荒天

文字数 5,970文字

   一
 壁を叩きつける暴風の音を耳ざとく聞きつけ、午前四時、私はパチリと目を覚ました。頭は冴え冴えとして、今日が私の誕生日であることと、季節はずれの台風が二十九日深夜から一日未明にかけてこの地を襲うという噂を瞬時に思い出した。
 二度寝している場合ではない。私は寝間着を脱ぎ捨て、暗がりのなか制服で重たい衣文掛けを探り当て、ごわごわした手触りの手巾と羽より軽い通学鞄だけを手に部屋を飛び出した。抜き足差し足調理場へ向かい、洗いたてのしゃもじで炊飯器の中身をひっかき回し、ラツプフイルムに乗っけて適当に塩をまぶす。積み上げられた新聞紙のいちばん下に手を差し入れて裏が白いチラシを引っ張り出し、鋏や体温計の入った缶から油性ペンを引き抜き、粗雑な殴り書きをした。
「用事があるのでもう登校します。朝飯は適当に食べました。」

   二
  扉を開けた私は、狂暴の景に気圧された。真正面に位置する隣家の老いた柿の木は、その枝を幾本へし折られ、幾本より力なく水滴を垂らせ、満身創痍の御様子である。空は鉄さびのように赤茶けて、黴めいた千切れ雲がのっそりと流れ、たわむ電線を支える柱は上から下まで余すことなく、しとどに濡れて変色している。目下には腐葉土か肥料かを詰めていたであろう袋の端切れが、泥まみれで横たわっていた。
 しばし放心した後、私はおにぎりを頬張りながら通学路を歩いた。見渡す限りの惨状に、内心快い感情が芽生えた。それは別段、人が長年かけて作りあげたものが自然によって打ち砕かれる現象が愉快なのでも、世は無常と嘆きたいのでもなかった。なんだか、私たちが並べ飾ったものを自然なる何かが壊して、それを繰り返して世界が続いているけれど、私にとって特別な日に、そら次は君の番だと送球を受けたような気がしたのだ。
 屋根瓦や藁を踏まぬよう、私は千鳥足で坂をのぼった。自宅から学校まで徒歩二十分弱を見込むが、中ほどに急勾配の坂道がある。たいてい自転車で登校するので毎日のように走破を試みるのだが、非力ゆえに達成したことはない。頂まで自転車を押して、呼吸を整え、さあ心機一転、意気揚々と座席に尻を乗せ颯爽と下り坂を駆け抜け最後には晴れやかな心持ちで門をくぐるのである。

   三
 異様な空模様に相応しく、我らが学び舎は変貌していた。早朝だというのにすべての窓が開け放たれ、屋内はびしょ濡れになっていた。床の木目は黒々とひかり、藁半紙や貼り出しやらが漉き和紙めいた格好で、そこへベッタリ伏している。
 高揚しきりの私でも、流石に眉をひそめた。これは妙だ。昨夜何者かが施錠を破り、片っ端から窓を開け、風雨を校舎内に招き寄せたのか。一体何のために。守衛が寝ぼけていたのだろうか。黙考する私の肩から鞄がずり落ちたので、机の横に引っかけておこうと、教室へ向かった。
 一夜にして、私の知る教室が生まれ変わっていた。黒ずんだ床は大雨に曝され、白む空色をうけて明滅する。全開の窓から暴風が届くたびに波紋が大なり小なり生まれては死に、足下を揺らがせた。小試験や朝会の折に担任教師が使う細切れの藁半紙が数枚床や壁に貼りついていて、川を流れる目的を十全に果たせなかった灯篭のようで見苦しい。
 教壇こそ堅固たる風体であるが、私たち下々に与えられし学習机の惨状たるや、整列の概念を奪われ好きに寝転がったり廊下のほうを向いていたり、四、五歳の幼児が余程うまく整えるだろう。私の机はやや窓向きになっていたものの、椅子に雪崩れかかりもせず持ち堪えていた。雨水の沁みるのも構わず鞄を引っかけ、使用済みのラツプフイルムを丸めて懐中にほうり入れ、いよいよ身軽に成った私は、からの筈の机の中に見慣れないものを見とめた。

   四
 淡い色の付箋である。真直ぐ伸ばした人さし指ほどの長さの正方形をしていて、ありふれた無地の一枚である。しかし私に付箋を持ち歩く習慣はなく、誰かとの遣り取りにそれを使った記憶もない。何やら書きつけてあるが、陰になっていて読み取れない。よりによって私の誕生日にささやかながら小粋な驚きを寄越してくれたのは何者か、はたまた自然の仕業かと考えたところで、ふわりと翻った窓掛を意識するに至り──もっとも私が入室してから何十回と暴風は窓掛を膨張させていた──、我に返った私は階下をめざすことにした。

   五
 人気のない学校にも先客は在る。そして先客は少なからず、この教育機関において開放的施策の採られている訳を知っているように思われるのだ。
 赤ら顔の守衛は四畳半の隅で居眠りしていた。私は彼の呑気に呆れたが、朝から神秘的な景色ばかり目にしていたので、彼の俗気に心休まりもした。
「あの、おはようございます。」
 フガッと鳴いて、守衛は目をひらいた。
「もへ登校時間け?」
「ぜんぜん。五時前です。」
「五時!」守衛は見かけどおり豪快な一声を発した。「また随分早えが、忘れもんね。」
「いやあ、偶々です。普段とちがう校舎を見てみたくって。」
「ああ、オイもそう考えおったとよ。どげんやったね、玩具んご見えたか。」
 この守衛こそが意図して校舎の大開放を実行したのだと私は確信した。
「守衛さんがやったことですか。壮観ではありますがね、あれは掃除にまる一日かかりますよ。」
「良か良か、じきに壊さるっとやから、最後くらい冒険させたほうが人も物もせいせいすっよ。」
 校舎は今夏解体予定であった。この旧い建物で卒業式を迎えるのは君たちが最後だと、数日前に担任教師が言っていた。
「それこそ偶々ですよね。物思いとか酒ぬけの悪さとかで、うっかり施錠を忘れたんだ。」
「いかんがねえ、年とっとウッカリして!」
 守衛は口裏を合わせて笑った。

   六
 守衛との会話を終えて教室に戻った頃には、窓から差しこむ陽も幾分強くなっていて、付箋を剥がさずとも文字を読めた。止めはねはらいのはっきりした筆致で、次のように書いてあった。
卒業までにここで人死にが出る
 陰気な贈り物もあったものだ。私はふっと付箋への興味を失い、守衛の企てについて追想することとした。彼は本校の十期生であり、在学当時は今ほど治安のよい場ではなかったとか、先公の体罰が酷くていくつも痣を抱えたとかいうことを、それは楽しそうに語った。校舎本校を水槽さながらに浸した一件に係り、私などが傍証をかため学級会の議題に挙げれば、うつくしい正義の下に彼は糾弾されるかもしれぬ。しかし私は彼のおこないを大罪と捉えておらず、丸善に檸檬爆弾を設置するような人間性の発露と考えていた。退屈に穏便に過ぎさりがちな自身の誕生日を、適度に刺激的かつ直接的に誰かを加害しない事件で着色してくれたことに感謝さえした。かすかな罪悪感とともに、私は今年の三月一日を生涯忘れまい。

   七
 異様の景に魅了されて一時間が経過しようとしていた。じきに他の生徒が来る。真面目な誰かがびしょ濡れの教室に憤り、居合わせた私に怒りをぶつけてくる気がして、反射的に扉から目を背けた。凪いだ海のような、白昼夢のような目前の空間が、喧噪に沸き立つのが惜しい。
 小さな心変わりをして、私はまた付箋を見た。静寂のなか黙考し、筆者とその意図を探り当てることができたなら、今年の三月一日はこの上なく特別な日として私の全身に刻まれるであろう。そう一冊の大好きな系統の物語に出逢い、没入、読了できるようなものだ。これほどの幸福はそう訪れるものではない。今日のために私は生まれてきたのだとさえ感ぜられた。
 よく観察すると、付箋は物入の溝に沿って貼られており、これを自然の仕業と捉えるのは難しかった。私の席を知る何者かが、私に内容を伝えるために貼ったか、偶々私の机が愉快犯の目に留まっただけなのか、宛名がないのでどちらともつかない。筆致に思い当たる節があるだろうか、記憶を掘り起こしてみるが、そもそも私は人が字を書くところを凝視したことがなかった。私の筆というのは、思い浮かぶ文章を出力するのに手が追いつかず、書きなぐってはみたものの自身を含む誰もが解読できず、即時検証が始まるような有様である。ましてや他人の、あの人は達筆だとかこれは書道に通じた人の作だとか、さっぱり興味がなかったのだ。

   八
 我が三年七組はやや特異な学級である。元は四十二名のありふれた学科であったが、二年進級時に文理の進学希望に合わせて学級を分け、文科七組、理科八組が発足した。希望者の比率はちょうど一対二に成ったのだが、用意された教室は普通学級と同じ構造であったので、選び選ばれし十四名は広々とした環境で悠々自適の学校生活を送ってきたのである。
 八組の事情は知らないが、七組は二年間、席替えを一度もしなかった。提議は何度かなされたが、「後ろはがら空きなんだから替えたところで心機一転できないよ。」と学級の中心的存在が一蹴し、結局そのまま過ぎた。おかげで私さえ級友の顔と名前、席の位置くらいはしっかり覚えられた。
 教壇に向かって三、四、四、三と机が並んでいる。私の席は左から二列目の一番前だ。五十音順で並んだ一昨年の四月以来変わらない。この付箋を書いた人間が級友だとしたら、誰だろう。そう仮定すると、根拠もなく、これは確かに級友の仕業であると直感した。

   九
 鑑識眼と観察力の双方を欠いた私でも、生半可な覚悟で挑むパズルのように、それなりの所まで歩を進めることができた。幸か不幸か、途中まで上手くいくのである。
 容疑者は七人に絞られていた。我が七組の委員長は信頼できる人物で、言伝を頼まれたときはかならず過不足のないメモを作ってくれていた。私もそれを何度か受け取ったことがある。今回のように抽象的な文面は、彼女の嫌う性質だと判断した。
 窓際の席に陣取る四名は言ってしまえば短絡的で、誰かに用事があるのなら直接伝えに行くのが速いし確実じゃん、そういう奴らである。付箋で伝言など天地がひっくり返ってもやりそうにないので、この除外は委員長より自信がある。
 級友に車椅子をつかう人がいる。性根のいい人だが主張が控えめで、いつも丸っこい字を書く。これは珍しく、私が他人の筆致を印象にとどめていた例である。最後に彼女の声を聞いたのはいつだったか。
 非日常的な空間で、私は私がまともだと信じきれずにいる。今にも背後でロッカーの扉がひらき血まみれの誰かが現れるかもしれない、床板がだめになって階下へ落ちてしまうかもしれない。いいや待てよ、死んだところでべつだん問題ないのではないか? 何せ今の私は有頂天だ、崩壊寸前の建物に無傷で立ちつくすなどという、世の誰もが首をかしげるような変わった願望を叶えたのだから。一生叶うまいと思っていたことが、よりによって今日現実になったのだから!

   十
 恐怖心が全能感へと成り変わり、もう私は書置きへの興味を失っていた。予冷が鳴ったとたん狂気は私を去るだろう。明け方の夢に似て、その余韻を一つたりとも残さずに。
「夜が明ける前に片をつけようぜ。」私は乱暴に言い捨てた。「卒業式まであと三日もある。焦らしてくれるなよ、おい。」もちろん返事はなかった。
 春の陽射しがそっと照らす玻璃越しの教室で、私はさながら吸血鬼のように苦しんでいた。おかしな私でいられるうちに、おかしな事件と出会いたい一心で、ふらふらと靴を脱ぎ靴下を脱いだ。裸足で黒板に歩み寄り、木枠にもたれかかりながら板書した。左の爪先で弱々しく水を掻いた。
 三月四日、そう書いた。手あたり次第に連想した言葉を書き足した。三月四日は春である。今年は木曜だ。晴れのち曇りの予報が出ている。級友の誕生日ではない。私以外に三月上旬の生まれはいない。教師も夏生まれだと言っていた。語呂合わせでミシンやサッシの日らしいがこれは関係ない。裸足で階下へ走り、守衛室のカレンダーを凝視した。三月四日は大安である。私はふいに恐ろしくなった。

   十一
 先週の金曜日に、廊下側の三名が恋愛話をしていた。いつものように話題が伝播し、この三年間は勉強ばかりで恋なんてできなかっただとか何歳までに結婚したいだとか他愛ない会話が途切れたあと、一人がとある告白をした。
 彼女は同級の男と交際している。進学せず、卒業したら彼と結婚するのだと言った。私はおそらく学級内でもっとも衝撃を受けていただろう。顔に出ていたかもしれない。孤高の一匹狼を気取る訳ではないが、あちこちの関心事を只すいすいと追いかけてきた人生であった。一文字も刻まれたことのない恋愛という概念が、とつぜんこんな春に同級生の口から語られ周囲が拍手したり祝福したりして、文化の異なる街に放り出された気がした。喜色満面の空気に包まれていながら、頬を引きつらせて笑っていた。
 誰かがぽつりと漏らす、「この校舎で卒業式を迎えるのって最後なんだね。」人好きの男が、「年とっても忘れないように二人の結婚式も教室でやろうよ。」未来の花嫁は赤面して、隣町のちいさな式場を手配してあると言った。「じゃあ予行演習だ。盛大にお祝いするっきゃない!」この後教室は恋愛話でいっぱいになって、私は窓を全開にしたくなった。浮足立って危なっかしく、もやがかかった視界のわるさが、私には不慣れで不快だった。
 結婚式の話に喜びより驚きが勝り、それはさておき二人を祝福したいという気持ちになった。高価なものは大人に任せて二人宛の寄せ書きを提案したのは例のお祭り男だ。委員長が皆から二十円ずつ徴収し、付箋を買ってくれた。「準備に時間がかかるだろうから、できれば土日に完成させて持ってきてください。書き損じたら又あげるよ。」周到なことに寄せ書き作成担当者まで決まっていた。「週明けにすぐ仕上げるから。」私は付箋を持ち帰らなかった。

   十二
 階段をあがる音がして、私ははっとする。二人ぶんの覚束ない音だ──あんなにゆっくり歩くやつが級友にいただろうか? 果たして、杖を携えた少女が扉の前で立ち止まった。後ろに委員長がついていて、「全部ばれちゃってたかな。」と少女に苦笑した。
 先週末、車椅子の彼女は委員長と話し込んでいなかったか。私が下校したあと、二人は何らかの意図を以て私の机に付箋を貼ったのだ──ああ、文面が委員長らしからぬと思っていたが成程、彼女の考えた一文を代筆したのか。
 自然光が二人を照らしている。私ははじめて自身の足で立つ彼女を見た。はじめて間近な位置から視線を合わせた。奥手な彼女らしく逡巡していたが、やがて真直ぐ私を見た。
 もはや何ひとつ正常ではなかった。異常のただ中に在る私が正常な筈がないのだった。じきに息絶える平静との別れを惜しむのに必死で、彼女の言葉を一度あえなく聞きのがした。

(完)


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