第1章 愛を知らない男
文字数 2,067文字
「『運命の女』ってやつに、会ってみたいと思わないか?」
友人の一人が発したその言葉を聞いたとき、テランス・ソワイエはすでにかなりできあがっていて、酔っ払い特有のやけに坐った目線を、テーブルの上のワインのグラスに据えているところだった。
メトロのヴァヴァン駅の正面に位置するカフェ『ラ・ロトンド』は、画家、小説家、劇作家などの芸術家が好んでたむろする店だ。密度の濃い空間には紫煙と喧騒が充満している。狭い間隔で並んだテーブルはほぼ満席で、大勢の客が同時にしゃべり、唾を飛ばし、哄笑しているので店内は割れんばかりの騒々しさだ。
テランスは、テーブルを囲んで座る男たちの顔を、ぼんやりと見回した。
画塾アカデミー時代からの友人。カフェで知り合った友人。集合アトリエ『ラ・リュッシュ(蜂の巣)』にいた頃一緒だった友人。それらの友人の友人など、知り合った経緯も時期もまちまちな連中だが、今のところ「売れない貧乏画家」である、という点で共通している。
いつもこのカフェのこのテーブルで集まってバカ話をする、気のおけない仲間たち。
「運命の女、ね。……ルーヴル美術館の、自分のいちばん好きな絵の前で、知り合いの女の子に偶然出会えたら、それは運命の相手だっていうやつか。何年か前に流行ったよな、そういうジンクス」
テランスは呂律のまわらない舌を苦労して動かしながら言った。
しかし、友人は大きく手を振ってテランスの言葉を否定した。
「違うって! そんなお綺麗な話じゃなくてさ。その女のためならすべてを失ってもいい――破滅しても後悔しない。それぐらい激しくのめり込めるような、いい女に会ってみたいもんだ、って話だよ」
「ナナみたいな」
別の友人がすかさず補足した。
ナナというのはきっと、先日公開されたばかりの映画『女優ナナ』のことを言っているのだ。大勢の男を狂わせ、翻弄し、破滅に追い込む高級娼婦ナナ。あの印象派の巨匠ルノワールの息子が監督し、ルノワールの妻だったカトリーヌ・エスランが主演を務めた点でも話題になっている。
「『運命の女』は知らないけど。『運命の絵』になら、もう出会ってるよ。僕の人生を変えた、すごい絵にね」
テランスは力をこめて叫んだ。
「フレムト・ダンテの『飛翔』。これを超える絵を、僕はいまだかつて見たことがない。十年以上前に初めて出会って以来……僕は覚めない恋をしているんだ、あの絵に。画家になろうと決心したのも、あの絵を見てからさ」
「さ・す・が、『絵バカ』のテランス。女よりも絵かよ」
仲間たちは無遠慮に爆笑した。
「当然だろう? 僕たち絵描きにとって、絵以上に重要なものがあるっていうのか!?」
テランスは心外だという表情を作って、胸を張った。
大きな声を出してみせたが、実際はそれほど興奮しているわけではない。「絵バカ」と呼ばれるのは嫌いではないのだ。むしろ褒め言葉だと思っている。
仲間たちはいっそう大声で笑い転げた。どの顔も、アルコールでてらてらと赤く光っている。
「おまえさ。そんなだと、一生童貞のままで終わるぞ、きっと」
「おまえも少しは生身の人間に興味を持てよ。芸術家に恋はつきものだぞ? 狂おしい情念、不条理な愛着……感情的な嵐を何度もくぐり抜けてこそ、人の魂を揺さぶる作品が生み出せるんだ」
「フレムト・ダンテだって晩年は、五十歳も年の離れた少女を愛人にしてたっていうじゃないか。性愛は創作には欠かせないエネルギーだ。ぼんやり風景画ばかり描いてる場合じゃないぜ、テランス」
「風景画ばかり描くことの、どこが悪いんだ。それから、僕は童貞じゃないっ」
テランスは勢いよく立ち上がり、叫んだ。その拍子にぐらりと体が揺れ、仰向けに倒れそうになったので、あわてて椅子の背につかまった。自覚している以上に酔いが回っているらしい。
童貞でないのは、事実だ。
しかし、生身の人間に興味を持てないのも、事実だった。
仲間と思う存分飲んで騒いだ夜の後は、一人の時間がいっそう耐えがたいものに感じられる。酔いで感覚が鈍っていなければ、闇と静寂のあまりの重さに打ちのめされていたことだろう。
テランスがふらつく足取りで住居兼アトリエに帰り着いたとき、時刻は午前二時を回っていた。モンパルナス墓地の南側に建つ白塗りのアパルトマンだ。
灯りをつけると見慣れた光景が目に飛び込んできた。
粗末なベッド。昨年パリを引き上げて郷里へ帰った友人から譲り受けた丸テーブルと二脚のソファ。資料の本を詰め込んだおんぼろの本棚。所狭しと画材が並んでいる作業用の長テーブル。そして壁に沿って立つ二台のイーゼル。
ハブリエル・メツーの『手紙を書く男』。
アドリアーン・ファン・オスターデの『農夫の家』。
どちらも黄金時代のオランダの風俗画家の作品だ。
人気があり、高値で取引されている。貧乏画家が個人で所有できるような絵ではない。
本物であれば。