第1話
文字数 1,532文字
いつの間に眠ってしまったのだろう。
晃一は、寄り掛かっていたベッドから慌てて身を起こした。
「あ、母さん。先生は?」
「それが、台風で遅れるって連絡があったきり…」
ベッドの向かい側に座っている母は夕べから一睡もしていないようだった。
「晃一。この様子では、太陽はもう…」
「俺は諦めないよ」
噛み付くように言うと、晃一はベッドを覗き込んだ。
「太陽、兄ちゃんだぞ。聞こえるか」
晃一は弟の白い頬を浅黒い手で、そっと撫でた。
「やめなさい、晃一。もう無駄よ」
叱咤する母の手を跳ね除け、晃一は立ち上がった。
「太陽っ。頼む、目を開けてくれ」
しかし、白い壁に反射する蛍光灯の光も兄の叫びも今の太陽には届きそうになかった。
窓ガラスを叩く激しい雨音が不安を煽る。
「くそっ、遅すぎたか。こんなことになるなら、もっと…」
晃一の瞳は深い後悔の色に染まっていた。
「晃一、お願いよ。太陽をこのまま、静かに眠らせてやってちょうだい。あなたの気持ちは分かるけど、もう、これ以上…」
母は息子の肩に手をやり、そっと椅子に座らせた。
晃一は唇を噛み、拳を硬く握り締める。
気持ちのすれ違う親子の隙間を時間だけが早足で通り過ぎて行く。
突然、晃一が沈黙を破った。
「なんだよ、上司におべっか使う部下みたいな喋り方するなよ。
俺、約束したいんだ。
もしも、今、お迎えが来て、太陽が目覚めないまま行ってしまったら……。
思い出とか希望が必要なことってあるだろ。
残される者の気持ちが分からないのかよっ」
晃一はベッドに覆いかぶさって、意識の無い弟の肩を激しく揺さ振った。
「太陽、目を開けろ。時間が無い、起きるんだ。太陽、太陽ぉー」
「やめてっ、残される身だから言ってるのよ。そんなことしたら太陽がっ…」
母は蹲り、悲鳴に近いその声が突然、プツンと途切れる。
「う、う…はぁ…」
母が床に溢した吐息と涙は晃一にあることを気付かせた。
思えば、今日まで親子三人、いつも一緒だった。
離れたことなど一日も無い。
部屋の隅には、母が息子のために用意した真新しいパジャマや毛布の入った袋が暗い影を落としている。
何も分からなかったのは母さんじゃない……。
畜生、俺はなんて鈍感なんだ。
母さんは別れの悲しみに必死に堪えていたのだ。
それを見せまいとした母の強さと深い愛を知り、晃一は戸惑い、そして決意した。
「分かったよ、母さん」
ところが、晃一が諦めた途端、太陽の目がうっすらと開いた。
「…に…い…ちゃん」
虚ろな目で兄を追う。
「太陽…。やった、えらいぞ」
「ああ、なんてこと…」
母は真っ赤な目でベッドを見上げた。
ピンポーン。
甲高いベルの音に弾かれたように母は立ち上がり、涙を拭って玄関へ急いだ。
「どうも遅くなって…T大付属の鷹山です。直ぐに息子さんを…」
焦る心を抑えつつ部屋に残った晃一はベッドに向き直る。
「太陽。約束だ。また二人で楽しく遊ぼうな。兄ちゃんを信じろ」
「にいちゃ……ねえ、課金て何?とも君が欲しいって言ってた……」
「それはな、兄ちゃんが炎天下で太陽の下でホームラン打った時の音だ。カキーンって青空を飛ぶんだぞ。
良い子でいたら、きっと兄ちゃんと一緒に野球しような」
晃一は弟の頭を優しく撫でた。
太陽は弱々しく微笑み、再び混沌の世界に吸い込まれて行った。
―これで、安心していける―
そして、母は……
嵐の中、危惧していたにもかかわらず、
予定通りに長男をお迎えのバスに乗せ、A大付属中学校野球部の初遠征に送り出したのである。
「う、う、はぁーあ」
母は、夜中に起こされたのに珍しく癇癪を起こさずに眠ってしまった腕白小僧の横で大あくびをし、心から安心して眠り始めたのだった。
了
晃一は、寄り掛かっていたベッドから慌てて身を起こした。
「あ、母さん。先生は?」
「それが、台風で遅れるって連絡があったきり…」
ベッドの向かい側に座っている母は夕べから一睡もしていないようだった。
「晃一。この様子では、太陽はもう…」
「俺は諦めないよ」
噛み付くように言うと、晃一はベッドを覗き込んだ。
「太陽、兄ちゃんだぞ。聞こえるか」
晃一は弟の白い頬を浅黒い手で、そっと撫でた。
「やめなさい、晃一。もう無駄よ」
叱咤する母の手を跳ね除け、晃一は立ち上がった。
「太陽っ。頼む、目を開けてくれ」
しかし、白い壁に反射する蛍光灯の光も兄の叫びも今の太陽には届きそうになかった。
窓ガラスを叩く激しい雨音が不安を煽る。
「くそっ、遅すぎたか。こんなことになるなら、もっと…」
晃一の瞳は深い後悔の色に染まっていた。
「晃一、お願いよ。太陽をこのまま、静かに眠らせてやってちょうだい。あなたの気持ちは分かるけど、もう、これ以上…」
母は息子の肩に手をやり、そっと椅子に座らせた。
晃一は唇を噛み、拳を硬く握り締める。
気持ちのすれ違う親子の隙間を時間だけが早足で通り過ぎて行く。
突然、晃一が沈黙を破った。
「なんだよ、上司におべっか使う部下みたいな喋り方するなよ。
俺、約束したいんだ。
もしも、今、お迎えが来て、太陽が目覚めないまま行ってしまったら……。
思い出とか希望が必要なことってあるだろ。
残される者の気持ちが分からないのかよっ」
晃一はベッドに覆いかぶさって、意識の無い弟の肩を激しく揺さ振った。
「太陽、目を開けろ。時間が無い、起きるんだ。太陽、太陽ぉー」
「やめてっ、残される身だから言ってるのよ。そんなことしたら太陽がっ…」
母は蹲り、悲鳴に近いその声が突然、プツンと途切れる。
「う、う…はぁ…」
母が床に溢した吐息と涙は晃一にあることを気付かせた。
思えば、今日まで親子三人、いつも一緒だった。
離れたことなど一日も無い。
部屋の隅には、母が息子のために用意した真新しいパジャマや毛布の入った袋が暗い影を落としている。
何も分からなかったのは母さんじゃない……。
畜生、俺はなんて鈍感なんだ。
母さんは別れの悲しみに必死に堪えていたのだ。
それを見せまいとした母の強さと深い愛を知り、晃一は戸惑い、そして決意した。
「分かったよ、母さん」
ところが、晃一が諦めた途端、太陽の目がうっすらと開いた。
「…に…い…ちゃん」
虚ろな目で兄を追う。
「太陽…。やった、えらいぞ」
「ああ、なんてこと…」
母は真っ赤な目でベッドを見上げた。
ピンポーン。
甲高いベルの音に弾かれたように母は立ち上がり、涙を拭って玄関へ急いだ。
「どうも遅くなって…T大付属の鷹山です。直ぐに息子さんを…」
焦る心を抑えつつ部屋に残った晃一はベッドに向き直る。
「太陽。約束だ。また二人で楽しく遊ぼうな。兄ちゃんを信じろ」
「にいちゃ……ねえ、課金て何?とも君が欲しいって言ってた……」
「それはな、兄ちゃんが炎天下で太陽の下でホームラン打った時の音だ。カキーンって青空を飛ぶんだぞ。
良い子でいたら、きっと兄ちゃんと一緒に野球しような」
晃一は弟の頭を優しく撫でた。
太陽は弱々しく微笑み、再び混沌の世界に吸い込まれて行った。
―これで、安心していける―
そして、母は……
嵐の中、危惧していたにもかかわらず、
予定通りに長男をお迎えのバスに乗せ、A大付属中学校野球部の初遠征に送り出したのである。
「う、う、はぁーあ」
母は、夜中に起こされたのに珍しく癇癪を起こさずに眠ってしまった腕白小僧の横で大あくびをし、心から安心して眠り始めたのだった。
了