沼からの手招き

文字数 14,339文字

 目を覚ますと、私は見知らぬ部屋の片隅で椅子に腰掛けていた。
 一般的な部屋とは比べ物にならないほど広く、天井は高くて大きなシャンデリアが吊り下がっており、窓のカーテンには凝った刺繍があって、ベッドは当然のようにクイーンサイズの天蓋付き、その他の家具や絨毯なども格式高い物である事がひと目で分かる。
 先程まで私は骨董店にいたはずなのに、どうして見知らぬ部屋にいるのだろうか――はてさて、この状況を今の私が説明するには非常に困難であるため、後にその訳を知った自分を少し先取りして、事の起こりを話す事にしよう。
 あれは昼下がりの出来事であった。
 人通りのまばらな道沿いにある小さな骨董店で働いていた私は、いつものようにまったくお客さんの入ってこない店内で退屈していた。接客業から接客を取り上げられた店員がやる事と言えば、きっと清掃か居眠りかのどちらかであろう。
 私もその内の一人であり、最初は昨日まで進めていた清掃の続きをするべく、まだ触れた事のない骨董品を探す作業から始めた。お客さんは入ってこない割に、いやお客さんが入ってこないからこそ、店内にはよく分からない物がたくさんあるのだ。
 無造作に置かれた骨董品の埃を落とす作業で時間を潰すが、それも次第に飽きてくる。
 何の皮肉かお客さんの代わりに窓から入ってくる日差しの心地良さも相まって、私は薄っすらと眠気を覚え始めていた。いくら暇でも居眠りは良くないだろうと堪えていたのだが、やがて商品の一つである椅子に腰を下ろして、ついうっかり眠ってしまったのだった。
 ちなみに店内には私以外に、店主であるお婆さんがいる。彼女は目も悪くて少々呆けているために私の行為を一切咎めない。ただ座敷の間の座布団の上でじっと座っているだけだ。
 そんなところへ、一人の来店客が入ってくる。
 そのお客さんは女性であり、どうやら外国人のようであった。
 長身で透き通るようなブロンドの長い髪と青い瞳、白黒の生地に紅を差したロリータ風のワンピースドレスを着こなしており、まるで海外のお人形さんのような美しさだ。少なくともこんな古臭い場所に似つかわしくないお客さんである事は間違いない。
 外国人の女性は店内をざっと見回した後、椅子で眠りこけている私に目を留めた。
 コンクリート床をローヒールの踵で鳴らしながら近付いてくると、手袋をはめたままのその手で私の髪を撫で、私の肌に触れる――思い返せば、この時の私はとても気分の良い夢を見ていたように思う。
「お婆様、このドールの値はいくらなの?」
 女性は流暢な日本語を喋った。
 しかし、その言葉を投げ掛けた相手は目だけでなく耳も悪く、何の返事もしない。
「お婆様?」
 二度目の呼び掛けに反応しない様子を見ても、外国人の女性は少しも苛立つ事なく、上品な足取りでお婆さんに歩み寄った。今度はお婆さんの耳元に顔を近付けて、やや声を張る。
「お婆様、あちらの椅子に座っているドールですけれど、値はいくらなのですか?」
「はて、ドール?」
 お婆さんは女性の指差す方向に目を凝らした。
 きっと、彼女のぼやけた視界では普段から私の事を曖昧に認識していたのだろう。さらに呆けも手伝って、私の存在をとんと忘れて、あるはずのない品物だと気付けなかったらしい。
「ああ、あれはね、きっかり十万」
「十万円ですか? あんなに精巧で美しいドールがたったの十万円?」
 先程は反応の鈍いお婆さんを相手にしても態度を崩さなかったのに、その値段を聞いた時の女性は僅かに驚いていたようであった。
「分かりました。では、そこに私の気持ちも含めて、現金で三十万円を支払います。今すぐにあちらのドールを引き取ってもよろしいですか? ……いえ、包みは結構です。外に車を待たせていますからご心配なく」
 かくして、私は見知らぬ部屋の椅子の上で目を覚ますに至ったのである――ここからはまた現在の困惑する私に視点を戻して、事の成り行きを見守る事にしよう。
 私が状況を飲み込めずに視線を彷徨わせていると、部屋の扉が音もなくすっと開いた。
 扉の向こうからブロンドの長い髪をした綺麗な外国人女性が現れる。この部屋の雰囲気に相応しい容姿と恰好をしており、日本人がすればコスプレになってしまうロリータファッションも、その女性にかかれば普段着と変わらない自然な着こなしになっていた。
 彼女は私の目の前まで来ると、膝を折って目線を合わせてきた。
「ああ、やっぱり貴女は本当に美しい」
 心の奥底にまで入り込むような青い瞳に見つめられて、私は体を動かせずにいた。もし、その瞳に相手を金縛りにする魔力があると言われても、私は決して疑わないだろう。
 彼女は私の頬に手袋越しの指先を這わせて、うっとりとした表情を浮かべる。
「でも、不思議、これほど精巧なドールになると、あたかも生きている人間と同じように寝たり起きたりするものなのね。瞬きもとても自然で愛らしいわ。ああ、貴女には三十万円なんて安過ぎた、けどもし仮に、あの時に三百万を支払っていたとしても、私はきっと今と同じ事を言ったでしょう」
 どうやら、彼女は私の事をドールか何かだと勘違いしているらしい。
 等身大ドールと見間違うほど私が綺麗に見えているのであれば光栄だが、私は人形でも作り物でもなく本物の人間だ。一刻も早くその事を説明し、ここから解放してもらおう。
 私が口を動かそうとした瞬間、彼女がより近くに顔を寄せてきた。
「私はアリス。そして、今日から貴女の名前はミア(Mia)、よろしくね?」
 アリスは柔らかく微笑む一方で、見開いた両目で私を食い入るように見つめている。
 彼女の瞳の青色はとても深く、その真ん中にある瞳孔は真っ黒だ。まるで透き通った海にぽっかりと空いた大穴の底を思わせるような、魅力的ながらも一種の恐怖感を覚えてしまう。
 この時、私は底知れぬ身の危険を感じた。
 彼女に私が人間である事を知られてはいけない。手足や顔を動かすのはもちろん、口を開いて「私はドールではありません」と説明するなんてもってのほかだ。そんな事をすれば、彼女の顔から笑みが消え、次にどんな行動に出るのか知れたものではない。
 自分の身を守るためにドールの振りを続けていると、アリスは私の髪に触れてくる。
「そうね、まずは貴女を綺麗にしてあげる。それに体のパーツの具合も確認しないと」
 彼女の手は私の上着を取り、シャツのボタンを外して、スカートのベルトを緩める。他人の服を脱がす動作に慣れているのか、椅子に座った状態の私からいとも簡単に衣服を奪い去っていき、最後には下着姿へと変えてしまった。
「ああ、なんて綺麗な肌、服の色移りも一切ない。レジン素材で関節のあるタイプが一番の好みだけれど、シリコン製のシームレスドールも悪くないものね」
 アリスは中指の先を伸ばして、私の胸部と腹部の境目をゆっくりとなぞり始めた。
 私は体を動かしてしまわないようにくすぐったいのを我慢する。
「繋ぎ目がまったく分からないわ。骨格はワイヤーフレームかしら、テンションゴムの交換が必要ないのは楽だけれど、体のパーツを変える楽しみがなくなるのは少し残念ね」
 不穏な言葉を耳にした私はぞっとする。まさか手足や胴体を取り替えるつもりだったのか。
 彼女の指先は背中や腰、足へと滑っていく。体の隅々を触診するような動きに、もしや下着で隠れている部分まで触ってくるのかと身構えたものの、さすがにそこは避けてくれた。
 それが終わって元通りに服を着せた後、今度は私の髪を櫛で梳かし始める。
 彼女の櫛の使い方はとても上手で心地良かった。
 最初に櫛の浅い部分や指の腹を使って毛先のほつれを解していく。櫛の引っ掛かるほつれがなくなると、次にゆっくりと時間を掛けて毛先に近い部分を梳かして、最後の仕上げに根本から毛先までを綺麗に伸ばす。使っている櫛も静電気が起きにくい木製の物だ。
 この事から、普段から髪の毛のお手入れには気を遣っているであろう事が分かる。
「はい、これで綺麗になった。ああ、そういえば、まだみんなを紹介していなかったわね?」
 そう言って、アリスはお姫様抱っこの要領で私を抱きかかえる。
 あまりにも軽々しく私を持ち上げるので、自分は本当にドールなのではないかと疑ってしまった。私を抱える彼女の腕にも一切の力が入っていないような気もする。
 天蓋付きベッドの反対側に回り込むと、彼女は私をベッドの上に座らせて、その近くにあるガラス戸付きの棚の前に立った。
「ミア、今日からこの子達が貴女のお姉様になるのよ」
 その棚の中にはたくさんのドールが並んでいた。
 ざっと数えた限りでは全部で二十九体だろうか。それらの全てが四十センチぐらいの女の子ドールなのだが、どれ一つとして同じ顔をしたものはなく、可愛い顔立ちもあれば美しい顔立ちもあり、そこに十代の少女や二十代の女性など雰囲気の違いが見て取れる。
「一番上の左からアメリー、シャルロット、クラリス……」
 私の背中に微かな悪寒が走る。
 それというのも、棚の中でお行儀よく座っているドール達の視線が一斉にこちらへと向けられたからだ。いや、それはガラス製の眼球特有の追視のようなもので、私が勝手にそう錯覚しているだけなのだろうけど。
 アリスの視線もやはり不気味だった。棚の中のドールを見ているはずなのに、どこか常に私の事もじっと見つめているような、無機質さを含んだ目をしているのだ。
「……ジャンヌ、イザベル、そして最後がミレイユ」
 二十九体全ての名前を言い終えたアリスは私の傍に寄って、ドールの方へ体を向ける。
「みんな、この子は新しい妹のミア、仲良くしてあげてね?」
 目だけを動かしてアリスの顔を見上げると、ドールを見ているはずの彼女と目が合った。
 どう考えてもこの状況は尋常ではない。
 彼女の隙を見て早く逃げ出さなければ、私はどんな目に遭うかも分からない。彼女が精神的疾患を抱えているのか、それとも私に特別な感情を抱いているのかは不明だが、少なくとも正常な感性を持ち合わせていない事は確かだ。
「あら、そろそろ夕食の時間ね」
 壁に掛かった時計を見て、アリスはそう言った。
「ミアもお腹が空いた頃でしょう。食事の用意をするから、少し待っていてね?」
 彼女は私の手をそっと掴み、私の顔をじっと見つめる。
 お互いの鼻先が触れそうなほど近くに彼女の顔はあって、その両目は言葉通りに私の目の前ではっきりと開かれていた。瞬きをする事すら忘れていそうな熱心さで、口の端に薄っすらと湛えた微笑には恍惚とした表情さえ窺える。それほど私の顔が気に入っているだろうか。
 彼女は私を最初に座っていた椅子へ戻して、あたかも今生の別れを惜しむような様子で歩き始め、部屋の出入口である扉の前で一度立ち止まると、こちらを振り返った後にようやく部屋から出て行ったのであった。
 ここから逃げ出す絶好の機会ではあったものの、私はすぐに動き出せずにいた。
 部屋の外からアリスの足音が聞こえてこないため、彼女がまだ扉の向こうに立っているような気がしたからだ。これまでの彼女の言動を考えれば、身動ぎもしないまま扉の前に張り付いていても不思議ではない。
 そうして様子を窺っている間も、時計の秒針の進む音が聞こえてくる。
 私は何に怯えているのだ。次にまたいつ逃げ出す機会が訪れるか分からないのだから、ここは思い切って行動を起こすべきだろう。
 体を膨らませるように大きく息を吸うと、手足に血が通って、自由に動き回れる感覚を取り戻した。今度は息を吐き出す勢いを利用して椅子から立ち上がる。
 真っ先に駆け寄ったのは窓だった。
 ここからなら手っ取り早く外に出られる。そう思って、窓の鍵に手を掛けると同時に外へ目を遣った瞬間、それは不可能だと悟った。窓ガラスに映った、私の失望した顔を透かして見えたのは、一面に広がる青々とした森の絨毯と真っ青な空の天井だったのだ。
 一縷の望みをかけて飛び降りるのも一つの手だろう。着地する箇所が酷くなければ、手か足の片方、もしくはその両方を失う代わりに、命だけは助かるかもしれない。
 だが、私にはそんな大きな賭けをするほどの勇気はなかった。
 窓が駄目なら、あの扉から廊下へ出るしかない。この屋敷がどれほど広くてどんな構造をしているのかは分からないが、アリスに見つかるより先に階段を見つけて一階へ下り、玄関から外へ出なければ。でも、もしアリスと鉢合わせたら、私はどうなってしまうのだろうか。
 踏ん切りがつかずに部屋の扉を見つめていたその時、ドアノブがゆっくりと回り出した。
 椅子に戻るのは間に合わないと判断した私は、咄嗟に椅子の足元の床に倒れ込む。
「お待たせ、ミア、すぐに美味しい……、ああっ!」
 アリスは短い悲鳴を上げて、少量の食事の載った丸い銀のトレーを手から滑り落とし、すり足気味に、それでいて駆け足気味に私の元へと近寄ってきた。
「どうして、こんな事に……」
 アリスは私を抱えてベッドへ運び、そこへ仰向けにして寝かせる。
 私の顔を覗き込んで、何度も頬や首筋を触って、その後は肩から足の爪先にかけてを丹念に掌で撫でていく。彼女の手付きは少しばかりくすぐったさがあったものの、それよりも増して妙に心地良い、まるで母親に痛むところを撫でられているような安心感があった。
「どこも壊れてはないみたいね、良かった。ああ、ごめんなさい、私がしっかりと椅子に座らせていなかったのね? 貴女みたいに大きなドールは初めてだから、まだ扱いには慣れていないの。怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」
 そう悲しむ彼女の表情にはいたいけな少女を思わせる悲痛さがあった。
 ドールに対するひたむきな愛情が窺えて、思わず私も同情の念に誘われて、気を緩めてしまえば「私は大丈夫だから安心して?」と口にしてしまいそうだった。
 数分ほどの間、アリスはただひたすら私の頭を撫で続ける。
 そうしている内に気が落ち着いたらしく、私をベッドに寝かせたままにして、彼女は先程食事の載ったトレーを落とした床回りの掃除を始めた。
 その様子をよく眺めていると、零した食事の量はやけに少ないし、そもそも床はまったく汚れていない事に気が付いた。しかし、それもすぐに当然の事だと得心する。彼女がドールである私に本物の食事を用意するはずはないし、服や顔を汚す可能性のあるものを私に近づけるはずがないのだ。
 掃除を終えた後の彼女はまったく私から離れようとせず、こちらへ一途な眼差しを向け続けて、時折私の髪先を撫でたり頬の上に指先を這わせたりするだけであった。
 そうした調子のまま夜を迎えると、アリスは「もう寝る時間ね」と呟いて、ベッドの上に寝かしつけた私へ毛布を掛ける。シャンデリアの電気を消して、室内がベッドの近くの窓から入ってくる月明かりだけになった。
 アリスが部屋から出て行けばまた脱走の機会が得られたものの、そう上手くはいかない。
 彼女はドールの並んだ棚が見える方のベッドの傍らに椅子を持って来ると、そこへ腰を下ろして姿勢を正し、それまでと同じように私の顔をじっと見つめてくる。
 その佇まいは不気味な様子ながらも、どこか神秘的な気配を漂わせるものであった。
 僅かな月明かりに照らされた彼女の肌は恐ろしいほど白く、それこそ月明かりそのものと言っても良いほどであり、またその瞳は夜にじんわりと浮かび上がる蛍光の灯のようで、妙に湿り気のある紅味の差した唇と共に異質な存在感を放っていた。天井から糸で吊り下げられていても不思議ではないほど背筋が伸びており、両肩の高さがきっちりと揃って、両手をお行儀よく膝の上で合わせている。
 そこへ極端に少ない瞬きの回数も相まって、これでは私よりもよっぽどドールらしいのではないだろうかと思ってしまった。
 彼女の背後には二十九体のドールの並べられた棚がある。棚の中は月明かりによる影ができているためによく見えないものの、ドール達の方からは私の事がよく見えているとでも言いたげに、たくさんの小さな瞳が光っているように感じられるのだった。
 これだけの気配と視線に晒されて、ぐっすりと眠れるはずがない。
 そう思っていたものの、アリスの熱心な眼差しを見つめ返していると、体全体に走っていた緊張が揉み解されるように溶けていくのを感じ、理性では抗い難い睡魔がふつふつと湧き上がってくるのであった。

  ――――

 ふと目が覚めると、周囲にはアリスの姿がなかった。
 ベッドの上から辛うじて見える、壁に掛かった時計の短針は六と七の間を指している。時計の針が見えるほど室内が明るいという事はおそらく午前六時を過ぎた頃であろう。
 私はアリスが部屋に入ってきて、早くベッドから起こしてくれないかと待った。
 だが、よくよく考えれば、私はそれを待つ必要がない事に気付く。それどころか、彼女の手から逃れる二度目の機会であり、今すぐにでも行動を起こすべきであった。
 起き抜けの気怠さのせいか、思ったように力の入らない体をなんとか動かして、這い出すようにベッドから抜け出す。覚束ない足取りで立ち上がり、外の様子を確認するために手近な窓へと歩み寄った。
 外の明るさで束の間目を細めた後、地上へと視線を下ろす。
 すると、屋敷から出て来たばかりであろうアリスが日傘を差して、森の方へと向かって歩いて行くのが見えた。遠目ながらもその人影がアリスである事を私は確信して、今この瞬間を逃してはならないと思い、あえて後先を考えないようにして部屋の扉へ駆け出す。
 廊下へ飛び出した直後、背後から誰かの笑い声が聞こえたような気がした。
 廊下に立っていた私が部屋の中を振り返ると、その視線は自然とベッドの傍にあるあの棚へと吸い寄せられる。二十九体のドール、彼女達は大人しく飾られていた。先程聞こえた笑い声は複数人の、しかも少女の声だったようにも思えたが、まさかドールが笑うはずもない。
 私は深く考えまいとして、廊下の方へ向き直る。
 廊下は長い通路になっており、それが左右のどちらにも伸びていた。片側の壁には他の部屋に通じているのであろう扉が、もう片側の壁にはアーチ状の嵌め殺し窓がほとんど等間隔に並んでいる。廊下の先が見えない事から、この屋敷は相当な広さを持っている事が窺えた。
 ひとまず一階へ下りる階段を探さなければと、私は直感的に左方向へ走り出す。
 仮にこの選択が間違っていて行き止まりに突き当たったとしても、それなら反対方向へ戻れば良いだけの話だ。考えても分からない事に足を止めて時間を無駄にするより、動き回って屋敷内の構造を把握した方がよっぽど有意義だろう。
 廊下には床を踏み鳴らす私の足音だけが響く。
 左手には何枚もの扉が、右手には何枚もの窓が通り過ぎていき、それらが廊下の先からまた次々と現れる。途中から扉の枚数を数えて、自分がどれくらい進んでいるのかを確かめようとしたものの、三十数枚目の扉を数えた辺りで意味のない事だと思って止めた。
 廊下の終点は一向に見えてこない。階段どころか、行き止まりの壁すら見当たらず、ここまでに曲がり角の一つもなかった。私は豪邸に住んだ事がないものの、このようにただ一本の廊下が長々と続いているのはさすがにおかしい事ぐらい分かる。
 息切れを起こし始めていた私は一旦立ち止まって、右手にある窓の一つから外を眺めた。
 雲一つない空は青く、屋敷を囲む森はどこまでも広がっている。ここから地上までの高さは少なくともマンションの四階以上はありそうだ。
 私のいた部屋から見えた景色と何一つ変わったところはない。窓の外を注目しながら廊下を少し進んでみたが、やはりその景色に変化は見られなかった。まるで切り抜いた絵を何枚も複製して、窓の枠に合わせて貼り付けているだけみたいだ。
 そうだ、もしかしたらこれは窓に描かれた絵なのかもしれない。
 そんな馬鹿げた考えが浮かんだのはほんの一瞬の事であった。
 空の青さはよく見慣れたものであり、森は風を受けてそよいでいるのだから、これが絵であるはずがない。それに私は先程屋敷から出て森の方へと歩いて行くアリスをこの目で見たのではないか。つまり、彼女と同じように私も外へ出る事ができるはずだ。
 ただ、どういう訳か、この廊下に終わりは見えない。こっち側ではなく、反対方向の廊下の先には階段があるのだろうか。それとも、何かしらの特殊な仕掛けがあって、それを解かないと下の階へは下りられないようになっているのだろうか。
 何にしても、今は元いた部屋へ戻った方が良いかもしれない。あれからどれほどの時間が経ったのかは分からないが、いつまでもアリスが帰って来ないとは限らない。
 出口を見つけられなかった以上、身の安全を確保するにはドールの振りを続けるしかないのだ。少なくともアリスが早朝に外出する事は確認できたのだから、また彼女の不在の時を待って、この屋敷から抜け出す方法を探ろう。
 私は踵を返して、廊下を歩いて行く。
 アリスと鉢合わせになるのは怖かったが、すでに走って疲れた体をまた激しく動かせば汗をかき、乱れた呼吸を落ち着かせるのにも時間が掛かって、部屋へ戻った時にすぐさまドールの振りをできない。それに昨日から何も口にしていないので、あまり元気が出なかった。
 歩き始めて間もなく、廊下の先に扉の開け放たれた一室が目に入る。
 先程進んでいる時には扉の開け放たれた部屋は一つも見かけなかった。今更ながら、この屋敷にはアリス以外の人間が住んでいる可能性もある事に気付く。これだけ広いのだから使用人や他の住人がいてもおかしくはない。
 その中を恐る恐る覗いてみると、そこはなんと私が元いた部屋であった。
 思い返せば、私は確かに部屋の扉を閉めていなかった。というよりも、この部屋へ戻ってくる時の事を考えて、無意識の内に目印としてわざと扉を開けたままにしていたのだろう。
 ただ着目すべき点は他にあって、この部屋に戻ってくるまでの距離だ。
 私は部屋を出てからそれなりの時間を走った。それこそ何十枚の扉を通り過ぎるほどの距離を進んだ事に間違いはない。
 それがどうした事だろう。戻る時はたった数枚の扉を通り過ぎただけで、しかも歩き始めてすぐに元いた部屋へと辿り着いたのだ。日常生活において、行きと帰りで同じ道を通った際に帰り道の方が短く感じる時もあるが、これはその限度を超えている。
 私は部屋に入って扉を閉め、天蓋付きベッドの上に座り込んだ。
 無機質な視線を感じて、棚の中に並んだ二十九体のドールへ目を向けると、彼女達が一様に笑みを浮かべているように見えた。私の取った行動を無駄な事だと嘲笑うかのように。

  ――――

 次に私が一人で動ける自由を得るのは、一ヶ月も後の事であった。
 その間、アリスは一日のほぼ全ての時間を私の世話に費やしていた。
 私が脱走しようとしていた事など知らずに、彼女は相変わらず私をドールとして愛しているようであった。毎日丹念に私の髪を梳かし、濡れたタオルで綺麗に体を拭き、また三日に一度は新しいドレスを縫っては私に着せて、その様がいかに美しいのかを熱っぽい言葉で飽きもせずに囁くのである。
 まともな感性をした人間であれば、こんな扱いには三日も耐えられないだろう。しかもドールのように一切の身動ぎをせず、声も出さず、一点を見つめ続けるなんて拷問でしかない。
 しかし、私は辛抱し続けた。
 私をドールだと信じるアリスの顔には真に迫るものがあるからだ。とても演技や冗談で私にこのような仕打ちをしている風ではなく、彼女は心の底から私をドールだと思い込んで、一心の愛情を注ぎ込もうとしていた。
 きっと気の違った可哀相な女性なのだ。子を失った母親がその子の代わりに赤ん坊の人形を愛する事例が実在するように、彼女もそれに似た問題を抱えているに違いない。
 そんな人間に真実や正論をぶつけるのはかえって危険な行為だろう。
 これは私の想像でしかないが、真実を知った彼女はきっと私を殺そうとする。私は当然死にたくはない。だから、この屋敷から出る方法が分からない今、大人しくドールの振りをして彼女に合わせるしかないのだ。
 幸か不幸か、私は徐々にドールの振りをする事に慣れていった。
 一週間も経つと、ほとんど動かす事のなくなった私の体は長い時間をじっとしていても苦痛を感じず、微かな身震いも抑えられるほどドールに成り切っていた。瞬きの間隔も一秒、また一秒と伸びていって、乾いた目の痛みに頭を悩ます必要もなくなる。
 そのおかげで、私はいくらか体の緊張を緩めて、アリスの言葉や行動の一つ一つをより注意深く観察できるようになったのだった。
 彼女が私に話しかける時の言葉選びや仕草、私の体に触れる時の手付き、私の事をどのように想っていて、どれだけ大切にしたいと考えているか。それから喋る時の声の高さ、歩く時の歩幅、私を見つめる時の瞳孔の開き具合、そして息を吸って吐く時の長さ、その他にも今まで意識した経験のなかった他人の細かな部分が目についていく。
 それらの中でも特に印象深かった彼女特有の癖が何箇所かあった。
 その内の一つは呼吸の浅さである。
 ある夜の事、アリスは私の寝ているベッドの中に入ってきた事があった。私には一切触れてこなかったものの、彼女の鼻先が私の頬を撫でそうなほど顔を近付けてきたのだ。
 そこで私はふと違和感を覚えた。
 それだけ近くにいるのにも関わらず、アリスは気配を消したように静かで、まるで死んでしまった人間の体のように微動だにしなかったからだ。
 しばらくして、私はその違和感の正体は彼女の息遣いにあるのだと気付いた。
 全ての神経を集中させて耳を澄ませば、辛うじて聞こえるか細い息遣い、本当にちゃんと息ができているのか心配になるほど浅く、一度吸って吐いたら次にまた吸うまでの間隔が驚くほど長い。というよりも、わざと息を止めているのかと私は思った。
 ドールの振りに慣れていた私も多少息が浅くなりつつあったが、彼女の場合は息をする事を忘れているのではないかと疑いたくなるような呼吸の浅さだった。
 もう一つの印象深かった彼女特有の癖は私を見つめる頻度である。
 これまでもそうであったように、彼女は事あるごとに私を熱心に見つめた。私に話しかける時も、私の着替えをする時も、私の髪を梳かす時も、私が就寝する時も、とにかく彼女の目が届くところに私がいるのであれば、必ず食い入るようにじっと見つめてくるのだ。
 ただ、その程度があまりにも異常だと感じた瞬間もあった。
 いつの日だったか午前十時を回った頃、アリスが私の髪の些細なほつれに気付いて、櫛を掛け直そうとした。彼女は「そうだわ、せっかくだから、たまには気分を変えて、美容師ごっこをして遊びましょう?」と言い出して、壁に掛かった楕円形の鏡の前にある椅子へ私を座らせると、何か必要な道具を取ってくるためか、部屋の奥にある棚へと歩いて行く。
 私は正直、彼女に髪のお手入れをされるのが好きになっていた。過去に通った事のあるどんな美容院よりも髪の扱い方が上手だったし、丁寧に櫛を通してくれて、その手付きには一途な愛情と偽りのない優しさが籠もっていて、本当の幸せを感じさせてくれる。
 アリスに早く私の髪を触って欲しい。
 そう思って、つい鏡越しに彼女の姿を認めた瞬間、私は思わず息を呑みそうになった。
 彼女は棚の前で立ち止まっており、こちらをじっと見つめていたのだ。身動ぎもなく、瞬きすらしないまま、ただ無表情で真っ直ぐな視線を私へと投げ掛けていた。本物のドールよりも整った彼女の容姿も相まって、それは酷く無機質な感じがしたのだった。
 幸いにも私は首や顔を動かしていなかった。そのため、彼女が私の秘密に勘付いた訳ではなく、ただいつものように私の事を熱心に見つめているだけなのだと察したのである。
 その状態が数分ほど続いた後、彼女は何事もなかったかのように、棚の中から梳きバサミやヘアブラシ、髪留めなどを取り出して、私の元へと戻ってきたのであった。
 これ以来、私は鏡や窓ガラスなどの反射越しにアリスの視線を意識するようになった。彼女は私の視界から離れている間もずっとこちらを見ており、一度でも私へ目を向けると満足するまでそれを止めず、長い時は十分近くもその状態を保ち続けているようなのだ。
 この二つ以外にも、彼女は常に手袋を外さず裸足さえも見せない事、生活音や体の動作に伴う物音をほぼ立てない事、昼間でも太陽の光がよく入る日は窓のカーテンを閉める事など、神経質そうな性格を窺い知れるところがある。
 アリスの事を知るにつれて、やはり彼女は普通とは違う性癖を持つ人間なのだという私の考えが強まっていく。しかし、それは時に彼女の一面に意外性をもたらす事もあって、ある時何もないところで躓いて転んだアリスがそのまま起き上がらず、少しの間を置いてゆっくり立ち上がるとまず自身の体をしきりに確認し、それが済んだ後は鏡に向かって自分の顔を眺め、ほっと安心した素振りを見せた事があった。それから私を見て、「大丈夫、ミアにはこんな怖い思いはさせない、だから安心してね?」と言ったのである。
 これは以前、私が椅子から床に落ちた振りをした時の反応と似ていた。
 顔や体に傷が付く事を極端に恐れているのだろうか。特に恵まれた容姿を持って生まれた女性であれば、それを失わまいとする気持ちが働くのは当然の事だと言えるかもしれない。
 この点に関しては、多少なりとも同性として理解できる部分はあったのだった。
 さらに一週間が過ぎた頃、私はドールとして振る舞うのが当たり前になり過ぎて、疲労や空腹、眠気といった感覚が自分とは縁のないものだと感じるようになっていた。
 事実、一日中を同じ体勢で過ごしても疲れないし、この二週間ほど何も飲み食いをしていないのにお腹は減らないし、最近は日に日に睡眠時間が短くなりつつあって、また夜遅くまで起きていたとしても翌日寝不足を感じる事はない。アリスが食事の時間と言って、空のティーカップと偽物のクッキーを持って来るのだが、それを見ても私の食欲は一切刺激されない。
 いや、そんな事はどうでもいい。
 私が気に掛けるべきはアリスの事だけだ。
 アリスが私のために髪を梳かし、体を拭いて、新しいドレスも作ってくれて、変わる事のない愛情を注いでくれるのだ。この屋敷から出られない以上、ここで得られるものを楽しみに変えなければ気が狂ってしまう。
 アリスの瞳も、唇も、手も、指先も、脚も、それから声も、呼吸も、鼓動も、足音も、何もかもが私のあらゆる欲求を満たしてくれる。苦痛もなければ快楽もない。ただ、アリスが私を愛してくれればそれで構わない。
 だが、アリスは私だけのものではない事に今更気付かされた。
 私が天蓋付きベッドの上に寝かされている時、アリスはよそ見をした。私以外のもの、二十九体のドールが飾られた棚に視線を遣ったのだ。
 数秒の間、彼女はそのまま動かなかったが、不意に立ち上がったかと思うとその棚に近付いて、棚の中から一体のドールを取り出した。ドールの両目を見つめる彼女の顔は無表情でありながらも、どこか不機嫌そうな色をしている。
「どうして、そんな事を言うの、アメリー?」
 少しして、アリスの眉尻が僅かに下がる。
「アメリー、それについては謝るわ。でも、私は決して貴女の事を忘れていた訳ではない、もちろん他のみんなの事も。ただ、私はミアに、私の愛を知って欲しいだけなの」
 アリスはやや考え込むように口を閉ざした後、短い溜め息を吐く。
「分かったわ、貴女の望む事をしてあげる、何でもよ。だから機嫌を直して頂戴、ね?」
 そう言い終えて、椅子に座ったアリスは自分の膝の上にアメリーを起き、その子の髪に手を添える。どこから取り出したのか、いつの間にか手に持っていた櫛を使って、髪の束一つ一つをじっくりと時間を掛けて梳かしていく。
 それを見ながら、私は左胸の中で何かが蠢くのを感じた。
 それは心臓ではない。心臓の鼓動のような一定の動きとは違って、不規則ながらも絶え間なく蠕動している。まるで胸の内に寄生している得体の知れない虫が活発化して動き回っているように思えて、とても気持ち悪い。この感覚の正体は何なのだろうか。
 思わず顔を歪めてしまわないように注意しつつ、私が二人をじっと見つめていると、不意にアメリーと目が合った。彼女は私の視線に込められた心中などお見通しだと言いたげに、薄っすらと勝ち誇ったような笑みを返す。
 アメリーの不敵な笑みを認めた瞬間、私の胸の内に巣食う虫が暴れ出した。
 恐ろしくも悍ましい、そして不快極まりない羽音と関節音を鳴らす虫だ。今にも私の胸を食い破って、外にいるあのアメリーを見るや否や、襲いかかってしまう。
 そう、これは虫ではない。嫉妬だ。
 私が勝手に被害妄想を起こして、ドール相手に気持ちを昂ぶらせていようが関係ない。私のアリスを奪って、自分こそが彼女のお気に入りなのだと私に見せつけているその行為は、紛れもない事実なのだ。
 ああ、できる事なら、今すぐにでもアリスの膝の上から引きずり下ろしてやりたい。
 アリスの視線、アリスの指先、アリスの言葉、アリスの愛情、それらの全てが向けられるべきは私一人だ。時代遅れの赤毛をした、田舎娘のアメリーではない。
 アリスが私以外のドールの髪を梳かしている。
 そんな光景から目を逸らしたくて、私はドールらしくベッドの天蓋を見つめた。
 何も無い一点を見つめると、途端に気が楽になる。思考も感情も次第に遠のいて、安らかなで平穏な静寂が私の頭の中を支配してくれる。次にその静寂から解き放たれる時は、アリスからのおはようのキスを受けて目が覚めた時なのだ。

  ――――

 翌朝、私は清々しい気分で目を覚ました。
 誰かの視線を感じて、ベッドの上で上半身を起こした私は近くにある棚へ目を向ける。
 その棚の中には三十体のドールが並んでいる。一番上の左からアメリー、シャルロット、クラリスと続き、二十七体目がジャンヌ、二十八体目がイザベル、二十九体目がミレイユ、そして最後の三十体目はブロンドの長い髪と青い瞳をした綺麗なドール。
 私は不慣れな体をなんとか動かしてベッドから下り、棚の中からそのドールを取り出す。
「アリス、これで貴女は一生私のもの」 
 さて、私はこれからお出掛けをしなければならない。
 手袋にハイソックスを身に着けて、日傘を片手に、部屋を出て一階へと下りる。屋敷の外へ出ると、屋敷を囲む森の中を歩いて行った。そこからどうやって道を辿ったのかは定かではないが、ふと気付けば人気のない小さな骨董店の前に立っていた。
 私は店の中に入って、店内を見回す。
 店の奥にある座敷の間にはお婆様が一人、そしてそこから少し離れた壁際の椅子には一体の等身大ドールが眠ったように座っている。
 そのドールまで近付いた私はその髪を撫で、その肌に触れる。美しくさらさらとした茶色の髪をしており、肌はきめ細かく透き通っている。このまま埃を被ったまま、誰からも忘れ去られれるのはあまりにも惜しい。
「お婆様、このドールの値はいくらなの?」

                                       了
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登場人物紹介

●私(主人公)……

 小さな骨董店で働く女性。

 客入りがまったくなく、少々呆けた目の悪い老婆の店主が一人いるのみであるため、勤務中ながらもついつい居眠りをしてしまう。

●アリス……

 まるでお人形のように美しい顔立ちをしている女性。

 常に手袋をはめている。可愛い物、美しい物を好み、それらを蒐集する趣味がある。思考や態度は非常に冷静で落ち着き払っており、所作も上品で丁寧。耽美的趣向には深い愛情と執着を注ぐ傾向がある。

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