第1話

文字数 2,021文字

 黒田侯爵家のお屋敷は、東京赤坂にあり、二万坪ほどの敷地には大きな池もあれば森のようにうっそうと茂った植栽もあった。大正に改元して間もない東京はまだまだ屋敷森が多く残っており、野の鳥がのびのびと暮らしていた。
 嫡男・長礼(ながみち)は双眼鏡を片手に、木の陰に身を潜めている。手には手に入れたばかりの舶来品の双眼鏡。幼い日から野生の鴨が飛来する池を家の庭に見てきた長礼は無類の鳥好きで、大学で鳥類学を志すほどだった。
「何を見てらっしゃるの」
 子どもの甲高い声に、驚いた野鴨が数羽バタバタと飛び去った。
「……ああ、行ってしまった。正氏(まさうじ)くん、いつも言う通り、鳥は臆病者だから、むやみに音を立ててはいけないよ」
 長礼はため息をついて、駆け寄ってきた少年をたしなめた。彼が籍を置く学習院の、初等科に通う後輩だ。名を蜂須賀(はちすか)正氏という。
「ごめんなさい、長礼さま」
 子どもは悪びれる様子もなくにっこり笑って謝った。この、一回り以上も年下の友人は、お調子者だが、何となく真面目に怒れない愛敬がある。
 長礼は苦笑いして、双眼鏡を膝の上に降ろした。
「これだけ騒いでしまっては、もうバード・ウォッチングは無理だな。部屋へ入ってお茶にしよう。カステラがあったはずだ」
「わぁい」
 正氏は飛び跳ねて、長礼にくっついてきた。
 不思議な縁だなと長礼は思う。
 そもそも、黒田家と蜂須賀家は安土桃山の時代、ともに豊臣秀吉に仕える武将として友誼を交わした。福岡藩祖である長政の正室は糸姫と言い、蜂須賀正勝の娘だ。関ケ原の時、徳川家にすり寄るため長政は糸姫を離縁して徳川から嫁を迎えた。このことがきっかけで両家は百五十年にわたって絶交状態が続いたのだが、徳川期の半ばに交流を再開し、現在に至っている。長礼の父長成は、正氏の祖父茂韶と政治上深くかかわり、馬が合ったのか打ち解け、いつしか家族ぐるみの付き合いをしている。
「ねえねえ、またあのきれいな鳥のご本を見せて」
「お前のお目当てはそれかい。まあ、わかってはいたが」
 正氏が言っているのは、長礼が持っている博物図鑑だ。やはり舶来のもので、精密な筆致の美しい色印刷で、鳥や花が描かれている。生き物好きだが、やんちゃで大人しく鳥を観察するのはまだ苦手な正氏は、この本に描かれている極彩色の鳥を眺めるのが大好きだ。
 女中に茶とカステラを持ってくるよう言いつけ、部屋に招き入れて、本棚から分厚い本を取り出し、書見台に乗せてやる。少年はおごそかな表情になって、一枚一枚丁寧にページをめくっていった。
「長礼さま」
「うん?」
「このふしぎな顔の鳥は、なんというの?」
 長礼は正氏の肩越しに、本を覗き込んだ。長大な嘴と瞬きを忘れたかのようなつぶらな目。身体はずんぐりとして翼は小さい。足が大きいから、おそらく地上生活に順応した鳥だろう。英文の解説も、そのように書かれている。
「ドードーだね」
「ドードー?」
 長礼は目を細めて英文を読み、少年に訳して聞かせた。
「インド洋の島々にいた鳥だよ。空を飛ばず、地上で暮らしていた、とある」
「飛ばない鳥なの? 何を食べるんだろう」
「わからない」長礼は小首をかしげた。「もういない鳥なんだ。大航海時代にヨーロッパの船乗りたちが見つけてから、あっという間にほろんでしまった」
「え、今はいないの。どうして?」
「書いてないな。船乗りが食べつくしたか、彼らの持ち込んだ病気にやられたか」
「そうか……」正氏は心なしかしょんぼりして見えた。「どんな声で歌ったんだろうね」
 女中がやってきて、お茶と茶菓子の乗った盆を置いていった。長礼はカステラをすすめたが、少年は鳥の絵に見入ったまま生返事をするばかりだった。


 四十年も前のそんな小さな出来事を、今になって思い出したのは、ようやく手に入れた蜂須賀正氏の博士論文を読み終えたせいだろうか。
 あれから黒田長礼は鳥一筋の人生だ。第二次大戦の終わった今では侯爵の位もなくなり、気楽な民間人として研究や執筆に没頭している。
 蜂須賀正氏は波乱万丈だった。一流の政治家となる期待を負わされて英国に留学した彼は、恋と冒険の人生を送った。尻尾のある人間を探すのだとジャングルに分け入り、みずから飛行機を駆って世界中を探検し、さまざまな生き物を見た。醜聞もあれこれ流れてはきたが、稀に長礼に会った時見せる笑顔は屈託なかった。
 そして齢50にして博士号を得た論文が、『ドードーとその一族、またはマスカリン群島の絶滅鳥について』である。
 ――どんな声で歌ったんだろう。
 少年の日のあのつぶやきを、あの子はずっと温めてくれていたのだと思うと、長礼は嬉しかった。
 ――あちらで、ドードーの霊を見つけて大喜びしているかもしれないな。
 そんな風に考え、彼は出版前のゲラ刷りから顔を上げて、急速に変わりつつある東京の街並みに目をやった。論文を書き終えた正氏は、急性心不全で逝去していた。

 ――正氏くん。ドードーの歌は聞こえるかい。
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