海の日

文字数 1,016文字

潮の香りがする。
目覚めると、外には海が広がっていた。
「今日が海の日か」
僕が言うと、妻が隣で体を起こした。
「うわ、ほんとだね。仕事休みって伝えなきゃね」
「電話しておくよ」
この街は、年に一度、こうして海になる日がある。
マンションの一階部分くらいまでは、その海に沈む。
その海は、窓の隙間から漏れ出したりはしない。窓を開けても、扉を開けても流れ込んだりはして来ない。
けれど、そこに入れば濡れるし、息もできなくなる。そこはたしかに海だ。
それは、とても不思議な海だ。
僕は職場に電話をかけ、今日は海の日だから出社できないことを伝える(僕と妻は同じ職場で働いている)。
「今年は突然来ましたね」
「そうですね、今日は家からも出られないと思いますし、お気をつけて」
「ありがとうございます」
受付の齋藤さんは、笑いながらそう言ってくれた。いい職場だ、と僕は毎年この日に思う。
「今年は突然来たね」
部屋に戻ると、妻が不思議そうな顔をしながら外を見ていた。
「さっきもその話を齋藤さんとしたよ」
「そうなんだね。いつもは海虫が飛ぶのにね」
妻の目は、やはり海に向いていた。
「こんな時もあるんだね」
「そうみたいだ」
僕と妻は、ベッドから起き上がり、1階へ降りて、朝食を食べた。
外に見える風景は、青く透き通る海を通してみると、いつもと全く違って見える。
毎年見ているはずだが、それでもその景色を僕は、美しいと思う。
海の日が来るのは、この街だけだ。
この街以外は、いたって普通に、日常が進んでいく。
この街だけが、海の中、ぼんやりとたゆたう。
その海の中にいると、僕の気持ちは、とてもゆったりとしていく。
妻もそう言っていた。
小さい頃から、この海と暮らしてきた僕と妻は、この海から離れられなくて、この街でずっと暮らしている。
「今年は何をしようか」
トーストの粉がすこしだけついた唇を拭きながら、妻が言う。
「去年は何したっけ?」
「寝室から飛び込みの練習をした」
妻の視線は、窓の外に向いていた。
「じゃあ今年は素潜りの練習だ」
窓からあの辺に何かを落として、拾ってくる練習をしよう。と、妻はそう、つけ加えた。
「それはとても、いいと思う」
「よし、じゃあ拾ってくるものを探して来なくちゃ」
妻は嬉しそうにそう言って立ち上がった。
僕もその姿を見ながら、頬が緩んでいるのを感じた。
今日は海の日だ。
僕たちはきっと、原始に返って、海へ還るのだ。
「水着に着替えよう」
遠ざかる妻の背中にそう言って、僕は立ち上がった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み