仮面夫婦

文字数 2,650文字

 結婚して4年。私たち夫婦には子供がいなかった。愛が冷めたなんて思いたくないけれど、夫は仕事にかまけて私をほったらかし。世間様から見たら、私たちは立派な仮面夫婦となるだろう。
 いつものように夫は仕事へと出かける。私たちの間には会話はもはや存在しなかった。
 私はいつものように掃除をし、洗い物を済ませ、洗濯をする。
 いつものように、そう、繰り返される毎日だと思っていたのだった。



「あかね?!」

 血相を変えて飛び込んできたのは私の夫だった。
 私は気付いたとき、病室にいた。家事の最中に倒れてしまったようだった。
 帰宅した夫が倒れた私を見つけ、そのまま緊急搬送されることになり、そして入院を余儀なくされてしまった。

「気分はどうだい?」

 白衣に身を包み、夫は私に問う。夫の仕事は医者だ。どうやら夫の病院へと搬送されたようだった。

「気分? 悪くはないわ」

 私はそう答える。
 久々の会話が自分の体調を気遣うものだなんて、少し皮肉に感じてしまう。

「良かった……」

 夫は心底ほっとした様子だった。

「ストレスと過労だと思うから、しばらくはゆっくりするといい」

 夫は鼻の頭をかきながら言う。

「そう…」

 私は言葉少なに返事をした。
 その日から私の入院生活が始まった。
 朝は7時に起床し、8時には朝食。その後は自由に過ごせるが、点滴が邪魔で私は動くのが億劫になっていた。大体にして、身体がだるい。まるで昨日までとは全く違う。
 入院した事実がこんなにも自分を病人扱いしてしまうなんて思いもしなかった。

「あかね、気分はどうだい?」

 今日も夫が見舞いがてらに問診をしてくる。私は答えた。

「だるさがあるわ。だけど元気よ」

 夫はそれを聞いて事務的にカルテに書き込むと、

「また仕事が終わったら顔を出すよ」

 そう言って私の傍を離れていった。



 入院生活は退屈極まりなく、窮屈で管理された生活は否応なしに自分が病人だと言うことを痛感させられるのだった。
 なんだか、徐々に意識が薄れていく。
 私は薄れる意識の中、1つ思い出したことがあった。
 それは夫と付き合い始めた頃のこと。彼には1つ癖があることを思い出したのだった。

 夫は嘘をつくのが下手だった。
 嘘をつく時、必ず鼻の頭をかく癖。
 あぁ、そうだった。
 会話のない日々に慣れすぎて忘れていた。
 夫の何気ない仕草、嘘をつくのが下手なところも愛していたことを。



 そんなことを考えながら、私は意識を手放していくのだった。



 夕方、目覚めた私の目の前には私服姿に着替えた夫が待っていた。

「目覚めたかい?よく眠っていたね」

 夫はぎこちない笑顔を浮かべて、私に言うのだった。

「ねぇ?私、病気なのかしら?」
「違うよ、ストレスと過労だから、じきに退院できるよ」

 夫は鼻の頭をかきながら言う。
 そう、これは嘘だ。
 私には私にも知らされていない何かがあるのだろう。

「例え病気だとしても、僕が必ず君を治してあげるから」

 真っ直ぐと私を見つめて言う彼に、嘘はなかった。
 そっか、彼が私を治してくれるのだろう。なら良かった。私は安心する。この窮屈な入院生活もきっとすぐに終わるだろう。

「なんだか、また眠くなってきちゃったわ」
「うん、ゆっくり休むといいよ」

 彼の声を聞きながら、また深い眠りの底へと落ちていくのだった。
 その最中(さなか)思い出すことがある。

 初めてデートをした日のこと。
 急患が入ってしまった彼は、大遅刻するのだ。彼の仕事に理解はあると思っていたが、何時間も音信不通のまま待たされた私は、若かったこともあり激怒する。そんな私に、彼はひたすらに平謝りを繰り返していたのだった。

 ふふふ、おかしい。

 必死な彼の姿が愛おしくて、私は最後には許すのだった。

「ねぇ、覚えてる?」

 翌日、私は夢の中で思い出した、彼との初デートの話をした。

「急にどうしたんだい?」

 彼は少しうろたえているようだった。本当に急な話をしてしまった。けれど今話さなければ後悔してしまうだろうと直感が言っていた。だから私は話すことをやめない。

「あの時のあなた、本当におかしかったわ」

 私がくすくすと笑うと彼は当時を思い出してか申し訳なさそうな顔をするのだった。その姿に、私は彼への思いを再確認する。あぁ、私は彼が愛しいんだ、と。彼もまた、私を愛おしいと思ってくれていたらいいのにな、なんて。
 まるで初恋のようだった。

「あの時は本当に大変だったんだ。君を待ちぼうけさせたことは覚えているよ」

 彼はそう言うと目を伏せた。
 2人に共通の思い出があったことが、私は嬉しかった。

「たくさん話して疲れただろう?ゆっくり休むんだよ」

 彼はそう言うと病室を後にしていった。



 私は襲ってくる眠気に任せて、横になる。
 今日はどんな夢を見せてくれるのだろうか。
 退屈だった入院生活が少しだけ楽しみに変わっていくのだった。



 入院生活が長引くにつれ、私は食欲がなくなってきていた。
 病院食は味気なく、もともと口には合わなかったが今はもう、受け付けてもくれなくなってしまった。
 そんな私の変化と同時に夫にも変化が見られた。
 毎日顔を合わせているけれど、今の私には分かる。

「ねぇ、最近眠っているの?」

 私の問いかけに、鼻の頭をかきながら夫は、寝ているよ、と答えた。
 これは嘘だ。

「最近はそんなにも忙しいの?」
「そうでもないよ。ちゃんと眠っているし」

 鼻の頭をかきながら答える夫。心配にはなるが、まずは自分が回復しなければ、と言う思いに掻き立てられた。
 結婚生活の中で、こんなに話しているのは新婚以来だろうか。
 毎日会話が出来る。
 それがこんなにも嬉しいことだと、私は何故今まで気付かなかったのだろうか。
 そしていつもの様に強烈な睡魔に襲われる。私は薄れていく意識の中で夫がなにか言っているのが聞こえてきた。



「君の病気は、僕が必ず治すから」



 あぁ、そんなに悲しそうな顔をしないで。
 大丈夫、明日からはちゃんとご飯を食べるわ。
 すぐに元気になるから。



 しかし私の意志とは反対に、身体はどんどんと弱っていくようだった。
 弱っていくにつれて思い出されるのは、彼が今まで私に見せてきてくれた様々な顔だった。
 彼に覚えているかと聞くと、殆どのことは覚えていてくれた。
 同じ思い出を持っていることが嬉しく、そして愛しいと思えるのだった。



 早く元気にならないと。
 そう思うものの身体は言うことを聞いてくれない。
 あぁ、これはもうダメかもしれない。
 諦めかける気持ちを叱咤するのは彼への愛しさだった。
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