第1話

文字数 1,338文字

「もう十六歳になったの。時間が経つのは早いわね」
 美香子はそう言いながら目を丸くする。
「あはは、ですね」
 大げさにも思える彼女の反応を見て、私も、たしかにずっと一緒に暮らしていると気づきにくかったが、だいぶ長い時間を一緒に過ごしてきたのだな、と実感する。
「名前はなんて言うんだっけ?」
「ジュンです」
「ジュンくんね」
「あ、女の子なんです」
「あら、ごめんなさい。そうだったのね」
 美香子は手で口を押さえる。
「いえ、気にしないでください」
 実際、彼女がジュンに会ったのは、一度きり、それも生まれて間もなくの頃であったため、性別を覚えていなくても無理がない。
 美香子は私が新卒から三十代半ばまで務めていた以前の職場の上司だ。私が転職してからは、彼女の要望で上下関係を取っ払って友人として接している。普段はカフェなどでお茶をしたり、一緒に舞台観劇をしたりするのだが、今日は家に夫がいないので、初めて私の自宅でお茶会をしようという運びになった。最寄り駅で彼女と待ち合わせをする際になかなか見つけられなかったのには焦ったが、なんとか合流でき、あと五分も歩けば家に着く。
「私は独り身だし、家に帰っても真っ暗な1LDKが待っているだけだから、少し羨ましくなることもあるわ」
「そうですよね」
 私は、実家を出て一人暮らしを始めたばかりの頃の生活を思い出し、同調する。
「やっぱり小さい頃は手がかかったりした?」
「どうでしょう。お利口だったので、比較的手がかからなかったんじゃないかな」
「あら、そうなのね」
「むしろ、手がかからなすぎて心配になって、逆に過保護になっちゃってたくらいです」
 私は苦笑いをする。
「いいじゃない、それだけ愛情を持って接しているってことなんだから」
 美香子も微笑ましそうに笑みを浮かべる。
あ、でも、と私は付け加える。
「若い頃はそうでもなかったんですけど、最近甘えん坊になっちゃって。私が家にいると、近付いてくることは増えましたね」
「それも可愛らしいじゃない」
「そうなんですよ」
 こういうのを親バカと言うのだろうな、と私は内省する。
 そうこうしているうちに、自宅が見えてきた。
「あ、あそこがうちの家です。あの緑の屋根の」
 仕事第一だった頃には考えられない、都市部からは少し離れたところにある建売住宅が私の家だ。今となっては、ジュンのためにも小さい庭のある家を購入したのは英断だったのではないかと思う。
「ジュンちゃんもいるのよね?」
 美香子が尋ねる。
「えぇ、もちろん」
「私のこと、覚えているかしら」
 美香子が冗談めかして言う。
「いやぁ、さすがに……。どうですかね」
 私は苦笑しながら自宅のドアを開ける。すると、ジュンは私たちを玄関前で出迎えてくれていた。
「あら~、ジュンちゃん久しぶり~。大きくなって~」
 美香子がジュンの少し伸びたブロンドの毛を撫でる。私は一瞬心配になったが、ジュンに嫌がるそぶりはなく、安心する。
「落ち着いていて、賢い子ね」
「えぇ、ゴールデンレトリーバーっていう犬種なんですけど、賢い子が多いみたいです」
 そうなのね、と相づちを打ちながら、美香子はジュンの全身をこれでもかというくらいなで回す。我が家の忠犬が流石に少し嫌そうな顔をするのを、私は微笑ましく思った。
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