第1話

文字数 17,957文字

シロツメクサ

 真新しいランドセルが踊る時期になると、その河川敷には一面にシロツメクサの花が咲く。そのシロツメクサの中でぴょこぴょこと動く頭がある。しゃがんだり立ったりを繰り返す少女、唄の頭だ。唄はそのシロツメクサをかじってみたり、花弁を数えてみたりする。摘んだシロツメクサを並べてみたり、思いっきり投げてみたりする。
「ちがうよ。」
 と声がした。トリケラトプスがプリントされた緑色のTシャツを着て、黄色い帽子をかぶった少年が立っている。唄が最近、頻繁にCMで見たランドセルというものを背負っている。ランドセルが身体の半分以上を占めていて、まるで亀みたいだと唄は思った。
「そうやって遊ぶんじゃないんだよ。つなげて冠とかネックレスとか作るんだよ。」
 少年はそう言うと、唄が並べたシロツメクサを一つずつ拾い、茎に穴をあけてもうひとつのシロツメクサをその穴に通し、巻き付け、何かを作り始めた。少年がしゃがんだので、唄もその隣にしゃがみ、少年の手元を見つめる。
「ねえ、あ、名前何?」
少年が尋ねる。
「こめだうた。」
「僕は、ほしのはる。うたってどういう漢字?」
「かんじ?」
 唄はきょとんとしている。
「はるは、晴れるの晴だよ。」
晴はそう言いながらシロツメクサを置いて、ランドセルからノートと鉛筆を取り出し、ノートの一番後ろのページに「星乃晴」と書いて見せた。
「まだ習ってないけど練習したから書けるよ。」
晴は得意げに言ったが、唄は首を傾げる。
「…わかんない。」
「名前の漢字書けないの?何歳?」
「六さい。もうすぐ七さい。」
「六さい、一緒だね。何組?僕四組だよ。あらいまきこ先生。」
「…わかんない。」
 唄は学校をよく知らない。保育園にも幼稚園にも行ったことがない。毎日お昼ご飯を食べ終えると外に出て遊び、街のスピーカーから夕方の音楽が流れたら家に帰る。そうお父さんと約束している。唄が一人で外に出るようになったのは最近のことだ。迷子にならないように、お父さんと一緒に行った場所にだけ行って良いと言われている。迷子になったら、二度とお父さんと会えないとも言われている。
「できた。」
 晴は立ち上がり、シロツメクサで作った輪っかを自分の頭に乗せる。その後、しゃがんだまま晴を見上げている唄の頭に乗せた。晴はまた得意げだった。
 次の日も唄がシロツメクサを並べていると、同じ時間に晴が来た。
「ちがうってば、あそび方。僕が教えてあげようか?」
 今度はステゴザウルスの黄色いTシャツを着ている。唄はその日、シロツメクサのつなげ方を覚えた。
それから毎日、晴は同じ時間に河川敷にやって来た。毎日何かしらの恐竜がプリントされたTシャツを着ている。黄色い帽子とランドセルは毎日同じだ。二人は一緒にシロツメクサの冠を作りながらお喋りをする。唄は、その日観たテレビの話や、お父さんから聞いた、おじいちゃん達の話。晴は、その日に習った新しい漢字や、あらい先生、休み時間に読んだ本の話だ。

スーツと百円

 二〇二一年四月二十八日。唄の七歳の誕生日だ。ちょうど日曜日だったので、デパートに連れて行ってもらった。デパートの屋上には唄の目を引く乗り物がたくさんある。お父さんは、
「今時珍しいなぁ。」
 と言った。唄の方を見ていないので、独り言だ。そして今度は唄の方を見て、
「三つだけ選んで乗っていいよ。」
と言った。唄がパンダの乗り物に駆け寄ると、お父さんがコイン投入口に百円玉を入れて動かしてくれる。
「唄、こっち見て。」
そう何度も言いながらパシャパシャと写真を撮っている。お父さんのスマホには唄の顔がいっぱいだ。でも唄は、恥ずかしくてお父さんの方は見ない。どこを見ていれば良いか迷いながらも、動くパンダは楽しい。パンダの次は、小さい新幹線を選ぶ。同じ新幹線に乗っている子の親たちがスマホのレンズをこちらに向けて囲んでいる。その中にお父さんの姿もある。楽しさと居心地の悪さが同時にある。
新幹線の次はロケットだ。銀色のロケットには、大きくて黄色い横開きの扉が付いていて、百円玉を入れると扉が開き、中に入れる。扉を閉めてスイッチを押すと、
「スリー、ツー、ワン、ゴー!」
との掛け声が響き、発射音と共にくるくると回り出す。ロケットは約一分の間、回ったり、上下に動いたりを繰り返す。そのデパートの屋上にある乗り物の中でもひときわ派手だった。
「お父さんが子どもの頃にはこんなのは無かったなぁ。」
新しく設置されたばかりのロケットには長蛇の列。唄は諦めてトランポリンにした。トランポリンの時は、お父さんはもう写真を撮るのを諦めていた。
 お父さんは今日珍しくセーターを着ている。唄はあまり見慣れない。お父さんは毎日スーツを着るからだ。そして黒い鞄を持って仕事に行く。仕事用の水色のポロシャツとお弁当を入れると、その鞄はパンパンになってしまう。スーツを着なければ荷物も軽くなるのに、毎日スーツを着て家を出る。帰ってくるときもスーツを着ている。だから唄は、大きくなったらお父さんにスーツを買ってあげようと思っている。お父さんはスーツが好きだから。スーツは百円玉何個分だろうか。唄はまだ知らない。朝、スーツを着た男たちが一様に駅に向かって歩く中、スーツでないものを着て駅とは反対に歩く心地悪さのことを、まだ知らない。
「ロケット、のりたかった。」
「また連れてきてあげるから、その時に乗ろうね。」
 二人はそう話しながら手をつなぎ帰った。

青いひよことクリスマス

 風が身体を刺すように冷たくなり、河川敷でランニングをする大人が急に減った。そこで遊ぶ唄と晴の鼻先が赤い。耳も赤い。河川敷を行き交う人々は皆少し前よりも一回り太って見える。駅近くではキラキラと光るトナカイやリボンが出現したが、唄はそれを知らない。
「サンタさんに手紙書いた?」
 晴が尋ねる。お喋りを始めるのは、いつも晴の方だ。
「かいたよ。」
「何お願いしたの?」
「えのぐ。」
「絵の具持ってないの?僕は図工で使うから一年生になる前に買ってもらったよ。」
「晴は何おねがいしたの?」
「トリケラトプス。」
「なにそれ?」
「恐竜だよ、こんなくらい大きいの。今度見せてあげるから、うちにおいでよ。お母さんに言ってみるね。」
 そう言いながら晴が腕をいっぱいに伸ばして空中に描くトリケラトプスは結構小さい。
 シロツメクサが姿を消した後に現れた青々とした草も、今は薄茶色に姿を変えている。唄はシロツメクサの名前も知らなかった。晴が教えてくれた。唄が最初に覚えた植物の名前だ。
「晴、この草、なんていうの?」
 珍しく唄から問いかける。
「えー、ただの草だよ。名前は無いと思う。」
「どうしてシロツメクサには名前がついていて、この草にはないの?」
「うーん、シロツメクサはきれいだからじゃない?」
「きれいじゃないと名前つけてもらえないの?」
 唄がそう尋ねると、晴は少しだけ戸惑った。そんな風に考えたことがなかったからだ。
「わかんないよ、そんなの。でももしかしたら名前あるかも。僕、植物そんなに好きって訳じゃないから。」
「じゃあさ、あらい先生にきいてみてよ。なんでも知ってるんでしょ?」
「うん、きいてみる。クリスマスの日は給食にチョコレートケーキが出るんだよ。」
「いいなあ。唄も夜はおとうさんとケーキをたべるよ。チキンもたべる。」
「僕も夜チキン食べるよ、ケンタッキーのやつ。楽しみだなあ。」
「ケンタッキー?」
「そう、骨がついてるの。唄が食べるのはケンタッキーじゃないの?」
「骨はついてない。」
「骨がついてる方がおいしいよ。お父さんにたのんでみたら。」
「ううん、骨なくてもおいしいからいい。」
「ふーん。どうしてクリスマスにはみんなチキンを食べるんだろうね?」
「おいしいからじゃない?」
「チキンってにわとりなんだよ、知ってた?」
「うん、しってる。テレビでいってた。」
にわとりと聞いて唄は思い出した。青いひよこのことを。
 昨年の夏祭りは、唄にとって初めての夏祭りだった。お父さんは普段仕事が忙しいので、夏祭りと誕生日はお父さんと遊べる貴重な時間だ。夏祭りではカラフルなひよこが売られている。この時もまたお父さんは、
「いまどき珍しいよね。」
と言った。何故だか誰かに話しかけているように聞こえたが、今回も唄の方は見ていなかった。生き物にしては鮮やかすぎる色をしたひよこたち。唄はひよこをねだった。お父さんは、りんご飴を諦めることを条件に買ってくれた。唄は青いひよこを選んだ。
「はなちゃんって名前にしようかな。」
「ちょっと貸して。うーん、でもこれ男の子だよ。もうちょっとかっこいい名前にしてあげたら?」
「いいの、かわいい方がいいもん。」
「そう。」
唄のお父さんは唄のことをたくさん可愛がってくれる。一緒にご飯を食べるとき、抱っこしてほしくて寝たふりをしているとき、
「本当にかわいいなあ。」
と呟く。でも、はなちゃんを見てかわいいと言ったことは一度も無かった。代わりに唄がたくさん可愛がってあげた。
「はなちゃんが男の子なら、来年は女の子を買ってもらったら?」
晴が言う。
「どうして?」
「そしたらはなちゃんと結婚できるよ。」
「男の子と男の子じゃけっこんできないの?」
 晴はまた少しだけ戸惑った。考えたことがなかった。どうして男の子と男の子では結婚できないのか、晴は知らなかった。晴が困って黙っていると、
「でも、はなちゃんはもう死んだよ。」
 と唄が言った。
「もう死んじゃったの?早いね。」
「おまつりのひよこはジュミョウが短いんだって。おとうさんは、はなちゃんが死んでも全然泣いてなかった。」
「僕のお母さんは、犬のラッキーが死んだとき、たくさん泣いてたよ。僕もお祭りの時ひよこが欲しかったけど、お母さんはもう生き物が死ぬのは嫌だからって買ってくれなかった。」
「でもさ、晴のお母さんもチキンたべるんでしょ。ムジュン、してない?」
 テレビで大人たちが喋っていた難しい言葉を覚え、使いたい唄。
「チキンは動かないから悲しくないんだよ。」
 どうやら晴もその言葉を知っているようだ。

登校

 太陽の日が暖かくなり、河川敷の地面にはまた青い芝が戻り始めている。ランニングをする大人もまた増え始め、行き交う人々はマフラーを取り、コートを脱いだ。よく晴れた空は、少しぼんやりと霞んでいる。唄と晴は出会った頃より五センチ以上も背が伸びていた。晴はもうすぐ春休みに入ろうとしていた。
「この草の名前、あらい先生に訊いてみたよ。でも、先生も知らないって。」
 この日も晴から話し始める。
「なんでも知ってるわけじゃないんだね。」
「それでね、先生に唄の話をしたら、今度学校に連れておいでって。」
「どうして?」
「僕たちと一緒にお勉強したり遊んだりしてほしいって。唄とお話したいって言ってた。」
「唄、名前の漢字まだ書けないけど行っていいの?唄、給食たべてみたかったんだよね。」
「明日は僕といっしょに学校に行こうよ。」
「おとうさんに言ってみる。」
お父さんに学校のことを教えてあげよう。唄と同じ歳の子どもがたくさんいて、先生とお勉強できて、漢字もたくさん書けるようになる。
「唄、算数ドリルとか教科書とか持ってる?」
「もってない。」
「じゃあ僕が見せてあげる。きっと隣の席になるよ。」
「晴といっしょに、おべんきょうするのかぁ。」
「明日、八時までにここに来て。分かった?」
「わかった。」
唄は家に帰ると、バッグに鉛筆とお絵描き帳を入れて玄関に置いた。準備万端だ。テレビを観てお父さんを待つ間も、ちらちらとバッグに視線を送る。明日から唄も一年生だ。晴と一緒に学校へ行って、先生にあいさつをする。あいさつは大きな声でするのだと晴に念を押された。
唄の好きな番組が終わるころ、ガチャ、と音がした。
「唄ー、このバッグ何?」
お父さんが帰ってきた。
「明日からね、学校に行くんだよ。晴の先生がきていいよって言ってたんだって。」
「晴って誰?」
「いつも一緒にお喋りするの。一年四組のこくばん消し係だよ。」
「いつの間にそんな…。唄、一人で遊ぶのはいいけど、人に話しかけちゃだめだって言ったよね?」
「話しかけたんじゃないよ。晴が話しかけてきたんだよ。」
「はあ……。やっぱり外に出すんじゃなかった。唄、学校はだめだ。それと、その子とももうお話しちゃだめだよ。一人で遊べるでしょ?分かった?」
「どうして?学校に行ったら漢字も書けるようになるし、頭も良くなるんだよ。唄も晴みたいに賢くなりたい。給食もおいしいんだって。唄と同じ年の子もいっぱいいるんだよ。」
「そんなに楽しいところじゃないよ。行かないほうが良い。」
「いやだ、行きたい。学校行きたい!どうして行っちゃだめなの?唄が字を書けないから?」
「え?……ああ、そうだよ。唄はまだ字を書けないから、学校に行ったら怒られるよ。学校の先生はとっても怖いんだよ。もし怒られたら、二度とお父さんと会えないようにされるかもしれない。それでもいいの?」
「え…?それはいやだぁ…。」
唄は想像しただけで頬をぬらした。大好きなお父さんと会えないなんて嫌だ。
「分かった、学校行かない…。」
「うん、じゃあそのバッグ片づけてね。ご飯にしよう。」
 翌日唄は約束の時間に行かなかった。しかし、お昼を食べたあと河川敷には行った。晴とも会わないよう言いつけられたが、河川敷に行くことが習慣になっていた。いつもの時間に晴が来た。その後ろに大人が二人いる。
「唄、今日どうして来なかったの?僕、ずっと待ってて、もう少しで遅刻しそうになったんだよ!」
晴が下を向いて怒っている。唄と視線が合わない。後ろにいる大人は二人とも中年の女性だ。
「あなたが、こめだうたさん?私は、星乃くんの担任の荒井真紀子です。よろしくね。こちらは、児童相談所の坂下玲子さん。うたさんが困っていたら助けてくれる人だよ。」
荒井先生は唄が想像していたよりも倍は丸かった。にっこりしていて優しそうだ。
「さかしたさんも、晴の先生?」
晴は地面を見ている。
「知らない。」
と一言呟いた。
「うたさん、怖がらなくて大丈夫ですよ。何か困っていることはある?」
「こまってること?」
「そう、例えば、お腹が空いているとか、お父さんに叩かれるとか。」
「ううん、ないよ。」
「ちょっとごめんね。」
そう言って坂下さんは唄の袖をまくった。突然触られたので唄は少し怖くなった。
「ねえ晴、この人だれ?どうして晴と一緒に来たの?」
晴は答えてくれない。
「あざは無いですね。」
「うたさん、ご飯はちゃんと食べてる?」
「たべてる。」
「うたさんは、どうして学校に行っていないの?」
「唄はまだ字が書けないから。」
「字が書けなくても、学校には行けるんですよ。学校で学べばいいの。」
「お父さんは今お家?」
「しごとに行ってる。」
「お家まで案内してくれるかな?」
「どうして?」
人に家の場所を教えてはだめだとお父さんに言われている。もし怖い人が来たら、お父さんと引き離されてしまう。
「あざも無く健康そうですし、今日は一旦帰して保護者については警察に任せましょうか。」
「いやでも、ここで遊んでいるってことは杉田小学校の校区内に住んでいるはずです。学校の名簿に無いってやっぱりおかしいですよ。今帰したら危険かもしれないですよ。何かあってからでは遅いですし…。」
けいさつ?きけん?荒井先生と坂下さんはひそひそと話しているが唄には丸聞こえだ。晴は震えている。いつもにこにこしている先生が、見たことがないほど真剣な顔をしているからだ。晴は、先生が唄を叱るつもりなのだと思っていた。放課後河川敷まで付いていって良いか先生に訊かれた時、唄が約束を破って学校に来なかったことを叱るんだと思った。晴は、遅刻寸前まで待ったのに唄が来なかったから腹を立てていて、叱られれば良いと思った。それなのに、先生は一向に唄を叱らないし、知らない人と真剣な顔で話しこんでいる。
しばらくして坂下さんのスマホが鳴った。
「調布警察署の工藤です。先程ご連絡いただいた子の件ですが、無戸籍の可能性があるということで、もしかしてと思って署内の記録に当たったんです。名前、唄さんっていうんですよね?」
「そうです。」
「七年前に誘拐された子かもしれません。上島結(ゆい)ちゃんです。事件当時の乗客名簿では、村上唄として報告されています。今そっちに向かってます。その子と一緒に待っていてください。」

負託

 二〇一五年三月七日午後三時四十五分ごろ。
「次は千歳烏山です。出口は左側です。」
調布駅を出てすぐ、車内は混乱に包まれた。男が包丁を振り回しているのだ。何かを叫んでいるが何と言っているのかは分からない。乗客たちは隣の車両に逃げ込み、隣の車両にいた乗客たちはそのまた隣の車両に逃げ込む。その中に、生後五か月の赤ん坊を抱いた女性、上島葵(あおい)がいた。葵も必死に逃げようとするが、目の前に別の乗客がいて中々進めない。前の人、もうちょっと進めるんじゃないか。何故こんなところで立ち止まっているのか。前の人を急かそうとした時だった。
突然、脇腹に鈍い痛みが走った。振り向けないが、何が起こったか分かった。葵は咄嗟に、目の前にいた男性の腕を掴む。そして、振り返った男性に、自分が抱えていた赤ん坊を押し付けた。もう、こうする他の手段が思い浮かばない。葵が想像しうる中で最悪な結末は、腕の中で泣き出したこの子が傷付けられることだ。それだけを回避できれば充分だった。
「この子を抱いて遠くに逃げて!」
葵は叫ぶ。赤ん坊が男性の服を掴んだ。次の瞬間男性は赤ん坊を受け取って走り出した。人と人の間をすり抜け、混乱する人だかりを突っ切って行き、葵からはもう見えなくなった。姿が見えなくなると、葵には脇腹の感覚が戻ってきた。次第に熱くなり、じくじくと音が聞こえる。立っていられず倒れ込むと、目の前がぼやけ、暗くなった。

ひよこ鑑定士の男

 米田(こめだ)肇(はじめ)、三十四歳。ひよこ鑑定士。同じ歳の妻ともうすぐ一歳になる娘がいる。妻の栞(しおり)とは高校の時に知り合った。高校時代、肇は漫画研究クラブを創設した行動力とは裏腹に友達がいなかった。学校でも漫画を読みたくて一人で作ったクラブだ。校風が自由である上に予算も特に必要としないのであっさり認められたが、仲間はいなかった。二年生に上がる時、新入生が一人だけ入ってきた。しかしたった一人の部員以上に趣味が合ったのが、同じクラスの栞だった。栞はテニス部に入っていたので漫画研究クラブの部員では無かったが、二人は漫画を交換し合う仲だった。栞は肇にとって唯一の友人であり、理解者であり、そして互いに初恋だった。初恋の相手とは上手くいかないというが、肇たちにとっては全くの迷信であった。
そして二〇一四年四月二十八日、娘が産まれた。娘の名前は栞が付けた。米田唄。この上なくかわいい名前だと肇は思っている。肇がそっと指を近づけると、唄は必ず握り返してくる。ぎゅっと握って中々離してくれない。
「唄はお父さんのことが大好きなんだよね、全然離してくれないから困っちゃうなぁ。」
 肇がそう言って目尻を下げると、栞は笑いながら言う。
「だから、それは原始反射だって。赤ちゃんは皆、誰にでもやるんだって。そんなことより早く着替えないと遅刻するんじゃない?」
 これが毎朝の光景だった。肇がスーツに着替えていると栞は必ず言う。
「なんでひよこ鑑定士がスーツなんか着る必要あるの、向こうでも着替えるんでしょ?面倒じゃないの?」
「これがひよこと会いに行く正装なんだよ。」
 といたずらっぽく返す。毎朝同じようなやり取りをしても、全く飽きない。
「ひよこと会うときは作業着でしょ?」
 と笑う顔は、日によって微妙に変化する。全く同じ笑い顔というものはないと肇は思っている。だから毎朝同じようなことを言って、栞の笑い顔を楽しむ。仕事から帰ると、
「また買ってきたの?」
 と再び栞が笑う。これがいつもの光景だった。肇はかなり頻繁に唄の服を買ってきた。
「唄の将来のためにも節約するって約束したでしょ?大学まで行かせるのにかかるお金、ついこの間青くなったのにもう忘れたの?」
と栞は怒るが、スーパーに寄って可愛い服が目に入ると、どうしても唄に着せてあげたくなってしまうのだ。それが分かっていて、栞はいつも半分笑いながら怒る。
ひよこ鑑定士は繁忙期以外には残業が無いので、肇はいつも早めに家に帰る。家に帰ると洗濯物を取り込んで畳み、唄と遊び、お風呂を磨き、三人で夜ご飯を食べる。肇が唄に食べさせている間に栞が食べ、栞が食べ終わると交替する。栞は、肇と唄が遊んでいるところを動画で撮るのが好きだ。スマホの容量をどんどん圧迫する動画にはいつも肇と唄の顔、そして栞の笑い声だ。
二〇一五年二月十四日。まだ寒いがよく晴れた日だった。栞は唄を自転車の後ろに乗せてスーパーに向かっていた。横断歩道の信号が青に変わったのを確認して渡り始めたとき、突然自動車が突っ込んできて、自転車ごと倒れ、数メートル引き摺られた。八十七歳の運転手はハンドルを握ったまま、前を見つめていた。仕事中に電話を受けた肇は急いで病院に向かったが、二人の顔には既に白い布が掛けられていた。布をめくると、そこには顔が無かった。ただ肉片があって、ああ、栞と唄ではない、と肇は思った。人違いだったのだと信じた。
 肇が火葬場の職員に言われるがまま二人の骨を拾った日の翌朝、栞が楽しみにしていた漫画の新刊がコンビニに並んだ。
 加害者はすぐに過失を認め賠償金二千万円が支払われた。肇はそのほとんどを栞の両親に渡した。肇に残ったのは五百万円の保険金だ。妻と娘を同時に失った代わりに五百万円だけが残った。加害者と争うこともなかったので数日間新聞の社会面に載った後は、誰もが二人のことを忘れたようだった。街を行き交う人は皆二人とは無縁であった。二人のことを知らなかった。
そんな折に、肇の視力は急激に低下した。眼科に行ったが原因が分からない。仕事では一匹一匹を判別するのに時間がかかるようになり、ミスも増えた。眼鏡を作ったが、あまり改善しない。日常生活をするには困らないが、一日中ひよこの性別を見分け続けるには支障ある症状だった。ミスが増えたことで皺寄せが同僚に行き、職場での居心地も悪くなった。肇にはもう何もなかった。一緒にご飯を食べる人も、誰かと肌が触れ合うことも、誰かの服を買うことも、人から何かを任されることも、何も。肇は、ずっと栞と唄を探している。あの日から帰ってこない二人が見つかれば、何もかも取り戻すことができる。しかし肇はどこを探したら良いか分からなくなっていた。もうひと月近く探している。警察にも協力を頼んだが、訳の分からないことを言って取り合ってくれない。肇はもう何も考えることは出来なかった。自分がどこに向かっているのかも分からなかった。とりあえず来た電車に乗った。
「次は千歳烏山です。出口は左側です。」
調布駅を出てすぐ、乗客たちが騒ぎ始めた。すぐ近くにいる男が包丁を振り回している。肇はぼーっと逃げ惑う人たちを眺めていた。
突然、すぐ後ろで鈍い音がした。振り返るより先に腕を掴まれた。振り返ると、肇より少しだけ若そうな女性が、赤ん坊を押し付けてきた。女性の脇腹に包丁が突き刺さっているのが見えた。
「この子を抱いて遠くに逃げて!」
女性が叫ぶ。すがるような眼を肇から逸らさない。その赤ん坊が肇の服をぎゅっと握った。それからはとにかく逃げた。唄の命を守らなきゃ。もう失うわけにはいかない。それだけを考えて逃げた。電車は二駅先の国領駅で緊急停車した。肇はもう一番端の車両まで逃げていて、これ以上逃げ場はない。
「あいつライターも持ってたぞ。」
「油撒いたって。」
「火を付けたのか?」
後から逃げてきた乗客が口々に言っている。数車両先に炎が見え始めた。とにかく窓を開け、到着した国領駅で外に出る。先に出た人に赤ん坊を預け、自分が窓を乗り越えて脱出した後、また赤ん坊を受け取った。駅には既に警察がいた。肇は赤ん坊を抱いたまま改札付近まで逃げた。包丁を振り回し、火を付けた男は車両内で取り押さえられたそうだ。警察は男の確保と怪我人の搬送で手一杯だ。まだ帰宅せず安全な場所で待機するよう言われた。構内の隅の方に座り、いつの間にか泣きだした赤ん坊の顔を覗き込む。肇は慣れた手つきであやしている。
「唄だ。」
まだ一度も荒れたことのない頬、傷一つない指。顔を近づけると、唄と同じ匂いがした。熱を持ったミルクの匂いだ。人差し指を近づけると、ぎゅっと握る。手が小さい。足も小さい。鼻も口も耳も、何もかもが小さい。
「上島さん、上島葵さん、分かりますか?上島さん、上島さん、聞こえますか?」
 ガラガラガラと音がする。担架の音だ。
「あ。」
さっきの女性だ。呼びかけに答える気配はない。その担架が肇に近づいたとき、肇はとっさに背を向けた。唄を腕の中にうずめて。担架のガラガラは小さくなっていき、すぐ後にサイレンが聞こえ、そのサイレンもまた小さくなっていった。
「では、お待ちいただいた乗客の皆さん、お名前と連絡先を控えさせていただきます。車内の様子や事情をお聞きするため後日ご連絡するかもしれません。それが済んだ方から帰宅されて大丈夫です。家が遠方にある方や体が不自由な方、自力で帰宅するのが困難な方はその旨もお伝えください。」 
警察は、列を作れとは言っていなかったが、自然と一列に並んでいる。肇の番が来た。
「えーっと、村上浩です。あ、サンズイに告白の告。電話番号は080-…4928-…えー、05…です。住所は、えっと、国領町二丁目、えー、十五の…です。はい?あ、この子は、村上唄です。あ、えーっと、口へんに貝の。はい、あ、はい。ありがとうございます。はい、では。」
肇は国領駅から一駅分、線路に沿って歩く。唄が帰ってきた。もう二度と見失わない。唄を守る。もう誰も唄を傷つけないように。無事に大人になるように。そして唄の好きな食べ物を知る。唄が大切に思う人を、肇も大切にする。唄のために稼ぎ、唄のために起き上がり、唄のために風呂を磨き、唄のために米を研ぐ。
 数日後、葵が意識を取り戻し病院で事情聴取を受けた。葵は真っ先に尋ねる。
「結(ゆい)は無事ですか?娘です、上島結。近くにいた人に預けたんです。」
 そのような話は報告されていない。
「調べてきます。ちょっと待っていてください。」
 そういって二人の警察官は病室を出る。「上島結」という赤ん坊は警察に届けられていない。名簿の中にいる唯一の赤ん坊は「村上唄」。
「…誘拐?」
「いやあ、でも、偶々近くにいた人ですよね?知り合いでも何でもなく。誘拐するか?気が動転して連れて帰っただけかもしれない。」
「いやいや、全員に名前と連絡先を聞いているんです。この村上唄というのがもし、上島結ちゃんのことなら、嘘をついたということですよ。」
「連絡先は。」
「電話番号も繋がりません。適当な番号だと思います。この住所には今篠崎さんが向かっていますが、これも嘘じゃないですかね。」
「うーん、村上浩を調べる必要があるな。これも偽名の可能性がある。すぐ上に報告して。本当に誘拐だったら事だよ。」

誘拐

 警察が肇の捜査を進めると同時に、肇は前職のひよこ鑑定士を辞めて引っ越していた。引っ越した先のアパートは前より二万円安い、ユニットバスでワンルームの木造だ。
 二〇一五年四月二十八日。
「あ、唄の誕生日が来たね。」
 肇は近所のスーパーで苺を買って帰ってきた。唄の離乳食に混ぜる。唄は離乳食を食べ始めたばかりで、たまに飲み込むのに失敗している。
「栞、唄が一歳になったよ。栞も早く帰っておいでね。」
 肇はそう言いながら唄に苺を与える。
 その時肇は働かずに付きっきりで唄を育てていた。五百万円を少しずつ使って。毎日ただひたすら唄を育てた。そればかりの生活が約三年続いた。唄が初めて寝返りをうったり、初めて自分で哺乳瓶を持ったり、初めて声を立てて笑ったり、夕食を食べながら寝てしまったり、シャンプーの泡ではしゃいだり、そういう瞬間のために肇は生きていた。唄を一切外に出さず安全に育てていた。今度は誰にも奪われずに済んでいる。
 唄が三歳になるころ、五百万円が尽き始めた。肇は仕事を探した。ひよこ鑑定士の職歴を活かせる仕事が無く転職は思うようにいかなかったが、近所の老人ホームで介護補助として雇われることになった。肇が夜勤を希望すると、無資格の肇を喜んで受け入れてくれた。昼間は唄の面倒を見て、夜寝かしつけると出勤する毎日だ。老人ホームは祝日など関係なく人が暮らす場所だ。六日働いて一日休む。このリズムが崩れたことはほとんど無い。そしてどれだけ働いても、二人分の食費と家賃、生活用品、水道光熱費を払えばほとんどゼロになる。貯金などできない。
 週に一度の休日も、身体を休める暇は無かった。一週間分の掃除と洗濯、生活用品と食料の買い出しで一日は終わる。休日の早朝、肇は仕事から帰ってくるとまだ唄が寝ている間に二人分の洗濯物を大きなビニール袋に詰め、近所のコインランドリーへ向かう。肇はコインランドリーの匂いが好きだ。窓際にパキラが見える。重い瞼がほんの少し軽くなる瞬間だ。
「パキラはまずいんじゃないの。」
 肇がコインランドリーに通うようになってからしばらくして、初めてパキラが置かれているのを見つけたとき、そう呟いた。三人で暮らしていた家でも、ベランダにパキラを置いていた。パキラは限りなく育つ。どんどんどんどん大きくなる。コインランドリーの観葉植物は誰がどの程度大切に管理するのか知らないが、肇は少し心配していた。心配はするが、洗濯機のコイン投入口に百円玉を入れる頃にはすっかりパキラのことは忘れている。一週間分の洗濯物はとにかく多い。百円玉を入れると、少し重い扉を開けて洗濯物を放り込む。全部でビニール袋二袋分ある。一袋分放り込んで二袋目に持ち替えている間に扉は勝手に閉まってしまう。扉が閉まって数秒するとロックがかかってもう洗濯が始まってしまう。そうなると面倒なので、肇は腰で扉を押さえて二袋目を手にする。昔ながらのコインランドリーは不便だ。駅から少し離れた路地裏にあるので再開発の魔の手も辿り着かない。だからずっと、不便なままのコインランドリーだ。唄が成長するにつれて洗濯物はどんどんかさが増す。洗濯と乾燥を済ませて家に帰り、一度眠る。あっという間に眠りは深くなるが、すぐに唄に起こされる。唄と朝食を食べ、一緒に遊んでやりつつ肇はまた眠る。そしてまたすぐに唄に起こされ、昼食を食べ、唄を寝かしつける。その間に買い出しに行き、帰ってくるとまた眠る。気が付くと夕食の時間だ。実際のところほとんど掃除はしていない。家は常に散らかっている。だが、唄の安全だけは確保していた。玄関や台所、お風呂の前には柵を設け、近づかないようにしていた。肇はいつも唄の安全を一番に考えていた。
しかし、唄が高熱を出しても肇は病院に連れて行ってやることができない。初めて唄が高い熱を出した夜、肇は唄を抱え、病院に走った。小児夜間救急の受付で保険証と母子手帳を求められた時、肇は踵を返し、また走って帰った。そして三十八度の体温を徹夜で冷やした。
「ねえ栞、どうして唄の保険証、無いの?唄の母子手帳、どこにあるの?栞、どこにいるの?どうして帰ってこないの?」
 そう言いながら一晩中、唄を冷やし続けた。幸い唄は翌日には平熱に戻った。肇はいつも自分でそうしていながら理由が分からないと思っている。どうして唄は病院に行けないのか、どうして唄は保育園に通えないのか、どうして唄には友達がいないのか。どうして唄を外に出すと、引き離されると思ってしまうのか。どうして栞がいないのか。肇は考えなかった。毎日唄の世話をすることで精いっぱいだった。考えることも、何かを思い返すことも、誰かの墓参りに行くことも、知り合いからの連絡に応じることもできない程、肇の毎日には余白が無かった。ただ唄のために働き、唄を育てる。肇の世界はそれで充分だった。それ以外に何も必要としなかった。
こうして肇は、唄が六歳になるまで、一度も唄を外に出さずに育てた。外に出さなければ誰かに襲われたり傷付いたりしなくて済む。唄を脅威から守っている。唄を無事に生かし、成長させている。しかし五歳になるころから唄は外の世界に興味を持ちだした。テレビで映されるその光景が幻影でないことを理解し、好奇心が掻き立てられるようになった。
「お父さん、唄ね、橋、見てみたい。」
ちょうど六歳になるころ、そんなことを言い出した。これまでに紅葉やカボチャが見たいと言った時は、拾ってきたり買ってきたりして満足させられたが、橋はそういう訳にはいかない。唄はもう六歳だから、もう外に出しても大丈夫な気がした。誰も唄を奪いには来ないだろうと思えた。唄の願いはできるだけ叶えてやりたい。肇は唄を初めて外に連れ出した。唄を抱えて病院に走った日以降初めて唄と外を出る。唄はもう自分の足で立って、自分の足で歩く。すぐに疲れて立ち止まってしまうが、子どもらしくてかわいいと肇は思う。その日、肇は唄と橋を見た。家の近くには多摩川がある。大きな橋を唄の目に映してやった。またひとつ、唄に与えてやることができた。外に出しても、思っていたほど危険ではないかもしれない。よく考えたらこれからどんどん成長するのにずっと家にいても窮屈だろう。それに、唄が外で遊んでくれれば肇は昼に仕事に行ける。肇は条件つきで唄が自由に外出することを許した。外に出て良いのはお昼ご飯を食べてから。そして街のスピーカーから夕方の音楽が流れたらすぐに帰ってくること。お父さんと行ったことのある道しか歩かない。お父さん以外の人に声を掛けない。約束を破れば、二度と外には出られない。迷子になれば、二度とお父さんとは会えない。そう言い聞かせた。唄はとても素直な子で、全ての約束を守り続けている。
「唄はいい子だね、かわいいね、本当にお父さんの宝物だ。」
「お父さん、唄がいい子じゃなくなったらどうする?かわいくなくなったらどうする?」
「大丈夫、唄はいい子だし、誰よりもかわいいよ。」

果物ナイフと帰省

 二〇二二年三月二十日。
「大丈夫だよ、もうすぐお母さんに会えるからね。」
少しだけ屈んだ警察官がまたそう言っている。何故そう言われるのか唄には分からない。どうして目の前に警察官がいるのかも、唄には分からない。何が大丈夫なのかも分からない。お母さんは知らない、お父さんに会いたい。家に帰らないと、お父さんはすごく心配する。もう何日も帰っていないので、無事に帰っても、もう外に出ることは許されないかもしれない。
「もうすぐお家に帰れるからね。」
と警察官は言う。唄は初めての場所にいて一人では帰れないので、警察官の言葉を信じるしかない。
「あ、来たよ。」
警察官が呟く。彼の目線を辿ると、知らない女性ともう一人の警察官が歩いてくる。
「こちら、上島葵さん、お見えになりました。」
葵は唄から目を離さない。唄を見つめたまま、ゆっくりと近づいてくる。
「結…?」
 声が揺れている。息の音がはっきりと聞こえる。葵は唄の両手をそっと握り、両腕に触れ、両肩に手を置き、両頬に手を添え、そして唄を抱きしめた。ふわりと葵の匂いが唄に届く。唄は、ただ立っている。
「結、生きていて良かった。お母さんだよ。会いたかった。大きくなったね。ずっと会いたかった。」
声がさらに揺れている。唄の肩が湿る。
「ゆいって誰?…お母さんって、唄の?」
 葵が唄を離し警察官の方を見上げる。その間も肩に手を添えている。
「え…まだ何も話していないんですか?」
「すみません、理解してもらうのも難しいですし、お母さんご本人がいた方が分かりやすいかと。」
それからまた別の大人が来て、唄に話をした。唄を産んだお母さんがこの人で、唄が赤ん坊の時に悪い人に連れ去られたのだと。悪い人は唄を騙していて、ちゃんと捕まったと。だからこれからは本当の家族のもとに帰って、お母さんと一緒に生活するのだと。そして学校にも行くのだと。唄は大方理解した。目の前にいる知らない女性が母親だということも、悪い人のせいで今まで離れ離れになっていたことも、これからは一緒だということも、晴の言っていた学校に行けるのだということも。分からなかったのは、悪い人とは誰なのか、それだけだった。
唄は葵の家に帰ってきた。唄には「帰ってきた」という感覚は無い。葵の家にはもう一人子供がいる。もうじき二歳になる男の子だ。そしてお父さんがいる。自称、「本物のお父さん」。本物のお父さんより唄の気を引いたのは、フローリングだった。唄は初めてフローリングを見た。唄の顔を映しそうなほど磨かれている。広い子ども部屋にはランドセル、上履き、名札、絵の具、算数セット、スマートフォン、唄がこれまで画面の中でしか見たことのないものたちが全て揃えられていた。学校で使うものには「上島結」と書かれている。
「お母さんの字…。」
考えてみれば唄はお父さんの字を知らない。お母さんの字は、多分綺麗だ。
「結、一緒にリンゴ剥こうか。」
本物のお父さんが言っている。唄は、結になった。
「今日はケーキもあるよ。これまで祝ってあげられなかった分の、七回分の誕生日をお祝いしようね。」
「七さいのおたんじょう日、もうやった。パンダに乗って、シュークリームも食べた。」
本物のお父さんは顔を悲しげに曇らせた。
「いつしたの?」
「う…あ、ゆいの誕生日、四月二十八日。」
「ああ…、それはね、ええと、違うんだよ。それは嘘の誕生日なの。本当の誕生日は、十月六日だよ。」
「ほんとうの…。」
「葵、結は理解できているかな。まだ難しいかな、かわいそうに。僕たちが結の傷をゆっくり癒してあげるしかないんだな。」
傷って?と唄は思った。お絵描き帳で人差し指を切って血が出たときの、お父さんにすごく怒られたときの、あれの話をしているんだろうか。
「お父さんは唄に傷付いてほしくない。ちゃんと守ってあげたい。」
これがお父さんの口癖だった。
「結、ここで手を洗って。」
本物のお父さんが踏み台を置く。手を洗うと果物ナイフを渡された。唄は初めて果物ナイフを見た。お父さんは絶対に唄に刃物を近づけなかった。台所の入口には高い柵があって、唄が乗り越えようとした時、お父さんはいつになく怒った。ハサミを使いたいと言うと、
「危ないからお父さんが切ってあげる。」
と言って唄にはハサミを持たせなかった。お父さんは唄のことをとても大事にしていた。本物のお父さんは、果物ナイフも持たせてくれる。他人だからだ。唄が傷付いても、本物のお父さんは平気だからだ。本物のお父さんは、とても器用に模様を付けてりんごを剝いている。唄には、うさぎリンゴの剥き方を教えてくれた。せっかくのうさぎを食べるのはしのびなかったが、かじってしまえばただのリンゴだった。
 四月に入るとすぐに唄は学校に通い始めた。毎日、晩御飯の後に本物のお父さんとうさぎリンゴを作り、食べた後は翌日の持ち物を一緒に準備した。次の日の時間割を見て教科書とノートを入れ替える作業にも少しずつ慣れてきた。唄は学校に行けば晴がいると思っていたが、何組にも晴はいなかったし、荒井先生もいなかった。お母さんの家は晴とは校区が違うのだ。登下校の時は万が一のためにスマホを持たされていた。電話とLINE、マップの使い方を教え込まれたが、唄はテトリスが好きだ。誰にも教わっていないが、何となく触っているとルールは掴める。ほんの数週間で新しいことを次々に覚え、その環境にすぐ適応した。
だが唄は、いつになったら自分の家に帰るのだろうか、と思っていた。お母さんはお父さんと知り合いだろうか。お父さんは唄がここにいることを知っているんだろうか。お父さんはこの家には住まないのだろうか。そして唄はふと気付く。もう唄は一人で家に帰ることができる。マップを見て目的地に行く練習はお母さんと散々した。家の住所は分からないけど、杉田小学校まで行けば家は近いはず。そこまで行ったら近所の人に訊こう。お父さんを待っている必要はない。唄がお父さんを迎えに行けば良い。
 唄は、次の土曜にこっそりお父さんを迎えに行くことにした。唄がお父さんの話をするとお母さんと本物のお父さんは悲しそうな顔をするので、二人はお父さんのことが嫌いなのかもしれない。でも学校の先生は、喧嘩をしたらきちんと話し合えばまた仲良くなれると言っていた。お父さんも、二人と仲良くなって一緒に暮らしてほしい。だからお父さんのことはこっそり迎えに行く。土曜日の朝は、お友達の家に行くと言って家を出た。
「送っていくよ。」
と言われたが、
「お友達の家はすぐ近くだから大丈夫。」
と断った。お母さんは、
「のどが乾いたらこれで買いなさい。」
 と言って財布を持たせてくれた。財布には、迷子になった時のために、名前と家の電話番号が書かれた紙が入っている。千円札が一枚と百円玉が五枚入っている。自動販売機でジュースを買う方法はお母さんが教えてくれた。自動販売機はデパートの屋上の乗り物に乗る時と似ていたので唄はすぐ覚えた。コイン投入口に百円玉を二枚入れて、欲しいジュースのボタンを押す。そうするとジュースとおつりが落ちてくる。
「夕方の四時までには帰って来てね。夜ご飯はお母さんと一緒に餃子を作るよ。」
そう約束した。
 唄はとりあえず家から見えない場所まで歩き、そこで立ち止まる。
「すぎたしょうがっこう。」
スマホに向かってそう喋る。現在地からは歩いて三十四分。脚力の弱い唄はすぐに疲れてしまう。疲れてはしゃがみ、疲れてはしゃがみ、そうして進んでいるうちに見覚えのある景色になってきた。杉田小学校に着くよりも先に、一面のシロツメクサが見えた。唄はスマホをしまって走り出す。晴はいなかった。
 家を出発してから二時間が経っていた。合鍵は警察官にあげてしまったので、チャイムを鳴らす。五回押してもお父さんは出てこない。
「あ、仕事かも。」
お父さんは土曜日に出勤することもあった。仕事であれば、夜まで帰ってこない。帰ってくるまで待つことにした。とはいえ夜まではかなり時間がある。杉田小学校に行ってみることにした。晴の小学校だ。まだ一度も行ったことがない。唄の小学校は杉田小学校ではないのだ。再びスマホを取り出して、マップを開く。歩いて十分。シロツメクサとは反対方向に進むと、また知らない建物や看板が唄を囲んでいた。小学校の方には一度も来たことがなかった。
「次が右。」
右に曲がる角にコインランドリーがある。唄は、嗅ぎ慣れない独特な匂いに顔を上げる。
「いい匂いする。」
中から人が出てくる。誰でも出入りできるようだ。
「何のお店かな。」
唄は中に入る。誰もいない。窓際にとても背の高い木が置いてある。そして唄の目に大きな大きな洗濯機が映る。洗濯機は全体が灰色で、大きな横開きの扉とコインの投入口が付いている。
「あ、ロケットだ!」
唄はコインランドリーを知らなかった。テレビでも見たことが無かった。デパートの屋上の、百円で乗れるロケットだと思った。七歳の誕生日に乗り損ねた、あのロケットだと。今日は誰も並んでいない。唄はお母さんに持たされた財布を取り出した。中に千円札が一枚と、百円玉が五枚。唄はその中から百円玉を一枚取り出してコインの投入口に入れる。お父さんは、ロケットがあるのはデパートの屋上だけだと思っている。帰ってきたら教えてあげよう。もうすぐ八歳の誕生日だ。その時はお父さんとここで一緒に遊ぼう。唄は大きな扉を開け、中に入る。唄が体勢を整えていると、大きな扉がゆっくりと閉まり、
「カチャッ。」
と音がした。

洗濯

「カチャッ。ピー、ピー、ピー、ピー、ピー、ピー。」
「晴ー、洗濯物干すの、お手伝いしてー。」
「ちょっと待って、これが終わってから。」
「今来ないと百円あげないよ。すぐ終わるから。」
「はーい。」
「あー、晴、靴下に穴空いてる。穴が空いたらすぐ教えてって言ってるでしょ、知ってたら今日買ったのに。」
そう言いながらお母さんはその靴下をとりあえず干した。日に当たった穴が、揺れている。
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