Scene 3 疑問

文字数 2,795文字

 爪の隙間に残った皮膚組織があれば、その持ち主を割り出せる時代。
 被害者の少女は、勇敢にも抵抗したらしい。現場に警察が到着した時には、犯人の姿は跡形もなく消えていた。少女に対する目的を果たし、現場から、というより、その時間から、本当にいなくなってしまったのだろう。それでも、犯人の痕跡を、彼女は掴んでいた。
 被害者の爪の隙間に残された、犯人の皮膚。鑑識の結果を回されたとき、いっそうの事、
抵抗などせず、痕跡など掴まなければよかったのにと思った。
 驚くことに、鑑識の結果は、犯人を被害者と同一人物だと証明した。自分の皮膚を引っ掻いてしまったのではないかという意見もあったが、詳細な鑑識はその推測さえも一蹴した。犯人の残した皮膚組織は、確かに被害者のものと同じ組織で構成されていた。ただ、一つだけ、違うところがあったのだ。犯人の残した皮膚は、被害者のそれと比べて、十数年程、年を取っていたのだ。
「未来の自分が犯人だなんてね。ばかばかしい・・・」
 ばかばかしいが、目の逸らせられない真実だ。
 30歳まで生きる気はないと、18歳の段階で未発達な体を酷使する少女。刹那的な快楽を批判するものはいても、それによって迷惑をこうむるものはいなかった。だから、将来を蝕むエピキュリアンは夢を見続けられたのだ。一人だけ彼女の刹那主義を恨むアンチ・エピキュリアンがいたとすれば、それは未来における自分自身だったのだろう。30歳の自分は、18歳の自分のおかげで人生を台無しにされたのだ。30歳まで生きる気はないという死の宣告を受けて、30歳の彼女は、18歳の自分のことをどう思うだろうか。
「自分が犯した過ちだってことくらい、分かっているんですよね。ただ、やり場のない後悔を、夢見る頃の自分を憎むことで解消しようとする気持ちも、わからなくはないと思います」
 ソーダ割に落とした瞳が、氷を映して揺れている。同僚の、私よりは5つほど若い彼は、父親の役職と面長の面構えからサラブレッドと呼ばれている。素晴らしい血統を与えられたが故に、競い争うことを運命付けられた、悲しき競走馬(サラブレッド)。彼も自分の人生を、抗い様のない歴史に掻き乱された人間である。
「僕も同じように思うことはありますからね。恥ずかしい話ですけど、高校生の時、親父の敷いたレールに乗って生きるのが嫌で、家から逃げ出したことがあったんですよ。身体造りに野球を始めた高校球児が、本気でプロ野球選手を目指そうとして、自分の性が持つ血統と衝突した。もちろん、親父は激怒して僕を探し出したんですけどね。そこで、僕に選択肢が与えられたわけですよ」
 サラブレッドがこの話を始めるのは、酔いが回ってきた証拠である。夢を追うか、現実を守るか。過去の彼が選んだ、将来の彼の進むべき道を運命付ける選択。
「温室で育ったあの頃の僕に、家を出て白球に命を掛けることはできませんでした。僕は夢を捨て、親父の敷いたレールに戻り、そして、いまここにいるのだと思います。まぁ、この選択にも満更に不満だらけってわけでもないんですけどね。こうして先輩にも出会えたわけですし。だけど…」
「後悔は残っている」
「はい。こうして、現実という道に足が慣れてくると、やっぱり、あの時に夢を追っていればよかったと思い、過去の自分が行った選択に対して不満を持つことはあります。どうしてあの時、夢を追わなかったんだ、と。おかげで、僕の人生は面白みのないものになってしまったんだ、と」
 邪念を振り払うようにソーダ割を飲み干すサラブレッドの前に、タイムマシンは置かれていなかった。彼に出来ることは、過去の自分に不満を喚き、こうして酔いつぶれてしまうことだけだ。私達に、過去を変えることは出来ない。少なくとも、今の時代には、タイムマシンは発明されていないのだ。幸か不幸か、それを判断することは出来ないだろう。
 彼女は、自分の将来を台無しにした過去の自分に会って、なにをするつもりだったのか。過去の自分を否定し、罰することで、自分の存在する未来を変えたかったのか。
「過去を否定する心くらい、誰だって少なからずは持っています。そして、未来には欲望を呑み込んでしまう環境が整っていた。だから、こんな、救いようのない事件が起こってしまったんですね」
「救いようのない、事件か」
 吐き出したタバコの煙が何かを言いたそうにして、目の前に留まった。
 将来の自分を犠牲にして生きる18歳と、過去の自分を恨んで生きてきた30歳、“自分同士”が起こしたその事件は、確かに救いがないようにも思える。命を失うまでには至らなかったものの、被害者である18歳の少女は、未来の自分という加害者から軽いとは決して言えない暴行を受けた。犯行を終えた30歳の彼女は、自身の存在を示すものだけを残して、未来へと帰っていった。タイムマシンを持たない私達に犯人を捕まえることは不可能であり、悲しみだけを置き逃げされた完全犯罪として、事件は処理されるしかなかった。
「でも、一つだけわからないことがあるんですよね」
 呂律(ろれつ)の回らない舌で、サラブレッドが(いなな)く。
「結局、未来から来た彼女は、18歳の自分に対してなにをしたかったんでしょうか。もし、過去を変えることで未来が変わるとするのなら、過去の自分に暴行を加えたところで、より暗い未来が待っているだけだと思います。そうじゃなくて、一思いに、道ずれにと自分の命を閉じに来たのなら、事件は傷害致死にまで発展していたはずです。過去の自分を改心させて、非行をやめさせようとしたわけでもない。重傷止まりの傷害を加え、持ち合わせに過ぎない金銭を強盗しただけ。犯行内容が中途半端なように思えるんですよ…」
「そうね」
 もっともな意見である。サラブレッドの抱いた疑問こそが、私をこの場所に足を運ばせた原因なのだ。時間を超えて過去の自分を咎めにいくとは、12年後の未来であっても、片手間に出来るという作業ではないだろうし、過去の自分に会いに行くとは未来を変える可能性のあることであり、明確な目的と決意なしには実行できないだろう。そうした綿密な計画の上に行われた犯行のはずであるのに、傷害と強盗という、さほど未来にとって影響力を持たない犯行だけで事件は終わったのだ。実際に、この矛盾が捜査本部を混乱させることになったのだが…。
「多分、この事件には、まだ希望が残っていたのよ」
 私は、ことの顛末を顧みていた。
 事件には、単純に“絶望的”と言い切れない真実があったのではないか。だからこそ、穴だらけの中途半端な事件として表面的には映ったのではないか。

「希望?」
「ええ。傍から見れば、どうしようもなく救いようのない事件よ。でも、彼女達自身の手で掴める希望は、一つだけ残されていたのよ」
 そうでなければ、殺人未遂の犯人が、12年前の自分の財布などを盗むはずがない。
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