第1話

文字数 4,045文字

 大学から帰ってくる帰り道に夜空を見ると星が輝いていた。星の光を見ていると何だか幸せな気持ちになる。昔を思い出して、夜風に吹かれていると感傷的な気持ちになった。アスファルトの地面が先まで続いている。僕は十八で大学生になった。六月になって、雨は多いけれど今日みたいに晴れている日もあった。家々の窓の明かりを見ているうちに、ふと姉のことを思い出した。姉は最近実家に帰ってきた。それまでは会社員をしていたのだが、突然辞めることになった。母親に理由を聞いてみると弁護士を目指すと言っていた。僕は大学の学部が法学部だったので、弁護士も考えてはいたが、今は司法書士を目指している。だから姉のことを素直に応援すればいいのだが、姉は実家に帰ってきてから部屋に籠りきりで、アルバイトもしていないようだった。果たして本当に法律の勉強をしているのか気になった。姉は文学部だし、卒業してからは小さな教科書の出版社に勤めていた。一体なぜ突然今までのキャリアを捨てて弁護士になろうとしたのだろうか。それに弁護士になるなら法科大学院へ進学する道もある。しかし、どうやらその気はないようだった。
 家のドアを開けると電気が付いている。今日は所属している文芸サークルの飲み会があったので、時刻は十一時だった。リビングへ行くと、姉がソファに座ってテレビを見ていた。両親は寝たようで、姉は僕に気が付くと視線を向けたが、すぐにテレビの画面を見ていた。
「勉強は進んでいる?」
 僕は冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出して、そう聞いた。
「一応」と姉は興味がなさそうに言った。
 最近姉を見たのが久しぶりだった。いつも部屋にいるので、何か具合が悪いのではないかと思う。最近は精神を病む人が多いし、もしかしたら姉もうつ病だったりするんじゃないかと思っていた。
 僕は牛乳を飲み終えると、風呂場へ向かった。テレビの音が僅かに聞こえる。昔とは違って姉は寡黙になった気がした。服を脱いでシャワーを浴びると将来のことについて考えた。果たして在学中に司法書士になれるのだろうか。僕は法学部に進んだ以上、四年間は勉強をして過ごそうと覚悟していた。文芸サークルに入ったのも、文章を学んで、法律をしっかりと読めるようにするためだった。
 風呂から出て自分の部屋に行くと、大学で知り合った友達から連絡が来ていた。電話の誘いだったので、夜遅いけれど、電話を掛けてみた。数回の着信の後に友人の中里が電話に出た。
「もしもし」と僕は言った。
「よう。佐々木か。起きていたんだな」
「話って何だよ?」
「今週末にライブのチケットがあるんだ。一緒に行かないか?」
「いいね。特に予定はないからいいよ」
「じゃあまた後で詳細は連絡するよ」
 その日、ベッドの上で目を閉じていると、小さい頃の記憶が蘇ってきた。僕は姉に手を引かれながら祖父母の住んでいた町を歩いていた。僕にとって姉は信頼のおける人だった。昔からずいぶん頼っていたように思う。

 週末の土曜日の夕方に僕は繁華街の駅の前に立っていた。しばらくして中里がやってきた。彼はずいぶんラフな格好をしている。大学は僕と同じ学部で軽音楽部に所属していた。
「悪いな。少し遅れてしまった」
「全然大丈夫だよ」
 僕らは人混みの中を歩き、ライブハウスの中に入った。動画サイトである程度知名度のあるバンドのライブだった。中里から教えてもらって以来、時々聞くことがあった。
「俺もいつか向こうに立てるといいんだけどな」
 ドリンクのカップを持ちながら、僕らは他愛もない話をした。
「何か楽器をやってたの?」
「小さい頃からピアノをやっていたんだ。今はギターだけどさ。一応作曲もできるんだぜ」
 ライブが始まると重厚な音が会場に響き渡った。僕は生まれて初めてのライブだったので、興奮していた。中里は飲み物を飲みながら、じっと曲を聴いていた。
 ライブが終わると、僕らは駅に向かって歩いていた。
「やっぱりライブはすごいな」と僕は言った。
「たまにはいいだろ。他にもマイナーだけどいいバンドは知っているんだ。チケットが手に入ったらまた誘うよ」
 改札口の前で僕らは別れた。僕は駅のホームで電車を待っていた。空には雲が浮かんでいて、風に乗って流れていく。中里と知り合えたのはよかったと思った。彼は様々なことを知っているし、一緒にいると安心することができた。
 電車がやってくると僕はそれに乗った。家までの道を歩きドアを開けると、十二時になっていた。
 両親は眠ったようで、また姉がソファに座っていた。僕は冷蔵庫からコーラを取り出して飲んでいた。
「大学はどう?」と珍しく姉が声を掛けてきた。
「それなりにやってるよ」と僕は言った。
「私もあんたもそれなりに生きてきているよね。時々思うんだ。そうやって生きることができない人たちもいるってね」
 姉からそのような話を聞くのは初めてだった。
「弁護士になれそう?」と僕は聞いた。
「あんたは法学部だから、大変さは知っているでしょ。私もいろいろと思うところがあるんだ。いつまでもこうしているわけにはいかないって。ただ自分の中で決めたこととして、こういう生き方をしようと思った」
「部屋で過ごす生き方ってこと?」
「別にいつも寝ているわけではないよ。ゲームにはまっているわけでもないし。ちゃんとやることはやっているんだけどさ。なんだか誰も理解してくれないような気がしてね。時々自分でもよくわからなくなってくるんだ。自分のしていることが正しいのか」
 姉はその日の夜、僕にそう言うと部屋に戻った。僕はいつものように風呂に入って、歯を磨いて、ベッドに横になった。

 月曜日になり、朝から僕は電車に揺られていた。大学の単位はそれなりに取れそうだったので安心していた。僕には数人の新しい友達ができた。でも何となく漠然とした寂しさを感じている。大人になるというのはこういうことなのだろうか。なんだかみんなと過ごしていても自分が一人のような感覚がしていた。
 大学に着くと、キャンパスまでの道を歩いて行った。東京の西側にある落ち着いた雰囲気の大学だ。高校時代この大学に来てみて、最初から好印象だった。
 キャンパスの芝生の上には多くの学生がいた。座っている人もいれば通り過ぎていく人もいた。
 一限の講義を受けていると、窓の外の植物が目に入った。僕の隣には文芸サークルで知り合った佐藤詩織が座っている。彼女は寡黙なタイプだったが、飲み会で話をしたことをきっかけに仲良くなった。僕らはお互いが大人しいタイプだったので、文学の話をしていると楽しむことができる。
 講義が終わると、詩織はノートをバッグに閉まった。講義室から出て、二人で廊下を歩いていた。
「佐々木君はこの後、講義あるの?」
「ううん。二限は空いているんだ」
「私も講義ないんだよね」
「じゃあカフェでも行く?」
「そうね。今度の文化祭で短編集を出すでしょ? 私それをやろうと思って」
 僕らは構内を歩いて行き、カフェがある場所に行った。二限が始まる頃になると、ある程度空いてきたので、僕らはテーブルに座った。
 トレーにはサンドイッチとコーヒーが載っている。少し早いけれど昼食を食べることにした。
 僕がサンドイッチを食べていると詩織はノートに小説を書き始めた。僕はその様子を見ていると姉のことを思い出した。姉も昔は小説を書いていた。僕は何度か姉の小説を読んだことがある。
「僕には姉がいるんだけど、最近仕事を辞めて実家に帰ってきたんだ。弁護士を目指すって言っているけど、何か引っかかる気がしてね」
「働いていないの?」と彼女は聞いた。
「一日中部屋に籠っているんだ」
「何かあったのかな? 失恋とか」
「失恋かー」

 僕はその日の講義を終えると家に帰った。家のドアを開けて中に入ると話し声が聞こえた。リビングのドアを開けると、テーブルに両親と姉と車椅子の男性が座っていた。
「紹介するね。私の彼氏の山口さん」
「どうも」と彼は言った。
 僕はその姿に見覚えがあった。確か高校生の頃で、姉と一緒に歩いていたのを見たことがある。でも当時は車椅子ではなかった。
「啓介君とは前にすれ違ったことがあるかもね。僕は事故に遭って、こうなってしまったんだ」
 僕は椅子に座り、彼の話を聞いていた。
「私、家でできる仕事をしていたの。ホームページを作るんだけどね。これから二人で会社をやろうと思う」
「それで部屋に籠っていたの?」
「いずれは話そうと思っていたんだけど、今日になるとはね」
「僕たち仕事が上手くいったら結婚するつもりなんだ」
 山口さんはそう言うと微笑んだ。どこか包容力のある優しさを感じた。
「私たち高校時代から付き合っていたんだ。でもまさかこんなことになるとはね」
 姉はそう言うとテーブルの上に置かれていたコーヒーを飲んだ。その日は五人で将来のことについて話し合った。山口さんは不自由だけれどできることはしようと前向きだった。
「まさか事故に遭ってこうなるなんて考えたこともなかったんだ。でも僕はそれがきっかけで別れたくなかったし、病院にいる間も彼女に支えてもらっていたんだ」
「人生いろいろあるけどさ。いつかこれでよかったって思える時が来ると思うんだ。だからそう思えるように二人で頑張ろうと思ってね」
 姉はそう言うと僕の目をじっと見た。僕の両親は二人のことを受け入れているようだった。部屋に戻ると窓を開けた。外の涼しい風が吹いている。その時、山口さんのことを思い出した。いったいどんな気持ちで今まで生きてきたのだろう。僕にはまだその大変さがわからなかった。
 夜になる前に山口さんは帰った。僕らは駅まで付いて行った。帰り道に姉は僕の隣を歩いていた。
「初めから今日のことを話していた方がよかったのかな」と姉は言った。
「僕は弁護士の勉強をしていると思っていたんだ」
「都合のいい嘘だったからさ。でも弁護士はいいと思う。あんた目指してみたら?」
 僕らはその日の夕暮れの中を歩いて行った。

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