第1話

文字数 9,006文字

「書けなくなってしまったんだ」
 ……は?
 そんなこと、情けない顔で言われたって知ったこっちゃない。
 それより、雨に濡れた顔で僕の前に立つのやめてくれないかな。共用スペースである入り口前のコンクリートがびしょびしょになるし、人に見られたら僕が悪いみたいに誤解されちゃいそうだから。
「とりあえず、入ってよ」
 ちょっとの間だけ、と察してもらえるようにぶっきらぼうに促した。
「ありがとな。やっぱり、分かってくれるのつむちゃんだけだわ」
 初(はつ)真(ま)にはどうやら、伝わらなかったみたいだ。
 言っとくけど、何にも理解してあげるつもりないからね、と心の中だけで応答して、僕は給湯器のスイッチを入れた。


「ありがとう。すっげえさっぱりした」
 シャワーを浴びて出てきた初真は、明るい茶髪をバスタオルでがしがし拭きながら言った。
「ああ、そう」
 僕はできるだけそっけなく返事をする。
 家賃が払えなくなってアパートを出ることになったらしいけど、だからといってうちに居着かれたら困る。うちは1Kの単身用アパートで、勝手に他人を住まわせることは禁止されてるんだから。
「さっきさ、書けなくなったって言ったじゃん」
 空気が読めない初真は、勝手に扇風機の前に座り、風力を「強」にして、パンツ一丁で涼んでいる。いくら幼なじみとはいえ、八年ぶりに再会したのに遠慮がなさすぎる。
 僕がしかめつらをして返事をしなくても、初真はまったく気にしていないようだった。
「三冊目までは順調だったんだけどさ、それ以降プロットが全然通らなくなって」
「へえ」
 僕は、彼が作家になったところまでは風の噂で聞いて知っていた。とはいえ、どんなものを書いていたのかは把握していないし、ペンネームも知らない。ただ、小説家になる夢を叶えたのだけは尊敬に値すると思う。僕の教え子にも小説家志望が何人かいたけど、誰もがなれるものじゃないし、「高校・大学はちゃんと行きなさい。作家をめざすのはその後でも遅くないから」とアドバイスするようにしていた。
「つむちゃんはどうなんだよ。まじめにセンセイしてるの?」
 ふいに尋ねられて、僕は「まあ」と曖昧に返事をした。
 実は、教師の仕事はとっくにやめている。大学の教育学部をを卒業してから二年はがんばったけど、学校という特殊な職場になじめなくて、退職してしまった。子どもたちのことは好きだったけど、先生同士の上下関係や休日返上の激務に耐えかねたのだ。
以降は、非常勤の塾講師をしたり家庭教師のアルバイトをして、何とか食いつないでいる。二十六歳になった今、サラリーマンとしてそれなりに経験を積んでいる同級生に会うのが怖くて、離れた街に引っ越した。「小説家になるから、出版社の近くがいい」と十八で家を出ていった初真と再会したのは、単なる偶然だ。彼は、雨宿りしていたコンビニで僕を見かけて、傘もささずに後をつけてきたのだ。
「やっぱ、堅実な仕事は強いよなぁ。俺も進路指導の先生のいうとおり、大学か専門に行っとけばよかったかも」
「それはそれで、後悔してたんじゃないの」
 僕は、彼がベッドの上に放ったバスタオルを回収しながら言った。濡れたものを布団の上に置くなんて信じられない。
「どうだろねぇ。ま、一回は作家になれたから、いっか」
 単純な初真は大きく伸びをして、ついでに欠伸をした。
「眠いの? もう帰れば」
「言ったじゃん、帰るとこなんかないって。昨日は公園で寝たんだからさ。最近のベンチは横になれないし、きつくて……」
「知らないよ、僕に言われたって」
 作家として活動してたなら、印税とかあったはずなのに、何で貯金してないんだよ。
「お願い、今日だけでもいいからさ、泊めてよ」
「明日には出ていくんだよね?」
「出ていくって、そのうち、そのうち」
「今日だけだからね」
 こんな狭い家で男二人寝るなんていやだけど、追い出したせいで何かあっても面倒だ。
「床で寝るでしょ」
 僕は予備の毛布と枕を引っ張り出して、フローリングの床に放った。


 子供の頃、僕の家にはゴールデンレトリーバーがいた。名前はケン、賢いからケンと父が名付けた。父は教師で母は専業主婦、僕は一人っ子だった。
「つむぎ、ごめんな。生徒が問題起こして警察署にいるから、迎えにいく」
 僕の誕生日でも、父は教え子を優先した。いわゆる熱血教師で、休みの日は野球部の指導や引率、家でもテストの採点や授業の準備に追われていた。
 ケンは、父が自分の代わりに用意した友達のようなものだった。毎日散歩して遊んだし、夜はいっしょに寝ていた。大きなケンが背後にいると、犬特有の大きな吐息が首筋にかかって……
「くすぐったいよ、ケン……」
「え?」
 後ろで、犬が返事をした。
「えっ」
 僕が驚いて飛び起きると、背後のケン、じゃなくて初真がおかしそうに笑った。
「誰なんだよ、ケンって」
 床で寝ろと言ったのに、いつのまにかベッドに潜り込んできていたらしい。
「犬だよ」
 彼が隣に引っ越して来る前に死んだから、知らないのはあたりまえだけど。
「気持ち悪いからさっさと降りて」
「はいはい」
 本当に今日、出ていってくれるんだろうか。
「何時に出るの」
「もうすぐ」
 僕はいつものようにあわただしく朝食を作る。
 アルマイトの食器にご飯と味噌汁、あとは卵焼き。味噌汁の具はわかめと豆腐だ。
「うわあ、質素」
「悪かったな」
 初真のぶんも用意してやったのに、文句をつけられて腹立たしい。
「この食器、給食で使うやつみたいだな」
「学校でいらなくなったのをもらったからね」
 もう退職してけっこう経つのに、捨てられないでいる。当時使っていた赤ペンや、指導用の教科書やノートも。
「食べたらハローワークにでも行ってよ」
「はいはい」
 僕は先に出ることになったので、隠す場所を指定して鍵を渡した。
「行ってらっしゃい」
 パジャマのままの初真が、まるで実家にいるように馴染んでいて、ちょっと気持ち悪かった。


 幸(ゆき)典(のり)くんは、物覚えが悪いというわけではないけど、成績はあまりよくない。政治とか経済に興味を持っていて、日経平均株価の話をよくしてくれる。三島由紀夫の小説が好きで、授業中もこっそり読んでいる。けど、関心のないことはやろうとしなくて、先生の話を聞いていなかったりするから、赤点を取って追試を受けている。
 家庭教師として初めてこの家に来たとき、幸典くんのお母さんから、「あの子に勉強の楽しさを教えてやってくださいな」と頼まれていた。
「先生。何で俺、英語とか勉強しないといけないのかな。外国行く予定ないし、やらなくてよくない?」
 来年受験生の幸典くんは、はるか昔から多くの学生が抱いてきたであろう普遍的な疑問を口にする。きれいに片づいた部屋の本棚には、宇宙や古代文明など幅広い分野の専門書が並んでいるのに、英語が彼の興味の対象外なのはもったいないように思われた。
「まだ中学生でしょ、君は。将来やりたいことが変わるかもしれないし、外国人を好きになるかもしれないよ。そうなったとき、役に立つじゃない」
 僕は、勉強を七つ道具みたいなものだと思っている。難しい数式もカノッサの屈辱も排他的経済水域も、実生活の中で必要になることはほとんどないけど、誰も知らなくて困っているときにすっと取り出せる知識があったら、一躍ヒーローになれる。僕も地味で運動が苦手な学生だったけど、テスト前は不良からも頼りにされた。教えるのが得意だったから、教師になりたいと思った。
「先生はずっと、先生になりたかったわけ?」
 問題を手を止めた幸典くんが訊く。
「うーん。まあ、そうだよ」
 僕が教職を選んだのは、親の顔色をうかがった結果でもあった。父は教師で、母はそんな夫を誇りに思っていて、僕にもそうなってほしそうだったから。
「まあって。小さい頃からってことですか」
 幸典くんは、僕の小さな迷いを見逃さなかった。
「進路を決めたのは高校の頃だよ。小さい頃は違ってた。ほら、将来やりたいことが変わるかもしれないってさっき言っただろ」
「じゃあ、最初は何になりたかったの」
「最初か……」
 僕のいちばん最初の夢は、アーティストだ。歌もうまくないし、楽器もできなかったけどアーティスト。小学校高学年の頃には、恥ずかしくて誰にも言えなくなっていた。
「芸能人とか、そんなところだよ」
「ふうん」
 幸典くんは、そこで集中力が切れたのか、大きく伸びをした。
「俺も将来急に気が変わって、公務員とかになりたいと思うのかな」
 

「ただいま」
 自分一人の家なのだから、言う必要もないのに僕は声を出す。もう癖になっている。
 下のほうが錆びて変色しているドアを開けたら、玄関に汚いスニーカーがあるのが目に入った。汚れてはいるものの、有名なスポーツ用品のブランドのマークが入っている。
「まだいるの」
 ため息混じりに言っても、初真はまるで堪えた様子がない顔で振り返った。
「あぁ、おかえり」
 ハローワークでもらってきたらしい資料がわざとらしく机の上に置いてある。一応行ってきたものの、仕事は見つかりませんでした、という体なのだろう。
「俺、腹へったんだけどさ。金ないから、つむちゃんが帰ってくるの待ってたよ」
「あぁ、そう」
 僕はぶっきらぼうに言って荷物を置く。
「出ていってって言ったよね」
「行けるわけないじゃん。あてもないんだって。何とかなるまで置いてよ。お願い」
 お地蔵様か何かみたいに拝まれる。
 僕だって余裕があるわけじゃないし、教師だった頃と違って不規則な出勤だから、転職したことがバレてしまいそうでいやだった。働かずに他人にたかろうとしている彼よりはましだけど。
「いつかまたいいのが書けるようになって芥川賞とかとったらさ、恩人として紹介するから。な?」
 スランプのまっただ中にいると言ったくせに、都合のいいことを言っている。叶えにくい夢を叶えたといったって、現状がこうならどうしようもない。彼は幸運にも作家にはなれたけど、続けていく資質はなかったということだ。
「そんな日、本当に来るの? だいたい、もう新人じゃないんだから、とれるとしたら直木賞だろ」
「あ、そうか。ラノベでもそういうのもらえるのか分からないけど、とにかく頑張るよ」
 僕はもう、それ以上争うのをやめた。
 初真の作品を読んだことはないけどきっと、世に出たのが奇跡レベルのものだったのではないかと思われる。
「たいしたものないよ」
 僕は、冷蔵庫からたこわさと生ハムと、レンジでチンするハンバーグを出した。ご飯も朝の残りがあるし、夜はたいてい、適当にすませる。
「つまみみたいだな。飲むの?」
「飲まないよ」
 いつもなら軽く一杯やるところだけど、こいつに飲ませてやるなんてビールがもったいない。
 祝杯をあげるのは、初真が出ていった日の夜にしよう。


 一ヶ月くらいは、あっというまに過ぎた。
「まだ仕事見つからないの?」
 すっかり我が家に馴染んでしまっている初真に訊く。
「まあね。えり好みしてるわけじゃないけどさ」
 最近ようやく家事をやるようになった初真が、僕のハンカチにアイロンをかけながら言った。
「社員じゃなくても、バイトくらいならあるだろ。何でもいいから働けよ」
 僕だって非正規だし、偉そうに言える立場じゃないけど、働いているのと無職とでは天と地ほどの差がある。
「そりゃ、なくはないよ。でも、シフト組んじゃうとますます戻れなくなりそうで」
 初真はまだ、小説家としてやり直すことを諦めていないようだった。
 担当だった編集者はすでに退職し、プロットを提出する相手ももういないらしいのに。
「書く時間くらい、いくらでも見つけられるだろ。高校の頃なんか、授業中に書いてたよね」
 あの頃の彼はすごかったし、密かに尊敬していた。アーティストという途方もない夢を、恥ずかしいからと押し殺した僕と違って、初真は真剣に夢と向き合っていた。「小説家なんて、なれるのは一握りの特別な人間だけだ」と、教師もまわりの生徒もバカにしていたけど、自分の夢をだいじに守り育てて、誇れる人間になった奴がどれだけいるだろう。 
 もっとも、今の初真は見る影もない無職だし、賞味期限の切れた夢をいつまでも捨てられないダメ人間だけど。
「バイトの予定ぎっちり入れ出したら、俺、もう完全にフリーターになっちゃうかも」
「いいじゃない。無職よりは」
 僕はむしろ、ちょっとでも働いたほうがスランプから抜け出せるんじゃないかと思っている。
「とにかく、いつまでも養えないからね。バイトでもいいから働いて、出ていってね」
「そのうちな」
 しぶしぶといった感じでうなずいて、初真はアイロンかけに戻った。


 家庭教師は、学校で働く教師と違って、生徒の都合でスケジュールが決まる。中間や期末のテスト前は忙しいし、土日も休みとは限らない。
 一人のときはそれでよかったけれど、初真と暮らしだしてから、いろいろ都合が悪いこともあった。僕は学校をやめたことを言い出せなかったので、平日休みでも自宅に帰れなくなった。初真ときたら、何も浮かんでこないくせに未練がましく原稿用紙に向かっているし、ハロワにもほとんど行かない。面接も結局一度も受けないまま、三か月が過ぎようとしていた。
 自分の家なのに、自由に帰宅できないのはストレスがたまる。かといって、初真に本当のことを打ち明けるのも気が引ける。
 僕は行く当てもなく、本屋で時間をつぶしていた。
「あれ、先生じゃん。こんなとこで何してんの」
 ふいに声をかけられ、ぎょっとして振り返ると、幸典くんが立っていた。今日はキャラ物のTシャツにカーキ色の七分丈のパンツ、ラフな格好で、漫画でも買いに来たのだろうか。
「ああ、ちょっと、新刊の小説でも読もうかと思って」
 僕は近くに平積みしてあった、ドラマの原作本を手に取った。
「あ、それ俺も見てるよ。刑事役の人が毎回大げさで面白いよね」
「そうだね」
 僕は見ていないから知らない。
「幸典くんは、何か買いに来たの」
「うん。これ」
 幸典くんは、雑誌のラックから週刊少年漫画雑誌を一冊取った。
「漫画描いて、応募してみようと思って。あ、親にはないしょね」
 漫画家になりたい、と幸典くんは言った。
 あれからいろいろ、考えたのかもしれなかった。
「よかったら僕にも、作品見せてよ」
「うーん、載ったらね。先生には、そのうち」
 幸典くんは、晴れやかな顔でレジのほうへ行った。
 僕はそれからしばらく立ち読みして、何食わぬ顔で帰宅した。


「な、いいネタ思いついたんだけどさ。聞いてくれない? 俺やっと、小説家に戻れるかもしれない」
「何、熱でも出たの」
 帰ってすぐ、初真が機嫌よく話しかけてきたのを、僕は適当にあしらった。無職なのによくこんなに楽天的に生きられるな、と感心してしまう。僕なんか、今日一日外で無為に過ごしただけで、ぐったりしているのに。
「そう言わずに聞けって。親の期待に応えて中学の先生になった主人公が、演劇部の顧問になる。テレビ番組の企画に応募して、全国放送のドラマ出演をめざすんだけど……って話」
「なんかどっかで聞いたような話だね」
 初真がテンション高く語ってくれる内容は、僕の心には響かなかった。
「あらすじだけ聞いたら何でもそうだって。だいじなのは文章力なの。俺、こう見えてけっこう比喩表現とか得意だからさ。で、主人公は自分の昔の夢が俳優だったこと、思い出すの」
「ふうん」
 もはや批判する気にもならないくらい、平凡で退屈そうな内容だ。これでもう一度作家になれると本気で思っているんだから、初真はよっぽどおめでたい性格なんだろう。
「つむちゃんはさ」
 ちょっとむっとした様子で初真が言う。
「順調に夢が叶ったから、そんな呆れた顔できるんだよ」
 僕は何も言い返さないで、鮭の塩焼きを食べた。アルマイトの食器に盛った白ごはんがどんどん減っていく。味噌汁に焼き魚に白ごはん、みたいな素朴なものがいちばんおいしい。先に夕食を終えていたらしい初真は、ビールを飲みながら悪態をつき始めた。
「勉強したら確実になれるものめざしてたわけだしさ。教師なら、笑われることも分不相応とか言われることも、なかっただろ。カシコイ道選んでうまくいっただけなのに、俺のことバカにする資格ねーだろ」
「バカになんてしてないでしょ」
 僕にだって、人に言えない夢くらいあった。
 マイケルジャクソンに憧れて、こっそりムーンウォークの練習をしていた。
 そういえばその現場を、こいつに見られたことがあったような気がするけど、もうとっくに忘れられてるんだろう。叶えられなかった夢は、どんどん忘れられて消えてしまう。抱いていた本人の記憶からさえも。
「初真、何だかんだ言って、小説書かないじゃない。ここに来てから、短編一つも仕上げたことないだろ。書けないんじゃなくて、書きたくないんじゃないの」
「そんなことないし」
 初真はむきになって、僕の言ったことを否定した。
「アイデアもあるし、書こうとしてるじゃん。だいたい俺、一回デビューしてるんだよ。三冊も本出したんだよ」
「もう、過去の話でしょ」
 しばらく、沈黙が続いた。
 初真はビールの残りを注ぎ足して一気に飲み干し、僕に背を向けた。お互い、口喧嘩は得意じゃないし、険悪になっても彼は「出ていく」とは言わない。
「僕ももう教師やめたよ。先生になりたかったのも先生をしてたのも、もうぜんぶ過去」
 僕は投げやりな気持ちになって、とうとう本当のことをぶちまけた。
「そう」
 初真は背中で返事をして、それきり黙った。
 僕は、空になった食器を洗って、シャワーを浴びて布団に入った。
「ごめん」
 電気を消した後、初真が小さい声で言ったのが、聞こえたような気がした。


 翌朝、目を覚ましたら、初真の寝床は空だった。今の僕の懐事情を察して、やっと出ていってくれたのかもしれない。置き手紙も何もなくて、いかにも勝手な男の幕の引き方という感じだった。
 ムカついている暇もなく、僕は今日予備校に授業しにいかなくてはならない。
 せめてゴミ出しくらいはしてね、といつも頼んでいるのに、今日もゴミ袋がそのまま残っていた。


 夜に帰宅して、ドアノブを回したら、鍵がかかっていた。最近、初真がいるのがあたりまえみたいになっていたから、僕は久しぶりにキーケースから鍵を出して部屋に入った。
 結局、その夜も次の朝も、初真は帰ってこなかった。電話番号もメールアドレスも知らないし、連絡の取りようもない。もともと家族でも何でもないただの幼馴染だし、そこまで気にかけてやる必要もないかもしれない。
 静かになった部屋で洗濯物を畳んでいたら、スマホが鳴った。
「もしもし」
「あ、先生。休みの日にごめんなさい」
 幸典くんだった。
「どうしたの」
 尋ねたら、幸典くんの嬉しそうな声が返ってきた。
「この前話してた漫画、描けたんです。まだペン入れてないけど、先生に見てほしくて。報告です」
「よかったね。じゃあ今度、ちょっと早めに行って見せてもらうね」
 ネタが浮かんだだのいいのが書けそうだの言って何もしなかった初真と違って、幸典くんは有言実行だ。しかも早い。若いからかもしれないけど、一直線に走っていける力が、うらやましかった。自分を信じているっていうことだから。
「ありがとうございます。でもちょっと恥ずかしいから、先生も何か見せてよ。昔描いた漫画とかないの」
「うーん。僕は漫画家とかめざしてなかったからなぁ」
「じゃあ、歌とかは。芸能人になりたかったんでしょ」
 確かに、中学生のころとかは、親に隠れて歌の練習やダンスの真似事なんかをしていた。
「分かった。何かやってみせるよ」
 せっかくだから、昔せっせと練習していたムーンウォークを披露しよう。教師だったころに一度だけ、先生同士の懇親会でやって、それなりにウケたマイケルジャクソンの物真似だ。
 もうワクワクすることなんかないと思っていたけど、次に幸典くんの家に行く日が楽しみだった。


 だいじなことはどんどん忘れてしまうのに、いやなことは忘れない。同じくらい、夢中になって身につけたことも忘れないものだ。全身が映る鏡を引っ張り出してきて、その前で例のステップを確認していたら、不思議なくらいするすると思い出せた。
「もっと、こうかな」
 ひとりごとを言いながら、スリラーの曲に合わせて踊る。
 こんなことできたって、今からじゃ芸能人にもなれないし、動画サイトでバズるほどの特技にもならない。けれど、僕の教え子はきっと、笑って何かを感じてくれるだろう。
 最後のポーズをキメたとき、拍手が聞こえた。
「え」
 振り返ると、初真がいた。
 気配を殺してそっと入ってきたらしい。
「つむちゃん、オーディションでも受けるの? やるじゃん」
「そうじゃないでしょ」
 恥ずかしさもあって、僕はぶっきらぼうに言った。
「出ていってくれたかと思ったのに、何で戻ってきたの」
「いや、家にずっといると原稿が進まないから、外で書いてたんだよ」
 初真は、二十四時間営業のファーストフード店にいたらしい。店員も他の客もさぞ迷惑だったことだろう。
「一週間風呂入ってないから、とりあえずシャワー貸して」
「汚いな、さっさと行けよ」
 彼がまた戻ってきたことにうんざりしたけれど、なぜかちょっとほっとしてた。
「あ、その前に」
 初真は、茶封筒を寄越した。
「今どきぜんぶ手書きだけどさ、仕上がったよ、原稿。つむちゃんがいちばんに読んでいいよ」
 百枚くらいの、短編小説だった。
 大人もその気になれば、全速力で走れる。
「分かった。添削しといてやるよ」
 僕は久しぶりに、インクがまだ乾いていないような手書きの原稿に触れた。赤ペン片手に生徒の作文を読んでいたころのことを、思い出す。
「つむちゃん、それが売れたらさ、家賃と食費払うよー」
 脱衣所から、初真ののんきな声が聞こえてくる。
「売れなくても払ってよ」
 口では言うけど、言い争うのもめんどくさい。初真は追い詰められても働かないやつなんだということがよく分かったし。
 浴室のほうから聞こえるシャワーの音をBGMに、僕はまだ世に出ていない小説を読み始めた。
 最後まで読んだら、お返しに、ムーンウォークをもう一度最初から見せてやろう。
               終
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