第1話

文字数 1,986文字

 父が死んだのは私が5つの時だった。父の死後母は朝から晩までスーパーのパートをしながら私を育ててくれた。
 え?じゃあ随分寂しい思いをしたんじゃないかって。とんでもない。
「志保、昨日随分帰りが遅かったんじゃないか?若い娘が午前様なんて……」
「仕事してればいろいろあるの。飲み会も仕事のうちなんだから」
 私はマスカラを塗りながら面倒くさそうに返事をした。
「しかしだな……まさかつ、つ、つ、付き合ってる奴がいるんじゃないだろうな」
「私もう24だよ?彼氏ができたって報告する義務ないし」
「なんだ、その言い方は!」机の上のたわしがカタカタ揺れた。
「それに土曜なのにまたでかけるのか?最近休みに家にいたためしないじゃないか」
「私の勝手でしょ」
「よし!たまにはお父さんを連れて行きなさい!」
 たわしが叫ぶ。寂しい思いなんてとんでもない!そう、何を隠そうこのたわし、私の死んだお父さんなのだ。
「嫌よ。鞄にたわしなんか入れてたら笑われちゃう。大体なんでたわしなのよ」
「仕方ないだろ。父さん、幼いお前をおいて死ぬなんて死んでも死にきれなくて……。たわしなら転生先が空いてるって言うから。志保だって父さんが転生した時は喜んでくれたじゃないか」
 そりゃ私もまだ小さかったから単純に嬉しかったけど。今は……ねえ。
 鏡をポーチにしまうと私は立ち上がった。「待ちなさい、志保!」というお父さんの声が聞えてくるけど知らない。

「しーちゃん?食べないの?」
 名前を呼ばれてハッとした。目の前に置かれるパスタ。そうだ、今はデート中だった。目の前で心配そうに私の顔を覗き込んでるのは菅崎耕太さん、通称耕ちゃん。彼とは付き合ってもうすぐ1年になる。
「どうしたんだよ、今日はボーッとして」
「ごめん」
 私はフォークを手にした。耕ちゃんが「ついてる」とツンツンと自分の頬を指した。
 やだ、恥ずかしい。慌てて化粧ポーチを取り出そうとバックを開けると。
「!う、嘘……!!」
「そんな驚かなくてもいいよ。大丈夫、もう取れたよ」
 耕ちゃんが笑う。
 私は一度閉めたバックのファスナーをそうっと開けた。やっぱり。
(お、お父さん……)
 いつの間にこんなとこにもぐりこんだのよ。
「その男は誰だ!まっぴるまっから男とい、いちゃつくなんて……許さんぞっ!!」
 そう言ってお父さん――たわしは勢いよくバックから飛び出て来た。そしてテーブルの上に乗った。
「たわし?なんでこんな所に……。しーちゃん、たわしが……」
 耕ちゃんが不思議そうにお父さんを見る。
「人の娘をしーちゃんなどと呼ぶなー!!」
 お父さんは耕ちゃんの前に置かれたコーヒーカップ目掛けて転がって行った。
「あちっ!」
 コーヒーがこぼれ、耕ちゃんのシャツにかかる。耕ちゃんは思わず立ち上がった。
「お客様、大丈夫ですか?」
「すみません。こぼしてしまって……」
 気づいた店員さんがダスターを持って近づいて来る。
「もうっ!いい加減にしてよ!!」
 堪え切れず私は叫んだ。信じられない。デートについて来るのだけでも非常識なのにこんな事するなんて。
「ごめん。わざとじゃないんだけど……」
 耕ちゃんがテーブルを拭きながら私を見た。ああ、もう。耕ちゃんに言ったわけじゃないのに。
 いたたまれなくなって私はバックにたわしを突っ込んで外に出た。そしてそのまま人気のない裏路地に入り、たわしを地面に置いた。
「もう私は5歳の私じゃないの!お父さんがいなくたって仕事だって彼氏だって!いい加減放っておいてよ!!」
「志保……」
 たわしから水が出て来た。もう。泣いても知らないからね。
「しーちゃん」
 後ろから耕ちゃんが走って来た。
「ごめん。俺、そそっかしくて……。コーヒーこぼしたくらいであんなに大騒ぎして恥ずかしかったよな」
「違うの。そうじゃなくて……」
「こ、これ渡そうと思って。なかなかチャンスが……」
 耕ちゃんはポケットから何かを取り出した。この箱、私が好きなブランドの……。中を開けるとピアスが入っていた。これ、私が前から欲しいって言ってたヤツ。
「緊張してたんだ。ほら、もうすぐ俺達付き合って1年になるだろ?あっ!指輪はサイズが分からなくて、それに一生物だから気に入ったヤツがいいだろうし。だから……その」
 耕ちゃんは真っ赤になりながら言った。
「結婚してほしいんだ!」
「耕ちゃん……」
 嬉しい。だけど――。私はお父さんをチラリと見た。
「志保を……志保を泣かしたら許さんからな!!」
 お父さんは耕ちゃんにとびかかった。それじゃ許してくれるの?
「えっ?今、たわしが……喋……?いや、そんな事あるわけ、っていうか、痛い。地味に刺さる……なんでたわしが飛んで……??」
「お父さん!ありがとう!!」
「え?じゃあOK……?ってお父さんって?え?え?」
 クエスチョンマークでいっぱいの耕ちゃんごと私はお父さんを抱きしめた。 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み