マネキンさん

文字数 4,570文字

 例えば、地道に練習してピアノが弾けるようになるように、一日に何百人もの人と会っていると人の心を読むことができる能力が身につくことがある。
 当時大学4年生だった私はそんな力を身につけた人に会ったことがある。
 その年、私は週に一回の卒論の授業に出る以外は週に5日、多くて6日スーパーで試食販売の仕事をしていた。何故、社会に出る一歩手前でそんなにがむしゃらに働いていたのかは今となっては理解できないが、当時は買いたいものが山のようにあって、お金は稼いでも稼いでも手に掴んで実感する前に嘘みたいに消えていった。
 周りのお洒落な学生たちに囲まれているとお洒落をしなきゃ大学に行ったら駄目なような気がしてくる。だから、流行の服やらを人気のブランドショップに行っては買い漁っていた。今となっては、そのほとんどの物が流行遅れで着てはいないけれど………。

 試食販売は大抵が単発の仕事なので、学生、主婦、フリーターに多い。仕事したい日を自由に決めることができて融通が利くのでそういった人物が集中して集まるのである。
 毎日勤務するスーパーは異なる。それは試食販売の会社の人が決める。だから私は毎日早起きして電車やバスを乗り継いで行ったことのない街の行ったことのないスーパーへ行った。
 「週に5、6日も働くんだったら一か所でアルバイトして稼いだ方が楽じゃない?」と何度も色んな人に言われたが、前に働いていたレストランで醜い人間関係にもみくちゃにされて大変な目にあっていたのでしばらくは人と一緒になって働くということはしたくなかった。
 レストランに比べて一人で働く試食販売員という職業は性に合っていたらしい。お店の人もお客さんも同じ職場で長く働くとなると相手に気を使ったり、不満が出てきたりするものだが、「今日しか会わない人」と思ってしまえば気楽でのびのびと仕事ができた。
 試食販売員の事をお店の人は「マネキンさん」と呼ぶ。マネキンといえば服屋に立っている人の形をした、あれだ。毎日入れ替わり別の人がお店にやってくるので私たちには名前の必要が特にないのだった。
「いらっしゃいませ~。新商品のアイスはいかがですか~」
 店内中に響くような大声で客に呼びかける。
 客が食いつくマジックワードというのがある。新商品、期間限定、数量限定。このワードをいえば、ほとんどの人がなんだなんだとこっちを見てくる。私はすかさず透明のカップに入った何等分にもカットされたアイスを客に笑顔を作って差し出す。「是非、お試しください」と言いながら。そうすると客は魔法にかかったみたいに私の方へ吸い寄せられカップに手を伸ばす。
 買う気のある人、ない人はすぐに見分けがつく。少しでも買う気のある人は私が話す商品説明に耳を澄ましていて、買う気のない人は一心不乱に食べて、まるで聞く耳を持たないからだ。だから私は買う気のない人には余計な口は利かないようにした。一日に何百人もの人に同じように丁寧に接客していたら疲れてしまうからだ。

 働き始めてしばらく経ってからのことだ。この業界は広いようで狭いので、同じスーパーで前に違うスーパーで一緒になったマネキンさんとまた一緒になることがある。
 あれ?この人、前にもどこかで見たな、という人は意外と結構いる。だから、彼女の事も初めはその程度で特別気にも留めることもなかった。
 ある店で私は彼女と通路を挟んで隣同士で販売することになった。彼女は隣の棚で新商品の抹茶味のチョコレートを、私は期間限定のピーチ味の炭酸飲料を販売しなければならなかった。
 彼女の事は何度か見かけたことがあった。歳は私と同じくらいで大学生っぽい。170センチ近くはありそうな長身に頭に巻いた赤いバンダナの下に少しだけチラリと見えるベリーショートの黒髪。メダカのように細い切れ長の目。黒いエプロンをつけて颯爽と歩く姿は今人気のカリスマモデルを彷彿とさせた。
 彼女は隣の私の存在に気付くと、チラリとこちらを見て私と目が合うと微笑んでお辞儀をした。
 礼儀正しい人だ。私もにっこり笑ってお辞儀をした。
「佐々木さん。この値段だったら今日も完売できそうかな?」
 菓子売り場の担当者がにこにこ笑って隣の陳列棚にいるマネキンの彼女に話しかける。
 彼女は穏やかな微笑みを浮かべて、「はい、頑張ってみます」と爽やかに答えている。
 私はこの店にはもう5、6回は来ていると思う。だけど、私の事を「榎原さん」と呼ぶ店員さんはいない。私の事を呼ぶときは決まって「マネキンさん」だ。
 店員さんは今日も完売できそうかなと言っていたので、佐々木さんは以前この店に来た時も完売させていたのだろう。なかなかの販売の腕を持っているのだと思う。余程の昔から人気のある商品以外は、陳列されている商品全てを売り切るのは難しいことだ。
 私は、隣で佐々木さんの販売術を探ってみることにした。
 佐々木さんは紙皿に載せたチョコレートを手に持ちながら、
「新商品の抹茶チョコレートはいかがですか~」と真面目に声を出し始めた。
 しばらくしてから幼稚園生くらいの元気そうな男の子が佐々木さんに走りながら近づいて行って、
「チョコレートちょうだい」と言った。
「いいよ。でもね、このチョコレート抹茶味だよ。食べられる?」
 佐々木さんは男の子の背丈に合わせるように膝を曲げて、男の子に問いかけた。
「まっちゃって、なあに?」
「うーんと、ちょっと苦いお茶みたいなやつかな」
「お茶ならのめるよ。ぼく、緑茶毎日のんでるもん」
「そっかあ、すごいね。じゃあ、食べられるかな。はい、どうぞ」
 男の子は佐々木さんからチョコレートを受け取ると、嬉しそうに口へ運んだ。満足そうに笑みを浮かべて食べている。
「美味しいでしょう。でもね、君は今このチョコレートが食べられなかったら嫌だったでしょう?ここにとっておきの大好きな食べ物がある。それなのに食べられなかったら、とてもとても悲しいのよ」
 佐々木さんは諭すように男の子に語りかけた。急に佐々木さんは何でこんなことを言うのだろう。
 男の子は突然の佐々木さんのセリフに驚いたようだった。黙り込んでいる。そして、少し考えこんでからきまり悪そうにしながら、
「ごめんなさい」と小さな声で言った。
「大丈夫よ。次からは仲良く一緒に食べればいいんだから」
 私には話の流れがわからないけれど、二人の間では不思議と通じていることのようだ。
 男の子は、「これみんなで食べるよ」と一つチョコレートを持って行った。少しすっきりとした表情をしていた。
 私は佐々木さんのそばへ行って、
「あの、さっきの男の子と何の話をしていたんですか?」と訊いた。
 佐々木さんは、ああ、と照れ臭そうに少し笑って、言おうか言わないか悩んでいるようだったが、意を決して話してくれた。
「この仕事長く続けていたら、見えるようになってね」
「見えるって何がですか?」
「人の心の奥深くに引っかかっている情景が見えるの」と佐々木さんは言った。「人は誰もが表に出せない何か引っかかるものを抱えていて、私は相手と話していると次第にそれが自然と相手の体の周りに濃い霧みたいにまとわりつくように現れてきて見えるようになるの。さっきの男の子には、男の子がいて周りに同じ年くらいのお友達も何人かいて、真ん中に大きなお皿の上にお菓子が沢山載っていて、それを男の子が独り占めして食べている光景が見えた。一人の子が食べられなくて泣いている光景も見えた。そのことを男の子も少し気にしていたんだと思うわ。気にも留めていないことだったら、見えるわけがないから」
 佐々木さんと私はそれからお互いに自己紹介をした。佐々木さんは私と同じ年で去年大学を中退してからずっとこの仕事をしているらしい。中退した理由は、若い子って元気過ぎてついていけないかららしい。私のことも知っていて「大きな声を出す人」と認識していたようだ。
 スーパーには様々な人が来る。ベビーカーに乗った赤ちゃんを押しながら来る主婦、お年寄りの人、貧乏な人、お金持ちの人、仕事帰りの人、学校帰りの学生。食べ物を買いに来る人なら誰でもだ。
 佐々木さんのもとにも様々な人やってきて、チョコレートを食べながら彼女と話す。彼女は相手の周りに見えたものについて遠まわしに語りかける。ハッとして黙り込み考える者、滝のように胸に抱えていたものが溢れ出して語りだす者、泣き出す者、怒りだす者、色々な人がいた。そしてそのほとんどの人が、彼女からチョコレートを買っていった。
 まるで対価のようだと思う。彼女に心のわだかまりを取ってもらって、その対価として商品を買っていくのだ。
 学校帰りの女子高生が佐々木さんの方へ近寄って行って試食を受け取った。
 佐々木さんは彼女の周りにまとわりつくものをじっと見てから、
「私も中学生の時どうしても気に入らない友達がいて、無視したことがあるのよ。私は当時とても頑固で向うから謝らないのなら絶対にもう話しかけないと思っていた。結局、その子とは卒業まで仲直りすることがなくて、高校もバラバラで疎遠になっちゃった。今思えば私は一方的にその子のことを嫌って、向うの言い分も聞こうとはしなかった。話し合えばわかり合えたかもしれないのにね。あなたは、まだ近くにその子がいる。気に入らないかもしれないけど、あなたの言い分をぶつけてみてもいいんじゃないかな。もし、分かり合えなくても、今の気持ちよりはずっと気分がいいわよ」と言った。
 彼女は綺麗に手入れされたロングヘアを垂らして俯いた。ほろ苦い抹茶味のチョコレートを今彼女はどんな味がするのだろうか。
 彼女はチョコレートの山から一つ取って、「ありがとう」と喉を詰まらせたかすれた声で言って去っていった。
 気がつけば、佐々木さんは着々とチョコレートの数を減らしていった。残り十個くらいになっている。私には決して真似できない販売術だけど、彼女は明らかに販売の天才だった。
 販売終了の時間がきた。佐々木さんは素早く片付けを済ます。去る間際、彼女は私の方を見て、
「あの、榎原さんはそんなに着飾らなくてもシンプルな服で充分素敵ですよ。では、またどこかで」と言った。
 彼女はきっと私のものも見えたのだろう。

 私は卒業するまで試食販売の仕事を続けていたが、佐々木さんとは、その後不思議なことに一度も再会することはなかった。
 私も佐々木さんのように人の内側に潜むものを見てみようと努めたが、それは才能のようなものらしくできなかった。
 佐々木さんに言われてから、私は前ほど服を買わなくなった。潮が引くように興味が一気に薄れたのである。その代わりに、色んな本を買って読むようになった。世界は佐々木さんのように未知で不思議な存在で溢れていると思ったら、好奇心が無限に広がっていった。
 卒業後は地元の小さな書店に就職した。店員も常連のお客さんも私のことを「榎さん」と呼ぶ。
 時々どうしようもなく人間関係に嫌になることはあるけれど、そういう時は私の中にある知識を持って相手の内側を見るようにしている。
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