神さん

文字数 9,460文字

ある夏の夜、我が家に神さんがやってきた。

夕食後、キッチンで洗い物をしていると、来客を告げるインターホンが鳴った。
「こんな遅い時間に誰かしら...」 濡れた手をエプロンで拭いていると、高校生の息子が二階から降りてきて、リビングに据えられたテレビドアホンの可動スイッチを押した。最近、設置したばかりなので使いたくて仕方がないのだ。息子は「チャンスチャンス」と嬉しそうに受話器を取ったが、テレビドアホンの画面に玄関前が映し出されると、「うわっ」と感嘆の声をあげ跳ねあがった。「なんだコイツ」
「いったい何事よ」 目を丸くする息子を押しのけて、画面を見ると、「まあ何これ」 わたしも跳ねあがった。

画面に映ったのは、身長150満たない程の中年の小男で、どこからどう見ても浮浪者だった。
顔は干乾びた陶器のようにボロボロで、服とはいえないボロ切れを全身にのせている。長く垂れさがった髪の毛は、ドブ川に生えた苔のように鬱蒼としている。その風貌といい、醸し出すオーラといい、完全に駅前の高架下にいるような、ダンボール住まいの人達そのものであった。
「きったねえなあ。なんだよこのじじい」と、息子が大きな声で言うので、「シッ、聴こえるでしょ」といさめた。
「…ど、どういったご用件で?」 多少の怖さはあったものの、このままでは埒があかないので、なるべく事務的な対応をしつつ、穏便に済ませることした。家主である旦那が、今九州に出張中なので、家族を守る義務は自分にあるのだ。
「…あのう、そのう…ちょっとあのう…とめ、泊めてもらいたいのですが…」と、浮浪者は聞き取りにくい、かすれた声で言った。
「ああ…大変失礼なのですが、お断りさせていただきます。他にあたっていただけますか?」
「そそ、そこをどうにか…少しでいいんです…お腹が減って死にそうなんですう…」
「そんなこと言われましても…」
浮浪者は、水をぶっかけられた野良犬のような、さも情けない表情で懇願しはじめた。
「母さん、こんな奴を家に入れちゃダメだよ。家が汚れる」と、息子がせきたてる。「警察呼ぼうぜ、警察」
いいから、黙ってなさいーと小声でいさめると、息子は不満げに唇をとがらせた。
いくら空腹で瀕死の状態であっても、家の主である旦那が不在な今、見ず知らずの人間を家に入れるわけにもいかない。それが身元の知れぬ浮浪者ならなおさらのことだ。この家自体、新築一戸建てで先月に入居してきたばかり。汚泥や塵にまみれた不潔な人間を許可なく家に入れたからには、出張から帰省した旦那の怒り狂う姿が目に浮かんだ。わたしは一旦深呼吸をすると、きっぱりと告げた。
「と、とにかく…あなたのような身元のわからない人を家に入れるわけにはいかないのですッ」。

浮浪者はしばらくの無言の後、「そうですか…なら仕方ありません」と思ったより潔い反応をして、トボトボと深い夜の闇に消えていった。我ながら(少し言いすぎたかな…)と思ってしまった。また(もしかして、あの人は浮浪者ではないのかも)という予感も生じた。そもそもこんな都内の外れにあるニュータウン系の簡素極まりない新興住宅地に浮浪者がいること自体がおかしい。大体、ああいう方達は都内で人が多く集まる場所にこそこぞって密集するものだ。しかも、我が家はこの住宅街の中でも随一の高台にあり、ここに来るまで訪ねるべき家は山ほどあった筈だ。それとも何十軒と訪ねてまわった挙句、ここにたどりついたのだろうか。でも、こんな車でしか来られないわかりづらい場所に物乞いに来る人間がいるのかしら…。考えれば考えるほど疑問は尽きなかった。
「二度と来んじゃねえぞ。この社会のゴミがあッ」 息子が跳びはねながら啖呵を切った。
「もう来年高三になるんだから、子供みたいなマネはしないのッ」
わたしは、リビングを子供のように飛びまわる息子の尻を叩くと、洗い物の続きをしはじめた。
「でも母さんよく言ったよ。あんなの家に入れたら父さんに怒られちゃうね。愛人を連れ込んだみたいになっちゃうしさあ。うはは」
「もういいから早く寝なさいッ」 息子は、高三になっても子供っぽい性格で、そのくせ余計な部分でマセたところがあるので、年負う毎に扱いにこまっている。「明日、高校で進路相談会があるんでしょ。早くその準備しないと他の子たちに置いてかれちゃうわよ」
「別にいいよお。おれ、友達いないし」と、息子はいつもの調子でおどけてみせる。「でも大学は行きたいなあ。まだ遊び足りないし。働きたくないもんねえ。自由がいいじゃん。自由が」
「そそ、自由が一番ですね!」と、さっきの浮浪者がリビングのソファで言った。
「そらぁそうだ…とわああああ」 息子が後方に引っくり返った。
わたしは悲鳴をあげるや、ほぼ反射的に包丁を片手に後ずさりしていた。「けけけ、警察呼びますよッ」
浮浪者は、うひゃはあっと声にもならない甲高い悲鳴をあげると、床に崩れ落ちた。
いったい、どうやって家に入りこんできたのだろう。部屋の鍵はどこも閉め切っていた筈だし、この体力のなさそうな浮浪者に二階から忍び込むほどの器量はなさそうだった。ひどいもので、突然の侵入者に驚いた息子は、一目散に部屋に逃げてしまった。わたしと浮浪者は、リビングとキッチンを隔てて、暫しの間、対峙することになった。包丁を握りしめる手のふるえに戸惑いながら、わたしは浮浪者をにらみつける。床で尻もちをついて、呆然としていた浮浪者が、先に口を開いた。
「…おお、奥さん…。落ち着いてください…わ、私は怪しいものではございません」浮浪者はその場に正座をすると、ぶるぶるとふるえながら土下座をした。「と、突然、お邪魔してすいません…悪気はなかったんです。ただお腹が減って…」
ああ、こんなこと言ってる間にも空腹があ…と、言って浮浪者は床にあお向けに倒れた。「ちょ…ちょっとッ寝ないで下さいッ」 新築のフローリングの床を汚されては困るし、このままでは旦那に向ける面もない。現に浮浪者の座っていたスカイブルーのソファは、泥や煤で茶色く変色していた。「残り物で宜しかったらありますので、食べたらさっさと帰って下さい」 そう言うと、浮浪者は途端に目を輝かせ、ありがとうありがとうと、かすれた声で何度も言っては頭を下げた。
浮浪者は、金品を奪って逃げだしたり、暴力を振るうような人間には見えなかったので、わたしは少しだけ警戒を解くことにした。正直な話、もみ合いの喧嘩になっても、腕力で勝てそうな気がするほど、弱そうだったというのもある。

冷蔵庫に残っていたありあわせの食材で時間の遅い夜食をつくると、浮浪者はまさに野良犬のように下品にがつがつと食べた。その間、「このお米のふっくら加減は、まはに天国のようでふね」とか「温かい味噌汁がある家庭は、まはに天国のようでふね」などと、お世辞にもならないような前時代的な言葉の数々を、口に食べ物をかきこみながら言い続けた。本人は気を使って言ってくれてるのかもしれないが、勝手に大事な家に入られたこちらからしたら、単なる迷惑でしかなかった。また食後にも、まるで気が狂ったように「極楽、極楽」と何度も言い続けた。

ふとリビングの入口に目をやると、息子が金属バット片手にカタカタふるえていた。わたしは「大丈夫だから入って来なさい」と息子を呼びいれた。息子は浮浪者の姿を見て、露骨に嫌な顔をしたが、まだいくらかの恐怖が残っている分、おずおずとするだけでその場から動こうとしなかった。
「うへ、息子さんですか」と、浮浪者が聞いてきたので、わたしは「ええ、まあ」と言うと、途端に鼻を押さえた。臭い。とてつもなく臭い。
恐怖心に包まれていた先ほどまでの緊張感が和らいだ分、五感が働くようになったのか、部屋中が浮浪者のはなつ悪臭で包まれていることに、今頃になって気づいた。その風貌からして何十日も風呂に入ってないのは明白だった。塵芥と排泄物と獣の匂いが、ない交ぜになったような、今まで嗅いだことのないとてつもなく臭い匂いであった。
わたしは片手で鼻をつまんだまま、もう一度息子を部屋に呼び入れると「この人をお風呂に案内したげなさい」と命じた。ようやく部屋に入ってきた息子は、さきほどまでのエラそげな態度とは打って変わって、借りてきた猫のように従順に「お、おじさん、こっちだよ」と、ふるえる手で浮浪者をお風呂に案内した。
風呂に入っている間も浮浪者は、「この世の地獄ならぬ、この世の極楽」とか「行ってみたいな、黄泉の国」などと、わけのわからないひとりごとを言い続けていた。あまり大きい声を出すと、さすがに近所迷惑になるので、息子に注意するように命じたが、「明日進路相談会があるから」と部屋に逃げてしまった。

浮浪者が風呂から出てくると、旦那のいらなくなった下着とバスローブを着てもらった。泥だらけの汚い体をきれいさっぱり洗い流した浮浪者は、わたしが想像していた姿とは大分違って見えた。小柄で小太り、年齢は50前後だが童顔で、どことなく仕種も子供っぽい。肩口まで下がった長髪にフレームなしの眼鏡、気の弱そうな面構え、とっちゃん坊やという表現がピッタリの中年男性といった感じであった。ただ、悪い人ではないけど、どこか得体の知れない、常人とは違った、他人を寄せつけぬオーラはあった。

「ところで―」さっそく、わたしはさきほど抱いた疑問をぶつけてみることにした。「いったいどうやって我が家に入りこんだんですか」
この疑問がなかったら、わざわざ夜食までごちそうして、風呂にまで入れてあげた意味がない。この浮浪者がどうやって我が家に入りこみ、そしてなぜ我が家を選んだのか。その謎を知りたいがために、旦那の存在を顧みず、ここまでの好待遇を与えたのだ。
すると、ソファにもたれて、「極楽、極楽」言い続けていた浮浪者は、さらりとそっけなく、こう答えた。
「あ、それは僕が神様だからです」

呆気にとられる―とは、まさにこういうことをいうのだろう。わたしはしばらく返す言葉が見つからなかった。「か、神様…ですか」
「はい、僕ね、神様なんですよ。奥さんの家に入りこんだのはちょっと念じたら簡単にできました。瞬間移動ってやつです。でも、こんなことしちゃマズイなあっていうのはわかってましたよ。だって犯罪じゃない。でも、お腹が空いちゃってねえ、つい魔がさしたんですねえ。神様が魔がさすって冗談にもなってないけど」 神様はかすれた声で、機嫌よさげにベラベラとしゃべった。

「…じゃ、じゃあ、あなたが神様である根拠を示して下さいッ」
突然、そんな素っ頓狂な答えを提示されても、納得がいく筈はなかった。わたしはオカルト方面の知識にはうとい方で、ご先祖様に手を合わせることはあるが、基本は無神論者であると自覚している。
そんな我が家に突然押しかけた迷惑な神様だが、わたしのそんな問いに「いいですよ」とこれまたそっけなく言うと、その場ふわりと浮いてみせた。「こ、これが空中浮遊の術です。で、でもね、この状態を維持し続けると、うま、うまくしゃべれない…上に、お腹が減るんですよう」
確かに、インチキでもなんでもなく、神様のからだはソファから5cm程の高さにふわふわと浮いていた。子供の頃にテレビで観たアニメや特撮の光景が、そのままリビングで行われていたので、ここまでくると、懐疑的なわたしも神様の存在を認める方向に気持ちがかたむいた。

「こらスゲェや!」 いつの間にかリビングにいた息子が感嘆の声をあげた。「この人、正真正銘の神様じゃん」
「僕、この街の先にある山の向こうに用事がありましてね。山に登ると疲れるからってんでどうせだから浮いて行っちゃおうと思ったんです。そしたら途中でお腹が減っちゃって、この近辺に落ちちゃったんですよ。で、そこいらをさまよった挙句、奥さんの家に灯りを見つけてお邪魔したというのが事の顛末なわけです。でも本当に悪気はなかったんですよ…と」 神様はドサッとソファに尻もちをついた。
わたしはこの神様の妙技に感心こそしたが、なんとなく(この人はおしゃべりすぎて失敗するタイプだな…)と思った。
「ねえ、神様さあ。他にどんなことができるんっすかあ」 息子がなれなれしい態度で神様のかたわらによりそった。
神様は、高校生の息子よりもはるかに背が小さく、わたしよりも少し小さいぐらいだったので、気の弱い息子からしても与しやすし相手だったのだろう。わたしは「ちょっと初対面の人にそんな横柄な態度やめなさい」と、息子を叱りつけた。
「いや、そんな、様なんて付けられる身分じゃないんで、神さんでいいですよ。僕も人間さんと呼びますから。うへへ」と、神さんは言うと、陽気に肩を揺らして笑った。笑い声はどことなく気持ち悪い変質者を思わせるものだった。

それからわたしと息子は、神さんの素性についていくつか質問を試みたが、なにぶん饒舌すぎるほど饒舌な神様だったので、質問を用意するまでもなかった。まず、名前を訊くと―
「人間さんは、僕に会うと大抵名前を聞きたがるんですけど、そもそも神様に名前はないんですよ。僕らの世界に名前って概念はないんです。だからお互いに神様って呼び合うんですけど、やっぱり集団でいるとややこしいんですよ。神様って呼ぶとみんな振り向きますからね。携帯の電話帳も全部神様だから誰に電話してるかわからなくなることがしばしばです」 「年齢もよく聞かれるけど、いつも2011歳って答えてます。これキャバクラで言うと結構ウケるんですよ」 「ちなみに出身は天界です。えっと、こっち風に言うと、上の世界、天国ってやつですね。でも僕天国に行ったことないんですよ。…だってほら生きてるからねッ。クククククククク」
「それで…お住まいの場所はどちらなんですか?」
「…あ、群馬です」と神様が言うと、ずっとソファの隅で笑いをこらえていた息子が我慢しきれず、その場で笑い転げた。
「天でもなんでもねえじゃねえかよ。群馬ってなんだよ」
「こらっ失礼なことを…」
「いえ、いいんです。いいんです。僕は神様だけど、この世の中で生活する上では人間さんと何ら変わらないわけですから…」

確かに、この神様は普段わたしたちが想像するような神様像とは、はるか遠くかけはなれてはいた。けど、逆にこの平凡さ、ダメさ加減が、本当の神様の存在にリアリティをもたらしている。そんな気がしてきた。…こんなことを感じるのは、わたしが無神論者だからなのかもしれない。でも、神様だって人間だ。人間なのだから必ずしも完璧ではないし、カッコ悪い一面だっていくらでもあるだろう。
「ところで…ご職業は何をされてるんですか?」
「えッ…あ、えーと…あの…あ、神様ですね、神様をやってます」と、なぜか先ほどまで饒舌な独演会をしていた神様の語調が乱れた。
「…具体的にはどんな内容で…?」
「うーん、特にないですね…。しいていうなら、自動販売機のお釣りの取り忘れを調査したり、職業安定所の警備をしたりしてます」
ここで息子がまた腹を抱えて笑いはじめた。「見たまんまじゃねえか。ただの浮浪者じゃん」

神様は、息子の嘲笑に、笑っているような、困っているような、よくわからない顔をしていた。
わたしは首をかしげた。こんな筈はない。「人間をつくったのは神様だ」ときいたこともあるし、現に祀っている人間は五万といる。きっとこの神様が特に不出来な神様なだけで、中には優秀な神様だっているのだろう。人間がそうであるように。
「あの…神さん。もちろん、ちゃんとした職に就いてらっしゃる神様も中にはいらっしゃるんですよね」
「…ううん、いませんねえ。神様はみんな僕みたいな人ばかりですよ。むしろ僕みたいな人だから神様なんです」と、神様はよくわからない理屈を通しはじめると、「とにかく、神様に職なんか必要ないんですよ」と言って、まるで子供がすねたみたいに、さっきまでの調子のいい弁舌はどこへやら、だんまりを決め込んでしまった。
「そりゃ神様だもの、人間を牛耳ってるわけだから苦労なんてないよなあ」と、厭味ったらしく息子が言った。「あんたみたいなのは現世では何ていうか知ってるか。社会的弱者ってんだ」
それに対し、神様は「うは」と感嘆とも驚嘆ともつかぬ、うわずった声をあげると「これは参ったな。そそそ、そんなこと言われてるとわ、むほ」と言った。空気の読めない息子のせいで、気まずい空気が流れはじめたので、わたしは咄嗟に話題をかえた。
「と、ところで神さん。先ほど山の向こうに用事があって、こちらに来られたと…」
「あ、それはですね。この街の先にテレビ局があるでしょ。そこにちょっと文句を言いにいってやろうと思っているんです」
「文句?…何があったんでしょうか?」
「7月24日をさかいにテレビが観られなくなったんですよ。いきなり砂嵐になっちゃってね。僕の町の神様はみんな怒ってます。だから僕が代表して、テレビ局に文句を言いにやってやろうとはせ参じたわけです」
息子が「それ地デジ、地デジ」と言いながら笑い転げた。「とんでもねえ情報弱者だ」
わたしは笑いを通り越して、もはや呆れて開いた口がふさがらなかった。神様というぐらいだ。ある意味で浮世離れしているのかもしれないが、少しぐらいはこの人間社会に順応してもいいだろう。相変わらず、神さんは、息子の嘲笑にどう反応したらわからず、ヘラヘラしている。そのヘラヘラ顔を見ていたら、少しでも畏敬の念を抱いてしまった自分への後悔も相まって、腹の底から沸々と怒りが込み上げてきた。

わたしは、手の平で力任せにテーブルを叩いた。激しい音と共にテーブル上の食器が引っくり返った。神さんと息子もほぼ同時に並んで引っくり返った。
「あなたには神様としての自覚がなさすぎますッ。人間をつくったあなたに言うべきことじゃないのは百も承知だけど言わせてもらいます。世の中では困ったらあなたのために祈る人間だっているんです。あなたを丁重に祀って崇める人間だっているんです。なのに、あなたは自分が神様である自覚も忘れて、のうのうとこんな自堕落な生活をしている…。いったいどういうつもりなんですか。何がしたくてこの世にいるんですかッ。あなたが人間を救えなくて誰が人間を救うんですかッ」
つい頭に血が上って、言いすぎてしまった。神さんは、わたしの叱責の間もソファの下に縮こまり、ブルブルとふるえていた。小声で何かをつぶやいていると思ったら「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も何度も連呼していた。
その時、部屋全体がグラグラとかすかに揺れはじめた。地震?…「あ、地震かあ」と息子が起きあがりざまに言った。「震度3ぐらいかな」

「うわあああああああああああああああ!うわあああああああああああああ!」
途端に神さんは飛びあがり、部屋中狭しと走りまわった。それはまるで首を切られたニワトリの胴体が箱庭を走りまわるような、マヌケともいえる、狂乱の光景だった。「神さん、落ちついてッ」 わたしと息子で二人がかりで押し倒すと、涙目であらぶる神さんを落ちつかせることに終始した。しばらくすると、地震も止んで、神さんの息遣いもゆるやかになってきた。
「母さん、うちら神の怒りを鎮めたね」と、息子がめずらしくうまいことを言った。

神さん曰く、神様の世界では防災意識がなってなくて、地震が起こると神様たちは皆パニックになるらしい。汗まみれの額を息子の渡したタオルで拭きながら、神様は青息吐息、「地震は怖いですね。今頃地元は大騒ぎだろうなあ…。心配です」と言った。そこで「地震を起こしてるのは地震の神様じゃないのかよ」と、息子が訊くと―「地震の神様なんていやしませんよ。仮にいたとしたら、それは人間さんが創作した偶像の神様です」と、答えた。
わたしは、この≪偶像の神様≫という言葉に、若干の違和感を覚えた。神様とはそもそも人間が勝手に創った産物なのだろうか。でも現に目の前にいるのは神様だ。人間の前に実体をあらわすのが本当の神様なのか。実体すらあらわさず、偶像でありつづけるのが神様なのか。そもそも神様とはなんだろう。神様はなぜ神様として、この世にあるのか。神様はなぜ…。

「あ…あの神さん。では、どうして神様はこの世にいるんですか?」

これこそが核心に触れる質問のような気がした。
神さんは、軽く咳払いをすると、またも饒舌に語りはじめる。
「僕がこの世にいるのはあなた方人間と同じで、気づいたら、ここにいたからいるんです。ただ、それだけです。使命なんてないですよ。もともと、古来から神様というのは、少しだけ空を飛べたり、瞬間移動ができたり、透視できたりするだけの人たちだったんです。特殊能力があるけど、それ以外は普通の人間。ほら、あの、キリストだってブッダだってみんなそうです。特殊体質の人たちです。我々は脳の使ってる部分が違う?…とか親戚のおじさんに聞いたことがありますけどね。僕は馬鹿なのでよくわかりません。僕らからしたら、人間さんの方がよっぽどすごいです。さっきの…ほら地デ…えーと」
「地デジだよ」と息子。「そう、地デジ。地デジとかね、僕らが全く知りもしないことを人間さんたちは知っている。ほんとドンドン置いてけぼりにされるような気持ちですよ。人間さんは自分たちは僕らより下だってふるまうけど、僕らが知らない間にどんどん進化してしまうんですから」
「それじゃあまるで人間が祀って崇めて甘やかすから、神様は堕落したみたいな言い方じゃん」と息子が言うと「違うんですよ、そうじゃないんです。本当は神様こそが人間を祀って崇めてるんです。僕らはさっきの地震みたいな災害や怖い事件とか…そんなことが起こると、まず人間さんに祈るんです。人間様、これ以上やめてくれって。地震怖い。火事怖い。不況になるとご飯食べれないって…」
「でも、人間の中には神様をよりどころにする連中は山ほどいるじゃん。カルト宗教みたいなさあ」
「いや、ああいうものを創れるからこそ、人間は神様なんですよ。僕らはみんな馬鹿だから、あんな大そうな組織はつくれません。奥さんのさっき言った≪神様が人間を救わないで誰が救うんだ≫ってことも逆に僕らが訊きたいぐらいです。≪人間が神様を救わないで誰が救うんだ≫ってね。僕らの世界では人間こそが神様なんですよ。人間さんはよく僕らを拝んだり祀ったりするけど、そもそも誰も頼んでないですからね、そんなもん。僕の地元にいる神様みんな言ってますよ。俺らは何もしてないのになんであんなに丁重に扱うんだって。逆にやりづらいよって…」

気づけば、神さんは泣いていた。子供のようにボロボロと涙を流し、泣きむせぶ中年の小男―神さんに、他人のことなどいっさい興味のない息子が、黙ってティッシュを渡した。「ごめんよ。ありがとう、ありがとう」
そこでわたしは、このどうしようもなく情けない神様に対し、おかしな同情心を抱いてしまっている自分に気づいた。
それが愛情によるものなのか、哀れみによるものなのか、そんなことはわからない。でも、とにかく、今日から自分を無神論者と自認するのはやめようと思った。

「いつも思うんですが、どうして人間の皆さんは、何かあるたび僕らをいじめたり、持ち上げたりするんですかねえ。僕らだって同じ人間なんですから…普通に生きようと思ってるんですけどねえ…」

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