ウカノミタマ(終)
文字数 2,696文字
食事を終えると、翔は縁側で月明かりを見ながら涼んでいた。
翔の家の周りでは、虫達の鳴き声が聞こえている。
鈴の音のような音を立てながら、秋の夜長を楽しんでいるようだ。そうしている内に、月の夜空の下を散歩したくなった。
そこで翔は立ち上がり、外に出ることにした。
玄関を出ると、外灯が点いているものの、やはり暗い。
それでも翔は怖がることなく、むしろワクワクしながら夜の道を歩いて行く。
田んぼのあぜ道を通り、その先にある土手の上を歩く。
草むらの隙間からバッタが現れ、翔の足元へと跳ねてきた。その瞬間、バッタは一瞬にして姿を消す。まるで忍者のようであった。
そしてまた次の瞬間には、別の所へ姿を現す。
それはまるで、翔のことを誘っているかのようである。
翔は、誘われるがままに歩みを進めていく。
しばらく進むと、そこは田んぼに囲まれた場所に出た。周りには民家は無く、田んぼがあるだけだ。
田んぼでは、カエル達が合唱をしている。
翔は、田んぼの縁に座って耳を傾ける。
すると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「こんばんは」
翔は慌てて振り返った。
すると、そこには見慣れない衣装の女性が立っていた。
着物とは違う。
もっと古い時代。
古墳時代の人々か、神話の神様が着るような衣装、衣裳 姿の美しい女性がいたのだ。
長い黒髪に、大きな瞳が印象的な美女。
その女性は、翔に向かって微笑んだ。
翔は、驚きすぎて言葉が出なかった。
そんな翔を見て、彼女はクスッと笑う。
そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
翔は、思わず後ずさりしてしまった。
だが、彼女は気にする様子もない。それどころか、どんどん距離を詰めてくるのだ。
翔は焦って、そのまま後ろ向きに転んでしまった。
痛くて起き上がれないままでいると、彼女が手を差し伸べてくれた。
翔は彼女の顔を見た。
近くで見ると、ますます美しく見える。
こんな人が本当に存在するのかと思える程だ。
翔が呆けたままでいると、彼女は首を傾げた。
「どうしたの? 次の農士さん?」
その言葉で我に返った翔は、慌てて立ち上がった。
すると、彼女はニッコリ笑ってくれた。
「お姉さんは誰ですか?」
翔は、恐る恐る訊ねてみた。
「私? ウカノミタマ」
すると、その人は笑顔のまま答えてくれる。
【宇迦之御魂神 】
日本神話に登場する女神。
名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神。
また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。現在は穀物の神としてだけでなく、農業の神、商工業の神としても信仰される。
彼女は、刈り終わった田から落穂を手に乗せる。
そこには黄金の実がなっている。
翔は、それを見ていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
「良い実りね」
そう言って微笑む彼女の姿は、とても美しかった。
「はい。家のお祖父ちゃんと、お婆ちゃんが頑張ってくれました!」
翔は嬉しくなり、元気よく返事をした。
すると、彼女は目を細めながら翔を見る。
それから、何かを思い出すかのように口を開いた。
「天照大神は、孫の瓊瓊杵尊 が日本を治めることになった時に『稲作りを通じて、日本がいつまでも平和でゆたかな国であるように』と願い、稲をお授けになったの。瓊瓊杵尊 は、お言葉に従い、土地を耕し、稲を作り、豊かな国をお作りになった」
彼女は翔を見やる。
「神話では日本は瑞々しい稲穂が豊かに実る国という意味で、なんて呼ばれているか知ってる?」
訊かれて翔は分からなかった。
彼女は落穂を、翔に手渡す。
「豊葦原瑞穂国 。これが、日本の呼び名よ。この国は、あなた達のご先祖様が一生懸命作ってくれたの。だから、これからも大切にしてあげてね。私は、ずっと見守っていますから……」
そう言うと、彼女は微笑んだ。
その表情からは、どこか寂しさを感じた。
翔は、なんと言っていいか分からない。
それでも何か言わなければと思った時だった。
突然、突風が吹いた。
翔は驚いて目を閉じる。
次に開けた時には、もう彼女の姿は無かった。
夢でも見ていたのではないかと思うほどに……。
しかし、手元には金色の実が残っていた。
先程の光景が現実であったことを物語っている。
翔は決意する。
もっと勉強をして、立派な大人になろうと。
そして、将来は祖父の手伝いをするのだ。
それが自分の使命なのだと感じた。
翔は、その日見たことは誰にも話さなかった。自分だけの秘密にしておきたかったからだ。
2日かけて稲刈りが終わり、翔は自宅に帰る。
田んぼから見える空は高く澄み渡り、深まる秋の気配が感じられた。
翔は、車の後部座席から、ふと振り返ってみる。
そこには、まだ狩り終わっていない稲が風に揺れていた。
そして、その向こう側には、祖父母の家が見える。
ふとウカノミタマが寂しい表情をしていたのを思い出す。なぜ彼女が、そんな顔をしたのか翔には分からなかったが、後に社会の授業で知ることになる。
それは、日本の食料自給率の低さだ。
日本の食料自給率は年々、低下の一途を辿り、2020年度の食料自給率はついに統計開始以降、最低を記録した。
2022年、ウクライナ危機が勃発し、小麦をはじめとする穀物価格の高騰が増幅され、最近、顕著になってきた食料やその生産資材の調達への不安に拍車をかけている。
ロシアとウクライナで世界の小麦輸出の3割を占める。日本は米国、カナダ、オーストラリアから買っているが、代替国に需要が集中して争奪戦は激化している。
「食料を自給できない人たちは奴隷である」とホセ・マルティ(キューバの著作家・革命家)は述べ、詩人・彫刻家の高村光太郎は「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」と言った。
最低を更新した日本は独立国と言えるのかが今こそ問われている。不測の事態に国民を守れるかどうかが独立国の最低条件だからだ。
翔は運転中の両親に言う。
「父ちゃん、母ちゃん。来年も、再来年も、ずーっと! 稲を育てようね!!」
翔の言葉に両親は笑った。
だが、すぐに真面目な顔になる。
それは、翔も同じだ。
母親が真剣な口調で言った。
「そうだね。おじいちゃん、おばあちゃんが安心できるように、しっかり頑張ろうね。家は農士なんだから」
その言葉に翔は、力強くうなずく。
翔の手には、ウカノミタマから手渡された落穂が握られていた。
翔の家の周りでは、虫達の鳴き声が聞こえている。
鈴の音のような音を立てながら、秋の夜長を楽しんでいるようだ。そうしている内に、月の夜空の下を散歩したくなった。
そこで翔は立ち上がり、外に出ることにした。
玄関を出ると、外灯が点いているものの、やはり暗い。
それでも翔は怖がることなく、むしろワクワクしながら夜の道を歩いて行く。
田んぼのあぜ道を通り、その先にある土手の上を歩く。
草むらの隙間からバッタが現れ、翔の足元へと跳ねてきた。その瞬間、バッタは一瞬にして姿を消す。まるで忍者のようであった。
そしてまた次の瞬間には、別の所へ姿を現す。
それはまるで、翔のことを誘っているかのようである。
翔は、誘われるがままに歩みを進めていく。
しばらく進むと、そこは田んぼに囲まれた場所に出た。周りには民家は無く、田んぼがあるだけだ。
田んぼでは、カエル達が合唱をしている。
翔は、田んぼの縁に座って耳を傾ける。
すると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「こんばんは」
翔は慌てて振り返った。
すると、そこには見慣れない衣装の女性が立っていた。
着物とは違う。
もっと古い時代。
古墳時代の人々か、神話の神様が着るような衣装、
長い黒髪に、大きな瞳が印象的な美女。
その女性は、翔に向かって微笑んだ。
翔は、驚きすぎて言葉が出なかった。
そんな翔を見て、彼女はクスッと笑う。
そして、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
翔は、思わず後ずさりしてしまった。
だが、彼女は気にする様子もない。それどころか、どんどん距離を詰めてくるのだ。
翔は焦って、そのまま後ろ向きに転んでしまった。
痛くて起き上がれないままでいると、彼女が手を差し伸べてくれた。
翔は彼女の顔を見た。
近くで見ると、ますます美しく見える。
こんな人が本当に存在するのかと思える程だ。
翔が呆けたままでいると、彼女は首を傾げた。
「どうしたの? 次の農士さん?」
その言葉で我に返った翔は、慌てて立ち上がった。
すると、彼女はニッコリ笑ってくれた。
「お姉さんは誰ですか?」
翔は、恐る恐る訊ねてみた。
「私? ウカノミタマ」
すると、その人は笑顔のまま答えてくれる。
【
日本神話に登場する女神。
名前の「宇迦」は穀物・食物の意味で、穀物の神。
また「宇迦」は「ウケ」(食物)の古形で、特に稲霊を表し、「御」は「神秘・神聖」、「魂」は「霊」で、名義は「稲に宿る神秘な霊」と考えられる。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されている。現在は穀物の神としてだけでなく、農業の神、商工業の神としても信仰される。
彼女は、刈り終わった田から落穂を手に乗せる。
そこには黄金の実がなっている。
翔は、それを見ていると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
「良い実りね」
そう言って微笑む彼女の姿は、とても美しかった。
「はい。家のお祖父ちゃんと、お婆ちゃんが頑張ってくれました!」
翔は嬉しくなり、元気よく返事をした。
すると、彼女は目を細めながら翔を見る。
それから、何かを思い出すかのように口を開いた。
「天照大神は、孫の
彼女は翔を見やる。
「神話では日本は瑞々しい稲穂が豊かに実る国という意味で、なんて呼ばれているか知ってる?」
訊かれて翔は分からなかった。
彼女は落穂を、翔に手渡す。
「
そう言うと、彼女は微笑んだ。
その表情からは、どこか寂しさを感じた。
翔は、なんと言っていいか分からない。
それでも何か言わなければと思った時だった。
突然、突風が吹いた。
翔は驚いて目を閉じる。
次に開けた時には、もう彼女の姿は無かった。
夢でも見ていたのではないかと思うほどに……。
しかし、手元には金色の実が残っていた。
先程の光景が現実であったことを物語っている。
翔は決意する。
もっと勉強をして、立派な大人になろうと。
そして、将来は祖父の手伝いをするのだ。
それが自分の使命なのだと感じた。
翔は、その日見たことは誰にも話さなかった。自分だけの秘密にしておきたかったからだ。
2日かけて稲刈りが終わり、翔は自宅に帰る。
田んぼから見える空は高く澄み渡り、深まる秋の気配が感じられた。
翔は、車の後部座席から、ふと振り返ってみる。
そこには、まだ狩り終わっていない稲が風に揺れていた。
そして、その向こう側には、祖父母の家が見える。
ふとウカノミタマが寂しい表情をしていたのを思い出す。なぜ彼女が、そんな顔をしたのか翔には分からなかったが、後に社会の授業で知ることになる。
それは、日本の食料自給率の低さだ。
日本の食料自給率は年々、低下の一途を辿り、2020年度の食料自給率はついに統計開始以降、最低を記録した。
2022年、ウクライナ危機が勃発し、小麦をはじめとする穀物価格の高騰が増幅され、最近、顕著になってきた食料やその生産資材の調達への不安に拍車をかけている。
ロシアとウクライナで世界の小麦輸出の3割を占める。日本は米国、カナダ、オーストラリアから買っているが、代替国に需要が集中して争奪戦は激化している。
「食料を自給できない人たちは奴隷である」とホセ・マルティ(キューバの著作家・革命家)は述べ、詩人・彫刻家の高村光太郎は「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」と言った。
最低を更新した日本は独立国と言えるのかが今こそ問われている。不測の事態に国民を守れるかどうかが独立国の最低条件だからだ。
翔は運転中の両親に言う。
「父ちゃん、母ちゃん。来年も、再来年も、ずーっと! 稲を育てようね!!」
翔の言葉に両親は笑った。
だが、すぐに真面目な顔になる。
それは、翔も同じだ。
母親が真剣な口調で言った。
「そうだね。おじいちゃん、おばあちゃんが安心できるように、しっかり頑張ろうね。家は農士なんだから」
その言葉に翔は、力強くうなずく。
翔の手には、ウカノミタマから手渡された落穂が握られていた。