楓ノ辻荘の七日間

文字数 12,290文字

マサトシは、ため息をついた。

これから始まるイベントが、とても憂鬱だったからだ。

マサトシは、ごく普通の高校生だ。
成績は中の上、容姿も中肉中背で、特出して美形でもなければ、不細工でもない。
トレードマークは、丸眼鏡である。

少し普通から外れていることがあるといえば、二人の悪友がいるぐらいだ。

がっちり体形で、豪快な性格の、スポーツが得意なレイジ。
スラッとした体形で長身、少し嫌味な性格の、勉強が得意なワタル。

小学生の頃からの付き合いである。
なにかと周囲を騒がせるので、三人でセット扱いされていた。

そんな三人で、何か面白いことはないかと、模索していた昼下がりの話だ。

ワタルが、一軒の事故物件についての話を持ち掛けてきた。

「なあ、『楓ノ辻荘』って知らないか。帰り道とは、逆方向にあるにあるボロアパートなんだ。僕の父さんが所有している物件の一つでね、どうやら、とんでもない曰く付きらしい」

ワタルの父は、不動産業を営んでいる。
代々受け継いでいる土地が相当数あるらしく、所謂、金持ちだ。

「知らんなぁ。逆方向には住宅地以外何もないから、行く機会がない。どんな曰くが付いているんだ」と、レイジが尋ねる。

「とんでもない頻度で、霊現象が起こるんだってさ。しかも、全部屋だ。その中でも特に、二〇三号室がやばいって話で、一週間も経たないうちに住人が逃げるか、失踪するか、するんだってさ」と、ワタルが答える。

「そんなんじゃ、商売にならないんじゃないか?取り壊せばいいのに」
レイジは言う。

「父さんも、そう考えたさ。でもね、取り壊そうとすると事故が起こるんだ。父さん自身も病気になったり、夢見が悪くなったり大変な目に合うらしい。そんなんでも二〇三号室以外は、格安なら、なんとか借り手がいるから、そのままなんだって」
ワタルが、やれやれと言った。

「へえ、でも興味あるな。一週間で逃げるほどの霊現象が、いかほどのものか知りたい。俺なら絶対に逃げないね」と、自信ありげにレイジが言い放った。

「やっぱり、君ならそう言うと思っていたよ」
ワタルが、にやりと笑う。

なんだか、嫌な予感がする。この流れはまずい。

「それで父に頼んでみたんだ。一週間だけ、その二〇三号室に泊まらせてくれないかって」

ほらきた、こういう話になると思っていた。

マサトシは、怖いものが大の苦手なのだ。
二人も知っているはずなのに、わざと、そういう話に持っていこうとしているに違いない。

「流石に、それは迷惑だろう。仮にも、人に貸す物件なんだろう?汚してしまったらどうするんだい」
窘めるように、マサトシは言う。

「大丈夫だよ。元から、オンボロだし、どうせ借り手なんてみつからない部屋さ。遠慮することはない。それに、父さんが、こう言ったんだ。一週間泊まることができたら、十万円お小遣いをくれるって。まぁ、僕にとっては、はした金だよ?でも君たちにとっては大きいんじゃないかい?」と、ワタルが、にやにやと笑みを浮かべる。

「そんな、うまい話があるもんか。なんで泊まるだけで十万円もくれるんだよ」
マサトシは、むきになって言った。

「ああ、そうそう、ただ泊まるだけじゃないよ。その様子を動画に収めてくれって言っていたよ。父さんとしても原因が知りたいんだ。でもね、困ったことに、ビデオカメラを回しているだけでは、何も映らないんだってさ」
ワタルが説明する。

「いいじゃねえか、面白そうだ。なにも四六時中、そこにいろって言ってるんじゃないんだ。ただ泊まればいいんだぜ?それで十万も、もらえるなら、ちょろいもんだ」
どうやらレイジは、乗り気らしい。

正直な話。
マサトシは逃げ出したかった。
しかし臆病者と、からかわれるのが嫌なのだ。
『ビビリで泣き虫のマサトシ』なんて不名誉な、あだ名が付いていたこともある。

「許可が取れているのなら、いいんじゃないか。ラッキーなことに、もうすぐ春休みだ」
努めて平静を装いながら、マサトシは言った。

そんなマサトシの様子を伺いながら、レイジとワタルは顔を見合わせて、にやにやと笑っていた。


数日後。

ついに、『楓ノ辻荘』へ泊る日がやってきた。
親に、子供同士で泊まるのはいかがなものかと聞いてみたのだが、いつもの三人であるし、ワタルの父の公認ならば、別に問題ないんじゃないかとの返事だった。

ちょっとした、合宿とでも思っているのだろう。

幸いなことに電気、水は通っているし、エアコンも備えてあるとのことだ。
何事もなければ、それこそ、ただのお泊り会で済むのだが、マサトシは嫌な予感が拭えなかった。


午後六時。
季節的に、ほんのり薄暗い時刻である。
遠くでカラスが、カァカァ、と鳴いている。

現地で集合する予定になっていた。
事故物件で食事をしたり、風呂に入ったりするのは嫌だったので、自宅で済ませた。

十字路の角のアパートとのことだったが、すぐに見つけることができた。
ご丁寧にマップアプリに、ピン刺しされていたからだ。
前評判を聞いているだけに、なんだか不気味な外観に思えてくる。

二階建ての、古風な造りのアパートだ。
『楓ノ辻荘』という名前なのだが、楓の木は見当たらない。

周りの風景に対して、そのアパートが特別浮いて見える、ということはないのだが、異質な雰囲気を漂わせている。
入ったら戻れない、そんな雰囲気だ。

二〇三号室のチャイムを押した。
ジーー、という、他ではあまり聞かないチャイムが鳴る。

すぐに、ドアが開いた。
レイジだった。ラフな普段着を身に着け、片手に炭酸飲料のペットボトルを持っている。

「おう、遅かったじゃないか。入れよ」
まるで自分の家かのように言う。

中から、軽快な音楽が聞こえてくる。
おそらく、ワタルが傾倒しているアイドルグループの曲だ。

意外に広く、部屋も複数ある。
それにリフォームされたのか、小綺麗だった。

シミだらけの、汚い畳の部屋を想像していたのだが、意外なことにフローリングだった。
この様子ならば、例え幽霊が出ても格安なら借り手があるかもしれない。

二人が先にいたおかげで、すでに生活感のある部屋になっていた。
菓子の袋が散乱し、持ち込まれた漫画本が積まれている。
これならば、普通のお泊り会じゃないか。

なんだ、と、マサトシは安堵する。
もしかしたら、事故物件の噂も大げさなものなのかもしれない。

「思っていたより普通だ」マサトシは言う。

「だよなぁ、俺の部屋より綺麗だぜ」と、レイジが笑う。

「そう思うのはまだ早いよ。こっちに来てみな。こっちが本命の部屋だ」
ワタルがそう言い、手招きする。

隣の部屋を見せたいらしい。
引き戸の扉を開け放つと、……そこは和室だった。

畳の部屋で、隅に布団が重ねて置いてある。
それでも、想像していたよりは綺麗だった。
畳の色が青々としており、日に焼けた跡もない。

「普通じゃない?」マサトシは言う。

「部屋の隅を見てみてよ」ワタルが促す。

レイジとマサトシは、部屋の隅へ移動する。

「うげえ、なんだこりゃ。手の跡みたいに見える」

それは、茶褐色に汚れた煤のような跡。
手の腹と五本指の先端で、付けられたかのような跡だった。

「ちなみに、最後の入居者が逃げた後、畳は一度取り替えられているんだよ。その後に付着した汚れらしい。不気味だろう。すごいだろう」
ワタルが、なぜか誇らし気に言った。

「しかし、この位置だと、おかしなことにならないかい」
マサトシは、手のひらの跡を、まじまじと見た。

「そうだな、ここに手があるなら、体は、どこにあったんだ」
レイジは、体の向きを合わせてそう言った。

部屋の隅の窓際に、手のひらの跡だけポツンとある。
実際に、この位置に手をつこうとすると、体は窓の外ということになってしまうのだ。

「さあね。逆立ちでもしていたんじゃない?」
ワタルが、あっけらかんと言った。

「アグレッシブな幽霊だな」レイジがぽつりと呟いた。

「流石に、この部屋では寝ないよね」マサトシは、不安げに聞いた。

「寝る場所の指定はなかったけど、一人は寝ておいた方がいいんじゃない?動画を取るにしても、この部屋の方が取れ高あるしさ。じゃんけんで決めよう」
ワタルは、にやにやしながら言った。

嫌な予感がした。
そしてそれは、当たって欲しくないと思えば思うほど、当たるのだ。


その日の深夜。

案の定、畳部屋担当は、マサトシになった。

フローリング部屋の二人は、騒ぎつかれて既に寝ている。
ワタルに教えてもらった手順通りに、ビデオカメラをセットして、布団に入る。
部屋の電気は消したくなかったのだが、折角ナイトモードの搭載されているカメラをもってきたのだから、と、ワタルに言われ、消して寝ることになっていた。

眠れるはずもない。
それは例え、一日中ジョギングをし、疲れきっていても同じことだろう。

マサトシはこの状況が、怖くて、怖くて、たまらないのだ。

隣の部屋に二人がいるものの、扉で仕切られている。
いっその事、開けてしまおうかとも思ったのだが、やいビビリ、やい臆病者と、からかわれるのは目に見えていた。

なに、目を瞑り、朝まで開けなければ何も見えない。
ぎゅっ、と目を瞑った。

いかほどの時が流れただろう。
眼前で、影が揺れているように感じた。

例えるなら、目の前に手のひらをかざし、揺らしているような、そのような感覚を覚えた。
その感覚が不気味で、そっと目を開く。

カーテンも何もない窓から差し込む夜の光で、目の前に何かがあるのがわかる。
一見、皴の刻まれた、手のひらのようだ。

いや、しかし、それにしては形がおかしい。
ぼやけている視界の焦点が合うまで、しばらくかかった。

……マサトシは、目を見開いた。

足だ。

誰かの足の裏が、目の前で揺れている。
わー、と叫んでしまいたかったが、声が出ない。
声が出ないどころか、体のどこも動かすことができなかった。

頭上で誰かが吊らされて揺れており、その足の裏が見えているのだと理解したら、居ても立っても居られなくなった。
身じろいで、体の硬直を解こうとするが徒労に終わる。

目を瞑ることもできない。

ひたすら揺れている足の裏を、見つめ続ける他なかった。

いっそ気絶してくれと、マサトシが念じていると、ぼたぼた、と顔に落ちてくる何かがあった。

続けて、ぼたぼた、ぼたぼた、と顔に降り注ぐ。

臭い、そして生暖かい。

目の前の足が、どんどん崩れていく。

降り注いでくるソレは、目の前の揺れる足の持ち主から、崩れ落ちた肉だった。

腐肉だ。

腐肉が、次々と降り注ぎ、マサトシの顔を覆っていく。

苦しい、息ができない。

まるで、腐肉の海に落とされたような感覚だ。

助けて……と、誰に宛てたともわからない願いと共に、意識が遠くなった。


朝。
最悪の目覚めだ。

目に差し込む陽光がなかったら、きっと死んでしまったと思ったことだろう。
のそのそ、と這うように隣の部屋に行く。

レイジとワタルは起きていた。
暢気に笑いあいながら、携帯ゲーム機で遊んでいる。

「おう、起きたか。もう八時だぜ」と、目線だけをこちらに向けながらレイジが言う。

「どう?なんかあった?こっちは、物音がしたぐらいだ」続けてワタルが言う。

「最悪だったよ。絶対あの部屋、過去に自殺者がいるだろう。首吊りだ。首吊りの幽霊が出たんだ」
焦燥を隠さずに、マサトシは言った。

「ホントかよ」と、二人が詰め寄る。

「ビデオカメラを見てみようよ。何か映っているかもしれない」と、ワタル。

「映っていたらSNSにあげようぜ。絶対バズる」と、レイジ。

暢気なものだな、こちらの気も知らないで。

二人は、セットしていたビデオカメラをチェックしている。
一体何が映っているのだろう。
見てみたい気持ちと、二度とあの光景を見たくない気持ちが半々だった。

「なんだ、何も映っていないじゃないか。君がうなされている様子は、ばっちり撮れているけどね。きっと悪い夢を見たのを勘違いしているんだ」
つまらないといった風に、ワタルが言った。

「そんなはずはない。昨日の晩、眠れなかったんだ。眠れないまま、首吊り幽霊が目の前に現れたんだ。間違いない」
マサトシは、反論する。

「さっき覗いた時、ばっちり熟睡していたけどな」と、レイジが、からかう。

貸してくれと、ビデオカメラを二人から取り上げる。
一晩分なので、早送りでチェックした。

……確かに、身じろぐマサトシは映っているものの、頭上には何もなかった。

「ね?何も映ってないでしょ」ワタルが言う。

腑に落ちない、とマサトシがまた、最初からビデオカメラを見直そうとした時、「おい」とレイジの呼ぶ声がした。

「見てみろよ、手のひらのシミが、昨日と少し変わっていないか?」

慌てて見にいくと、確かに昨日見た時と、手の配置が変わっているような気がした。

部屋の中央に寄って来ている……?
昨晩、そこにいたのはマサトシだ。

三人は閉口した。

しばらく経った後、「写真、撮っておこうか」と、ワタルがぽつりと呟くと、スマホでパシャリ、と撮影した。

「ねえ、ワタル。この部屋の事、もっと詳しく聞いてきてくれないか。どうせ昼間は暇だろう」マサトシは、提案した。

流石に自殺者が出た部屋だというのなら、二人も続行しようとは思わないのでは……そう考えたのだ。

「失敬だな。君と違って僕は忙しいんだ。塾を、かけもちしていてね。今日だって塾さ。でも……そうだな。塾の後、父さんに聞いといてあげるよ。自殺者がいないかどうかは、気になっていたところだ」
いつもの嫌味な口調で、ワタルが答えた。

「俺も部活があるから、一旦家に戻る」と言い、レイジは出ていった。

「僕も、塾に行くから戻るよ。君はどうするんだい?首吊り幽霊とやらを探すかい」
ニヤッと笑いながら、ワタルが言った。

「冗談じゃない、家に戻るさ。春休みの課題ぐらいは、きちんと片付けておかないと」
マサトシは言った。

「そいつはめずらしい。いつもぎりぎりにしか、課題に手を付けないどころか、見せてくれと泣きついてくる君が?今日は雨が降るかもしれないから、傘を持って行かなきゃいけないな」
ワタルが、小突いてくる。

「うるさいな……、でも課題は見せて欲しい」
目を合わさずに、マサトシは言った。


マサトシは、何もしていない。
まだ、高校一年生だから、と塾にも行っていないし、面倒なので部活にも入っていなかった。
当然のことながら、春休みの課題に手を付ける気もなく、自宅のベッドに横になっていた。

スポーツ万能のレイジ、頭脳明晰で家が金持ちのワタルに比べ、マサトシには特出して、何かがあるわけではないのが歯がゆい。

自分だけにできることを考えても、何もない気がしていた。
所詮、あの二人のおまけなのだ。

しばしの間、答えの出ない思考を燻らせていた。


昼過ぎ。

流石に何かするべきかと、『楓ノ辻荘』の過去の事件について調べる為に、区の図書館に行くことにした。

おそらく、新聞のアーカイブがあるはずだ。
昔、グループ学習の課題で利用したことがある。

図書館に着いて、新聞のアーカイブをパソコンで調べるものの、途方に暮れた。
何か事件があったとして、一体いつの話なのだ。
どこから手を付けたらいい。
飽き性のマサトシは、早々に諦めていた。

せめて、このあたりの歴史を調べようと郷土史に目を通したが、戦国の世では合戦場であったし、江戸時代には大火で、この付近一帯焼け野原になっている。
加えて第二次世界大戦の戦時中も、戦渦の真っただ中だったとの事だ。

つまり、何が起こってもおかしくないぐらい、このあたりの土地には曰くがある。
それに、土地丸ごとの曰くとなると、楓ノ辻荘だけ怪異現象が頻繁している理由がわからない。やれやれ、結局のところ何の成果も得られなかったな、と図書館を後にした。


その日の夜。

本日の畳部屋係を決めることにしたのだが、意外にもレイジが立候補した。
朝のマサトシの様子を見て、逆に好奇心が湧いたのかもしれない。

レイジという男は、何に対しても怯まず、立ち向かっていく熱い奴なのだ。

二〇三号室の室内ということには変わりがないのだが、あの部屋じゃないだけでもマシだ。
いつの間にか持ち込まれたモニターとゲーム機で、夜中までゲームをして、各々寝ることにした。

横にワタルがいるので、とりあえずは安心して眠れそうだ。

……と、思っていたのだが、頻繁に聞こえてくる呻き声のような物音で眠れない。
ワタルの方を見ると、健やかな顔でぐっすりと眠っている。

うー、うー、あー、と、呻き声にしか聞こえない。
隣人が何かしているのだろうか?しかし、音は畳部屋の方から聞こえてくる気がするのだ。

開けてみようかとも思ったのだが、昨日の首吊り幽霊の記憶がフラッシュバックして開けることができない。
まあ、レイジならあんな幽霊ぐらい、ぶっとばしてくれるだろう。

マサトシは、ワタルが持ってきていたイヤホンを耳栓代わりにして、眠ることにした。


朝。

熟睡したとは言い切れない。
不穏な気配で目が覚めてしまうのだ。

横を見ると、ワタルは幸せそうに寝ていた。
畳部屋の方を見ると、……レイジが、ぼーっと扉を開けて立っていた。

「うわっ」とマサトシは思わず叫んだ。
まさか、そこにいるとは思っていなかったからだ。

「最悪だ……」と、レイジは呟く。

「なに、なに、うるさいよ」と、ワタルも目を覚ました。

「体が焼けたんだ。部屋が蒸し風呂みたいになって、俺の体がどんどん焼けていくんだ……。体が炭みたいになって、ぺらぺら、と剥がれ落ちて、骨だけになっちまった」
呆けた顔のままで、レイジが言う。

「大丈夫だよ、君の体はムキムキで暑苦しいままだ」
欠伸をしながら、ワタルが言う。

「とりあえず、ビデオカメラを見てくるよ」
そう言い、マサトシは畳部屋に行く。

朝だというのに、何故か薄暗い。
例のごとく、早送りで映像を流していく。
マサトシの時と同様、レイジが動いている以外には何も変化がない……と、思っていたのだが、明け方四時ぐらいのシーンで、画面の隅に一瞬、白いモノが映った。

写った方向を見ると、そこは手のひらのシミの跡がある辺りだ。
形を確認する……変わっているような気もするが、記憶が確かではない。

「ワタル、昨日撮った手のひらの跡の写真を見せてくれないか」
マサトシは、呼びかける。

「なに、なに、また変わったとでも言うのかい」
ワタルがスマホを持ってきて、画像を差し出す。

……指先の擦り跡が、若干伸びてきているような?

撮る角度によって、そう見えると言われれば、そうかもしれないといったような微細な変化だ。

「何とも言えないねぇ、今日の分も一応撮っておくよ」
そう言い、ワタルは撮影する。

「動画の方も見てくれないか。四時ぐらいに白い影みたいなものが映っているんだ」

ワタルは、ビデオカメラを手に取った。

一通り見終えると、「埃が一瞬貼りついて映っただけじゃない?」と暢気な口調で言う。

あの屈強で普段は勝気なレイジが、あそこまで凹んでいるのに、平和な顔で熟睡していたワタルは気楽なものだった。

「じゃあ今日は、ワタルがこの部屋で寝てくれよ」
頬を膨らませながら、マサトシは言った。

「お安い御用さ。君たちが、怖い怖いと思っているから悪夢を見たんだと、僕が証明してみせるよ」
ワタルは、したり顔だ。

「俺、家に帰って寝なおすわ。じゃあ、また今夜な」と、言いレイジは部屋を後にした。

先ほどまで凹んでいたと思っていたのだが、きっちり今夜も来るらしい。

マサトシは、どちらかが、もうやめようと言い出すのを密かに願っていたのだ。


その日の夜。
今朝、公言した通り、今夜の畳部屋当番はワタルだ。
当の本人は、携帯ゲーム機片手に菓子を頬張り、気楽なものだった。

夜中になって、いざ寝るかというときになっても「じゃあ、お休みぃ」と、ひらひら、と手を振り部屋に入っていった。

明日も、そのままのテンションで出てこられるか見ものだ。
マサトシは、布団に潜り込んだ。


深夜。
昨日同様、呻き声のような物音で目が覚めた。

「……ケロ、……イケ……」と、昨日より、より一層、人の呻き声のように聞こえる。

そして、かりかり、と何かを引っ搔くような音。
ネズミかとも思ったのだが、音がする間隔が規則的すぎる。
マサトシは持参していた、耳栓を装着し眠りについた。


朝。
誰かに揺り動かされ、目が覚めた。

ワタルだった。
今にも、泣きだしそうな顔をしている。

「聞いてくれ、生きたまま手足をもがれたんだ。手足だけじゃない、耳も鼻もだ。皮膚も一枚一枚剥がされて、内臓も綺麗に抜き取られて、ついには、骨まで持っていかれたんだ」

「大丈夫だ。ワタルの顔は、イケメンのままだよ。目も鼻も口も耳も付いている。取れかけてもいないよ」と、眠気眼を擦りながら、マサトシは言った。

「それに今日は、はっきりと白い手が映っていたんだ」と言い、ビデオカメラを差し出す。

手が映っているシーンで、一時停止がされていた。
午前四時、昨日の白い影が映った時刻と同じ時間だ。

確かに、やせ細った白い枝のような手が、ワタルの方に向かって伸びているのが見て取れる。

「うお、マジモンじゃん。手のひらの跡も見てみようぜ」と、いつの間にか起きていたレイジが言った。

三人で畳部屋に移動する。
相変わらず朝であるにも関わらず、薄暗く気味が悪い。

「うあ」と思わず声が漏れた。

明確に、昨日とは違う。
指の跡は赤黒くはっきりと滲み、擦ったようなような跡が伸びていた。

位置も昨晩ワタルが寝ていた辺りに、寄って来ていた。

「これ、まずくね」レイジが言う。

「絶対この部屋、事件があったんだって。……そういえば、この部屋についての詳細は聞いてくれたのか」と、マサトシはワタルに問いかける。

ワタルは、罰の悪そうな顔を浮かべて、目を合わそうとしない。

「おい」

「実は、一昨日に聞いてはいたんだ。それで……思っていたより悪い話が出てきてね。言えずにいたんだ。言ったら君たちは中止すると思っていたのさ。それに僕自身、幽霊なんて信じていなくてさ、この愉快なお泊り会が終わるのが嫌だったんだ」と、ワタルは申し訳なさそうに言った。

「それで、どんな事件が起こっていたんだ」レイジが聞く。

「このアパートの元のオーナーが自殺していた。それに、そのオーナーの息子もだ。でもね、勘違いしないで欲しい。このアパートの霊現象が始まったのは、おそらく……それより前なんだ」ワタルは言った。

「余計……悪くないか?そのオーナーとやらは、もしかしたら霊現象が原因で死んだのかも知れないんだろ?」
レイジは強めに言った。

「オーナーと、オーナーの息子は、どんな死に方をしたの?」
マサトシは、聞く。

「オーナーが首吊りで、オーナーの息子が焼身自殺だったと思う……」
消え入るような声でワタルは言った。

「一致してるじゃないか。俺らの霊現象と」
レイジが、ワタルに詰め寄った。

「だから尚の事、言いづらくてさ」
てへっと、ワタルが舌を出してお道化た。

「で、どうするの、続けるの?この調子だともっと悪いことが起こるよ」
マサトシは、二人に問いかけた。

しばしの沈黙。

「でもさぁ、癪じゃね?他の連中が逃げ出して、俺たちも逃げ出すのか?そんなの男じゃないよなあ?」
沈黙を破ったレイジは強気だ。

「だよね。それに死んだのは、調べた限りその二人だけだ。霊現象とは別の理由だったかもしれない。それに今のところ、悪い夢を見ただけだ。どうせなら、この霊現象の謎を解き明かさないか」
調子を取り戻したワタルが、にやりと笑みを浮かべる。

「えええ……」思わず息を漏らす。
二人がそう言うのなら、マサトシは賛同するしかなかった。


四日目。

布団を、できるだけ手の跡のシミの位置から遠ざけ、レイジが畳の部屋で眠った。
腹を裂かれ、逆さ吊りにされる夢を見る。
滴る血は、湖のように広がり、レイジは渇きにうなされた。


五日目。

ワタルが畳の部屋で眠る。
首を切り落とされ、台座の上に並べられる。
意識はあり、嘲笑する亡者のような人間から、ひたすら石で打ちつけられる。
ワタルは、終わらぬ痛みにうなされた。


六日目。

ついにマサトシの番が来た。
うぞうぞ、と、無数の何かが蠢く穴に落とされた。
チクチク、と身を啄まれ、ひりひりとした痛みと共に、身が徐々に削られていく。
全身を何かが、ざわざわと這いまわる嫌悪感と、意識があるまま、身を失っていく恐怖にうなされた。


朝。
三人とも、げっそりしていた。
手のひらの跡は、布団のそばまで来ている。
ビデオカメラに白い人影が這いよるのが、くっきりと映し出されていた。

畳部屋以外でも、不気味な物音が、はっきりと聞こえるようになっていた。
「……イケロ……、テテケ……」と耳元で響く。

耳栓も無駄だった。
既に精神を蝕まれているのだ。

「もうやめよう」ワタルが言った。

「そうだな、これ以上は何が起こるかわかったもんじゃない」
賛同するように、レイジが言った。

「へえ、二人は降参するんだ」
マサトシより先に二人が音を上げたのを見て、つい嬉しくなって、そう言ってしまった。

「ほう、お前は続けるのか。凄いな?」とレイジ。

「マサトシちゃんに、続けられるわけないじゃなーい」と、ワタルが、からかうように言うので、つい「は?別に平気だけど。二人こそ、もう降参なの?初日の威勢の良さはどこに行ったのさ」と、張り合うように返事をしてしまった。

「ああ、降参だ。最近、寝つきが悪いせいで部活に支障が出ているんだ。俺は降りるぜ」と、レイジが真面目な顔つきで言い、部屋を出ていった。

「僕もだよ。全然、勉強に集中ができないんだ。このままじゃ成績が落ちてしまう。目指すならトップを目指したいからさ、ここで降りさせてもらうよ。十万円は、全部君にあげるから、頑張るといい。ああ、カメラは回しておいてね。今日で、あの白い影が到達するだろう」
そう、ドライに言い放つと、同じく部屋を出ていった。

しまった。

マサトシは、逃げるタイミングを見失ってしまった。
それどころか、強気に出てしまったせいで、やり遂げる他、道がない。
あの二人に負けたくは、なかったのだ。

二人がいなくなった薄ら寒い部屋で、途方に暮れた。


その日の夜。
本当に二人は、やってこなかった。

スマホで、軽快な音楽をかき鳴らすものの、気分は盛り上がらず耳を素通りしていった。
ゲームで気を紛らわせようとしたが、全く集中できず、聴覚ばかりが鋭くなっていく。

ミシ……ガリ……と、些細な物音にも反応する。
もうだめだ。
十分頑張ったではないか、もう逃げよう。
そして、二人に謝るのだ。

時刻は、午後十一時の時を告げようとしていた。


その時。

バンッ、と玄関の扉が乱暴に開く。
マサトシは思わず身構えたが、……レイジとワタルだった。

「お前を一人にするわけないじゃないか」と、レイジ。

「君一人に、十万円持っていかれるのも癪だしね」と、ワタル。

マサトシは、見捨てられなかった事が嬉しくて泣いた。

「ほら、泣いていただろ。俺の勝ちだ」

「嘘でしょ、高校生にもなって泣かないでよ」

二人は、どうやら賭けをしていたらしい。

「ごめん、やっぱ怖くて無理だった」
マサトシは、素直に謝った。

「そんな事だろうと思ったよ。今日は、このフローリングの部屋で三人一緒に寝ようじゃないか。そもそも、畳部屋で寝るルールなんてないんだからさ」と、ワタルがウインクしながら言った。

「そうだ、そうだ」と、レイジが布団を敷いている。

レイジは、どんな窮地に立たされても、決して仲間を見捨てない。

ワタルは、もっと勉強に時間を割きたいだろうに、仲間と遊ぶ時間を優先してくれる。

二人の友情が、身に染みていた。
三人で晴れやかに明日の朝を迎えよう、マサトシはそう決心した。


深夜。
三人は眠れずにいた。

怖いからというより、物音が凄いのだ。
呻き声に至っては、もう群衆のような騒めきになっていた。

ドンドンドン、と壁を叩く音。

きぃ、きぃ、となにかを引っ掻く音、そのような音が頻繁に聞こえてくるのだ。

三人は、身を寄せ合っていた。

その時だ。畳部屋の扉が勢いよく開いた。

「ひい」と思わず声を上げた。

白い、影のような男性がこちらに這いよってくる。
誰も動くことができなかった。

男性の顔が、マサトシの眼前に来た。

「……はやく逃げろ。出ていけ」
マサトシの肩を、きつく掴みながら男性は言った。
恐怖で動くことができない。
横にいるワタルとレイジの方へ手を伸ばそうとしたが、何故か空を切る。

「何故、お前は忠告を聞かないんだ。六つの晩で悪夢を見ただろう。あれが、この場所に魅入られた者の末路だ。ここで七つの晩を越すと、『ホロメキ』に食われるぞ。この場所は、あらゆる怨念の吹き溜まりだ。辻にある、この場所に自ずと怨念が溜まる様になっている。そんな吹き溜まりを餌場にしているのが『ホロメキ』なんだ」

「そんなことを言われても、動けな……」

そう言いかけたマサトシの頭を、何かが、ガシッと掴んだ。

「ああ……もう遅い。ホロメキが来た。私と息子はホロメキに食われたくなくて自ら命を絶った。ホロメキに食われたものは、無数の怨念に取り込まれる。永遠の苦しみから抜け出すことが、できなくなるんだ」

バキッ、と鈍い音が聞こえる。

それが、自身の首のへし折れる音だと気付く間もなく、マサトシは深淵に引きづりこまれていった。

残ったのは、闇と静寂のみだった。



某日。
楓ノ辻荘の周りに、数台のパトカーが止まっている。

「ここが現場ですか」と、若い刑事が言った。

「そうだな。ここに、行方不明の田中正俊が泊まったことは確かだ」年配の刑事が答えた。

「妙な話です。正俊君は、友人たちと共に肝試しする為に、楓ノ辻荘に泊まると言ったのでしょう。しかし、友人たちは知らないと言う。最近連絡が取れないと、最初に気が付いたのも友人たちです。何故、正俊君は両親に嘘をついてまで、こんな廃墟で一人で寝泊まりしたのでしょうね」

楓ノ辻荘は、一目見ればわかる通り朽ち落ちそうな廃墟だ。
所有者不明のまま放棄されている。
階段も通路も錆びていて、とてもじゃないが足を踏み入れたいとは思えない有様だ。

「最近の若いもんの考えることは、わからんよ。残された菓子の残骸や、本人所有のゲーム機で、ここにいたのは確認が取れたが、……正気なら、こんな廃墟に寝泊まりしようなんて思わんよ」

「なんでも、『若いもん』で片づけるのは悪い癖ですよ」
若い刑事が、にこやかに言った。

「さて、ここにいても、これ以上得るものはない。近所の聞き込みに行くぞ。状況から推測して誘拐の線もある」

「そうですね、次行きましょう。なんだか見ているだけで、気分の悪くなる建物です」
そう、若い刑事は言ったが、つい振り返ってしまう。

誰かが……自分を呼んでいる。
そんな気がしていた。
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