第1部

文字数 1,660文字

 なんだばかやろう。これ程までに、勇気と希望と、”やる気・元気・あと一個なんだっけ?” まぁ、その他諸々を私に与えてくれる言葉があるだろうか。無い。

 私と、なんだばかやろう。との出会いは本当に偶然だった。いや、それは全てが仕組まれた運命だったのかもしれない。ある晩、宿題を終えた私がリビングに入ると、そこには誰もいなかった。電気はついたまま、つけっ放しのテレビだけがその場を虚しく賑やかしていた。父は結構前から食後のウォーキング。ってことは、さっきお風呂に入った母の仕業だな。って、ただそう思っただけだった。

 映っていたのは、懐かしのバラエティ特集とかいうやつで。古くて、ちょっとぼやけたみたいな画面の中で、五人のおじさんが仲良く喧嘩でもするみたいに、忙しくテレビの中を動き回っていた。だけど、私は特に興味なし。リモコンを手に取り電源ボタンを押そうとしたまさにその時だった!

 突然、画面はひとりの四角いおじさんのアップになって。その怒りも悲しみも憤りも超越したような、それでいて強烈に何かを訴えかけるような静かな力を秘めた眼差しを前に、私は口半開きで、金縛りにあったように身動きが取れずになって。そしておじさんは、その眼差しを言霊にしたみたいに、つっけんどんに言った。なんだばかやろう。

 衝撃だった。唖然とした。この四角いおじさんは、なんの罪のない私に向かって、なんて酷いことを言うんだろう。胸が痛かった。だけど、それは心を撃ち抜かれた跡だったのだとすぐに気がついて、途端に、胸がすくような気持ちに変化したのだ。どこから見てるのか検討もつかない、テレビの中にいる大勢のおばさんの下品な大爆笑が渦巻いている。カオス。本当にとんでもないもの見てしまったと思って。その夜はうまく眠れなかったことを今でも思い出す。

 そして、一夜明け、目覚めとともに驚愕した。なんだばかやろう。のこと、全然忘れてなくて。それどころか、撃ち抜かれた衝撃が全身に染み渡り、すでに馴染んでしまっていることに。その時、私はこの言葉と一生を添い遂げるんだと固く心に誓った。なんだばかやろう記念日。この日にするのか、前の日にするのか確かに迷うところ。

 さておいて。それからというもの、私はことあるごとに、それを言わずにはいられなくなっていた。お前の髪型、美術の教科書に載ってるおばさんみたいな女の絵と一緒だな。なんだばかやろう。成長した時のこと考えて、ちょっと大きめな制服買ったのに、ずっとブカブカなままじゃない。なんだばかやろう。皆さんが静かになるまで2分15秒かかりました。なんだばかやろう。

 今まで黙って抱え込んできた小さな不満や不安も全て吹き飛ぶ、この不思議。朝の集会で、毎度毎度いやみったらしく捨て台詞を吐く、私が活動するフィールド上でのラスボス的存在、校長先生をも簡単に撃破できる。なんだばかやろう。さえあれば私は無敵なんだと思った。口癖?いやいや。好きな言葉?ご冗談を。座右の銘?まだぬるい。ライフワーク?近づいてきた。存在価値!もはや私自身!なんと表現されても私はそれに応える自信があった。

 ただひとつ問題があるならば。私は一度もこの言葉を口に出したことが無い。生まれながらに自然と人を遠ざけちゃうような、ムスッとした表情で心の中で呟くだけ。言いたい。いつか言いたい。いや、すぐにでも言いたい。私の周りにある、なんだばかやろう案件を一掃して、私が最強であることを世に知らしめたい!

 目を閉じてあの日の光景を蘇らせる。何を乗り越えたら、あんな眼差しを持てるんだろう。そこら辺にいる、いかにもなおじさんが声を荒げて言うそれとは明らかに次元が違う。あれじゃなきゃ意味がないんだよ。四角いおじさん。もはや羨望。いや崇拝。何を言われてもろくに言い返すことができない。そんな過去の積み重ねが今の私に重くのしかかっているとでも言うのか。なんだばかやろう。って私に言っても何も始まらない。ねぇ、四角いおじさん。あなたは今、どこから私を見守っているんだろうか。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み