第1話

文字数 1,567文字

「それでさぁ、上司がさぁ・・・」
 喋っているのは「大矢裕樹」という名前のサラリーマンだ。彼は人と会話するのが大好きな男だ。一度話し始めてしまうと話が止まらず、他の人間がなかなか話が切り出せなくなってしまって多くの人たちが、大矢との会話には億劫に感じてしまうようだ。その友人である「上田正人」がここの件について切り出すこととなった。
「あのさ、裕樹。お前、会話する時、もうちょっと聞き役に徹したほうがいいと思うよ」
「どういうこと?」
「喋りすぎというか、相手や周りが会話できる機会が与えられなさすぎて、会話になってないことが多いんだ。結構、みんなそのことについて悩みんでいたから、もうちょっと自分の話をするよりも人の話を聞くことを意識したほうがいいよ」
「そうか」
 上田と大矢は昔からの付き合いという名の腐れ縁でもある。同じ学校で同じ会社に所属している。そのこともあって、お互い思ったことはなんでも言えるような関係だ。だけど大矢は事実を突きつけられて少し落ち込み気味ではあるが、相手のことを考えていなかったことへの反省も感じていた。
 反省の意も込めて、まずは本屋に寄って「聞くこと」や「聞き役」、「傾聴」などといった聞くことに関するキーワードがタイトルに含まれている本を数冊購入し、仕事終わりはそれらを読んで、読んだ内容を実際に試すようにした。
 数日経った時だった。大矢は仕事以外で人と話すことがほぼなかった。上田も話していなかったため、久々に話しかけ、少し世間話を行なった。
「“『炎天下』と呼ぶべき最高気温”っていう、記事を読んでさぁ、いよいよ夏が来たんだなぁってことを実感し始めたんだよね」
「あー、そうだね。空気がモヤってするような暑さを感じるから、夏が来たんだなぁって思う」
「熱中症も増えてるみたいだぜ。運動部の学生さんとか大変そうだよな」
「この時期だと高校野球が始まったところだから、健康だけは気をつけてもらいたいよな」
 上田は物珍しさを感じた。あの大矢が話を合わせているのだから、たった数日でここまで変わるんなんて、人って頑張れば変わることができるんだなぁ、と感心している。
「お前、すぐ変わったな。前はあんなにべちゃくちゃ話していたのに」
「『聞くこと』に関する本を何冊か読んでいるんだけど、どれも面白くて頭の中に内容が入ってくるから実践してみたいと思っていたんだ」
「だとしても、こんなすぐに変わるとはなぁ。感心だよ」
 大矢の喋りすぎという問題は解決された。友人の上田だけでなく、他の社員との会話でも大矢の一方通行にはならず、平穏な会話が出来上がっていて、上田だけでなく、他の社員たちも大家が改心したことに感心していた。上田もこれで問題は解決されて、平穏な人間関係を築けられると思っていた。しかし、数週間後の話だ。新たな問題点が現れてしまった。
「最近、このゲームが面白くて、もっと円滑に進めたくて、ついつい課金しちゃったんだよねぇ」
「ンッ」
「数千円も使っちまってさぁ、ゲームを楽しむためとは思いつつも、今思えばやっぱ課金するべきじゃなかったなぁ、ってちょっと後悔しているんだよね」
「ンッ」
「・・・お前、俺の話を聞いてるのか?」
「ンッ」
 このように言葉を発しているのかどうかすら怪しい一言しか発せなくなってしまった。こんな言葉を発していても、一応うなづいてはいるから聞いているのは確かだ。だが、自分が思うことを口にしなくなってしまったのだ。どうやら本を読みすぎたのか、聞くことにしか重点を置けなくなってしまったかもしれない。むしろ、どう本を読んでそんな風になってしまったのかが知りたくなる。そして、周りの社員からは「何も喋らなくて却って困る」という不満も出てきているところから、また指摘しないといけないのかと思うと憂鬱に思う上田だった。
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