第1話

文字数 1,912文字

 疲れ果てたまだ年若き青年は大きな桜の木に辿り着いた。全てを包み込むような太くて厚いその木の幹に背中を預けるようにして座り込んだ。
眠りこむように目を閉じると、ギターの音色が聴こえて来た。聞き覚えのある懐かしいメロディーだった。そのメロディーは青年の懐古的心象を揺り動かし、彼の胸を内側から掴んだ。その音が桜の木から流れていることを青年は悟った。青年はその音に耳を澄ました。
「描いた夢を信じきれない弱さにただ支配されてた」と青年の口は動いた。声は出ていなかった。ただ唇が動いただけだった。そして青年は静かに微笑んだ。
「シックスティーンマイドリーム」と誰かが言った。
 それはギターの音色とは違う場所から聞こえてきた。青年は目を開け辺りを見回した。頭上を見上げると、二本の足が宙に投げ出されてぶらぶらと揺れていた。誰かが木の枝に座っている。
「そんなところで何をしているの?」と青年は声をかけた。
「あなたを待ってた」と若い女の声が返した。
「僕を?」
 若い女はそれには答えずに「あなたは何をしているの?」と訊いた。
「傷を負いやすい心を休めている」
「ふうん」と女は気のない返事をした。
「16歳の頃、あなたはどんな夢を見ていた?」と女が聞いた。
「二匹の大きなカエルが相撲をとる夢」
「そういうことじゃない」
「夢なんてなかった」
「じゃあ何を信じていた?」
「どうだろう、何も信じていなかったかもしれない」
「じゃあ何を考えていた?」
「誰と誰が付合っているかなんてどうだっていいってことを考えていた」
「どうでもよかったんだ」と問いかけるように女はつぶやいた。
「そう、どうでもよかった。それだけじゃなくてあらゆることがどうでもよかった」
「ふうん」と女はまた気のない返事をした。
「私は詩を書いてるの」と女が言った。
「どんな詩を書いてるの?」
「それは言えない」
「恥ずかしい?」
「そうじゃない。責任の問題」
「責任の問題?」
「そっか」と青年は言った。「分かる気がする」
「あなたも何か書くの?」
「ううん。でも分かる気がする」
 ひとひらの桜の花びらが青年の太腿にひらひらと舞い落ちてきた。青年はそれを手にとって眺めた。ただの桜の花びらだった。
「そうだ、ギターを弾きたいと思ってた」と青年は言った。「16歳の時、ギターを弾けるようになりたくて練習してた。でもすぐにあきらめた。やっぱり独学じゃ難しくて」
「弾けるようになるって信じ切れてなかったんじゃない?」
「そうかもしれない。そうだね」と青年は頷いた。
「またやってみれば」と女は言った。
「独学は無理だって学んだから、次にギターを練習する時は誰かに教えてもらわない限りやらないって決めてる」
「私が教えてあげようか?」
「弾けるの?」
「弾けない」と女は笑って青年に顔をのぞかせた。とてもきれいな、17、8の少女だった。
「まず私が練習して弾けるようになってからあなたに教える。どう?」
青年は微笑んだ。「そんな簡単なものじゃない」
「やってみないとわからない。私手は大きいからギターをするには向いてると思うの」
「好きかどうかだよ。手の大きさは関係ない」
「まだやったことがないんだから好きかどうかわからない。でもやるんだから好きになるように頑張ってみる」
「好きになるように頑張るっていい言葉だね」と青年は言った。
「詩を書いてるだけのことはあるでしょ」と少女は言った。「だから、一年後、桜が咲いたらまたここにきて」
青年は何も言わなかった。
「いい?あなたに教えるために私はギターを練習するの。だから来てよ、本当に」
青年は何も言わなかった。
「ねえ」と青年は言った。「もしギターを弾けるようになったら、教えてくれなくていいから、書いてる詩を曲に乗せて歌ってみたら」
「やだよ」と少女は言った。「歌ったことなんてないし恥ずかしい」
「恥ずかしさが責任なんてどうだってよくしてくれるかもしない。それに」
「それに?」
「いい声してるから。声がいいって本当に素敵なことだから」
少女は何も言わなかった。青年も何も言わなかった。桜の花びらが風に舞った。ギターの音色はもう止んでいた。疲れ果てた青年の心は傷つきやすいままだった。それでも青年の心は穏やかだった。
「一つ楽しみができたよ」と青年は言った。
「私歌わないよ」と少女が言った。
「いいよ、歌わなくても。いつかどこかで君の書いた詩に出会ったとき、僕はその声を聴くことができる」
「あなたの方がよっぽど詩的」と言って少女は笑った。
「だから、詩を書くことを辞めないでほしい」
「やめない」と少女は言った。「きっと」
「きっとでいいよ」と言って青年は立ち上がった。
「一年後」と少女は言った。
「きっと」と青年は言った。



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