六月の蝉。

文字数 22,361文字

「なあ、秋。聞いてくれよ。大変な事があった」

桜庭が「大変だ」という時、大概がたいしたことない。例えば「隣町に有名なラーメン屋ができた」とか「そこのラーメンが大盛り無料だ」とか。「冷蔵庫の食料が尽きた」なんてのもあった。

とにかく、その言葉に全く重大性を見出すことができず、僕は「お腹でも空いたのか」と、聞く。

「それがな」彼は無駄にもったいぶって、一呼吸置いた。その一呼吸の内に僕の意識は緑に揺れる木々に移って、揺れていた。

「実は、友達が旅行をあてたんだよ。6泊7日、ヨーロッパの旅」

「おお」

極大にまで達して、戻ってきた。

桜庭の「大変だ」にしては、まだすごい方に入るじゃあないか。おお、食べ物の話じゃない。

「で、ペアチケットだから彼女と行くらしいんだ」

「へえ、それは、羨ましい限りだ」

「でもな、そいつ彼女いないんだ」

いないのかよ。とツッコミを入れる前に桜庭は言った。

「で、彼女の代わりにって誘われたんだけど」

「へえ、それは、大変だ」


【一日目】

かくして桜庭はヨーロッパへ旅立った。今朝のことだ。「講義のノートを取っておいてくれ」そう言い残して。七日分となると、これはなかなかに大変だ。

愚痴を言いたくなるものの、その相手もいない。大学までの道を歩きつつどこか寂しさを覚える。いつもは騒々しいのも無くなってしまうと恋しいものだ。例えば、蝉のように。

日差しが肌に刺さるように暑い。夏の訪れ感じる。そろそろ蝉も鳴き出すだろうか。桜庭が隣にいると体感温度が二度あがるとして、それを加味すると今年は猛暑かもしれない。

女子生徒らの格好も段々肌色の割合が増えてきて、目のやり所に困る。桜庭なら、ウホウホ言っているだろう。そしてその隣の僕は気まず恥ずかしい思いをして──ああ、今日はあいついないんだった。なんて。



講義室は教壇を半円状に囲むように机が並んでいて、後方の席になるにつれ高くなる。説明が難しいのだけど、とにかく後ろから二番目の端っこ、いつもの席に陣取って、隣に桜庭のノートを置いておく。

「ねえ、ここ、空いてる?」

講義が始まるまでの退屈しのぎに音楽を聞いていたので、本当に彼女がそう言ったのかは分からない。
わからなかったが、彼女は僕の隣の席を指さしていたし、「何聞いてんの」と聞いてきたので、間違いなさそうだと確信する。それと同時に「なぜ」と思う。

『なぜ、女子が、それも知らない奴が僕に話しかける?』

とは言え、中学生の頃から日陰者を貫いてきたベテラン陰キャラの僕だ。女性の一人や二人に話しかけられたとて、動じない。

「『さよなら』」

たくさんありそうな曲名を言う。勿論、嘘だ。彼女にも思い当たる歌は幾らかあるだろうが、勝手に解釈してもらって構わない。勝手に解釈して、満足して欲しい。あわよくば僕が彼女の着席を拒否してると思って欲しい。

僕の思惑とは裏腹に、彼女は何故か「ありがと」といって隣の席に座った。

まさか『さよなら』という単語に「Yes」的用法があるとは思えない。彼女はよほど断られない自信があるのか、よほど厚顔無恥なのか。

「あれ、いつもの彼は?」

机にあったノートを見てか、彼女は言った。勝手に隣に座った上に、友人関係にも口を出すのか──いや、彼女にその権利が無くはないが、僕は馴れ馴れしい人間があまり好きでない。一部、命の恩人を除き。

「桜庭は、旅行に行ってる。一週間の、ヨーロッパ旅行」

「わあ豪華」と、顔を輝かせているのを見ると、結構な美人だった。桜庭に聞かせたら悔しがるかもしれない。ヨーロッパの美女に目を移ろわせる、命の恩人を思う。

「え、それって、一人で?」

ああ、と思った。彼女が何故いつも僕が桜庭といるのを知っていて、桜庭の不在を気にして、桜庭の旅行にすら興味を示すのか。つまり、彼女は桜庭に「気がある」のだろう、と。

これを桜庭に聞かせてやったら後悔でむせび泣くかもしれない。丁度先程流れてきた某有名クラシック『運命』の、有名なあの部分に負けず劣らず地面を叩き「そんな時に俺は男と」とつらつらと語りだすのも想像に難くない。

「いや、男友達と一緒らしい。けど、残念ながら、桜庭好きな人いるって言ってたから」

後半は全くのデタラメだった。桜庭はいわゆる「女ったらし」の部類で、だからこそ彼女を桜庭とくっつけるのは、それは良くないと思って嘘をついたのだ。それくらいの優しさを持つことが上手に生きる術だと僕は知っていた。だが、今度ばかりは違った。

表情の変化くらいは見られるかと思ったのだが、彼女の顔には感情の陰りは見られず、そうであるばかりか「何それ。てか、誰」と嬉々とした表情で聞いてきたのだ。

「ああ」

と時間を稼ぎながら、予想とは違った展開に戸惑う。返事を待たずに事を実行する厚かましさを持つ者なら、恋敵がいるとわかれば逆に燃えるのかもしれない。いや、なら諦めざるを得ない相手を──

「橋本さん、って知ってる?」

すると、彼女はぽんと手を叩いて頷いた。

「あの、文化祭実行委員長にミスコン参加を勧めまくられてる、あの」

「そう、あの」

僕はきっと、「あの、かの有名な『運命』を作った、あの」と言われても同じように答えただろう。そもそも橋本さんがミスコン出場を求められているなどとは知らなかった。

「そりゃあ、納得だわ。でさ、これノート写すんでしょ。私やろっか」

「いや、僕がやるから」

「私、こう見えて小中学生時代はノートをいかに美しくかけるかに捧げてきたからね」

彼女は美人だ。背は高く、明るい茶髪をしていて、大きい目は長いまつ毛で縁取られている。少々化粧は濃い目だ。彼女の仕草のひとつひとつに化粧品の独特な匂いが伴っている。

「君は、自分がどう見られてるか考えたことないんだろうな」

「だから代わりにさ、付き合ってよ」

「無理」即答する。

「この後サークルに行かないといけないんだ。だから、他を当たってよ」

またしても、全くの嘘だ。参加自由なサークルに参加するつもりは毛頭なかったのだけれど、面倒そうなのでそう言った。

すると彼女は僕の顔を見つめてきたものだから、すっかりたじろいでしまう。
彼女の瞳は澄んだ薄茶色をしていた。
その中の一点、真っ黒な光に僕のちょっとした嘘すら見抜かれてしまいそうで、しどろもどろしてしまう。

「ねえ。君って、ケーキ好き?」

彼女が言った。完全に、見透かされている。

【二日目】

「君は、好きな人いないの」

なんだかんだで、結局会うことになってしまった。

「近くに美味しいロールケーキの店があるのだけど一人では行きずらくて」

僕は彼女に、いや、ロールケーキに、それこそ巻き込まれてしまったのだ。ロールケーキが美味しい店と言いながらタルトを食べる彼女に呆れを通り越して親しみすら覚えてくる。

「君だったらいいのになあ」

僕はほとんど何も考えずにそう言ったのだが、彼女は「照れるなあ」とばかりに頬に手を当てた。親しみを覚えた所ではあるが、どうもこのノリは僕と相性が合わない。

さらには切り分けたケーキを口元へ運んできた。恋人同士でやる、「はい、アーン」的な、あれだ。

「なに。いったい、何がしたいの。臓器でも取ろうってんなら桜庭をオススメするよ。あいつ、献血界隈で崇められるほどの健康児なんだ」

「何がしたいって、そりゃあ、ケーキを食べたかったからさ。どうせなら、楽しまないと。なんか無いの、恋バナとかさ」

彼女は莉奈と名乗った。よく講義で僕と桜庭を見かけるらしく、思い切って声をかけたとのことだ。あと僕の名前が話題沸騰中の某俳優と同じだったから、ひょっとしてと思ったらしい。

昨日会ったばかりで、まだ友人かすら定かではない。はずなのに、何故か彼女は僕を「旧友」程のノリで話しかけてくる。おそらく、というか既にかなり確信しているのだが、桜庭と似たようなタイプだ。

差し出されたケーキをしっかりと突っぱねて、言う。

「僕は人に自分の恋愛の話はしない主義なんだ。あまり話せるような経験もないし、それにあまりにがっつくのは下品だ」

「あら、草食系ってやつ?」

彼女は僕に断られたケーキを口に運びながらそう言った。わざわざリスのように前歯でかじっている。タルト生地のサクサクとした音が小気味良い。

「そう。自分からガツガツ行ったって良いことないのはわかりきってるからね」

珈琲を飲む。この店のは香りは良いが、少し薄い。莉奈はオレンジジュースをストローで吸い上げている。

「それ、外国で言ったら笑われるよ」

「ここは日本だし、僕は外国人じゃない」

彼女はケラケラと笑っている。

「そして、君もだ」

僕が言うと彼女はふと真顔に戻って、

「…まあ、当たらずとも遠からず」

と、再び笑い始めるのだった。

ロールケーキを切り取って、口へ運ぶ。
スポンジはしっとりしていて、甘すぎず、生クリームのまろやかな甘みと絶妙にマッチしている。美味い。さぞかし高いんだろうなあ。懸念も、飲み込む。

「僕としては女子の方からもっと積極的に来てくれても構わないんだけど」

「君は、相手から来てくれると思うんだ?」

「現に、君は来た」

「君は、あれだね。オコガマシイ?ってやつ」

「いや、あれだよ。男女雇用機会均等法的な」

「男女恋愛機会均等法」

彼女は僕の口調を真似るように言った。
そしてジュースを音をならして飲み干して、一息ついて、また言った。

「私は頑張ってる方だと思うんだけどなあ」

桜庭のことかな、と思う。いや、あいつの場合何もせずとも食い付いてくるから君の頑張りは関係ないけど…まあ、いいか。

【三日目】

「おい、元気にしてるか」

「それは、こっちの台詞だろうに」

「ああ、俺は元気だよ。元気すぎて、喧嘩したくらいだ」

「彼氏と相性でも悪かったか」

「いや、彼ピとは上手くいってるんだけど」

「上手くいってるのがいいかはともかく」

「意味わかんねえよ。まあ、地元の人と喧嘩したわけ」

「そっちの方が意味がわからない」

「いや、だってさ、寿司と言えばサーモンなんてぬかすもんだからさ」

「サーモンは、美味い」

「だから、『ジャパンでシースーといえばマグロだ』って言ってやったわけ」

「シースーって、お前はもうちょっと若者としての鮮度を保つ努力をしろ。で?」

「喧嘩する程仲がいいってあるじゃねえか、あれだよ。寿司ネタはサーモンが好きってこと以外は、良い奴だったんだよ」

「どちらかと言えば雨降って地固まるだと思う大学生は僕だけか?」

「そいつ、アンソニーっつうんだけど、奥さんが、日本人なんだ。これがまた美人でな、サーモン好きなことを除けば最高の奥さんだ」

「お前の親鮭に殺されたんだっけ?」

「アンソニーは旅行先で奥さん捕まえたんだってよ。俺も見つかんねえかな。英国美女」

「へえ、イギリスにいるんだ」

「ああ。あ、そうだ。そのアンソニーの娘がな、ウチの大学に留学にいってるらしいんだ」

「へえ、名前は?」

「ええと、確か、ルナだったか」

「そう。会ったら聞いてみる」

そう言えば、桜庭が食べたご飯の話をしないのは珍しい。食ってない物の話はしたが。イギリスのご飯は日本人の口に合わないと聞いたことがあるが、だからだろうか。

聞こうとして口を開いたら、電話が切れた。

まあ、いい。その留学生とやらに会ったら聞いてみよう。

【四日目】

カチャカチャとコントローラーを動かす音が鼓膜を叩く。ゲームが数少ない趣味である僕にとっては特に変わらない休日である。

テレビ画面で某剣士が某有名ゲームのお姫様を切って、ぶっ飛ばした。
ドーンという音と、派手なエフェクトがあって、隣でうめき声がした。

「私さっきから思うんだけど」

うめき声の主はコントローラーを軽く放り出すようにして言った。

「この剣士強すぎだよね」

彼女は―莉奈は機敏に動き回る青髪の剣士を指して笑う。

「放るなよ」

僕は莉奈をたしなめて言う。

「ごめんごめん。にしてもさ、一人暮らしなのによくコントローラー3つもあるね。昔のゲームなのに」

「君がやりたいって言うからわざわざ実家から持ってきたんだ。昔のゲームなのに」

ひとつは僕。青髪の剣士を操縦して、二つ目は莉奈。プリンセスを操る。そして三つ目は、これは僕も驚きを隠せないのだが、橋本さんだ。
彼女はピンク色をした球状の某キャラクターを操作している。

右へ行ったり、左へ行ったり、慣れないのかあたふたとしている。そして、飛んだかと思うと、場外へ落ちた。橋本さんは首を傾げている。

僕も首を傾げずにはいられない。

どうして出会って数日の女性と、かねてから好意を抱いている女性が一緒に、僕の家でゲームをしているのだろう。それも、昔のゲームなのに。

一度、整理する。

確か、一昨日だったか。話題が昔流行ったゲームの新作に移った時だ。

中学生位の時友達とやったねという流れになって、今もたまにやるよと言って、久しぶりにやりたいなとなって、紆余曲折あって、こうなった。

紆余曲折の内に何があって橋本さんがいる?

まさかとは思うが、彼女を恋のライバル視した莉奈が敵情視察とばかりに呼んだのか。それも、男の家に。

テレビ画面ではプリンセスが姫とは思えぬ飛びヒザ蹴りを決めて橋本さんのキャラをぶっ飛ばしている。
大きな音でハッとして、目の前に飛び込んできた莉奈操るプリンセスを、切る。先程と違ってなんとか持ち堪えた莉奈は僕の隙を見て、殴る蹴るを繰り返す。
無残にボコボコにして、倒れ込んだところを親の仇とばかりに蹴りあげると、剣士は吹っ飛ぶ。隣で「よし」と言う声がする。

「ねえ、これどうしたらいいの」

隣で橋本さんが困った声をあげた。
いつもなら親身になって、誰よりも早く、橋本さんを助けんとするのだが、莉奈には負けていられない。
ゲーマーの意地とやらを見せてやろうと躍起になる。カチャカチャとコントローラーを動かすと吹っ飛んだ剣士は空中で体勢を戻し、攻撃と共に戦場に復帰。あっという間にプリンセスの前に躍り出ると、その勢いのまま大きく剣を振り上げ、叩きつける。
燃えながらプリンセスは場外へ飛んでいく。「え、うそ」と莉奈があっけに取られるのを横目にほくそ笑む。

ゲームセットの文字が大きく表示され、中央でWINNERの文字と共に青髪の剣士がガッツポーズをしている。その後ろでプリンセスと、ピンクのキャラクターが悔しがっている。

「やっぱりそいつ強いんだって」

莉奈が愚痴を漏らして、「ね」と橋本さんに同意を求めた。橋本さんは「うーん、難しい」とまた首を傾げている。

「どのキャラでも莉奈には勝てる。賭けてもいい」

「冬華ちゃんには負けるって言うの」

「て言うか、このゲーム知らないのになんで橋本さん連れてきたのさ。つまらなくない?」

「私は、大丈夫」

「あ、そう言えば私ポテチ持ってきたんだ。食べない?」

莉奈はバリバリと袋を破り、ポテトチップスを机に広げた。数枚をつまみ上げ、口に放り込む。口から聞こえてくるサクサクという音に食欲を刺激され、袋に手が伸びそうになる。しかし、意中の人の前で音をたてるポテチを食べるのはよろしくないのではないか。そう思いとどまって、「油をコントローラーにつけるよ」と注意するだけに留めると、莉奈はどこからかティッシュを持ってきて勝手に指を拭きはじめた。

「冬華ちゃんも食べる?」

莉奈が袋を橋本さんに差し出す。すると、橋本さんは少し迷う素振りを見せたが、結局「ありがとう」と言ってパリパリと食べ始めた。食指が動く。

時計を見ると六時も残り半分。
もうそろそろお開きにしなければないないか、一応、女の子だし。そう考えを巡らせていたら莉奈が「ラスト、もう一回しようよ。私ガチるから」と懇願してきた。

橋本さんを見ると、僕に気付いたのか「私はいいよ」と応えた。

「私、今度は勝てる気がする。慣れてきた」と莉奈が言うので、僕は小さくため息をついて、代わりに流れ込む空気が気分を上昇させるので、「勝てるわけない」と意気込んで言う。

「私は、全然慣れないけど」と橋本さんは笑った。

今度は、僕はあの、某有名ゲームのキャラクターを、莉奈はさっきと同じ某王国のプリンセスを、選択した。橋本さんも先程と同じだ。

さあ、試合が始まる。莉奈が僕の前にぱっと躍り出て、蹴りを放つ。慣れたと言っただけあるが、しかし、それにしても速い。僕はそれを間一髪でかわし、一旦後退する。

「逃げたね」莉奈はどこか誇らしげだ。

「ていうか、なに、さっきまで手加減でもしてたの」

「パパがゲーム好きだからね、遺伝だよ。才能ともいう」

「ねえ、これどうやって飛ぶんだっけ」

橋本さんの操るピンクの球体は飛ぶどころかひたすらにハンマーを振り回している。

もううかうかしてられない。このゲームは小学生の頃からやり込んでいる。ほんの二時間そこら前に始めた奴に負けたとなれば、同桜庭に馬鹿にされる。僕の気合いが通じたか、小さく非力な黄色のネズミが画面で体を震わせた。

僕は上へ飛び上がる。それを追って、莉奈も飛ぶ。同時に攻撃を繰り出しているが、こちらもそれが狙いだ。素早く空中移動すると、莉奈の下にでて、そして体当たりを食らわせる。プリンセスは軽く吹っ飛んで、しかしダメージが十分でなかったか、ステージに留まる。

「瞬間移動とか、せこい」

「ねぇ、あれ、私消えちゃった。これも瞬間移動?」

負けじと莉奈は攻めてくる。ひたすら蹴り殴り、蹴って、また殴る。じわじわと蓄積するダメージを眺めつつ反撃の機会を伺う。莉奈は調子づいてトドメにとでも思ったか大技を繰り出そうとした。そのモーションの隙を見て飛び上がる。そして、小さい雷の玉をぶつけてやると、プリンセスは小さく仰け反った。それで出来た隙に長い尻尾でピシピシと叩くように攻撃、渾身の体当たり。プリンセスはぶっ飛び、そして、場外へ。

「くぅぁ」と、莉奈は隣でよくわからない声をあげた。

早く終わるように、二度やられるとゲームセットにした。彼女に残るチャンスは一回だ。ステージに莉奈のプリンセスが現れ、身構える。

先程と同様に莉奈は僕の前に飛び込んでくる。同じ手は喰らわないぞとばかりにバックステップを踏んで、カウンターを放つ。頭突きが決まった。かと思ったらプリンセスはヒラリとそれをかわし、その勢いのままに攻撃を繰り出した。しまったと思うが、遅い。僕のネズミは軽く吹っ飛んで、着地する。
まさかそんな芸当を既に使えるようになるとは、莉奈もなかなかやる。

今度はこちらから攻撃してやる。
遠距離から雷の玉を出す。莉奈はガードしたり、かわしたりするが、やがて痺れを切らしたかこちらへやってきた。飛びヒザ蹴りを繰り出すプリンセスのタイミングを見計らって、空から大きな雷を落とす。ドンピシャのタイミングで雷光が走り、同時にプリンセスは吹っ飛んだ。しかし、ダメージが足りない。フワフワと浮かんで場外を避け、着地せんとするプリンセスを追う。

「あ、そう言えばさ」

だし抜けに莉奈は言った。
油断させようとも無駄だと莉奈に攻撃を仕掛ける。

「なになに」

橋本さんの方が興味を示した。きっと、彼女は面倒な者であっても構ってあげずにはいられない、優しい人なのだ。

「いや、川谷君が言ってたんだけど、桜庭君って冬華ちゃんのことが好きなんだって」

ドーンと大きな音がした。

橋本さんのキャラが盛大に自爆していた。
僕は、ほんの一瞬動きを止めた。
思いもよらない発言に思考が鈍り、そのせいで莉奈に逃げられた。

「え、なんで」

橋本さんは明らかに狼狽している。

「でさー、冬華ちゃんはどうなの?桜庭君、良いと思うけど」

え、なんで。と僕が言いたい気持ちだった。

「え、えっと」

頬を赤らめ、たじたじとして、髪をくるくると弄んだりしちゃって、橋本さんは恐る恐ると言った。「うん。好き……かな」

ドーンとまた音が鳴る。
プリンセスが飛びヒザ蹴りを繰り出し、僕のネズミを吹っ飛ばしていた。

「やった!」

莉奈は大袈裟にはしゃぐ、してやったりという顔で僕を見ている。

「あれ、川谷君ショック受けてる?」

挙句余計なことまで言い出す始末だ。
橋本さんの顔は真っ赤になっていて、それが話の真偽を伺わせて、辛い。

「あ、ほら、戻ったよ」

それを誤魔化そうしてか、橋本さんは画面を指して言った。僕のキャラクターが復帰していた。奇遇にも全員がライフ残り一の状態だ。

「大口叩いてた割に、弱っちいね」

「せいぜい最期に吠えてろ」

「あ、なんか出てきた」

画面の端から虹色の球体が現れた。必殺技を放つためのアイテムだ。

ベテランとして必殺技を使ってまで初心者を打ちのめすのはいささか気が引けた。しかし今回ばかりはなりふり構ってはいられない。一度莉奈をぎゃふんと言わせなければ収まりがつかない。

もちろん莉奈もそれを察知している。
ふたり、同時にその球を追う。
球がふらっと僕の前に流れてきた。占めた、と思う。
ジャンプして、尻尾を大きく振り下ろし、アイテムを獲得し、必殺技を放つ。はずが、球はふらりと揺れて、僕の攻撃は空回りに終わる。落ちていく間にプリンセスは距離を詰めてくる。
そして狙いを定め、蹴りのモーションに入って──その刹那、もうひとつの球体がプリンセスとの間に割って入った。そして、そのピンクの球体はハンマーで球を砕く。莉奈の攻撃は相手を失い、虚しく落下していく。ピンクのキャラ6虹色
の光に包まれ、やがて大きな鍋を取り出した。

しまったと思うが遅い。ネズミも、プリンセスも鍋に吸い込まれ、仲良くグツグツと煮込まれる。ダメージが蓄積していくのを横目に莉奈を見ると、彼女もあっけに取られていた。

ドーンという音。プリンセスとネズミは吹っ飛ばされ、ステージにはピンクの球体だけが残る。

「ゲームセット」の文字。

「やった!勝ったよね、これ」

橋本さんはつい先程とは打って変わって大声を上げ、はしゃいだ。

「ごめん、精神攻撃はせこかったよね」

「いや、僕も大人げなかった」

なぜか僕と莉奈は和解を遂げ、今日のところはお開きとなる。



「お邪魔しました」

ご機嫌な橋本さんはぺこりと頭を下げた。

「ねえ、お腹空かない?お寿司食べに行きたい」

莉奈はこの調子である。

「ごめん、私門限あるから」

「じゃあさ、明日お昼に行こうよ。講義ある?ひとつふたつサボっても大丈夫だろうけど」

「明日は朝だけだからいけるよ。川谷君はどうする?」

「まあ、行けるとは思うけど…」

なんだかんだで莉奈に奢らされるような気がして「やめとく」と言いたかったのだけど、しかし橋本さんに聞かれてそうと言えなかった。失恋は明白だというのに未だどこか冷めないというか、諦めきれないというか。

「よし、決まり。一昨日から茶碗蒸し一杯無料キャンペーンしてるからね、行きたかったんだよ」

やはり莉奈と桜庭は同種の人間だ。その思いは百パーセントの確信に変わる。

「あ、駅まで送るよ」

「おーおー、シュウ君意外と紳士だねえ」

「莉奈じゃなくて橋本さんに言ったんだ」

「あ、でも私バスだからすぐそこだわ」

「だから、お前には言ってないって」


駅までの道のりは約十五分。
三人で喋りつつ、笑いつつ、季節を感じつつ、歩く。

「あ、私はここで」

莉奈と別れてからは二人、僕と橋本さんで並んで歩く。喋りつつ、笑いつつ。

莉奈と別れてから何故やらか体が熱い。いや、理由は分かってるのだけど──今更なあ。これだから恋はしたくない。したくないのだけど──どうにもなあ。悲しいかな男の性。なんて、柄にもない。

そんな間にも時間は過ぎて、けどいつもより駅がずっと遠くに感じる。時々訪れる数秒の沈黙に怯えている。ああ、いっそ今想いの丈をぶつけてしまおうか。ダメで元々──ああ、ダメだったなあ。なんて。

「ねえ、川谷君」

そんな時に、橋本さんは躊躇うように言った。

「今日、莉奈が言ってたの、嘘だよね。桜庭君が私の事好きって」

「なんで。橋本さんもあいつのこと好きなんだろう」

「うん。でも、川谷君は人の恋愛を口外したりしないでしょ」

橋本さんのその言葉に、僕は殆どすら感動した。彼女の、なんと僕を理解してくれていることか!

「それでね、おこがましいのはわかってるんだけど、頼みたい事があって」

その理解が、別のベクトルをもって僕に向かっていれば──でも、それは遠くヨーロッパの方へ向かっているのだ。

「私に、協力してくれないかなって」

僕の気持ちなんて、所詮一桁目の数字でしかない。「うん」「好き」その二進法で軽く飛び越えられてしまう。

秘めた思いを押し殺しつつ、「もちろん」と答える。『ん』の後に続ける言葉が見つからず、酸素の足りない金魚のように、口をパクパクさせる。僕に足りないものは、なんだったんだろう。あと一つ何かがあれば、晴れて次の桁へ進めたのだろう?

「ありがとう。莉奈にああ聞かれた時、答えようか、迷ったんだ。でも、凄くおこがましいことだとはわかってるんだけど……頑張って告白して、良かった」

「…橋本さんが桜庭を…なんて、凄い意外だった」

「えー。そう?」

暗くて、彼女の表情は見えない。

「うん。もっと、真面目そうな子がタイプかなって思ってた」

そう、願っていたのだけど。飲み込んだ思いは消化不良を起こして、腹の辺りをモヤモヤとさせた。

「え、それって、秋君みたいな?」

橋本さんは笑った。「なんて、ね」

六月の七時は春に比べるとまだ暑い。暑くて良かった。顔の火照りはそのせいに出来る。

六月の七時は夏に比べるとまだ暗い。
暗くて良かった。夕陽なんぞに照らされなくて済んだ。彼女に言い訳などしたくない。

「あれ、今」

「うん。お互い名前で呼びあわない?もう付き合いも一年以上になるんだし」

「もちろん、いいけど」

「やったね。秋君、これからもよろしくね」

「こちらこそ」

「私、昔っから男友達ってほとんどいなくてさ、男の子の名前を呼ぶの憧れてたんだ。あと、呼ばれるのも」

桜庭のことかな、と思う。
けど思い出してみれば、あいつはいつも「冬華ちゃん」と呼ぶし…

「じゃあね!また明日」

気が付けば駅の目の前だった。ここまでの道のりは、さっきとは打って変わって一瞬の事のように感じた。

「冬華、また明日」

彼女はにんまりと笑った。手を振り、足どり軽く改札へと向かう、その背を見送りながら思う。僕は彼女との関係をベクトルに例えた。でも、そんな単純なものだろうか。ひとつの方向、正と負、それから強さで捉えられるものだろうか。現に、僕は彼女への恋心を整理して、一番大事にしたいもの、エッセンスを取り出して、残りを心の押入れにしまっている。

恋。

好き。

一緒にいたい。

だから、友達でいたい。

いられるだろうか。

好きのままで、いられるだろうか。

周りはもう真っ暗だ。言い訳する必要もない。


【五日目】


「あ、そこのとろサーモン取って」

テーブル席に三人、僕と莉奈と、冬華。
片側に僕、反対に冬華と莉奈という配置だ。
レーンの上を流れる寿司を眺めたり、寿司をつまんだり、冬華が本日3杯目の茶碗蒸しを食べるのを観察したり、中々に飽き足らない。
特に莉奈はサーモンばかり食べていた。これで3皿目だ。

「莉奈はサーモン好きなんだ」

冬華は当たり障りのない、というか歴然のことをいうが、「冬華も茶碗蒸しすきだね」と伝えたい。実際「冬華ちゃんは茶碗蒸し大好きなんだ」と莉奈は言った。

「あ、焼きハラス!置いといて」

これも3皿目だ。それにしても、よく食う。

そんなこんなで割と平和な食事だった。
そして、そういった平和を壊すのは往々にして桜庭のような人間、即ち今日でいうと、莉奈だった。

「でさでさ、冬華ちゃんは桜庭君のどんなとこが好きなの?」

僕はうどんについた海老天を堪能していたのだが、危うく尻尾まで飲み込みそうになった。

「え、うーんと、ね」

冬華は耐性をつけたか、前回のような狼狽は見られなかった。彼女も予想していたのだろう。しかし堪えきれない照れが伝わってきたし、その余熱で焼き殺されるような気持ちを覚えた。

言ってくれるなとさえ思う。いかんせん、その対象が桜庭であるから、嫉妬してしまうかもしれない。いや、既にもうしている。しまったはずのダンボールが気が付けば外に出ている。これはある種の怪奇現象だ。

「やっぱり、面白いところが一番で、それでいて、意外と気が利くとこ、かな」

そうか、冬華は面白い人が好きなのか。
時すでにお寿司。
どこかで見たネタを思い出して、可笑しいような悲しいような微妙な気分になる。これは、ダメだ。

「なるほどなー」

桜庭のことを殆ど知らないくせに、何が「なるほど」だ。と思う。いや、しかし、莉奈は桜庭が好きなのではなかったのか。だとすれば自分で傷をほじくるような真似をしていることになる。頭がこんがらがってきて、また思考が鈍ってくる。また、これだ。思ったよりも失恋の痛みは大きい。何か、心に穴が空いたような、そんな虚しさだ。いったい、どこで間違えたのだろう。とうかとは桜庭よりも僕の方がよく話していたし、連絡も取り合っていた。自意識過剰かもしれないが容姿はとんとんといったところだ。やはり「面白い人」でなければいけないのだろうか。思い出の品を整理していたら、ふいに懐かしくなって時間がかかった。そんな風に、再び想いを押し込む内にそれらが自己主張を始めた。それでも思い出の品は取っておきたくなるもので、それは僕の場合も例に漏れない。

「でもさ、桜庭君って、絶対プレイボーイだよね」

莉奈は今度はオニオンサーモンを口に放り込んでいた。大きな口を開け一口で頬張る様子が、あまりに能天気で、気が緩んだ。

「だよね?」

「きっと今頃、白人美女にサインをせがんでるよ」

はるか西にいる桜庭を想い、答える。彼をひどく懐かしく思う。

「あ、デスノート」

冬華が小さく笑った。「え、なに、それ」と莉奈が大げさに肩をすぼめて言う。

「通称、桜庭の友達デスノート。あいつ、友達になったやつの名前と、誕生日と、連絡先と…」

「職業、あるいは学校」

「そう、それをノートに書くんだ。書かれたら最後、あいつの友達にならないといけない」

莉奈は興味深そうに「へぇ」と言った。そして、指を僕に向けて「じゃあさ、シュウ君のもあるわけだ、デスノートに、名前が」と言う。

「そう。日々桜庭に心身を殺されかけているわけだ」

「じゃあ、冬華ちゃんもだよね」

「うん。私も書いたけど、そんな、大変じゃないな。シュウ君が羨ましいくらい」

僕とリナは同時に「あ」と声を出す。

「熱いね」

莉奈がそう言うと、冬華は顔を赤らめどぎまぎして、幾つ目かの茶碗蒸しを慌てて口に入れた。ほぼ同時に「あつっ」と言ってスプーンを落とす。

「まあ、とにかく、そういうノートがあって」彼女はタオルで口を拭きながら言う。

「私もそこに書いていいのかな」

「間違いなく莉奈は桜庭と仲良くやれると思うよ」

「そうなの?」

「そうなんだよ」

「なにその言い方」

莉奈の笑い声を最後に一旦会話は収束する。ただ皿が重ねられていく音とスプーンの金属音とが続き、僕らはただ食を楽しむ。

こういう時静寂を破るのは桜庭だ。が、彼はいない。やはり、芸もなく、そこで出てくるのが莉奈である。「ねえ、なんか、ないの。クイズとかなぞなぞとか」

「僕は莉奈がなぜ自分でそれを提供しないのかが最大の謎だからそれをクイズにしようと思う」

「川谷君は、あれだね、よく言えばユーモラスで悪く言えば変なやつだね」

「莉奈は、あれだ、よく言えば騒がしくて、悪く言えばうるさい」

「よく言ってないじゃん」

「どうすればよく言えるかをクイズにしたい」

「私、雑学クイズとかなら知ってるよ」

「いいね、やろうよ」

冬華はしばし考え込むように目を瞑り、「じゃあ、第1問」とクイズ番組の司会者になりきったかのように指を立て、声を低くして言った。

「サイコロの1の目はどうして赤いんでしょう」

沈黙が訪れる。雑学クイズは場を盛り上げる手段としてはあまり適さないのではないか。そう思うが、それでもやはり何も言えない。

「んー、見ずらいから!」

「ぶぶー」

と、冬華はは口を尖らせた。

「秋君は?」

「じゃあ、バランスを保つため」

「ぶー」

また口を尖らせる。

冬華の表情の変化を見るには良いが、
しかし、非常に盛り上がりにかける。

考えても一向にわからず、痺れを切らしたか莉奈は「ギブ」と諸手を挙げた。

「答えは、他の企業のサイコロとの差別化のため、でした」

「えー、なにそれ」

「え、つまんなかった?私この話好きだけどなあ。まあいいや、第2問」

ほんの少しの緊張が走る。

「かき氷のシロップの味は同じでしょうか、違うでしょうか」

これは、聞いたことあるぞと思った瞬間、ドンと机を叩く音がして、莉奈が「はい、はい」と手を挙げた。

「違うね。絶対に違う」

「秋君は?」

「聞いたことがある。同じ、だ 」

「正解!答えは、同じでした」

莉奈がぶーぶー言うのが聞こえてくる。
「ブルーハワイに練乳かけないじゃん」とか「イチゴとブルーハワイ混ぜて喜んでたのはなんなのよ」とか、とにかく食に関してのこだわりが凄まじい。

「気持ちはわかる。私も初めて知った時、驚いたもん」

冬華はデザートを注文し始めたリナをなだめる。

「目を瞑って食べたら分からないと思う」

僕は思ったことをただ述べただけだったが、莉奈は馬鹿にされたと思ったのか、僕を睨みつけてくる。
ギブとばかりに両手を挙げると、莉奈は「こんなだから彼女いないんだ」とあまりに突拍子も無いことを言った。かき氷にかけて、冷たいと言いたいのだろうか。

「そういえば、秋君は結構カッコイイのに、モテない」

僕は君にモテたかったんだけど。
なんて言う度胸は、ない。「同姓同名の俳優がいるくらいだから間違えてモテてもいいのにね」と同姓同名ネタをやるのが精一杯だ。

「そう言えば、僕も雑学をひとつ知っている」

「え、なに」と、冬華が反応した。

「昆布が海で出汁がでないのは昆布の細胞が壊れてないからなんだ。つまり、死んでないからってこと。僕もそうなんだよ。死んでからじゃないとその良さが分からないんだよ。大学の女子はきっと卒業してから僕という男を見逃したことを泣いて悔やむだろうね」

「うわ、凄い屁理屈」

「屁だなんて、そんな汚い言葉つかう女子はモテないぜ」

注文用のディスプレイから音楽が鳴った。新幹線の形をしたプレートがレーンを走ってきて、2つの容器を運んできた。見てみると、かき氷だ。イチゴ味のシロップをかけたものと、ブルーハワイ味のものだ。

「目瞑って、鼻つまんで食べるから、食べさせて」

莉奈の執着に呆れを通り越し、感嘆すら覚えた。

冬華がスプーンを持ち、イチゴ味のものをすくって、莉奈の口に運ぶ。もちろん彼女は目を瞑っている。

莉奈はしっかりと味わうように口を動かして「次!」と威勢よく求めた。


「ううむ。これは、初めのがブルーハワイ、」2度目もしっかりと味わって、そしてカッと目を見開いて莉奈は言った。

「ぶぶー」

冬華が先ほどと同じ口調で言った。

「初めはイチゴで、その後がブルーハワイでした!」

「え、うそ」莉奈は額に手をあて、信じられないという顔をした。「うそだ。あ、わかった、さっきお茶飲んだから舌が麻痺してたんだね。もう1回」

謎の執着を再び見せた莉奈は2度目も綺麗に外した。よほど鼻が悪いのか、いや頭が悪いのか、どちらともつかず僕が迷っているうちに「もう1回」といったのだから、しつこい。

「ずっと莉奈は桜庭に似てるなと思っていたんだけど、違ったかもしれない。かき氷のシロップとおなじで、見た目が違うから別人だと信じてたけど。もしかしたら莉奈は桜庭の色違いなんじゃないかなって思えてくる」

「そんなわけないじゃん」イチゴ味のかき氷を目を瞑ったままで頬張り、リナはそう言った。

「イチゴ味」

「ピンポーン」

待ってましたとばかりに、冬華は声を上げた。

満面の笑みで「やったね」と言う。

「ほらね、私は私だよ」

自信に満ち溢れた顔で莉奈は言うが、しかし二度間違えた上で「私は私」と言われても、と困惑させられた。

その時、僅かな振動が机を伝った。
見れば、携帯が振動している。僕のものだ。待ち受けには『石川さん』とある。

『え、与作先生が亡くなった?』

「え」と側の冬華の動きが固まる。

「え、誰?」と、莉奈だけがわけも分からず寿司を頬張っていた。


【六日目】

与作先生とは僕と、桜庭、冬華、石川さん、そして、山野さん、つまり高校生とかで言う『いつメン』が共通して持つ講義「戦争と人間」の講師だ。
かなりのおじいちゃん先生で、曰く、彼の亡くなった兄は戦争時に特攻隊に属していたらしい。彼がその兄の生き霊なのではと疑いたくなる程のリアリティを持って特攻隊について語るものだから、その兄の名をとって「与作先生」と呼ばれていた。ちなみに彼は当時は赤子で戦争時の記憶は全くないらしい。

ともかく、僕らは、というか桜庭がたいそう与作先生を気に入って、与作先生も桜庭を気に入って、かなり贔屓してくれたのだ。おそらく、美人の冬華がいたのも多分にある。先生は大の女好きで、だからこそ桜庭と気があったのだ。

今、僕らはその桜庭を待っている。先生の訃報を知り、大急ぎでイギリスから帰ると連絡があった。

「あ、来た」

そう言ったのは冬華だった。指さすほうを見れば桜庭が手を振り、近付いてくるのがわかった。

桜庭は既に喪服に身を包んでいる。彼がいつもと違って見えるのは久しいと言うだけではないはずだ。ここまで暗い服を着た彼を初めて見る。

「ハイ、オヒサシブリデス」

何故か片言風に桜庭は言った。英語がわからなかったに違いない。しかし、その桜庭の桜庭らしさが懐かしさを感じさせ、沈んだ気持ちの僕を少しすくい上げた。

「先生が亡くなったってのに、やけに明るいな」

これに対し桜庭は笑った。「ほら、ちょうど特攻隊の講義終わったろ。きっと、お兄さんが成仏して、魂が抜けちまったんだよ」

「あ、そう言えば、ノート」

通学用のカバンを探るが、ない。そうだ、莉奈に書いてもらっていた。

「Nice to meet you」

莉奈は小学生レベルの英語を流暢に発音し、ノートを手渡した。彼女は『友達デスノート』に是非ともその名前を刻みたいということで、ついてきたのだった。ちゃっかり黒を基調とした服を着ているところお通夜にも同行するのだろう。

「ハアイ、ナイストゥーミーチュートゥー!って、お前誰」

あれ?と思う。桜庭が初対面の、それも女性に「お前」呼びするなんて初めてだ。

「私?シュウ君の彼女」

「いや、断じて違う」

何故だろうと考えたところ、「同族嫌悪」だろうと言う所におちついた。

「そうか、てか、ノート馬鹿みたいに綺麗だな」桜庭はパラパラとノートを眺めて、言った。

「あら、馬鹿って、あなたこそ、字は綺麗に書きなよ」

「なあ、知ってるか、ノートを綺麗に書くやつほど頭悪いんだってよ。どっかの偉い先生が言ってたぞ」

「私が頭悪いっていうの?何よ、大便ばっか書いてるくせに」

「あれは、男は皆する」

「そうなんだ?」

「いや、断じて違う」

桜庭と莉奈の、そして巻き込まれた僕の争いはそこで休戦となる。

「まあ、秋の彼女なら俺の彼女も同然だ。ちょっとここに名前とか書いてくれよ」

莉奈の顔が一瞬綻んだ。ついにお目当ての、とばかりに手渡されたノートをかっさらい、ボールペンでスラスラと書いていく。おかけで、「違うぞ」と言いそびれた。

手渡されたものを桜庭は一瞥した。そして「へえ」とも「はあ」とも、納得とも意外ともとれる声を出した。

「お父さんは、元気だぞ」

「パパに元気がないのは寿司屋にサーモンがない時くらいよ」

なんの話か、桜庭という属性ではない僕にはわからなかった。が、『桜庭』という人種にしか通じないなにかがあるのだろう。僕の、かねての推測は正しかった。


【七日目】

昨日の通夜にはたくさんの人がいた。大学の講師のみならず、生徒、さらには有名人も少なからずいた。
特に議員であり僕と同姓同名の息子を持つ川谷議員がいて、「息子よりもカッコイイじゃないか。代わりに俳優をやってみないか」と言われた時には笑うべきかどうか、悩んだ。
とにかく、与作先生の人柄と人望、そして彼の壮絶な人生を思わされた。

そして、今、「いつメン」は葬式に出ている。「生徒代表」枠まで設けてもらった。

その葬式も葬式で、なかなかに大きかった。
会場は大きなホールだったし、弔電や、手紙や、挨拶や、見開き1ページ分のプログラムには予定がぎっしり詰まっていた。葬式ってこんなだったっけと思うが、それも先生の人柄ゆえと思うことにする。

「田中先生には色々なことを学びました。私などは学生時代は不真面目で、それこそ一日一日を遊びほうけて暮らしおりました。そんな私に昔の先生のお話を聞かせてもらい、『俺は戦争時代を生き抜いた。現代も確かに大変かもしれない。でもな、戦争ん時よりもマシだ。特攻したって死なねえからな。捨て身でやってみろ』そう言ってくださいました。その言葉のおかげで今の自分があると言っても過言ではありません。先生が亡くなっても私の中の先生はいなくなりません。その限り私は何度でも特攻することが出来ます。ほんとうにありがとうございました」

「与作先生そんなこと言ってたんだな。先生特攻どころか戦争にも出てないのに」

隣でコソッと桜庭が囁いてきた。確かに、と思う。

「お兄さんも特攻隊に入ったけど、結局特攻はしてないらしいしね」

石川さんもコソッと呟いた。

とにかく、長い。話が。そして、式も。
2時間が経過したものの、まだ終わりは見えない。
この後、生徒代表の僕らの挨拶。親族の挨拶。そして、お経。

考えるほどげんなりする。先生には失礼だが、正直帰りたい。そう思ったところ、突然に尿意が押し寄せてきた。

「ごめん、ちょっと、トイレ」

コソッと裏に回り、トイレに入る。用を済ませ、外に出て、何気なく携帯を開くと、1件のメールが入っていた。

『じゃあね』

差出人は『RINA』

何が起こっているのか、整理がつかず戸惑う。様々な情報が脳内を交錯して、思考の水面をかき乱した。

この七日間にあった事がぐるぐるとまわる。

突然話しかけてきた見慣れぬ女性。

ロールケーキ。

桜庭の電話。旅行中に桜庭と知り合った男。サーモン。留学生の名前は『ルナ』

ゲーム。失恋。

時すでにお寿司。サーモン。

桜庭。サーモン。パパ。

「じゃあね」

『リナ』じゃないか!やっと整然とした脳内で僕は叫んだ。


「おい、そろそろ俺らの番」

やってきた桜庭達に携帯画面を見せる。

それを一瞥して桜庭は「あいつ、帰るのか」と言った。

その隣で「ごめん」と冬華が言った。

「莉奈に、秋君には言わないでって言われてたの」

何故か心にぽっかりと穴が空いたような喪失感を覚えた。漠然と、永遠に続くと思われた日常に、莉奈が加わり、そして桜庭が戻ってきて、さらに続くものと錯覚していた。しかし、その空洞に流れ込んできたのは悲しみなどではなく、怒りだった。あいつは、蝉のように突然現れて騒ぎ、蝉のように消えようとしているのか?

「それでも」

知らず、強く言ってしまう。

「それでも、言ってくれたって…」

酷く不快な気持ちになった。僕はいったい何に怒っているんだ、と。

「おい、秋」

陰鬱とした葬式会場の、廊下がさらに鬱々としていく中、桜庭だけは変わらなかった。

「今から追いかければ間に合うんじゃねえか?」

「三時十五分の便で帰るって言ってた」冬華は罪悪感からか、酷く申し訳なさそうに言った。

慌てて時計を見る。二時十分。ここから空港へは約一時間。葬式の後では言わずもがな、僕らの挨拶が終わってからでも間に合わない。

「無理だ」

「ほんとに、ごめん」

「冬華ちゃんは謝らなくていい。それよりも、秋」

桜庭は僕の前に立って、僕を見上げる。

「特攻だ」

それだけ言った。

「でも」

言い訳の言葉を探したが、色々な理由があって、言葉にならずもごもごと僕は言った。

「挨拶は大丈夫だ。俺が、先生のモノマネとかでなんとか誤魔化してやるよ。それに、与作先生だって許してくれるだろうよ」

桜庭はなお堂々としている。

「なんたって、新たな命ができるかどうかの瀬戸際だからな」

桜庭が何を言いたいのかはわからなかった。が、僕は「頼む」と言って走り出していた。与作先生、ごめんなさい。心の中で三度唱えて外に出た。


タクシー乗り場を見る。が、タクシーは見当たらない。道路に出て、駆け出す。
頬を走る風は生暖かい。汗がたらり、たらりと流れるのがわかる。それがたまらなく不快だった。しかし、止まらず、一心不乱に走る。喪服で全力疾走する男を奇異の目で見る人は当然いた。それすら気にならない。大通りに出る。往来する車の群れにタクシーがないか、目を凝らす。一台のタクシーが遠くに見えた。しかし、中には先客がいた。そのタクシーは僕など見向きもせず、通り過ぎた。

無力感に打ちひしがれ、腕時計を見ると、二時二十分。諦めの混じった吐息が漏れた。

その時だ。大きな騒音と共に目の前に、トラックが止まった。僕が顔を上げると、窓から四、五十代くらいの男性が窓から顔を覗かせて「乗りな」と言った。

訳が分からなかったが、知らない人であるとか、そういったことは考えなかった。僕はひたすらに焦っていて、とびとびにものを考えていた。

助手席に乗り込むと「空港だろ」と男性は言った。僕が息も切れ切れ返事をすると、「息を切らしてタクシーを呼ぶ若者は恋人を追いかけてるに違いねえんだよ」と彼は笑った。やっと、心が追いついてきた。何言ってんだ、こいつ。


「急いでんだろ。飛ばすぞ」男性はそう言うとアクセルを踏んだ。

「あの」礼を言おうとすると、男性はそれを制止し、「こういうのに憧れて運ちゃんになったんだ。礼なんていらねえよ」とまた笑った。

僕はすっかり安心して、シートに背を預ける。そして、ここ一週間のことについて考えた。

あの日、桜庭が出ていった日、桜庭の席に莉奈が座った日、僕は、莉奈は桜庭に気があるのだと思っていた。だからカマをかけた。けど、莉奈は動揺を見せなかった。それどころか僕をケーキ屋に連行した。冬華を家に連れてきたのは敵情視察などではなかった。じゃあ、なんだ。僕がとうかを好きだったのを薄々気が付いていて…考えすぎか。いや…でも。

自意識過剰かもしれない。でも、もしかしたら、ひょっとすると

「兄ちゃん、着いたぜ」

僕はトラックから飛び降り、礼もそこそこに空港へと向かう。色々考えて、それなりに思うところはあるが、しかし、とにもかくにも莉奈に会わなければ。そして、別れを言わなければならない。そうしないと何もかもがわからなくなる。
時計を見ると三時ジャスト。

空港内は人でごった返している。その中で、国際便、イギリス行きを探す。人混みをかき分けかき分け進む。長身で茶髪の女性を見る度止まって確認する。その中に、一人、建物の奥へと歩いていく人影を見つけた。見覚えのあるバッグを肩にかけている。

僕は確信して、追う。
その者は奥へと奥へと歩いていく。しかし、人の波は途切れず僕を飲み込み、僕と彼女を隔てる。声を上げたくなるのを必死にこらえ、クロールをするように人混みをかき分け、波に抗う。

激しい波を乗り越えた先には、凪いだ海のような、大きな空間があった。三時十五分の便なら普通搭乗しているはずだからだろう。それでも彼女はそこにいた。

「莉奈!」

声を大にして、言う。

すると、彼女はゆっくりと、何かの確信を持っているように振り向いた。その目が僕を見た時、彼女は微笑んだ。

「あら、シュウ君」

僕は何故か、ほとんど泣きそうになっていた。追いついた安堵と、漠然とした悲しみでふらついて、不安定な気持ちだったのだ。

「どうして、もっと早く言ってくれなかったんだ」その声はかすれた。

「すごく、急な話だったから…それに、涙の別れなんて古いわ。この展開もかなりのものだけどね」

莉奈は気丈に言った。

「ほんとうに、行くの」

僕はやはり不安定な心持ちのせいか、何が言いたいのかを見失っていた。彼女に留まって欲しいなどと思ってもないし、そう言う資格などありはしないが、それでも、かける言葉は沢山あったはずだ。

「うん。ありがとう、けっこー楽しかったよ。また、イギリスにも来てね。その時には」

そこで、莉奈は初めて言葉に詰まって、それがまた別れを想起させて、短い記憶が走馬灯のように流れるのだった。それは、ちょうど桜庭と電話した日で止まった。

「イギリスのご飯って」

無くした言葉の代わりに、そう口走っていた。でも、その先を、莉奈は言わせなかった。

「イギリスのご飯が美味しくないとは言わせないわ」

それから、すうと一息間を開けて、言った。

「だって、私が作るもの」

彼女はぎこちなく笑った。「料理は得意な方なの」

「それは、期待できないな」

莉奈は数秒押し黙った。

「相変わらずというか、勘の悪い男ね」

「どういうこと」

莉奈はまた黙って、やがて意を決したか僕を見つめてきた。

「ねえ、シュウ君、付き合ってくれない?」

そして、打って変わって、明るい声で、そう言った。

「今度は、どこまで」

先程の走馬灯をビデオフィルムのように巻き戻しながら、僕は聞く。

「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国まで?」

「無理」即答する。

「少し前なのに、懐かしい」莉奈は微笑んだ。「冬香ちゃんによろしく」

「うん」

「ごめんね。突然声掛けたくせに、突然帰るだなんて。ホントに、私もビックリしてるの」

「蝉は、謝らなくて良いんだよ」

僕の言葉を理解しかねてか莉奈ははにかんだ。

「もう、行かないと」

「そっか。じゃあ、また」

最後の最後で何を言えばいいのだろう。僕にはせいぜい「また」と言うので精一杯だった。「また、いつか」

「最後にひとつお願い」

「なに?」

「キスしていいかしら」

「イギリスでは、キスは別れの挨拶なの?」

「の」のOを言いきることが出来なかった。口を塞がれて、言えなかった。ただ柔らかな感触とほんのりと香る化粧品の匂いに僕は酔いそうになった。

初めてのキスは、自分の想う人ではなかった。でも、今、ここで、その想い人は変わった。少し、違う。『好き』はどこかにずっと存在していて、それは見えていなかったのだけど、今色付いた。それはイチゴ色に染まって、僕は『恋だ』と思ったんだ。

唇を離した莉奈はやっぱり微笑んで、「いいえ?」と言った。

「君は、許可もなしに行動に移す」

「コウガンムチ、ってやつかしら?」

「いいや。積極的に来てほしいと言ったのは、僕だ」

莉奈は僕の手を取った。彼女の手はちょうど何かに祈るみたいな格好で僕の手を包んだ。

「好きよ。ずっと。一目惚れって、本当にあるのね。ここへ来た時から──ずっと、声もかけられなくて、意を決したらさよなら、よ。ねえ、シュウ君は、私のこと、好き?」

僕の推測は正しかった。

僕はそこで迷う。迷うはずはないのに、しかし、目の前に広がる現実が、僕と莉奈を天の川のように隔てているのに呆然とさせられた。ハッキリと「好きだ」と言ってしまえばいいのだろう。それは僕の望む所である。

しかし、その言葉が莉奈に、或いは己に、七夕の呪いにかけてしまうかもしれないことを考えれば、僕の口はsの字で止まってしまう。

だから、考えた末、僕は告げた。

「『さよなら』」

それはあまりにハッキリとした言葉で、きっと別れ以外に解釈のしようのないものだ。それでも勝手に解釈して欲しい。あわよくば……。


【七日目】

空港の側の堤防に座り、ため息をついた。

今、この胸には虚無感が満ちている。無いのに満ちるとはなんとも変な感じだけど、そう形容する他ない。でもそれは悲しみとかの類では無くて、例えば文化祭が終わった後の物足りなさのような、そんな感覚に近い。イベントが過ぎ去った安心と、楽しかった思い出の片鱗がそうさせるのだ。

携帯が小さく震えた。画面には「桜庭」とある。

「もしもし」

『おう、秋、終わったぞ、葬式』

「そっか、僕も無事送り出せたよ」

『あいつ、もっと長くいたら良かったのになあ』

「そうだね。そうだけど…」

『おいおい、なんだよ。嬉しそうだな』

「いや、そんなことない。悲しみに暮れてるよ」

『そうそう、秋、大変なことがあった』

「え、まさか、挨拶でとんでもない失敗でもしたのか」

『いや、挨拶は俺の与作先生モノマネ集で何とかなったんだが』

「それは大変だったな」

『いや、スシタローでよ、茶碗蒸し一杯無料キャンペーンやってんだよ。イギリス行ってて知らなかったよ。今から行こうぜ』

「…ああ、わかったよ」

電話を切る。我慢しきれなくて、一人で声を出して笑った。
笑いが止まらず、空を見上げる。
五時も近いのに、まだ日は高い。

もうすぐ蝉も鳴くだろうか。

夏はもう、ほとんどそこへ来ている。
そして、またすぐに過ぎ去っていくのだろう。
ほんの少しの哀愁と、多大なる思い出を残して。
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