一話完結

文字数 1,874文字

 チョコの溶けたような匂い。
 その香りで、私はのそっと体を起こす。んにゅーっと体をのばして、口を大きく開ける。あくびをして、口を閉ざすとき、いつもヒゲを加えてしまう。あいつは嫌いな風呂に入れるくせに、こうした気遣いはない。
 ベッドから顔を出すと、あいつはチョコレートクリームをトーストの上にのせていた。熱いトーストにチョコが溶けて混ざり合う。この匂いだ。いっつもこいつに起こされる。まだ眠いというのに。
 さっさとご飯をよこしなさい。
 そう言って、あいつが与えた試しがない。テレビから流れる音を聞いて、チョコクリームが溢れているトーストを嬉しそうに見つめ、かじりつき、ニヤニヤなんてしちゃってる。なんか気に食わない。少し不平を漏らしてやろう。
 私が口を開けて、抗議をすると、あいつはこっちを少し驚いたように見つ、やがて何かを理解したのか、おもむろに小さなスプーンを持ち、チョコクリームの缶の中をひとすくい。そうして、チョコがたっぷり付いたスプーンを猫じゃらしのようにふりふりと私の前に揺らしはじめた。私は座ってあいつを見つめる。私は食べない。以前、夢中で食べたら腹を壊してしまったから。だから、もう食べない。私は学ぶ。こいつは学ばん。
 動くことなく、ジッと見ていると、やがて寂しそうに笑って、あいつは再びトーストをかじりついた。その姿を、私は見つめ続けた。
 トーストを食べ終わると、あいつは私よりも動き回る。おもしろい。この時しかあいつは素早く動かない。こいつも動物なんだと、いつも気づかされる。ドタドタ、ドタドタ。あぁ、うるさい、うるさい。私のことを気遣いなさいよ。あいつの足音はとにかく響く。私も部屋を走りまわった。柔らかい音が静かに聞こえてくるだけ。ほら聞きなさい。この上品な音を。身分が違うのよ、身分が。
 誇らしくヒゲをのばしていると、あいつは黒いバッグを持っていることに気づいた。この時だけは、少し嫌な気分になる。
 それじゃ、行ってくるよ。
 私は玄関まで歩き、あいつの言葉を聞いた。私の知らない外の世界。あいつだけの世界。私は、いつもどこに行ってるの、ときいた。
 その度に、あいつはいつも嬉しそうに笑う。なんで笑うんだろう。質問に答えなさいよ。
 ドアが開く。少し耳が痛くなる高い音を出して。眩しい。白い光が目を奪ってくる。
 あー、暇だ。あいつがいなくなって、静かになったというのに。あいつが出す音や匂いのせいで、ろくに寝かせてくれないのに、いざひとりになると、なんだか眠る気にもならないわ。
 いつの間にか、皿の上にごはんが置かれていた。茶色いクッキーみたいなカリカリ。なめてるのかしら。毎日、毎日、同じものを。あいつはもっと良いものを食べてるというのに。それに、なによこのミルクは。冷たいじゃない。あいつの飲んでるミルクは湯気がでていたじゃない。あんなに温かそうなミルク、私にも分けなさい。私の舌はバカじゃないわ。
 窓を見る。木が、草が、花が揺れている。楽しそうに踊ってる。私も揺れてみたい。彼らみたいに、私も体を揺らしたら、バランスを崩して、ドテッと音を立てて転んでしまった。痛い、痛い、なによこれ、二度としないわ。 
 部屋を探検して、机の下に隠れて、登った机から景色を見下ろして、でも、いつか飽きて、窓から差し込む明るい光に導かれるように歩いて、その陽だまりが私の毛をやさしく撫でおろし、それがあいつが抱きしめたような温かさで、目を細めて、その場に留まって、その温もりを味わうの。それが私のちょっとした贅沢なのよ。
 いつの間にか寝てしまった。あんなに優しかった太陽も、私が寝て飽きてしまったのか、いつも西へ逃げてしまう。もっといっしょにいたいのに。大きくあくびをする。涙をためて、手でそれを拭う。
 ガチャリ、いつもと変わらない。あいつが帰ってきた。私は玄関へ迎えに行き、どこに行ってたのよ、そう言ったら、
 あぁ、ただいま、いや疲れちまったよ。
 そんなこと言う。こいつはやっぱりバカなのよ。私の言葉が分からないんだから。
 外は暗くて良く見えない。だから部屋の中にいるあいつがよく見える。こいつは不思議だ、あんなに嫌いな風呂に毎日入ってやがる。頭がおかしいのよ。髪を濡らしたまま、ベッドに入り、ごそごそと自分のポジションを探ってる。
 ぽんぽん、ベッドを叩く音。あいつが毛布を上げて、空洞を作っている。私は歩いて、その布団の中にもぐる。温かい。太陽が帰ってきた。
 


 またする。チョコの溶けた匂い。
 音もなく目を開ける。起きる時間がやってきた。
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