第1話

文字数 4,043文字

 暗い路地を歩いていた。建物が並んでいるが、扉は閉まっている。先まで進むとゴミ捨て場があった。ゴミ袋や壊れた傘や看板が雑多に並んでいた。僕は辺りを見渡したが、他に人はいなかった。
 内ポケットから手帳を出して、メモを眺める。確かにこの場所だった。ふいに視線を泳がせた時、そこに扉があるのを見つけた。僕はゆっくりとそこまで歩いて行き、ドアノブをひねる。
 扉の先には下に降りていく階段があった。僕は慎重に階段を降りて行った。地下の一階に立つと、また扉がある。僕は迷わずに開けた。
 中は暗かったが、間接照明の光がわずかに部屋の中を照らしていた。奥には人がいるのがわかる。歩くたびに木の床のコツコツという音が響いた。
「待ちくたびれたよ」と彼は言った。
 近寄ると彼はコートを着ている。どこか攻撃的な印象を受けたが、不思議と安心感がある。
「やっぱりあれは夢じゃなかったんだ」
「じゃあ行こうか」
 彼はパチンと指を鳴らした。次の瞬間、目の前には町が広がっていた。煉瓦造りの建物が、右側にずっと先まで続いている。左側にはとても大きな川が流れていて、木々が生えていた。
 僕らは夜の見知らぬ町を歩いた。日本の町にはとても見えなかった。中世のヨーロッパのような雰囲気だ。土の道を街灯が照らしている。僕は彼の少し後ろから付いて行った。彼は建物の前で立ち止まると、中に入って行った。
 煉瓦の壁に、奥には階段があった。僕らは階段を上り、二階の部屋に入った。部屋の中にはキッチンとリビングがあった。リビングには机と椅子が置いてあるだけで、特に人が住んでいる雰囲気はない。
 ガラスの窓があって、そこから町の景色を見ることができた。煉瓦の建物がずっと先まで並んでいて、奥には山が見える。
 彼はキッチンでお湯を沸かしていた。しばらくすると、何かの乾燥した葉を入れて、かき混ぜて、網で濾してコップに注いだ。
「これは何て言う飲み物ですか?」
「セイルっていうんだ。そんなにかしこまって話すなよ。俺たちは付き合い長いじゃないか」
 彼は着ていた黒いコートを脱いだ。ベージュのセーターを着ていた。僕らはセイルという飲み物を飲みながら、向き合って座り、互いの顔を見ていた。
「それにしても奇妙だな。どうして僕は自分の無意識と話をしているんだろう?」
「そういう時期が来たってことだ。お前にはずいぶん苦労をかけたと思うよ。あれは確か中学生の頃だったな。お前は親の都合で転校して、そこで友達ができなかった。俺は当時、お前のことを苛ませ続けたよな」
「今でも苛まれているよ」
 僕はそう言って、セイルを飲み干した。自分の無意識が肉体を持って、目の前に現れている。そのことはかなり奇妙に思えた。
「ところで、今日ここに呼んだのは話があるからなんだ」
 彼はそう言って僕の目を見つめた。
「話ってなんだよ?」
「お前も俺と一緒にここに住まないか? ここには人間の無意識が住んでいる。みんな性格はきついが、それでも時々は優しくなったりする。お前に紹介したい人がいるんだ」
 彼はそう言うと、立ち上がって、奥の部屋へ行った。部屋の奥からは一人の若い女性が現れた。
「沙織っていいます」と彼女は言った。
 整った顔と少し背が高くて、全体的に痩せていた。髪は長く、胸の辺りまであった。彼女は僕を見た後、向かいの席に座った。
「誰なんですか?」と僕は無意識に聞いた。
「一人でこの町で過ごすのも寂しいだろうと思ってさ。俺が連れてきたんだよ」
 彼女は時々僕のことを見ていた。僕はなんとなく恥ずかしさを感じていた。彼女は結構、美人だったし、顔もタイプだった。ただ自分のためにここに来たというのが複雑な心境だった。
「私、前の世界では自殺したんです」
 彼女はぽつりとそう言った。無意識は、彼女にもセイルを注いで出した。彼女はそれを両手で受け取ると、一口飲んだ。
「前の世界で何かあったんですか?」
「自分でもわからないんですが、嫌がらせを受けるようになりました。私は最初、自分の勘違いだと思っていました。でもどこに行っても、周りの人は自分に敵意を向けてくるんです。それで、勤めていた会社を辞めて実家に帰ったんですが、両親も町の人もやっぱり自分のことを攻撃してきました。私はいつか終わると思って耐えていたんですが、ある時、衝動的に建物から飛び降りてしまったんです」
 彼女はそう言うと目に涙を浮かべた。僕はそんな彼女のことをただ見ていた。
「ここには死んだ人間もやってくるんだ」と無意識は言った。
 僕は席を立って、自分のコップにセイルを注いだ。彼女はただ泣いていた。きっと辛かったんだろうなと思った。無意識は立ったまま、僕らのことを見つめている。その目は暗く澄んでいた。まるで何もかも知っているかのようだった。僕は昔のことを思い出した。当時から内省的で、目の前にいる無意識に苛まれていた。でも実際に会ってみると、それほど悪い印象は受けなかった。僕は彼に好意を抱いていた。

「今日はこうして出会ったんだし、花火でもしないか?」
 無意識はそう言うと背中から花火の袋を取り出した。沙織は僕の目をじっと見つめていた。僕は彼女のことを好意的に見ていた。見た目も好みだったが、なんだか彼女と話をしていると安心することができた。
 無意識は部屋を出て、階段を降りて行った。僕と沙織は後に続いた。無意識はコートのポケットから煙草を取り出して火をつけた。それは僕が普段吸っている煙草のようだった。
「どうして俺はこの世界にいないといけないんだ?」と僕は無意識に聞いた。
 彼は煙を吐き出した後、僕の方を向いた。
「特に理由はないよ。それはどうしてこの世界は存在しているのかみたいな不毛な議論なんだ。ただそういう選択肢もあるってことさ」
 街灯が照らす奇妙な町の中を僕らは歩いた。時々、人とすれ違った。彼らは特に僕らには見向きもせずに通り過ぎて行った。
 町から川の方へと向かう。河原に出ると、地面は砂利に変わった。川はずっと奥まで続いている。対岸もここみたいな町になっているようだった。
 無意識はおもむろに袋を開けた後、花火を僕らに手渡した。僕は彼からライターを受け取り、花火に火を付けた。
 花火から火花が上がった。暗闇の中を照らしている。沙織も僕と同じように火を付けた。無意識は相変わらず煙草を吸っていた。
「お前のことを憎んでいたんだ」と僕は言った。
「まぁそうだろうな。ずいぶん苦しめたよ。でもいいじゃないか。お前は今もこうしてここにいる。この世界では俺とお前は友達同士だ。特に傷つける必要もないんだ」
 花火が一本終わると、僕はそれを地面に置いた。無意識は袋からもう一本取り出して、僕に渡した。
 とても静かな町だった。東京とは全然違う。沙織は僕の隣で線香花火をしていた。
「もし、ここで生きるとなったら、最後は死ぬのか?」
「そうだな。元の世界で死ぬくらいの時が経ったら、消滅するよ。でもそれは苦しいことではないんだ。ただ風が吹いて去っていくようなものさ」
 無意識はそう言うと箱から煙草を一本取り出して、僕に渡した。僕はライターで火をつけて、煙草を吸った。川がゆっくりと流れているのが見える。もし沙織が側にいるのなら、寂しくないのかもしれない。
 僕はこの世界に来てから何も感じなくなっている気がした。そして奇妙に思えるほど、安心しているのだ。少しこの世界に慣れてきたのかもしれない。

 花火を終えると、僕らは来た道を引き返して行った。沙織は僕の隣で、元の世界の話をしていた。自殺するまでは僕と違って結構、楽しい時もあったみたいだ。僕は元の世界では孤独を感じることが多かった。沙織は僕よりも一回り若いが、いろいろなことについて知っているようだった。無意識はコートのポケットに手を入れたまま、先へと進んでいく。彼の体は僕よりも背が高い。僕は彼と一緒にいると、自分が子供のような気がした。彼と会って話をすると、彼が知らないことはないような気がするのだ。
 町を歩きながら、辺りの風景を眺めていた。人通りの少ない町だが、暮らしやすいように思える。
 無意識は道の途中で立ち止まると、こちらを振り返った。
「どうする?」と彼は聞いた。
 僕は立ち止まって、考えた。自分の中ではもう答えが出ていた。
「元の世界に帰ることにするよ」
 僕がそう言うと、無意識は吸っていた煙草を地面に落として、靴でもみ消した。それから深いため息をついた。
「どうしてだ?」
「わからないんだ。ただ元いた世界でやるべきことがあるような気がしてね。別にここに自分がいたって構わないことはわかっている。それに何をやるべきかはきっと死ぬまでわからないと思う。でも自分の中で、自分はそうやって生きていくしかないんだってわかっているんだ」
「本当にそれでいいの?」
 僕の隣に立っていた沙織がつぶやいた。
「わからないよ。自分だって。でもこの世界は自分が思っているよりもずっと奇妙なものだと思ってね」
 僕がそう言うと、無意識と沙織はじっと僕の方を見ていた。
「お前はきっとそう言うと思ったよ。せっかく別の世界を作ったんだけどな。ここにいる沙織はいいやつだろ?」
 無意識はそう言うと笑った。
「僕は彼女のことが好きだよ」
「でもお前は元の世界に帰るんだよな」
「うん」
 僕は頷いた。無意識は僕に微笑んだ後、指を鳴らした。その瞬間辺りが白い霧に包まれた。視界が朧げになっていく。僕はただそこに立っていた。霧の中に無意識と沙織は消えていく。町にあった建物も見えなくなっていった。
 ふと顔を上げると、僕は扉の前に立っていた。試しにドアノブに手を掛けたが、鍵がかかっている。振り向くと雑多なものが捨てられているゴミ捨て場があった。僕は先程までの光景を思い出した。確かに僕は自分の無意識と会い、沙織とも一緒に過ごしていた。でもそれは今思うと夢のようなことだった。僕は暗い路地を歩いて行った。先へ進むと人が歩いているのが見えた。
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