広い空間が広がっていた。しかし、その壁は、あるいは天井や床にあたる部分も含めて、人工の構造物ではあり得ない、ぬらぬらと潤み、不規則に褶曲し、不気味に蠢動する、生物めいた様相を呈していた。さらに嫌悪感を掻き立てるのが、耐えがたいほどの臭気だ。魚が腐ったような臭いに、さらに禍々しい異臭が混じりあっている。それは、荒っぽい世界に身を置く空賊たちには既に経験のあるものであったが、それが何であるかはすぐには思い出せなかった。
 5人の空賊が立っている場所は、柔らかく弾力があり、黄色く濁った粘液のようなもので覆われていた。粘液の下からは、無数の微小な緑色の光点がほのかな光を灯している。それは、丸みを帯びた広間の壁面全体から万遍なく発していた。
「夜光虫に照らされた胃袋の中って感じだな。」
 バラキエフ副長の口から洩れた言葉は、この奇怪な光景を的確に表していた。それだけでなく、ほとんど事実に近かったのである。予想外な眺めを徐々に頭の中で整理して理解するうちに、ここが何らかの生き物が獲物を捕らえ、保管し、咀嚼あるいは消化する場であるらしいことが分かってきた。
 獲物とは人間であった。
 ぬめぬめとした床や壁面に、たくさんの人間の肉体…の残骸…が、襞の中に半ばもしくはほとんどが埋もれているのが見える。それらが第二の異臭の源なのだった。その数は十や二十ではきかない。
 死体の一部はバラバラになった白骨で、頭蓋骨がなければヒトのものとは分からなかった。中には、粘液で溶かされ、輪郭を失っているものもある。だが、より酸鼻なのは、腐敗し、爛れ崩れた肉体をまだ残しているものだ。
「うへえ、この嫌な臭い。たまらねえや。」ギャグニーは努めて陽気さを装ったが、その声はやや震えていた。
 彼らの目の前に、一部白骨が覗く、上流階級らしいシルクのスーツを着た大柄な死体が、項垂れて座り込んでいた。その顔面の肉はずり落ちて、薄茶色の髪の毛が、あごや胸骨の位置に張り付いている。正視できない無残な姿だが、臭いも耐えがたいもので、シャープたちは皆、マフラーで鼻や口を覆って、出来るだけ直に空気を吸い込まないようにした。
「おい、あれは。」空賊の一人が奥の方を指差した。懐中電灯が、そちらに向けられた。二人の男のまだ真新しい骸が壁の襞に捕らわれている。見覚えのある空賊風のいでたち。
「もしかして。」シャープたちは、そこまで、ぬめぬめとした床を、横たわる死体を避けながら近寄って行った。
「ああ、やっぱりそうか。」5人の空賊は無念の声を漏らした。
 それは、1時間弱くらい前にエンジンを見て来るように命じられて出て行ったきり帰ってこなかった二人の仲間に違いなかった。恐怖の表情のまま硬直したその顔を見れば、既にこと切れていることは明白だった。
「非常ベルは、こいつらが鳴らしたんでしょうかね。」バラキエフ副長が、痛ましそうに彼らを見つめながら言った。いつの間にかベルの音は止んでいた。
「どうかな。あれが鳴り始めたのは、そんなに前のことじゃなかったから、違うかもな。」
「エンジンを見に行ったはずなのに、こんな所にいるのも不思議ですね。」
「まったくだ。何かが、二人をここに引きつけたのかも知れんな。もしかすると、シュナイダーの奴もここにいるかも知れないぞ。」
 船長は、手下の手から懐中電灯を取って、薄ぼんやりとした緑の光で満たされた空洞の中に光線を走らせた。
「いたぞ。あそこだ。」シャープ船長が指差した先に、床に埋もれながらも、顔と手を必死に外に出してもがいているシュナイダーの姿があった。
「まだ生きているぞ。」
 仲間たちは、不定型の床に足を取られながら、そこまでたどり着いた。
 見ると、彼がはまっている付近だけ、肉の壁が激しく蠢動し、この若者を破滅へと引きずりこもうとしていた。
 シャープとバラキエフは、その周辺に銃弾を何発も打ち込んだ。
 蠕動が小さくなった。
「早く。早く引き出せ。」シャープ船長は拳銃をしまうのももどかしげに、シュナイダーの手を取り、もう一方の手をバラキエフ副長が握って引っ張ったが、深くくわえ込まれた体は、少しも動かず、ただ若者に悲痛なわめき声を上げさせただけだった。
 ほかの3人の空賊が、粘つく床の上に尻をついて寝そべり、シュナイダーを挟んでいる襞の一方を、3人分の脚力でもって押し広げようと試みだした。すると徐々にだが、シュナイダーの体が、上に引き出され始めた。その口からは、「痛い。やめてくれ。」と悲鳴が上がり続けているが、構ってはいられない。
 胸の下くらいまで外に出ると、バラキエフが両脇から若者の体に手を回して抱きかかえ…2人を比べると大人と子供ほどもの体格差がある…人並み外れた下半身と背筋の力でもって、ぐいぐいと引き出し始めた。
「がんばれ、もう少しだ。」顔を引きゆがめて壁を蹴り押しながら、ギャグニーが叫んだ。
 だが、残るはふくらはぎから下だけという時に、副長は足を滑らせ、粘液にまみれたクレバスにはまり込んでしまった。
 再び勢いを得たかのように、クレバスの飲み込む動きが復活した。
「ルスラン。捕まれ。」
 シャープは、手を延ばした。バラキエフは、素早くそれに捕まる。船長は両手でその手を掴みながら後ろに倒れ込み、全体重を使って腹心の部下を引っ張った。
 まだ、深く挟まれていなかったので、副長の重い体はすぐに引き出された。
「ふう。命拾いしたぜ。」さすがに恐怖を覚えた副長は冷汗をぬぐったが、すぐに船長に手を貸してシュナイダーの足を引っ張り出して、割れ目から離れた、蠕動の少ない、安全そうな場所まで運んで横たえた。
 空賊たちは、荒い息をしながら、座り込んで一息ついた。
「おい、大丈夫か。」
 声をかけられたシュナイダーは、恐怖で言葉を忘れたか、どもりながら、
「あ、兄貴が。お、お、俺の兄貴があそこに。」と絞り出すように言った。
「なんだって。」船長らは聞き返した。
「あ、あそこに。」
 指差す先の肉壁に、磔刑に処されたように手足を伸ばしてはりつけられた男の姿があった。飛行船員だろうか。ブレザーの士官制服を着た、背の高い金髪の青年。
 見たところ、生きているようだ。しかし、手足の先端部がみな肉壁に埋まっており、さらに頭部にたくさんの細いチュウブのようなものが食い込んで肉壁に繋がっている。体は骨と皮ばかりにやせ細っているが、顔だけは血色もよく健康そのものなのが異様だった。
 見開いたままの青い目は、どこも見ておらず、間近まで来た空賊たちにも何の反応も示さない。ただ夢見る表情で口を半開きにしていた。
「どうします。」ギャグニーは、あからさまに面倒くさそうに船長と副長を交互に見やった。
「どうしますって、生きているのに、置いていくわけにはいかんだろう。」シャープは、カットラスで、思い.切りよく胃壁とつながったチュウブを断ち切っていった。全部斬り終わった時には、青年は目をさまし、驚いた顔で、自分を取り囲むタフな顔つきの男たちを見回していた。
「お前たちは、何者だ。」
 声は小さかったが、上から人にものを言うのに慣れた堂々とした態度だった。
「ご挨拶だね。」バラキエフ副長が鼻を鳴らした。「あんたは、この化け物の餌にされかかっていたのを、助けてやったというか、助けてやろうとしているんだよ。あんたの弟の頼みでな。」と、座り込んで目を見開いているシュナイダーを顎で示した。
「カール。」かすれた声で、シュナイダー兄は叫んだ。「どうしてお前が、ここに。」
「今は、そんなことを説明している場合じゃない。」シャープは、そう言って、刀で胃壁に埋まった飛行船員の右掌を抉り出しにかかった。部下たちも素早くそれに倣って、左手や両足先にとりかかった。
 魚臭いにおいを放つ、気味の悪い肉の塊を付けたまま、シュナイダー兄は怪物から切り取られたが、全身の筋肉が退化して、立つことすらできない様子だった。
「しょうがねえな。おい、ビリー、お前が背負ってやれ。」と船長は、体格の良いギャグニーに命じ、もう一人の手下にはシュナイダー弟に手を貸させた。
「さあ、まずは、この穴倉から、おさらばするぞ。」
 シャープは仲間たちとともに、入り口があったと思われるあたりに向かって、歩きにくい襞襞を乗り越えて進んで行った。
 だが、「おさらばする。」というシャープの言葉に反応したのか、突如として、褶曲し蠢く動きが、この呪われた聖堂中で活発になった。
「うわっ、助けてくれ。」
 叫び声をあげた一人の空賊が、底なし沼に踏み込んだかのように、床に沈み込み始めた。
 シャープとバラキエフは、拳銃を仲間が飲み込まれていくあたりの肉壁に連射した。だが、今度は、飲み込んでいく速度が早すぎた。不運な空賊は、聞くに堪えない恐怖と絶望の叫びを上げながら、ずぶずぶと沈んでいき、たちまちにして見えなくなった。
 シャープやバラキエフにそれを嘆いている暇はなかった。彼らの足も粘液まみれの胃壁に捕らえられ、引き込まれ始めたからである。
「畜生、離しやがれ。」猛り狂った男たちは、刀で切りつけ、あるいは銃弾を乱射して応戦したが、悪夢の洞窟はさらに凶悪な正体を露わにして、無数の襞の中から強靭な蔓状の触手を次々に延ばして、獲物に襲いかかってきた。そこに付いている無数の鋭い棘が丈夫な飛行服をも貫いて、体まで食い込んで来る。
 空賊たちは、刀で触手を払いのけ、斬りつけて、身を守るための絶望的な戦いを強いられることになった。
「こいつは、飛行船なんかじゃない。化け物だ。」シャープ船長は叫んだ。「みんな、死に物狂いで戦え。諦めるんじゃないぞ。」
 だが、そう言う間にも、手下の一人の首に触手が巻き付いたと見る間に、鮮血が噴出し、手下は武器を取り落して絶命した。
「くそったれ。」目に涙を浮かべたシャープは、刀を振り回し、鞭のように襲い来る触手を次々に切り落とした。
 ほかの男たちも果敢に戦ったが、シュナイダー弟の方が、刀を、巻き付いてきた蔓に取り上げられ、さらに足を払われて転倒した。
 それを見て、副長が、「船長。ここは逃げるしか手はないですぜ。」と叫んだ。
「分かった。」シャープは、武器をしまうと、俊敏な動きでシュナイダーを助け起こし、続いて空気を切り裂く音とともに襲いかかってきた触手を体を沈めてかわした。
 バラキエフは兄の方に手を貸し、5人は出来る限りの速さで、入り口があったと思われる場所まで急いだ。
「この辺ではなかったかな。」船長は、悪臭漂う巨大な洞窟の端に出来たくぼみを手で押した。そのあたりだけ、長方形の扉の形に壁が平らになっている。
 またしても襲いかかってきた触手をギャグニーがカットラスで払いのける間に、巨体のバラキエフが、扉の跡に体当たりした。目に見えて壁がへこみ、反対方向に伸びたのが分かった。
「この部分は、薄くなっている感じです。」副長は言った。
「よし。みんなで一斉にやってみよう。」
 船長の命令で、空賊たちは負傷者を下ろし、3人一斉にくぼみにぶち当たった。肉の繊維が伸び切り、扉の形に肉壁は外に向かって開いた。
 空賊たちは、勢い余ってその先の階段を転がり落ちた。階段の下には舷側通路があるはずだったが、今やそこには何もない夜の虚空が口を開いていた。月明かりに照らされていたあの通路は消え失せていた。互いに絡み合って落ちて行きながらも、恐ろしい事実に気が付いて男たちの顔は恐怖に凍りついた。しかし、外に飛び出す寸前、あと2段を余すばかりのところで、大柄なギャグニーが、階段の狭すぎる横幅に体がつっかえて止まり、残る2人をストッパーとなって堰き止めた。
 彼らは奈落の僅か手前で辛うじて踏みとどまったのであった。
団子状態になって積み重なった中から、「おうい、大丈夫か。」とシャープ船長が声をかけた。ほかの2人からはうめき声が返ってきた。
「一番下にいるのは誰だ。」と聞くと、
「俺です。ギャグニーです。」
「骨は折れてないか。」
「バカにしないで下さいよ。シャープ一党の斬り込み隊長が、これくらいで壊れるわけねえでしょう。」とギャグニーは強がったが、かなり痛そうな様子。
 上に載っていた二人は打撲の痛みに悪態をつきながら立ち上がり、手を貸してギャグニーを引き起こした。
 吹きさらしとなったその場所は身を切るような寒さだ。烈しく吹き付ける風が、容赦なく体温を奪う。体感温度は軽く氷点下に達しているだろう。時折、薄い絹雲が通過すると、氷の薄片がいくつも顔や飛行服にピシピシと当たって砕けた。
 身をすくめながら、月明かりを頼りに周囲の状況を見ると、階段の様子が来た時とは違っていた。横の壁は軟体動物の皮膚を思わせる弾力のある粘膜に覆われているし、鋼鉄の階段も半ばまで生物の一部と化している。
「擬態生物が元の姿に戻ろうとしてるんだな。」シャープ船長は、顔を曇らせた。
「え、これは飛行船ではなかったんですか?」バラキエフらは、よく呑み込めずに聞き返した。
「ああ違う、きっと、こいつは擬態生物ミメシスだ。」
「ミメシス?」
「詳しいことは後で話す。ここもそのうち危なくなるぞ。」
 シャープは、手すりも何もない開口部から外を覗いた。
 月明かりに照らされた彼らの乗り物は、名状し難い異様な姿に変容していた。
 もし飛行船であれば、その位置…舷側通路が取り払われた場合ということだが…からは、船首、あるいは船尾に向かって徐々にすぼまってゆく美しいラインを望むことが出来るはずだった。しかし、彼らが命を託す乗り物には、今や飛行船の形をとどめている箇所はわずかで、大部分は、ぬめぬめと光る皮膚で覆われた、怖気を震わされる生物へと変貌していた。
 船首だったはずの方向は、彼らの位置よりもずっと太く膨らんでおり。巨大なタンクを思わせた。気味の悪いことに、そこには牛1頭ほどもある大きな眼球状のものが付いていて、月明かりを反射して、銀色に光っていた。タンクには、まだアルミ塗料を塗った飛行船の被膜が残っているところもあり、ゴンドラのなれの果てと思しき出っ張りも遠くに見えた。
 船尾方向は、さらに飛行船とはかけ離れた姿へと変じつつあった。船体は、いくつものぬらぬらとくねる細長い部分へと分裂し、ゆらゆらと揺れているのだが、その先っぽに巨大な尾翼がまだ完全に残っているのが、異様だった。
 細長く伸びた尾っぽのようなものは、数えてみると8本あった。
「タンクみたいな頭に、真ん円い目、8本の足とくりゃ、これは間違いなくタコの仲間だな。」とバラキエフ副長が、目の前の光景に見入りながら言った。
「ああ、ミメシスは浮遊蛸とも呼ばれるタコの仲間だ。」シャープ船長が応えた。「元々は海にいた蛸が、体の中に水素を蓄えられるように進化して、空に浮かぶようになったんだそうだ。」
「ターネエフの進化論というやつですか?そういえば、タコも擬態が得意でしたね。」
「ああ。おまけに恐ろしく頭が良くて狡賢い。獲物をだまして罠にはめる天才だ。たいていは、空に浮かぶ島に擬態して、止まりに来た鳥を餌食にするんだが、まさか飛行船に化けることまで出来るとはな。」
「と言うことは、やはり、ラインゴルト号は・・・」
「ああ、多分、このタコの化け物に食われちまったんだろう。」
「それじゃあ、あいつは、」と言って背後を振り返ったバラキエフは、「うわっ」と飛び上がった。
 そこには、互いに支えあって降りてきたシュナイダー兄弟の姿があった。
「幽霊め、地獄に戻りやがれ。」ギャグニーがピストルを抜いて、兄の方を撃とうとした。
「やめろ、ビリー。」船長が厳しい声で制した。「彼は、多分、何らかの理由で生かされていたんだ。」
「どういうことですか?」斬り込み隊長は、ピストルを構えたまま尋ねた。
「今は、謎解きをしている場合じゃない。ここから逃げる必要がありそうだぞ。」船長は顎をしゃくった。
 飛行船への擬態から元の姿に戻った浮遊蛸は、これまでの横に寝た姿勢から、頭を上に、8本の脚を下に広げた姿勢に変わりつつあった。巨大な尾翼もいつの間にか消え失せていた。
「俺たちが今いる場所もじきにタコの体の一部に返ってしまう。」船長はそう言いながら、先ほど転落してきた階段の方を振り返った。既にそこは、柔らかな体組織に変わっていて、階段など跡形もなかった。彼ら5人は、わずか1メートル四方ばかりのくぼみにくっつきあい、落ちないように、ひんやりと湿っぽい軟体動物の皮膚にしがみついていたのだった。
 タコの上下方向が90度変わるのに合わせて、彼らも立ち位置を変え、重力と体の垂直線が一致するようにしていたが、そうする内にも、彼らが身を寄せ合うくぼみは、消滅に近付きつつあった。
「この真下に広い平らなところがあるな。」船長が下を見下ろしながら言った。
 彼らの3メートルほど下から、空飛ぶ蛸の長大な脚部が始まっているのだが、脚と脚の間には、付け根から10メートル弱くらいまで、巨大な水かき膜が付いている。8本の脚は、今、ほぼ地面と水平に延ばされているので、水かきの部分は今のところは格好の居場所、空飛ぶ絨毯と言った感じになっていた。
「でも、脚が下向きになったら、落ちてしまいますぜ。」ギャグニーが言った。
「ミメシスは、出来るだけ揚力を得るために、飛行中はいつも脚を広げているんだ。それにこいつは、体を重くする筋肉はあまり付けていないから、見た目ほど狂暴じゃないし、動きも少ない。まあ、だからと言ってこいつが邪悪な生き物であることに変わりはないんだが。」
 船長がそう言った瞬間、彼らの背後がもこもこと盛り上がり、とうとう彼らのいたくぼみが無くなってしまった。押し出された5人は、急な滑り台を降りるように落下した。そのまま一瞬にして平らになった水かきのところまで来たが、急には滑落は止まらない。皆は必死に10本の指とつま先を滑らかなミメシスの表面に食い込ませた。浮遊蛸の皮膚は、ツルツルと滑りやすい一方で柔らかくへこみやすかったので、徐々に、スピードは弱まり、やがて完全に停止した。
 止まってからも、しばし全力でしがみついていた彼らであったが、もう滑り出すことはなさそうだと安心すると、もっと脚の付け根に近いあたりまでじりじりと這って行った。それから、起き上がって、胡坐をかいて座ることにした。
 なるほど、こうして見ると、今のところは、ここは悪くない居場所と言えた。蛸の長い脚は、先端の方がゆっくりと空気を掻くように揺れているだけで、根元の方は水平に広げられたきり動いていなかったからだ。寒気を凌ぐため身を寄せ合って、巨大な空飛ぶタコの体の上に座り込んだ空賊たちは、月光に照らされ流れ行く大小の綿雲を黙って眺めた。
「船長、これからどうなるんでしょう?」ギャグニーが尋ねた。
「待つしかないな。」平静そのものでシャープは答えた。「運よくこいつが、空に浮かぶ島のどこかに着陸してくれたら助かるチャンスがあるかも知れん。」
 それから、また沈黙が続いた。疲労困憊しているうえに、寒さが男たちの活力を奪っていく。
「なあ、シュナイダーの兄さんよ。あんたは、あそこで何をしていたんだい。」口を開いたのは、バラキエフだった。
「よく分からない。」ラインゴルト号の士官は、記憶を呼び起こそうとしながら、答えた。彼の頭には滑稽なチュウブが付いたままで、手は切り取られたミメシスの体組織で手袋のように覆われている。
「そうだな。何か長い夢をずっと見続けていた気がする。」シュナイダー兄は再び口を開いた。「飛行船の中を隅々まで見て回っている夢だった。いや、本当に見て回っていたのだったかな。そんな気もする。私はラインゴルト号の整備士官だから、船内を点検して異常があれば修繕するのが仕事だったのだ。部下のシュミットやベルツがいつも一緒だった。だが、いつも不安だった。誰かが私がしていることをいつも見張っているような、心の奥底まですべて見られているような感じがあったから。それは、気のせいなんかではない。もっと強く確かな感覚で、誰かが私のことを見ている、と言うより誰かの目となり手足となるために自分は四六時中、巨大な飛行船の中を見て回らなくてはならないのではないかと言う気もした。」
「それで分かった。」シャープ船長は、大きく頷いた。「あんたは、この邪悪なタコ野郎が、ラインゴルトの内部をリアルに再現するために必要な情報源として生かされていたんだ。こいつは、常にあんたの意識を探ることでラインゴルトの内部がどうなっているか、細部まで調べ上げて、その情報をもとに本物そっくりな巨大飛行船を拵え上げていたんだろう。」
「船長。俺にはよく分からないんだが。」バラキエフが口を挟んだ。「いくら、擬態の能力に優れていたって、飛行船の中の、計器やら電燈までそっくりそのままに化けることなんて不可能ではないですか?」
「そこが、こいつの恐ろしいところさ。」船長は答えた。「ミメシスの擬態能力は、単に形や色合いを変えられるだけではないのだ。擬態に釣られて寄って来た獲物の意識に働きかけて、それを自由に操って、有りもしない幻影を見せることこそが、こいつの擬態能力の本質なんだ。」
「それはつまり、このタコは人間に白昼夢みたいなものを見せることが出来るということですか。」
「そんなところだ。」
「信じられない話ですな。」
「でも、事実なんだよ。見てみな。」シャープは、浮遊蛸の全身を指差した。「あのばかでかい飛行船に比べたら、ずっと小さいと思わないか。」
「本当だ。言われて見れば、確かにそうだ。」バラキエフもその他の者も目を見張った。浮遊蛸の全長は、頭の部分で10メートル弱と言ったところ。大きいことは確かだが、人類が作り出した史上最大級の乗り物には比べるべくもない。
 船長は頷いた。「自然界にあれだけ大きな、全長250メートルを超えるような生物がいるはずないからな。俺たちは、ミメシスに見せられた幻影を見て、巨大な飛行船の中にいるように思わせられていたってわけだ。」
「なるほど。」頭では納得しても、空を飛ぶ巨大な軟体動物という非現実的な光景と何時間か前に見たラインゴルト号の威容とを結びつけるのは、やはり困難であった。
 その時、弟の方のシュナイダーが、タコの真ん丸い漆黒の眼球を指差して、戦慄く声で叫んだ。
「船長。たいへんだ。怪物が、俺たちを見つけやがった。」
「何?」
 船長は、ミメシスの目玉を見上げたが、こちらを見ているのかどうか、さっぱり分からない。
 しかし、シュナイダーがそれについて説明する必要は無かった。水平に広げられていた怪物の脚の内の1本が高く持ち上げられたかと思うと、こちらに向かって気味の悪いくねり方をしながら延びてきたからだ。
「伏せろ。」
 シャープが叫び、皆は慌てて、タコの広げられた水かきの上にうつぶせになった。くねる脚は虚しく空を掴んで通過したが、さらに今度はもう1本の脚が加わって、2方向から襲いかかって来た。
「銃は撃つな。」船長が大声を出した。「奴は、脚の部分も水素の層で覆われているから、爆発させたら一巻の終わりだぞ。」
 5人は、水かきの上を這いまわる触手を避けて転げ回り、あるいは飛び越して、なんとかそれに捕まれないように逃げ続けた。しかし、シャープ船長の太腿に大蛸の脚の先端が巻き付いた。
「くそっ。」
 自らの不注意と不運に呪詛の声を放ちながら、シャープはずるずると水かきの上を引きずられて行く。
 そこへバラキエフが躍りかかって、刀を振り下ろした。蛸の脚は予想外に簡単に断ち切られた。
「なんだ、この弱さは。キュウリみたいに簡単に切れちまったぞ。」副長は驚きながら、刀を振るって、続けてやってきた脚の攻撃を迎え撃ち、またもやスパッと切り落とした。
 これで、ミメシスは戦意喪失したのか、2本の脚はのろのろと戻って行き、他の6本と同じように、地面と水平に広げられた。
 タコ脚を引きはがして這い戻って来たシャープが、「やれやれ、お前には助けられてばかりだな。ルスラン。」と礼を言った。
「いやいや、お互い様ですよ。しかし、こいつ、思ったよりもずっと弱かったですな。」バラキエフは大らかに笑った。
「ああ、こいつの体の大部分は、水素の入った小さな気嚢の集まりだからな。飛行船が脆いのと一緒で、このタコの化け物の体も結構脆いんだ。それに筋肉もそれほど付いていない。多分、こいつの体の中で一番戦闘能力があるのは、俺たちがさっき逃げてきた、あの胃袋だろうな。」
「なるほど、騙して胃袋に誘い込むのが、こいつの狩りの仕方なわけですね。」頷いて、副長はラインゴルト号の元士官に面を向けた。「しかし、ラインゴルトみたいな巨大な船を、こいつは、どうやって飲み込めたんだ?」
 シュナイダー兄は、タコ脚の攻撃から受けた恐怖の余韻冷めやらず、半ば茫然としていたが、自分が質問を受けていることに気付くと、
「ああ、実は、なぜあんなことになってしまったのか、はっきりとは分からないのだ。」と首をひねった。「整備担当の私の持ち場はブリッジではないから。ただ、空に浮かぶ島など無いはずの空域に島が現れたと言って騒いでいる声が聞こえたのは覚えている。その後、飛行船が方向を変えるのが感じられた。多分、その島がこの生物が擬態した姿だったんだろう。」
「ふうむ。それで、その後どうなったんだ。」バラキエフ副長は、先を促した。
「ラインゴルト号は、その島に着陸してしまったのだ。」
「定期航路の途中でか?」
「ああ、本来なら勿論あり得ないことだが、あの時、あの船には世界でも指折りの大富豪と呼ばれる乗客が乗っていた。その客は、わが社の飛行客船でも最上等のスイートルームの常連客だったから、彼に頼まれたら、一時、予定外の寄港地に寄るようなことも稀にではあるが、あったのだ。あの魔の島に着陸したのも、その大富豪の望みだったらしい。」
 シュナイダー兄は、語り続けた。ラインゴルトが一時艫綱をつないだその島には、迷路のように幾つも枝別れした洞窟があることが分かった。それを聞きつけた乗客たちは喜び勇んで、その洞窟の探検に出かけた。飛行船のスチュワードやウェイターらも乗客の世話をするために同行した。そして、一人も帰って来なかった。動転した船長は、シュナイダー兄を含む多くの士官や船員を救援に遣わした。彼らが洞窟の中で見たものは、シャープたち一味が遭遇したのと同じあの生きた洞窟、獲物を熟成させつつゆっくりと消化する悪魔の胃袋だった。その後のことは、覚えていない。しかし、彼以外の者全員が擬態生物の餌食となったのは間違いなかった。
「恐ろしいこったなあ。」ギャグニーが感に堪えぬ様子で言った。「そんなとんでもない怪物に出会ったのに、今のところ生きている俺たちは幸運なんだろうな。この先は、どうなるか分からんが。」
「まったく、ここから先は風任せか、この怪物野郎任せだな。」バラキエフが同意した。
 一番年下のシュナイダー弟が、「何かさっきからこいつが上に向かって上昇しているような気がするんですが。」とあたりの雲を見回して言った。
「本当だ。」バラキエフが眉をひそめた。月光を受けて輝く、綿雲やちぎれ雲が、あるいは長く伸びた放射状の雲、はたまた繊細な織物の如きもの、それらがゆっくりと眼下へと過ぎ去ってゆく。
「この化け物は、俺たちが息が出来ないくらいの高さまで昇ることはあるんですか。」バラキエフは尋ねた。
 シャープ船長は頷いた。「ミメシスは深空生物だから、成層圏でも生きていくことが出来るらしい。」
「くそっ、そんな高空まで上がっていくことのないように祈るしかありませんな。」副長バラキエフは天高く昇った月を見上げて歯噛みした。
 しかし、その後も浮遊蛸は一貫して上昇を続けた。寒風は増々その威力を強めていく。男たちは、頭の先からつま先まで、分厚い霜に覆われていた。ゴーグルが見えないので、こそげ落そうとするのだが、ここは特に冷たいので霜がしっかり付いているし、取ってもすぐに白く曇ってしまう。
「ああ、何だか息が苦しくなってきた気がする。」とギャグニーが情けない声を出した。
「馬鹿野郎。そんなのは気の迷いだ。気持ちを強く持たんか。」副長が叱咤する。
 彼らの空飛ぶ生き物は、上に向かうことをやめる様子はなかった。
「もう3000メートルくらいになったんじゃないか。」ギャグニーが両手で膝のあたりを抱きかかえながら言った。
「寒い。凍死しそうだ。」シュナイダー弟が応じた。彼は、DRAG社のブレザーの制服しか着ていない兄と自身の飛行服の上着を半分ずつ分け合って震えていた。
 「畜生。どこまで上がっていく気だ。」シャープやバラキエフの顔にも焦燥が表れ始めた。
 変化に気が付いたのは、シュナイダー弟だった。「見てください。ミメシスの色が変わって来てます。」
 大儀そうに周りを見回してギャグニーが、「何だこりゃ。」と叫んだ。
 浮遊蛸の体表の色が、いやその内側までも透明に近くなっていたのだ。そのため、表皮を透過した月光がミメシスの体の中でぼうっとした怪しい光を灯している。そして、次第に怪物の輪郭が消え始めた。
「どうなってんだ。これは。」訳が分からない思いで、男たちは目を見開いた。数秒後には、どんなに目を凝らしてもタコの姿を認めることは出来なくなった。あたりは、月光を反射する霧に包まれ…否、霧ではない…それはまさに天空高くたなびく、レースのように繊細な雲であった。
「そうか。こいつは今、雲に擬態したんだな。」シャープ船長は、漸く理解して言った。
「なるほど、そうみたいだな。」シュナイダー兄が同意した。
「しかし、何のために?何のために、こいつは雲なんかに擬態したんだ?」バラキエフは、人間の文明をはるかに遠ざかった高空を見渡した。「お、あれか。」
 遠く、3、4キロメートルほど隔たったあたりに、1隻の飛行船が航行しているのが見えた。それは、こちらに向かっていた。
「どんどん、近付いてきますな。」期待をこめてバラキエフが言った。
「ああ、渡りに船だ。俺たちの救世主だぞ。」シャープの声に生気が甦ってきた。
 距離が迫って来るにつれ、エンジンの轟音がはっきりと聞こえるようになり、月明かりを反射して飛行する飛行船の堂々たる様子が分かるようになった。比較的大型で、しかも十分に武装した立派な船だ。スピードも非常に速い。とても巡航速度で飛んでいるようには思えない。
「あれは、きっと空賊船だぞ。」シャープ船長は幾分警戒しながら言った。
「そうですな。俺もそう思います。あんな船を手に入れたいもんですな。実にいい船だ。」
と副長が同意した。
「とにかく、あれに拾ってもらわないことには、俺たちが助かる道は無いぞ。」とシャープ船長は立ち上がり、手を振った。他の者も立ち上がった。シュナイダー弟は、持っていた懐中電灯を振って合図を送る。
 だが、立ち込めてきた雲…もちろん、ミメシスが擬態した偽雲だが…が彼らと虚空を行く飛行船との間を隔ててしまった。
「ここじゃ、向こうから見えない。雲の端に出よう。」シャープは、ガスの中を潜り抜けて進んで行った。どこで足場が消えて何千メートル下まで落下するか分からない恐怖はあったが、それ以上に、唯一の生き残る可能性、暖かな人間の世界へ戻る道が閉ざされてしまうことへの恐怖の方がはるかに勝っていた。
 ようやく、雲の外へ顔が出るところまで来ると、飛行船は、すぐ目の前まで来ていた。細長い流線型で、主要部分を装甲で覆い、四方八方を狙える機能的な砲座をいくつも付けた装甲飛行船。船首には金色の紋章が輝いている。
 5人は狂ったように手を振り回して、合図を送った。
 だが、無情にも、飛行船は速度を緩めず飛び去って行く。
「くそっ、見えなかったのか。」希望は一瞬にして落胆に変わった。
それでも、彼らは、飛行船のゴンドラからは見えない位置になってもなお、虚しく手を振り続けていた。
しかし、「ああ、もうだめだ。」とギャグニーが座り込み、続いて一人また一人と雲の上にくずおれて行く。
「畜生。これにてシャープ一党も終幕か。」バラキエフが俯いて呟いた。
「まあ、今のところは生きている。まだ何か手立てはあるかもしれんじゃないか。」とシャープは言ったが、特に何もよい算段は浮かびそうになかった。
 その時。
「あ、飛行船が戻って来る。」
 喜びに震える声を上げたのは、シュナイダー弟だった。彼だけは、最後まで諦められず、飛行船の行方を目で追っていたのだ。
「本当か。」狂おしい希望に憑りつかれて、残りの4人は立ち上がった。
「おお。」
「戻って来る。」
「助かったぞ。」
 先ほどよりは、ずっとゆっくりとした速度で、装甲飛行船は、船尾をこちらに向けた状態で近付いて来た。
 船体の影がシャープらの上に覆いかぶさった。そのまま微速後退で船尾は彼らの頭上を通過して遠ざかり、逆に船首の方が近くなってきた。
 プロペラの音が変わった。逆回転させているのだ。スピードを絞った飛行船はシャープたちを20メートルほど行き過ぎたところで静止した。
 空賊たちは、息をつめて次に起こることを待った。
 黄金の船首飾りの周囲の装甲が後方に動き始めた。そして、そこからジュラルミンの枠にガラスを貼り巡らした艦橋(ブリッジ)が姿を現した。
「ひええ、凝ってやがるな。船首にブリッジがある飛行船なんて初めて見たぜ。」ギャグニーが感動して言った。
「ああ、普通は船体の下にあるもんだがな。」副長も飛行船の出来のよさに見惚れていた。
 ブリッジには、傲然とした態度ですっくと立った長身の男の姿があり、一目で、この船で最上位の者であることが見て取れた。
 しかし、その外見は如何にも変わっていた。
  どこかの国の宮廷から抜け出してきたかのような、金糸銀糸で飾られた豪華な上着を身にまとい、絶対王政の時代に「太陽王」と呼ばれた専制君主が持っていた王笏の如きものまで手にしている。だが、その服装以上に目を引くのが、燃えるような長い赤髪。顔は白く、大理石の彫像のようによく整っている。
「おいおい。こいつら、こんなところで仮装舞踏会でもやってやがったのか?」とシャープは茶化すように言った。
「きれいな顔をしてるぞ。もしかして女なのかも。」ギャグニーは顔をほころばせた。
 だが、この王侯のような男あるいは女のほかは、皆、実用的な飛行服を身にまとっている。腰にはカットラスもぶら下がる。
「やはり、空賊ですな。」バラキエフは目を細めた。
「ああ。だが、友好的にな。みんなも相手を刺激するなよ。」とシャープ船長は簡潔に指示した。
 目の前の飛行船の船首上部の見張り台に、飛行帽をかぶり、ゴーグルを下ろした一人の男が姿を現した。そして、「おおい。お前らは何者だ。そんなところで何をしてる。」と問いかけてきた。
 バラキエフが「俺たちはシャープ船長とその乗り組み員だ。」と太い声を張り上げた。
「空賊か?」と飛行船の側から問いかけてきた
 バラキエフは困った顔で船長の方を見た。シャープは頷いて見せたので、副長は「そうだ。シャープ一党だ。」と返事した。
「どうして雲に乗ることが出来るんだ。」。
「これは、擬態生物が雲に化けているんだ。」と副長は答えた。
「ギタイ何だって?」
「深空に棲む生き物だよ。」
「生き物?その雲がか?お前たちは雲を操れるのか。」
「いや、ずっと漂流していたんだ。だから助けてほしい。」
 見張り台の男からの返答は無かった。何やら、下の方に身をかがめてしゃべっている。伝声管でブリッジの指示を仰いでいるようだ。
 男は顔を上げた。「よろしい。公爵様の特別のお計らいで、お前たちを収容してやる。武器はすべて捨てろ。」
「わかった。感謝する。」バラキエフは左手で作った拳に右掌を重ねて感謝の意を表した。
 ギャグニーが小声で「コウシャクってなんです?」と聞いた。
 シャープは、「俺の知る限り、公爵などと名乗っているイカれた飛行船乗りは、一人しかいない。ド・ベリオだろう。」と教えてやった。
「ド・ベリオって、あのシャルル・ミーツ・ド・ベリオ?「血まみれ公爵」って呼ばれている、大空賊ですかい。」
「そうらしいな。」シャープはそっけなく言い、「武器は全部捨てろよ。」と付け足した。
彼らは全員ベルトに吊っていた拳銃と斬り込み刀を虚空に放り出した。
 空賊船はプロペラを数秒だけ回転させ、こちらに近付いてきた。そして彼らの頭上2メートルほどのところでプロペラを逆回転させて、静止した。
 船体の下部には、船首近くから船尾近くまで細長い構築物があり、そこに武装の大部分が集められていたが、その一部が開いて、ロープが5本投げ降ろされた。
「けが人がいる。自力では昇れない。」とシャープらが言うと、ロープが出てきている開口部から、飛行船の乗組員が顔を出して、手真似でロープを体に括り付けるように合図した。
 そこで、シュナイダー兄弟のそれぞれ脇の下と股の下にロープをめぐらし、最後に先端のところで8の字結びにして、「オーライ。」と合図を送った。
 すると、ウィンチで巻き上げているのか、一定の速度で、兄弟は引き上げられて行き、開口部の向こうに収容された。
 これを見て、残る3人の男たちもロープに手と足を絡み付かせた。ロープは初めわずかに揺れてからピンと真っ直ぐになり、それから徐々に上がって行った。
 開口部の向こうには武装した空賊が5人いた。
 ほとんど口を利かず、念入りにシャープ一味の身体検査をすると、付いてくるように促した。
 彼らは、薄暗い照明で照らされた船内の階段を上がって行った。案内をする空賊たちは、シャープ一味とは毛色の異なる連中で、無表情で愛想が無かったが、よく統制されているように見えた。
「ここだ。」と頭立った者が言って、ある扉の前で立ち止まった。そして、「公爵様の前では、口のきき方に気を付けて無礼の無いようにせよ。もしお怒りに触れたら、命は無いぞ。」と宣告した。
 ギャグニーは目を剥いてバラキエフの方を見たが、副長は黙って首を振った。
 扉が開けられ、シャープたちは、その中へ足を踏み入れた。
「おお。」思わず感嘆の声が漏れる。
 そこは、救出される前に雲の上から見た、あの船首艦橋だった。いかにも見晴らしがよさそうな半球型の大きなガラス張りの窓が目を捕らえる。ドームの直径は4メートルくらい。ブリッジは2層に分かれているようで、入り口扉の近くに設けられたらせん階段で下の階と行き来できるようになっている。広く視界が得られるように2階の床は船首のガラスドーム部分にかかるまでに終わっており、先端部には手すりと、真ん中につやつやしたチーク材の舵輪が鎮座していた。
 整然と機能的に配置された機器類とは対照的に、ガラス張りになっていない部分の壁と床は、主の貴族趣味を反映して豪華に飾られていた。壁は緋色のビロードで覆われ、そこに小さな紋章が金糸で縫い取られて、燭台を模した電燈の明かりで星のように輝いている。床には茶色を主調としたペルシャ絨毯が隙間なく敷き詰められている。その色合いは壁の色とよく釣り合いが取れて、空間がけばけばしくなることを防いでいた。
 しかし、空間以上に豪奢な印象を与えるのが、この船の主であった。
 彼は、扉が開くと同時にこちらに向き直り、じっと冷酷な青い瞳をこちらに注いでいた。
 船外からでも目を奪われた金銀の輝きに飾られた白い上着に、白いぴったりとしたズボン…タイツと呼ぶ方が似つかわしそうだ…を穿き、膝まである磨き上げられた茶色のブーツを履いている。
 燃えるように波打つ、肩まで伸ばした見事な赤い髪と、鋭利に整った貴族的な顔立ち、そして氷のように冷たい二つの青い瞳。
 自身男前であることでは人後に落ちないと思っているシャープは、「これほどいけ好かない気取り屋に会ったことはないぜ。」と反発を覚え、バラキエフは「危険な臭いのする男だ。こいつは見かけ以上に冷酷で残忍な人間だぞ。」と警戒し、ギャグニーは「美しい。これは絶対に女に違いない。あの白い肌の滑らかさと唇の紅さを見りゃわかる。」と期待に胸を轟かせた。
 シャープらを案内してきた男は、「公爵様、捕らえた者たちを連れてまいりました。」と直立不動で報告し、「おい。お前たち、公爵様にご挨拶を申し上げろ。」と促した。
 シャープが進み出て、「私の名前は、セドリック・シャープ。ゴールデン・ウォーラス号と言う小さな飛行船の船長をしている者です。途中で危難に遭い、船と離れて漂流していたところを助けていただき、感謝します。」と淡々と礼を述べた。
「シャルル・ミーツ・ド・ベリオだ。」赤毛の男は、人を見下した態度で、その声は厳しく、些かの温かみも感じさせなかった。「私の名前は聞き及んでおろうな。私を呼ぶ時には閣下を付けるのを忘れるな。」
 シャープは一言も答えなかった。気を悪くしたというより、呆気にとられて。

 これが、後に激しいライバル関係となり、空賊の独立国家、通称「空賊王朝」が成立してからは共に「8大首領」の一角としてその中核を担うことになる二人の最初の出会いであった。
 この時から、両者をめぐって波乱に満ちた物語が動き出すのであるが、それは、また別の機会に記すこととしたい。

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