第1話

文字数 1,292文字

 俺の趣味は、山奥の渓流で釣りをすることだった。

 休みのたびに車を走らせて山に行き、人里離れた川をのぼる。

 俺はとある山中で、イワナがよく釣れる滝壺を発見した。どうやら誰にも見つかっていないらしく、釣り場は俺の独占状態だ。

 その滝壺で釣れるイワナは、どれも30㎝を超える大物ばかりだった。そして、塩焼きにすると格別にうまい。
 俺はやみつきになってその場所に通った。

 ある日、ほとんど人を見かけないその渓流で、地元の人らしい老人と出会った。

「どこの者か知らんが、ここで釣りをするのはやめておきなさい」

 老人があまりに険しい顔で言うから、俺は慌てた。

「釣りは禁止でしたか」

 しかし、老人は黙って首を横に振る。

「立ち入り禁止にはなっていないが、地元の者は絶対にこの川で釣りをしない」

 そう言うだけで、理由までは教えてもらえなかった。
 俺は首をかしげながら、結局は気にせずこの滝壺に通い続けた。

 しかし、このところ、竿におかしな反応がある。
 投げ入れた針に当たりの感覚はあるのだが、どれだけタイミングを合わせて竿を引いても、空っぽの針が戻ってくるのだ。

 しかも、餌は付いたままだった。

 川底の木に引っかかっているような手応えではない。明らかに魚がかかって、向こうの方から糸を引いている。
 それも小物ではなく、網からこぼれるほどの大物の手応えだ。あるときなど、竿に引っ張られて滝壺に落ちそうになったほどだった。

 おそらくそれは、この滝壺の主なのだろう。いつかこの手で釣り上げてみたいものだ。
 そう思いながら、俺はたびたび釣れる並の獲物で満足していた。

 ある週末、俺がいつものように滝壺に行くと、そこには大勢の警察官が集まっていた。

「あなたは釣り人ですか?」

 厄介なことだが、俺も常連ということで、根掘り葉掘り事情を聞かれた。といっても、毎週末にここで釣りをしているとしか、話すことがない。

 すると年配の警察官は、眉をひそめた。

「ここで釣りをしてはいけないと知らなかったのですか」

 どこか哀れむような様子だった。

「いえ、地元の人は釣りをしないそうですが、禁止ではないと伺ったので」

「なぜ地元の人がここを避けているか、考えなかったのですか」

 年配の警察官は、俺を見て深いため息をついた。

「どういうことですか? はっきり教えてください!」

 俺がしつこく尋ねると、警察官は渋々口を開いた。

「きのう、この滝壺から人のご遺体が発見されました。それ以上は聞かない方がよろしいかと」

 その場では、とても聞くことができなかった。

 あとから調べてみると、この滝壺でたびたび自殺者が出ていることがわかった。

 滝壺というのは、思っていた以上に危険な場所らしい。
 飛び込むと、水流で体が川底に沈み、遺体になってもしばらくは浮いてこないのだとか。

 新聞には、そこで死後3週間の遺体が発見されたと書いてあった。

 俺が今まで、ここで釣って食べていたイワナは……。

 そこまで考えて気持ちが悪くなり、嘔吐しながら思い出した。
 最近滝壺の底から釣り糸を引っ張っていたのは、何だったのだろうか。

 それから、二度と釣りには行っていない。
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