桜の絆(後編)
文字数 1,368文字
二
翌日。彼は同じようにやってきた。そして今までのように、私に歌を聴かせてくれた。
乾いた春の空気によく響く、その澄んだ歌声に、私は飽くことなく耳を傾けた。
それから、私たちは言葉を交わすようになった。いろいろな話をし、彼のことも少しずつ知っていった。
彼は幼いころから体が弱く、病気がちで、現在も街の大きな病院の世話になっているのだが、近ごろは大分体調も落ち着いており、暖かな気候のこの時期だけ、生家のあるこの地で過ごすことが許されたのだという。
そして、こちらにいられるのは二週間程で、もうあと何日かしたらまたむこうへ戻らなければならない、ということだった。
「なら、こちらへいる間は、ここへ来て、歌を歌ってくれ」
私が言うと、彼は少しはにかんで笑って、
「いいよ、勿論。もともと、そのつもりだったから」と言った。
数日などあっという間に過ぎた。彼がここを経つ日は、すぐにやってきた。
「明日の朝、出発するんだ」
いつものように私の好きな歌を歌い、ひと息ついて、彼は言った。
「そうか」
「──家の近くにこんな場所があったなんて、知らなかった。子供のころから、あまり外に出なかったから。でも、思いがけずここを見つけて、歌ってたら君に会って、なんだか楽しかったよ」
「そうだな、私もだ」
少し考えて、私は続けた。
「また来ればいい」
すると彼は寂しそうに笑って、
「ああ、そうする。また君の桜の下で歌おう。そのためにしっかり養生して、健康にならなくちゃあ」
と言った。そして、段々と暮れていく空に目をやり、
「俺は多分、ずっと誰かのために歌いたかったんだ──」と呟いた。
三
それから私は、彼を待った。春を待った。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、再び命が芽吹いていく。私の桜も次々と花を咲かせ、やがて満開を迎え、そして少しずつ散っていった。私は、もう来るか、もう来るかと思って待っていたのだが、とうとう全ての桜が散っても、彼は来なかった。
そのまままた夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎた。
そしてまた春になり、今年は来るかとうんと綺麗な花を咲かせて待っていたが、彼は来なかった。
一生懸命咲かせた花も、季節の流れには勝てず散ってしまった。
今年もまた来ないのか、と思いながら、一人、鮮やかな青空を眺めていると、下から、近づいてくる話し声が聞こえた。
「こんなところあったんだね」
「ほんとねえ。──あ、あの木がその桜じゃないかしら」
「ああ、そうだね、きっとあれだよ」
その老夫婦と思しき二人は私の木の下まで来ると、持っていた紙切れを仕舞い、代わりに絹の袋を取り出した。そして、中に入っていた粉のようなものを、丁寧に丁寧に、木に撒いていった。
「安らかにお眠りなさいね──」
二人は、長い間手を合わせていた。
「あの子、この桜が好きだったのかしら。あの子の最初で最後の頼み事だもの。叶えてあげられて良かったわ……」
「そうだね。──あ、見てごらん。あそこにまだ一輪だけ咲いてるよ」
「あら本当。綺麗ねえ……。ねえ、来年、この桜を見に来ない?」
「いいね、そうしよう。そしたら家族でお花見だ──」
二人の姿を見送り、私はひとしきり泣いた。
そして顔を上げ、残った一輪の花に目をやる。
「やれやれ。来年も、再来年も、綺麗な桜を咲かせてやらなければな──」
了
翌日。彼は同じようにやってきた。そして今までのように、私に歌を聴かせてくれた。
乾いた春の空気によく響く、その澄んだ歌声に、私は飽くことなく耳を傾けた。
それから、私たちは言葉を交わすようになった。いろいろな話をし、彼のことも少しずつ知っていった。
彼は幼いころから体が弱く、病気がちで、現在も街の大きな病院の世話になっているのだが、近ごろは大分体調も落ち着いており、暖かな気候のこの時期だけ、生家のあるこの地で過ごすことが許されたのだという。
そして、こちらにいられるのは二週間程で、もうあと何日かしたらまたむこうへ戻らなければならない、ということだった。
「なら、こちらへいる間は、ここへ来て、歌を歌ってくれ」
私が言うと、彼は少しはにかんで笑って、
「いいよ、勿論。もともと、そのつもりだったから」と言った。
数日などあっという間に過ぎた。彼がここを経つ日は、すぐにやってきた。
「明日の朝、出発するんだ」
いつものように私の好きな歌を歌い、ひと息ついて、彼は言った。
「そうか」
「──家の近くにこんな場所があったなんて、知らなかった。子供のころから、あまり外に出なかったから。でも、思いがけずここを見つけて、歌ってたら君に会って、なんだか楽しかったよ」
「そうだな、私もだ」
少し考えて、私は続けた。
「また来ればいい」
すると彼は寂しそうに笑って、
「ああ、そうする。また君の桜の下で歌おう。そのためにしっかり養生して、健康にならなくちゃあ」
と言った。そして、段々と暮れていく空に目をやり、
「俺は多分、ずっと誰かのために歌いたかったんだ──」と呟いた。
三
それから私は、彼を待った。春を待った。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、再び命が芽吹いていく。私の桜も次々と花を咲かせ、やがて満開を迎え、そして少しずつ散っていった。私は、もう来るか、もう来るかと思って待っていたのだが、とうとう全ての桜が散っても、彼は来なかった。
そのまままた夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎた。
そしてまた春になり、今年は来るかとうんと綺麗な花を咲かせて待っていたが、彼は来なかった。
一生懸命咲かせた花も、季節の流れには勝てず散ってしまった。
今年もまた来ないのか、と思いながら、一人、鮮やかな青空を眺めていると、下から、近づいてくる話し声が聞こえた。
「こんなところあったんだね」
「ほんとねえ。──あ、あの木がその桜じゃないかしら」
「ああ、そうだね、きっとあれだよ」
その老夫婦と思しき二人は私の木の下まで来ると、持っていた紙切れを仕舞い、代わりに絹の袋を取り出した。そして、中に入っていた粉のようなものを、丁寧に丁寧に、木に撒いていった。
「安らかにお眠りなさいね──」
二人は、長い間手を合わせていた。
「あの子、この桜が好きだったのかしら。あの子の最初で最後の頼み事だもの。叶えてあげられて良かったわ……」
「そうだね。──あ、見てごらん。あそこにまだ一輪だけ咲いてるよ」
「あら本当。綺麗ねえ……。ねえ、来年、この桜を見に来ない?」
「いいね、そうしよう。そしたら家族でお花見だ──」
二人の姿を見送り、私はひとしきり泣いた。
そして顔を上げ、残った一輪の花に目をやる。
「やれやれ。来年も、再来年も、綺麗な桜を咲かせてやらなければな──」
了