第1話

文字数 12,901文字

真っすぐに少女が僕に微笑む。
「あっ、大丈夫?」ハルは少女にかけよると、すぐさま車いすを立て直し彼女をそっと抱き上げた。
「大丈夫だよ~」明るく微笑む表情にハルは安堵した。同時に思っていたよりも軽い、その体重に何だか悲しくなった。

初夏の光が病棟に差し込む。ハルはその光にあえて立ち向かうように眼差しをむけた。
「眩しい」ふと口を飛び出した言葉に由紀は再び笑って二回りほどちがうハルを見上げた。

「もう、そろそろ車いすに下ろしてください!」由紀はすこしおどけてみせると、空から差し込む光に負けない屈託のない笑顔でハルを真っすぐに見た。
「ごめんごめん、そうだよな。こんなおじさんにいつまでも抱っこされているなんて嫌だよな」ハルは指先から抜けていく体温に再び悲しさを覚えた。
由紀はしっくりくる車いすに安堵し座ると、ピンクのパジャマについた芝生を丁寧に払った。ハルは初夏とはいえ、長時間、由紀を外気にあててしまうことを懸念し、少し足早に車いすを病棟に向かっておした。ハルの左右の両足と車いすの小さな4つの駒がくるくる回る。
「いけ~!」由紀は大きな声でハルを応援する。
「あんまりスピードはだせないよ」ハルは少し遠くから聞こえる小学生の下校の声達に一瞬びくっとした。2秒ほど早めの鼓動が血液を脈打つ。「どうか由紀がきづきませんように」こんな小さな小さな願いを込めて4つの小さな駒に視界を落とす。
「ねえ、ハル」由紀は突然はなしかけてきた。
「うん?」ハルのTシャツについているワッペンが風に舞う。
「私も小学校いけるかな」由紀は少し寂しそうにつぶやいた。
一瞬、ワッペンの「院内ボランティア」のマジックの文字が揺れる。
同時に由紀の病室にピンクのランドセルが使用されないまま出番をまっているのを思い出した。もう3年もつかわれていないランドセル。いつもピンクが一番きれいにみえるようにと色あせを心配する周囲の意見を無視して窓際においていた。時にはその窓際がまるで演劇のワンステージのように見えることもあった。
ハルは呼吸を2秒整えると、「きっと、いけるさ」そういうだけで精いっぱいだった。
病状を詳しくしっているわけでもない。ただの院内ボランティアとして由紀の担当になってまだ1年。それでも、素人目で分かる速度で由紀の体調は悪化していた。
「そうだね。きっといけるよね」由紀はそういうと、少し震えた。
「寒い?」ハルと4つの駒は速度をあげた。
「ううん、大丈夫」由紀はハルに言葉を発しながら、目線は遠くの声に向かっていた。

ハルの心に淡くにじむブルー。走馬灯のようにハルの心の駒が回る。
自分は学校にいける体だったにも関わらず、中学からいかなかった。周囲は「不登校」だと騒いだ。ハル自身何も悪いことをしているわけではないのに、周囲から見られる視線の色が変わった。ハルの家族は世間で言われるエリート一家だった。父は医師、母は教師、兄も父を次いで医師になった。「僕は・・・」胸をえぐられる。得体のしれない何かが「僕」をしめつける。自室に閉じこもるようになるまでに時間はかからなかった。かといって、自室ですることといえば、ゲームでも読書でもなく、ただ昼に寝て夜になると部屋の窓から外をながめる、ただこれだけ。でもハルにとって、毎日の風景は確かに違っていた。月の形も風の空気感も自分の今日の生きている感触も。いつしか、友達は空にそっと浮かぶ「月」だけになっていた。
「ねえ、ハルのことどうする?一度専門のお医者様にみてもらったほうが・・・」聞きたくもない言葉が自室の隙間から聞こえる。
「何をいっているんだ、俺は医者だぞ。俺が恥をかくじゃないか。お前だって教師なんだから自分の子供が不登校だなんて言えないだろ」
外の窓にこちらに向かってくる青年が視界に入る。
立派な表札が飾られている玄関のドアがあく。
「あら、おかえり」2人は「これこそ我が子」という素振りで兄を迎える。
「勉強はどう?もうすぐ医師の国家試験ね」
「一回で受かるんだろうな」父の嬉しそうな声がリビングに響いている。
「あたりまえだろ」まるで3人家族のような家。
いつの間にかハルの話題は消えている。いつものことだった。
でも、リビングに飾られている兄弟の写真はきまってハルも映っているものだった。
6歳違いの弟を兄はかわいがった。しかし、いつしか不登校になった弟を「自分の評価をさげるもの」として扱うようになった、両親の影響はすぐに滲んだ。

人の評価や周囲の視線などという生き物は「人間の感情が牙をむくように」時に残酷であり、人を苦しめる有機物でもある。そして、一番やっかいな事はこれらの有機物の変わり身の早さだ。ハルは真っ暗な空に浮ぶ半月に向かって話しかけていた。脳裏には実際に裏切られた近い過去が存在する。小学校時代は兄を超すほどの成績で、野球をしていたこともあり将来を期待されていた。別にその有機物が「重荷」だったわけではない。そんな言い訳を月に背負ってもらいたい気分を感じると、少し冷静になれた気がした。何度も聞かれた「不登校の理由」。ハルにはこの「理由の意味・意図」が本当にわからなかった。どうして社会生活に画一的に、まるで画用紙に入りきらない「絵」は不必要とばかりにはじかれてしまうのだろうか。そんな疑問が逆に思春期のハルを襲っていた。両親には申訳ない気も確かに存在した。何度も学校の話し合いに行き、夫婦で喧嘩し、大声がするたびに「自分のせい」だと思っていた。自分の存在がわからなくなった。「このままでいいのか、いいわけがないよな」そんな自問自答を繰り返した。そんなハルに「変化月」は付き合ってくれた。ハルにとって社会は広かった。決していじめられていたわけではない。「だのに・・・」形はいつしか「引きこもり」と言われる状態に変貌していった。家族がいない時間にこっそり台所にもぐりこみ、母がつくっておいてくれた食材を温める。そしてそれを食す。そして睡眠をとり、排泄する。家族が寝静まった頃に起床し、窓の外の人・時間・空間・風・空・人生を眺める。いつしかその行為はまるで研究家のように小さなメモにつづられていった。
「ねえ、お月さま、君なら知ってるよね。人はどこからきてどこにいっちゃうの?」
「いじわるだね。決して君は言葉を発してくれない。でも、僕に光を色彩を変えて与えてくれる。ありがとう」
こんなやり取りをするうちにハルは窓越しではなくもっともと「月」に近づきたくなった。
一度だけ、自宅の屋根に上り、飛ぼうとしたことがある。なんだか「飛べる」確信がハルの心をまとったのだ。もしかしたら「飛ぶ」ことは上にではなく下にだったのかもしれない、ハル自身も真相は未だに不明だった。ただ、ハルの環境を大きく左右したことといえば、大好きな祖父の死だった。祖父はハルをわが子のようにかわいがってくれた。もしかしたらハルの心の奥を読み取っていたのかもしれない。祖父はよくハルと一緒に公園のベンチに座り「ハル、人はな、生きているだけで十分なんだ。役割を担っているんだよ」と幼いハルに難しい言葉を発した。そしておきまりの、大きな右手で頭をなでてくれた。そんな祖父を火葬した瞬間にハルの中で何かが崩れたのだ。大切な人が燃やされてしまう。熱い熱い火にさらされて。隙間からにおう「人を焼いているにおい」。ハルは嘔吐しそうになった。同時に「人」の生き方を何故だか無駄に思えて、悲しくおもえて放棄してしまった。こんな話は家族にはできなかった。弱虫と思われるのが嫌だったのかもしれないが、簡単に考えられるのがくやしかった。唯一、親友の空の光には「内緒だよ」と話をしていた。こんな人生を放棄した自分がどう存在していいのか、ハルにはわからなかった。中学をほとんどいかずに卒業し、通信制の高校に無理やり進むように強制されたが想定内の中退。いつしか家族は、腫物にさわるようにハルに接するようになった。そんな月日が年単位で過ぎてゆく。桜の花びらが夜の窓に張り付いているのを見つけるたびにハルはそっと押し花風にして保存していた。
「じいちゃん・・・」ふいに口をつく言葉。「会いたいよ」「それと、ごめん」こんな思いがハルを突き上げる。

そんな月日のある日、母親の病気が判明した。大事にはいたらないものの、入院が必要だった。入院時の母の身の回りの世話を、時間のあるだろうハルが「仕方なく」任されることになった。ハルには痛いほど、この「仕方なさ」の意味が突き刺さっていた。母の洗濯物を運ぶ毎日。なんだか「仕方なさ」に悲しい自分と、久しぶりの役割に照れる自分と、浦島太郎のような世間の変わりように時の流れを感じた。
母の入院している近所の「森の丘中央病院」、そんなに新しくはないものの、この地域では唯一の大きな病院だった。外来に行き交う人たち。視線が合わないように気をつかう。だのに、なんだかみんなに見られている気がしてならなかった。ハルの猫背は一層猫背になった。
ここの玄関に来るのももう数回目。ハルは洗濯物をいつものように大き目の紙袋にいれ、ナースステーション前にきた。ナースステーションでは「今」を精一杯生きている、「社会」での役割をしっかり担っているキラキラした看護師たちの姿がみえる。「自分とはやっぱり違う・・・」ハルの浦島太郎気分はいつしか「恥ずかしさ」に変わっていた。小さな声で、母の名前を口に出す。お決まりの「えっ?」と聞き返される対応。猫背は遠目で見れば「まるで猫」のように丸まっていた。赤らむ顔を必死で冷やし、「やっぱりこの世では生きていけないな」なんて打ちひしがれていると、足元に小さなぬいぐるみが転がってきた。
「お兄ちゃん、ごめん~それとって」笑顔の素敵な少女が車いすで駆け寄ってくる。
「一人?」
「うん、大丈夫。ほら」車いすを自由にあやつる得意げな表情が光っていた。
「ありがとう」そういうと少女は「小児科」と書かれている看板の廊下を車いすでスイスイと歩んでいった。小児科の看板の横に緑色の画用紙が大きく飾られていた。「小児科では夏祭りボランティアを募集しています」、ハルは気にも止めずに先ほどまで座っていたソファーに戻った。ぬいぐるみを拾った手、少女と触れた右手がなんだかドキドキしている。久しぶりに人と関わった気がした。
相変わらず、ナースステーションに現れた母は「もうすぐ退院だから、ハルもそろそろバイトでも探したら?」と母としてのありきたりな無機物な言葉をかけてきた。自分のことを思って発していないことは痛いくらい感じられた。
「うん」ハルは感情のないことばを返した。

小児科病棟からは子供の賑やかな声がきこえる。どうやら今日はイベントをしているらしかった。透明のドアを少しのぞいてハルは少女を確かめようとしたがそこには少女の姿はなかった。

「由紀、いつも一人で時間をつぶしているけど、大丈夫なの?」由紀の母親が心配そうに話しかける。
「入院してもう2年近くたつわね、ごめんね、まだもう少しかかりそう・・・そうだ、だれかボランティアさんに来てもらって、時々体調がいいときに相手してもらうのはどう?由紀」
「いらない」由紀はぬいぐるみを抱きながら、ぬいぐるみとママゴトのような事を始めた。
個室の窓にはピンクのランドセルが少しだけ色あせているのがみえる。

由紀の幼いながらの現実逃避の方法をしっている母親はそっと、病室をでていった。
窓からはまるで黄色いレモンのような光が差し込む。由紀はそっと話しかける。
「ねえ、私、このまま背負えないのかな・・・」目線の先には舞台の主人公が輝いている。
「ねえ、私、このままどうなっちゃうのかな・・・」目線の先の主人公の色が少しコーラル色に変わる。小さな背中に体中の体温が集まるのがわかる。一粒一粒のながれ落ちる水滴が感情を背負ってゆっくりと頬を伝う。

「トントン、由紀ちゃんいる?そろそろ体温図ろうか」、一瞬光とナース服の白が眩しく交差して由紀は凝視することができなかった。
「うん」とりあえずの、ありきたりの返事を返す。
「36.4だね。問題なし」少し年齢の離れたお姉さんはそういうと由紀の頭をなでた。
「それとね、」いつもの由紀の反応を察知するように看護師は体温計に消毒をつけながらはなしはじめた。
「今度、夏祭りがあるんだけど、是非今年の夏まつりには由紀ちゃんにも参加してもらえないかなっておもって」
「どうして?」由紀は素直に返答を返す。
「う~ん。気晴らしになるかなって・・・」少し言葉を濁す年上の女性。
「それって、必要?」由紀の目線はすでにもう彼女には向いていなかった。
「お母さんも同じようなことをいうんだ。でも、私は、私はね、学校にいきたいの。それでね、みんなで遊びたいの。みんなと勉強したいの。みんなと話がしたいの。みんなと・・・」
ここで、ようやく小さな少女を追い込んでいる自分に気が付いた白衣は少し口角をあげて、ゆっくりうなづいて部屋をでていった。

沢山の「何か」を背負った水滴が再びゆっくりと滴る・・・
「どうして、どうして、どうして、私は普通のことを望んでいるだけなのに、その普通がこんなに難しいの!!神様」泣きつかれた由紀は久々に深い眠りについた。

外が暗くなってから「おはよう」の挨拶を「月」にする。ハルの日常も最近は母の入院でリズムが崩れそうになっている。でも、どこかでその先を期待している自分もいた。居心地の悪さを感じながらもハルは明日の予定を確認する。自分に「予定」なんてものができたのは何年振りだろうか。予定といえば見栄えはいいが、ただ単に母の病院に洗濯物の送迎をする、それだけのこと。自転車が明日も使われるだろう自分を期待しているように感じて、なんだか嫌気がさした。人が苦手で、できるだけ人を避けてきた自分。いつもいつもうまくいない「人」との関係。「どうして、どうして、どうして、ただ自分は普通に人と会話したいだけなのに。ただ自分は普通に社会に適応したいだけなのに」いつもよりも一層光っているように見える月が唯一自分の居場所を作ってくれた。「月って、黄色い・・・」ハルは自分の位置とは違う存在である、空高くを真っすぐにみつめた。青い自転車が視界に入らないように。
「眩しい」ハルの右腕が咄嗟に視界を覆う。「よう!」まるでこんな声を青い自転車にかけられているようで照れくさい。そんな気持ちを押し殺すように、母の洗濯物の入った紙袋を前籠に入れ自転車にまたがると、まっすぐ以外は見ないようにハルはペダルを全力でこいだ。登り坂で立ちこぎをする。息が上がる。
「はあ、はあ、はー」少し高いところから下を見下ろす。
なんだか自分が少しだけ「月」になれた気がした。
「よし、つぎは下りだー」そう大声で叫ぶと、立こぎのまま空回りするペダルを回し続けた。
初夏の空気がなんだか冷たい。
そして、生きている。
肺に過去を取りもどすかのうな新鮮な空気を一杯一杯吸い込む。
「うっ」一瞬、苦しくなる。
「は~」一気に息を吐く。
いつしか青い自転車からの期待も受け入れられていた自分に気が付いた。

病院の玄関はいつでも人であふれている。
ハルは背骨を丸めて、自分の靴に視線をフォーカスする。精いっぱいな本当の自分に瞬時にもどる。
少し前までの自分が無性に恥ずかしくなった。
いつものようにナースステーションで声を発する。聞き返されることにはもう慣れっこだった。同じセリフを2回いう。
「少しお待ちくださいね」先方の声は毎回1回でしっかりと響き渡る。
ハルはうなづくと、ソファーに座った。こだわりのいつもの位置。
ハルはまるでひなたぼっこをしている猫のよう。
「お兄ちゃん!」どこからか声が聞こえる。
自分に声をかける人などいないことは自分が一番よく知っている。
ハルは一層背中を丸めた。
「お兄ちゃん!」その声はどんどん近づいてくる。
ほんの少し視線をあげてみた。
そこにはまるで天使のような笑顔があった。
「この前の、お兄ちゃんだよね?」少女はそういうと、手を差し出してきた。
「うん・・」ハルは精一杯の声で対応すると無意識に彼女の手を握り返していた。
「冷たい!」少女はそういうと笑った。
「ごめん」ハルも笑った。

2人の人生の交差が始まる。人の人生の交差はいつ、どう始まるのかなんて誰にも分らない。
でも、人は生きている以上、確実に人の人生軸と交差する瞬間は確実にあるもの。

「由紀~」どこからか少女を探す声がきこえる。
ハルはすぐに察すると「呼んでるんじゃない?」と少女の靴に話しかけた。
少女は顔を車いすの下部に落とし、ハルの視界に入ろうとしてきた。
ハルはすぐに視線を上にあげた。
「お兄ちゃん、恥ずかしいの?」少女はまた笑った。
ハルもなんだか笑えた。
「由紀、探したのよ。小児科病棟から出るときは言ってくれないと」母親らしき細身の女性は少し興奮気味にそういった。
「ごめんごめん。ふとお兄ちゃんが見えたから」そういうと、由紀はハルをみた。
「お兄ちゃん?」不思議そうにのぞきこむ女性。
ハルの精神状態は崩壊しそうだった。月に助けてほしかった。
「お兄ちゃんは恥ずかしがりやだから、話しかけないで!」由紀が守ってくれた。
由紀はそっとハルの手にふれた。「大丈夫だよ」。
「お母さん、戻るよ」由紀はそういうと、車いすを動かし始めた。
「あっ、お母さん!このお兄ちゃんだったら時々話にきてほしい。ほかの人じゃ嫌。」そういうと由紀は鼻歌を歌いながら小児科病棟に車いすをこいで少しづつ小さくなっていった。
ハルの視線からも消えてなくなりそうな由紀。ハルはさっきの手の温かさをまだずっと感じていた。自分でも、人が怖い自分なのに、僕は少女と話がしたい、純粋にそう思った。僕を小さな体で庇ってくれた少女。恥ずかしさよりも数倍、嬉しさが勝っていた。
「あの、、もしよかったら由紀のボランティアになってもらえませんでしょうか?急にすいません。あの子はこの病院から出れることは恐らく無いと思います・・・。少しでも時間を守ってあげたい」母親はハルよりもうつむいていた。いつしかハルは顔を少しあげていることに気が付いた。「週に1回でも、月に1回でも、30分でも1時間でもいいんです。私や病院の人以外の人と関わらせてあげたい、小さな社会かもしれないけど、あの子に味わせてあげたいんです」母親はいつしか顔をまっすぐあげてハルをみていた。ハルは再び猫背になると自分の安心の位置である靴に視線を落とした。この場所が自分の人生の位置。嫌なほどそれを自分にいいきかせた。早く、頭上をあげ「月」をみたかった。聞いてほしかった。そんな感情がばれないようにハルは早くこの場から逃げたくて曖昧な返事をした。「はい・・・」。
「ありがとうございます。由紀が心を許すひとがいるなんて思わなくて、初対面で名前もしらないうちにこんなお願いをすいません」そういうと深々と頭を下げ、女性はつづけた。「早速なんですが、今度夏祭りがあるんです。何回誘っても、誰が誘っても由紀は行かない、の一点張りで。夏祭りは2週間後水曜です。どうか、当日よろしくおねがいします。最後にお名前を聞かせてもらえますか?」覗き込まれている感覚に過去がグルグル回る。ハルは急いで立ち上がると「ハル」そういうとその場から逃げてしまった。ソファーに残る洗濯物の紙袋がポツんと残されている。
青い自転車が悲鳴をあげる。
ペダルが空回りする。早く、早く、早く、ハルは隠れたくて身を隠したくて自室に急いだ。
薄暗い夕日が差し込む。
慌ててカーテンをしめる。
やっぱり自分にはこの世界は眩しすぎる。そう思えてならなかった。

その夜ハルは月といつものように話をした。日に日に形が少し違う月。ハルにはそれが鮮明にわかる。
「君も今日は、少しいつもと違うね」そんな返答のない会話を今日もくりかえす。
「僕は正直、今日はうれしかったんだ。でも、正直、怖いんだよ」
「君はいいね、いつも高い高い場所から自信満々に周囲を見渡せて。羨ましいよ。」そういう手元のホットコーヒーが波打った。
「みんなが、君みたいに大きくて、それでいて光があって、すべて受け入れてくれて、でも言葉を知らない存在だったらいいな」
いつもとは少し違うハルに月は微笑んだ。
赤いペンで6月末の水曜日に丸をつけた。高ぶる気持ちのぶんを少し大きめに。だれも気付かない気持ちの丈。でもハルの何かが少し音を立てていた。

あっという間の2週間という時間。
母も前回の洗濯物の送迎後すぐに退院してしまった。それからはすっかり前の生活の日常がハルを満足させようとしていた。もうあの病院にも、あの少女にも会うことはないと思っていた。でも、カレンダーの印が明日を知らせてくる。
行きたい、会いたい、話したい、でも。
怖い、苦しい、でも。
久々に「月」とは会わないとハルは決めた、自分で決断をしようと真っ暗な部屋のカテーンを閉めた。

その日は朝から暑かった。ハルは無言の青い自転車にまたがるとゆっくりとペダルをこぎはじめた。ゆっくり、ゆっくりと時間が過ぎるのをまつかのように、いや、間に合うように少女のもとへ向かった。
肺が新鮮な空気を嫌悪するのがわかる。引き返そうか、いや、、、。逃げてしまおうか、いや、、、。
成人式も終えたと思えない幼子のような葛藤。
総合病院が視界に入る。小児科だけのイベントだからだろうか、特にいつもと変わったところはなかった。鼓動が高鳴る。遠くに赤いカーディガンを羽織って車いすにのっている少女がこちらに向かって手を振っているのがみえる。思わず、視線を自らの足に落とす。いや、ハルは少女をみた。
車いすの後ろに母親がいることには気づかなかった。
だからまっすぐ見れたのかもしれない。
「お兄ちゃん!来てくれたんだ」少女は満面の笑みを浮かべる。
ハルはいつもの猫背を患いながら「うん」と精一杯の返答をする。
「すいません、ありがとうございます」母親が挨拶する。

「ボランティアの方はこちらで記名お願いします」ナースステーションに声が響く。
ハルのゆったりとした足の歩みに由紀の車いすの駒は「急げ」というように声をかけながら「カタカタ」音を立てる。
「ボランティアの方ですね?お名前は?」夏祭りのイベント主催者とかかれた小さな受付の中にいる年配の女性が声をかけてくる。ハルはカラカラの喉と、緊張で声が震える。
「お兄ちゃんはね、お兄ちゃんでいいんだよ。」由紀が言葉を挟む。
「お兄ちゃん?」受付の人の疑問符な表情がハルをまた猫背にさせる。
逃げたい・怖い・やっぱり自分のいるべき場所はここじゃない・・・そんなハルに由紀はペンと名札を差し出した。
「ここにかいたらいいんだよ、それだけだから、大丈夫だよ」車いすの由紀の顔が精一杯お猫背のハルの視界に入る。なんだか「月」に微笑んでもらえた気がした。
「うん」ハルは震える手でしっかりとボランティアの名札に自分の名前を書いた。
「お兄ちゃんの名前はいつ聞いても良い名前だね」由紀がこっちをみている。
「由紀ちゃんもいい名前だよ」小さな小さな2人にしか聞こえない声でハルは話した。
由紀はききかえすこともなく「ありがと」と一言そういうと、「さあ、いこう!出発~」と右腕を大きく頭上に挙げた。

普通の世界、いや、院内の時点で普通じゃないのかもしれない。でも、少なくてもハルには普通の世界に感じた。抱いたことのない「普通」の世界での居心地の良さ。こんな世界がこの世に存在していたことに驚いた。自分も存在していてもいいのかもしれない、そう本当に思った。
「ねえ、お兄ちゃん、次はあの店にいってみようよ。」
「ねえ、ハル・・・」いつしか由紀は「ハル」と呼ぶようになっていた。
「ん?何?由紀ちゃん」ハルの心の中にも自然と人との関係性が創作されていた。

明るい音楽が響く。いつもの病棟が今日は病棟にみえない。楽しい時間はすぐに終わるものだということを「言葉」ではなく初めて実感した気がした。

「ねえ、ハル、またきてくれる?」
「うん・・・」ハルは今度は曖昧ではなくしっかりと意思をもって答えた。
「ところでさ、なんでハルは働いていないの?」まっすぐな由紀の声がぼやけてきこえる。
「学校は?」由紀の声がきこえない。いや、聞きたくないから逃避していることは今までも自分が一番しっている。
「由紀はね、夢があるの。それは・・・内緒」そういうと由紀は車いすの上で少し体を浮かして飛び跳ねた。
「ちょっと、きて」そういうと由紀は自分の病室に案内した。
窓の光が眩しい。思わず右腕で視界を覆う。
目が慣れた頃に見えたのは、車いすに乗る由紀と腕に抱かれたピンクのランドセル。
「いつかね、いつか、私はこれを背負って、学校にいくの。みんなと同じようにね」少し得意げな由紀にハルは少し笑えた。
「どうして笑うの?」由紀は機嫌を損ねる。
「ちがうんだ、あまりに由紀がかわいくて」ハルは笑った。
「ハル、笑った~」由紀は大好きなハルの笑顔に声を上げて喜んだ。

毎月、1回由紀のボランティアとして話をしたり、散歩をしたり、時間を共有した。
2人の凸凹はいつしか2人にとって必要な凸凹になっていった。

真っすぐに少女が僕に微笑む。
「あっ、大丈夫?」ハルは少女にかけよると、すぐさま車いすを立て直し彼女をそっと抱き上げた。
「大丈夫だよ~」明るく微笑む表情にハルは安堵した。同時に思っていたよりも軽い、その体重に何だか悲しくなった。

初夏の光が病棟に差し込む。ハルはその光にあえて立ち向かうように眼差しをむけた。
「眩しい」ふと口を飛び出した言葉に由紀は再び笑って二回りほどちがうハルを見上げた。

「もう、そろそろ車いすに下ろしてください!」由紀はすこしおどけてみせると、空から差し込む光に負けない屈託のない笑顔でハルを真っすぐに見た。
「ごめんごめん、そうだよな。こんなおじさんにいつまでも抱っこされているなんて嫌だよな」ハルは指先から抜けていく体温に再び悲しさを覚えた。
由紀はしっくりくる車いすに安堵し座ると、ピンクのパジャマについた芝生を丁寧に払った。ハルは初夏とはいえ、長時間、由紀を外気にあててしまうことを懸念し、少し足早に車いすを病棟に向かっておした。ハルの左右の両足と車いすの小さな4つの駒がくるくる回る。
「いけ~!」由紀は大きな声でハルを応援する。
「あんまりスピードはだせないよ」ハルは少し遠くから聞こえる小学生の下校の声達に一瞬びくっとした。2秒ほど早めの鼓動が血液を脈打つ。「どうか由紀がきづきませんように」こんな小さな小さな願いを込めて4つの小さな駒に視界を落とす。
「ねえ、ハル」由紀は突然はなしかけてきた。
「うん?」ハルのTシャツについているワッペンが風に舞う。
「私も小学校いけるかな」由紀は少し寂しそうにつぶやいた。
一瞬、ワッペンの「院内ボランティア」のマジックの文字が揺れる。

病室に戻ったハルに由紀の母は少し話がしたいといってきた。
静かな診療時間を終えた総合受付。2人は誰もいない大きな待合に腰かけると少し沈黙を共有した。
「あの、由紀のことなんですが、」母親は唐突に話し出した。
「ハルさんには病気について詳しく話をしていなかたんですが・・白血病なんです。先生もいろんな方法で治療をしてくれたんですが、難しくて。たぶん、たぶん、来年は・・・」そういうとレモンの果汁を絞るように一粒一粒に混信の祈りをこめて涙を頬につたわせた。

ハルもどこかでは気づいていた由紀の病状。

病室に戻ったハルに笑顔を見せる由紀。
「お母さん、なんだった?」
「あのさ、由紀の願い事ってなに?」ハルはそういうと自分の心の滴が落ちないように必死にこらえた。
少し考えた由紀は「う~ん、ハルが学校にいくことかな」と茶化して笑った。
「ごめん、ごめん」由紀はそういうと「学校でも仕事でも、そうじゃなくてもいいの。ハルって人見知りでしょ。だから、ハルにとって、ハルらしく生きていけたらいいのになっておもったの。本当だよ。」そういうと珍しくく大人びた横顔で色あせたランドセルをみた。

「そっか」ハルは視線を窓の外にむけた。何かが動いた気がした。

ハルは心に決めたことがあった。
「いつかの月からの卒業」
「ねえ、話さない君、光をありがとう。もう僕は自分であるいていこうとおもうんだ。人がこけないところで、何度もこけることだろう。人がつまづかないところで、何度もつまづくことだろう。人が泣かないところで、僕は何度もなくことだろう。でも、それでも、僕は僕でいい。」そういうとハルは自室のパソコンを久しぶりにあけた。

「君、どんくさいね。」
「すいません」
「君って、この年齢までバイトもしたことなかったの?」
「はい」
ハルはがむしゃらに初めて3日間のバイトをした。
何とかやり遂げたものの、3日が限界だった。情けない、でも、手にした18000円。

ハルは次の由紀と面会で何かプレゼントをこっそり考えていた。
学校にいきたくてもいけない少女、生きたくても生きる事さえ許されない少女。
僕は生きることを離脱したのに、生かされつづける人間。こんな幼い自分と歳の離れた少女にどれだけ救われたことだろう。

「ねえ、ハル、人と違っていいんだよ。人と違うハルがいい。人と違うハルだから私はあなたを選んだ。そんなハルが大好き」由紀は人前で話せない僕にいつもいつもそう言って笑顔をくれた。

そんな由紀に自分は命を差し出すことさえできない。
できることなら命を差し出したい。由紀に生きていってほしい。
由紀ならきっといろんな世界をいろんな色でキラキラしたものを映せるだろう。

ハルは新年をむかえた世間をみながら、由紀の寿命をなぞっていた。
最近は由紀の調子が悪いという理由で月に1回のボランティアにいけないこともあった。
年末年始に人生初めて「働く」ことをしたハルは、早く由紀に報告したかった。

ハルは小学生に人気のかわいいアクセサリーの店があると聞けば、足を運んだ。
でも最終的に由紀へのプレゼントは「ピンクと赤の鉛筆と消しゴム」に決めた。

3月ハルはキャンセルの連絡がなかった由紀のもとをたづねた。
由紀はベッドでまるで人形のように呼吸をしていた。
隣には母親が座っている。
「ハルさん、ごめんなさいね。由紀がどうしても弱っている自分を見せたくないって。年末から急に調子がわるくなって・・・・」
ハルは自分の両手を力一杯握った。

部屋にはピンクのランドセルがなんだか違う色にみえる。
ハルの黒いリュックにある鉛筆がむなしく音を立てる。

数日後という魔物はすぐにやってきた。
ハルのもとに訃報がはいる。ハルは母親に最期の願いを口にした。もう下をむいてなどいない自分が確かにそこにいるのがわかった。
母親は少し考えた後、小さなメモに住所を記した。

ハルはお礼をいうと、ランドセルの中に鉛筆と消しゴムをいれた。そして彼女の背中にそっとピンクを背負わせた。

暗い暗い道に、月のライトが2人を照らす。

「由紀、着いたよ。見えるかい?やっとこれたね。君が通う小学校だよ。ほら。」
ハルはランドセルを背負った由紀をお姫様抱っこしながら、月と少女と話をした。

「僕は僕でいい」
「ありがとう」

一瞬、由紀の目からレモンの匂いがした。


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