パララックス…視野効果。ファインダーから見える景色と、レンズが捉えている景色の差

文字数 4,987文字

「じゃあ、貴女が噂の探偵サン?」
「探偵じゃありません。カメラマンです」

 澤田ノブ子はグラスを片手に、目の前に座った少女をマジマジと眺めた。
 一見して高校生にも見えなくもない。まだ幼さを残す端正な顔立ちの少女は、モデルや女優のように見えた。実際、スラッとした手足を伸ばし、カフェテラスで艶のある髪を靡かせるその様は、道行く男たちが思わず振り返って二度見するほどであった。
 巷で噂されていたような、『犯罪捜査のスペシャリスト』と言う無骨な肩書きからは想像もつかないその容姿に、ノブ子は少し面食らった。

「貴女が本村夏希さんね?」
「そうです」
「貴女なら、どんな写真でも撮ってくれるって聞いてるんだけど」
「えぇ。フィルムに映るものなら」
 夏希と呼ばれた少女が、ノブ子から目を逸らさずにカプチーノに口をつけた。

「で、依頼と言うのは?」
「実は……」
 ノブ子もまた、夏希の大きな目から視線を逸らさないように注意して、
「夫の浮気現場を撮って欲しいんです」
 はっきりとそう言い放った。
 夏希は表情一つ変えず、その細く白い喉をゴクリと鳴らした。

「……必要なら、夫の仕事場や交際関係を教えましょうか? それからよく行くバーや……」
「失礼ですが、旦那さんはいつから浮気を?」
「いいえ、まだよ」
 ノブ子の言葉に、夏希の淡々としていた表情が今日初めて驚きに染まり、そしてノブ子が今日初めて笑顔を見せた。

「あの人は頭が固いから。そんな勇気も無いんじゃないかしら」
「じゃあ一体何故、そんな写真を……」
「そうね。娘ももう、手のかからない歳になったし……」
 ノブ子がグラスを片手に、穏やかな笑みを浮かべた。
「夫はこれから浮気現場を撮られちゃう訳だし、ね?」
「つまり……離婚して、慰謝料を巻き上げたいから写真を捏造しろ、と?」
「あら。私はそこまではっきり言ってないわよ」
 ノブ子が可笑しそうに目を細めた。

「何でも撮ってくれるんでしょう? 凄腕だって聞いてるわよ」
 夏希はそれには返事をせず、テーブルの隅に置かれたノブ子の夫……澤田タカユキのプロフィールに目を落とした。カフェ沿いの歩行者天国では、黙り込む二人を置いてけぼりにして、大勢の若者たちが楽しげに会話に花を咲かせていた。
「……分かりました」
 やがて夏希がゆっくりと頷いた。

「やってくれるの?」
「仕事は仕事ですから」
 彼女は差し出された書類を引っ掴むと、そそくさと席を立った。
「ありがとう。お代は、事務所に振り込めば良いのかしら?」
「いいえ」
 別れ際、夏希は肩越しにノブ子を振り返り、静かに口を開いた。

「代金は商品を渡す時にいただければ。いつも出来上がった写真を見て、お客様に値段を決めてもらいます」
「なるほどね。分かったわ」
「一つお聞きしたいんですけど……」
 満足げに頷くノブ子に、夏希が少し戸惑ったように尋ねた。
「何?」
「旦那さんと別れて、それからどうするんですか?」
 ノブ子はグラスを置くと、静かに唇の端を釣り上げた。

「私はただ、愛する人とできるだけ長く一緒にいたいだけ。心から愛する人と一緒に、ね」
「……分かりました。それでは一週間後に、またこの店で」

 それから夏希は一度も振り返る事なく、街の喧騒の中へと姿を消して行った。

□□□

『あー、そりゃ絶対その女の方が浮気してるな、ウン』
 受話器越しに聞こえる男の野太い声に、夏希はほんの少し顔をしかめた。雑音に混じって、遠くの方ではラジオの競馬中継が響いていた。

『”証拠が無ければ、作れば良いじゃない”って事か。やれやれ、女ってのは怖いねえ』
「私も女なんですけど、社長」
 夏希が口を尖らせた。電話の相手は乾いた笑いを響かせながら、彼女に尋ねた。
『とはいえ、実際どうする気だい? いくら加工技術が進んだ時代だからって、やってもいない浮気写真を旦那さんに突きつけても、逆に夏希君が名誉毀損で訴えられかねないぞ?』
「……私に考えがあるわ」

 ふと受話器の向こう側で、ラジオ中継がワッと歓声を上げた。ナントカカントカと言う馬が、予想に反してドンケツでゴールしたらしい。男が椅子から転げ落ちる音が聞こえてきて、夏希はうんざりして通話を切った。
 
□□□

「えー、やだー!? タカちゃんじゃない!?」
「え?」
「久しぶりー! こんなトコで会うなんて、キグーだねっ」
「え? え??」

 突然やって来たテンション高めの若い少女に面食らったのは、依頼人ノブ子の夫、澤田タカユキだけでは無かった。薄暗いバーにいた客たちも、一体何事かと二人の方を振り返った。タカユキはすでに酔いが回っていたのか、ジョッキを片手に、ぽかんと口を半開きにして夏希を見上げた。
「え? えーっと、君は誰?」
「もーっ! 忘れたの? でもしょうがないか。去年、ホテルで会って以来だもんね?」
「え? えぇッ!?」

 夏希が周りの客たちにも聞こえるように、大声でカミングアウトを続けた。客の一人がワインを吹き出し、白いワイシャツの上に零した。
「何言ってるんだ!? 僕ぁ君なんか知らないよ!?」
「ひどっ!? 忘れたの!? あんなに積極的に、求めて来たくせに!」
「はぁ!?」
 いつの間にかバーの中が、妙に静まり返っていた。口から泡を吹くタカユキを、髭面のバーテンダーがジロリと睨んだ。

「お客さん。ここは未成年連れ込み禁止ですよ」
「だ、だから僕ぁ何も知らないってば! この子が、勝手に……」
「他のお客さんにも迷惑がかかるから、出て行ってくれ」
「いこっ。タカちゃん」
「うわぁっ!? ちょ、ちょっと……!?」
 夏希がタカユキの腕を引っ張った。他の客たちに好奇の眼差しで見つめられながら、タカユキは強引に外へとつまみ出された。


「一体、何なんだ君はっ!?」
 外に出るなり、タカユキは乱暴に夏希の手を振り解いた。夏希は”営業スマイル“をスッと元に戻し、静かに電信柱に寄りかかるタカユキを振り返った。

「先ほどは失礼しました。私、雇われカメラマンの本村夏希と申します」
「本当に何なんだ、君は……!?」
 そのテンションの落差に、タカユキは唖然とした表情で夏希を見つめた。夏希は淡々と、いかにも事務的に小さく頭を下げた。
「付かぬ事をお聞きしますが、澤田さんは現在不倫をされていたり、またはその予定などございますか?」
「はぁ!?」
 タカユキが目を引ん剝いた。向かいの通りでは、酔っ払ったサラリーマンたちが、ジロジロと二人を眺めながら通り過ぎて行った。タカユキが叫んだ。

「する訳ないだろう、不倫なんか!?」
「そうですか。では一応お聞きしますが、私と不倫していただく訳にもいかないですよね?」
「あのねぇ……!」
 夏希の表情とは対照的に、タカユキの顔はみるみると歪んで行った。

「僕には妻と娘がいるんだよ。不倫だとか、僕はそこまで酔っちゃいないよ!」
「タカユキさんは奥さんを、愛している?」
「……もちろんだ」
「……今はほとんど家に帰っていなくても?」
 夏希が小さくため息をついた。タカユキの目が驚きに見開かれた。

「どうしてそれを……」
「企業秘密です。では、もし奥さんが……」
「妻が?」
 繁華街は、平日の夜だと言うのに大勢の人で賑わっていた。夏希の言葉に、タカユキがゴクリと唾を飲み込んだ。

「タカユキさんに、是非お願いしたいことがあるんです」

□□□

「それで、お願いした写真は撮れたのかしら?」

 一週間後。
 同じカフェテラスで、ノブ子と夏希は再び会っていた。
 夏希は黙って鞄から茶封筒を取り出すと、ノブ子に差し出した。
「結構」
 ノブ子は中身を取り出して数枚現像された写真を確認すると、満足げに頷いた。そこには彼女の夫であるタカユキが一回りは歳の離れた少女と、仲睦まじく遊園地で遊んでいたり、公園で腕を組んで遊んでいる様子が映し出されていた。ノブ子は写真を無造作に封筒の中にしまうと、もう用は済んだとばかりに席を立った。

「ありがとう、探偵サン」
「だから探偵じゃありません。カメラマンです」
 夏希もノブ子の後を追って席を立った。ノブ子が振り返ると、夏希の表情は普段以上に固く、睨むように依頼人を見据えていた。

「まだ何か?」
「待ってください。お代の方は……」
「あぁ、そうだった。そうね。その事なんだけど……」
 ノブ子がテカテカと輝く唇の端を釣り上げ、勿体ぶって口を開けた。

「今回はお代は、無しにしようと思うの」
「……はい?」
 夏希の表情が、みるみるうちに紅潮していった。
「待ってください、私は依頼されたものをキチンと……!」
「お代は、私が決めるんでしょう? 最初にそう言ったわよね? だったら問題ないはずだわ」
 気がつくと少女は小刻みに体を震わせ、拳の中で掌に爪を突き立てていた。

「分かりました。貴女がそのつもりなら……」
 やがて夏希は依頼人をジッと見据え、ポシェットからフィルムを一つ取り出した。
「……それは?」
「これは、貴女の浮気現場の写真です。澤田ノブ子さん」
 夏希は己の感情を押さえ込むように淡々と話したが、それでも言葉の節々に、棘を含ませていた。
「貴女の旦那さん、タカユキさんに会って、私に依頼してもらったんですよ。もしこれがタカユキさんの手に渡れば……」
「そう」
 しかしノブ子は、興味なさげに少女の手の中のフィルムを一瞥した。

「確かに私が浮気してたのは事実だわ。だけど、それが何だって言うの?」
「何ですって?」
「それで夫の方から離婚を切り出してくれるなら、万々歳だわ。私は彼の浮気が原因で、関係を持ったって言うだけだし。この証拠写真があれば、十分戦っていけるわ」
 ノブ子が、受け取った茶封筒を団扇代わりにヒラヒラと仰いだ。夏希がワナワナと肩を震わせた。
「貴女って人は……!」
「ありがとう、()()()()。助かったわ」

 ノブ子が勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、やがて喧騒の中へと姿を消して行った。夏希は、ジッと床の一点を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。

□□□

『……やれやれ。それで本当に、旦那さんに頼んで娘さんと遊んでもらって。その写真を渡したのかい?』
「自分の娘だって、気づかない方が悪いわ」
 少女が肩をすくめた。受話器の向こうで、男が呆れたように笑った。

「写真はその場で確認してもらったもの。依頼通り、“浮気”の現場写真よ。世間一般じゃ、どう言われるかは知らないけど」
『自分の娘と遊んでいるのが、“浮気”だって?』
「だって、自分()をほったらかして他の女()とばっかりイチャイチャしてるだなんて。私が奥さんだったら嫉妬しちゃうわ」
『言い方の問題だなァ』

 男がカラカラと笑った。それにしても、と夏希は声を怒らせた。
「いくら家にほとんど帰ってないからって、実の娘が分からないなんてヒドイと思わない?」
『そうだねぇ。自業自得か』
「それに、私の写真を0円で持ってたのよ。0円で!」
 憤慨する少女とは対照的に、男は楽しそうに声を弾ませた。

『君、本当は奥さんの浮気現場なんて撮ってないんだろ?』
「あら。よく分かったわね」
 夏希がようやく、少し嬉しそうな声を上げた。だと思った、と男は笑った。
「だってタカユキさんは、私にそんな依頼しなかったもの」
『ハッタリかい』
「ハッタリよ。でも、おかげでノブ子さんと私との会話は、録音ばっちりよ」
 まさか本当に浮気してるとは思わなかったわ、と夏希が心にもないことを言った。やれやれ、と男が深々とため息を漏らした。
『“証拠が無ければ、作れば良いじゃない”ってことか。つくづく、女ってのは怖いねえ』
「それ、私に言った?」
「いンや」

 ふと電話越しに、ラジオがワッと歓声を上げた。今度はナントカカントカと言う馬が、予想に反して一着でゴールしたらしい。男が椅子から転げ落ちる音が聞こえてきて、夏希は白い歯を浮かべて通話を切った。
 
 
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