第1話

文字数 2,123文字

私が何日もお風呂に入る気力がなかった時、代わりに児童書とドラマに浸かった。トイレの鏡に映る自分の姿とは予め目を合わせないように気をつける。夏場にうっかり常温で放置してしまった弁当の中身のように、みなくてもひどい様であることだけは想像がつく。むくみべたつきざらつく肌、ひび割れた唇、口内炎が痛くて口が閉じられない。自分の体よりも大きく膨れ上がるものを押さえ込んだつもりでも、目から漏れ出るボロ。14歳の頃、「一週間誰とも話してないのに皆はいったい何を根拠に私を気味悪がるんだろう」と疑問に感じていたが、十年後、薄暗い洗面台の前でその答え合わせをする。家を出られず髪も洗えないなら、せめて寝食を忘れた天才ということに状況を書き換えられないか?布団の横にはハードカバーの本が威圧的に積み上げられている。意を決して一冊を開く。文字がそろばんのように行儀よくしきつめられている。睡眠不足とブルーライトで目はひりつき、視線はページの余白を伝って流れていき、何も残らず、何も分からなかった。代わりに何が留まったかというと、埃がたまっていた冒険物語と、100話のドラマだった。
英語にはギルティープレジャーという言葉がある。雑に言えば好んでいることを人に知られたらちょっと恥ずかしいような、俗っぽかったり、安っぽかったりするようなものを指す。例えばファストフードのことであり、破廉恥な表紙の読み物である。私は早くしてこのような選別をする嗅覚が身についた。10歳くらいまでは気が赴くままに本を読んた。それが、小学校四年生では大人の本を読んでいた。あくまで、「小学四年生」で「大人の本」を読んでいたことが重要であった。(正確にいうと、言葉は読めた。意味はわからなかった。)大人に称賛された。これはまだ序の口だった。少し年齢があがると、小学校四年生の時に読んでいた大衆小説を鼻であしらうようになり、本屋では純文学コーナーに直行するようになった。当然、純文学がとりわけ好きだったわけではなく、自分を知的であるかのように演出したかっただけであった。私は表向きに読む本と、ギルティープレジャーとして読む本を分別した。前者は購入し、アクセサリーのように見せびらかした。後者は本屋でこそこそと慌てて立ち読みするので十分なことにしておいた。
こうなった理由を振り返ってみると、ものをありのままに感じる自分のほかに、監視人のような自分がいて、年をとるにつれ監視人の方が濃く大きな影を放つようになったからではないかと思う。監視人には点数や常識や世間体という根拠があった。湧き出る感情にはそのような武器がなかった。この監視人にはその後幾度なく首を絞められ胸をどつかれ足をひっぱられるようになったが、これはまた別の話である。
もう数年たつと、「社会は厳しい、お前は甘い、物語は絵空事だ」と言われるようになった。血がにじまなければまがい物であり、傷を残さなければ現実ではなく、価値を証明できなければ資格はない。優しさを弱さとして塗りつぶす過激な言葉とささやかに引いた境界線を踏み荒らすかかとの音に動悸がする。「厳しいことを言うようだけど、これが現実」とは言うけども、それが確かにきつい言葉だとして、ほんとに本当なのか?「現実」を盾に厳しがりたいだけなんじゃないの。少しでも力を入れたら割れそうなものを割れないようにそっと抱え続ける筋力に気づいたことがあるのか、とわめきたくなる時がある。でも、ナイフのようなものを突きつけられると、それが空威張りなのか現実なのか区別する間もない。
私はニューエイジの思想を黒くうるんだ目で説いてくる知人とは距離をおいた。そのあと人生を知った。病床から妹が一重のティッシュをぎりぎりまで張ったような笑顔をつくってみせる。「いつもより帰ってくるのが遅い」という所感が誤差の範疇から確証へと移り変わり、内臓が凍てつく。気がつけば自分もかつては蔑んだ通りをうろついていた。  
すごく落ち込んで、日によって何も口にしないか人に贈るはずだった菓子折りを無心でむさぼるかの両極端を行き交っていた時、10歳の頃愛読していた冒険ものだけは読めた。人気者とつるむために友達を捨てて、うまくいかなくなった途端に泣きつきに戻ったように。謎めいたイニシャルの秘密組織と湯気が立つおいしそうなご飯の描写のおかげで少しのあいだ痛みを忘れた。こうして幸せを感じるということは、私の心の中で始まってそのまま終わるだけのことかもしれないと学んだ。
別の時、私を助けたのは100話の超大作ドラマだった。主人公の子、最初はすぐ泣くところが鼻についたけど中盤以降は一緒に涙を流した。薄暗く散らかった部屋で朝から晩までひたすら映像を流し続けた。そんなことしていては脳みそが溶けると言われても、死にたくなるより、恥で自分の顔をフォークでかきむしりたくなるよりは、ずっとましだと思った。ずっとずっとましだと思う。
小さい頃、私は気が赴くままに本を読み漁った。外で空の色が変わるのにも気が付かず、目がひりひりしながら物語の世界に浸っていた。大人になるにつれ、なぜだか子供に戻っていくような不思議な感覚に私はある時陥った。
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