第1話 美奈子の場合

文字数 2,596文字

「今度、水族館へ行かない?」 気を利かした友人が誘ってくれる。
「え? ああ、ちょっと考えさせて」
(水族館も行ったな……)
 不用意に思い出がよみがえる。しかも輝きを増しているから始末が悪い。またチクリと心に針が刺さる。
「はあ……」
 また、ため息だ。涙はとうに枯れたけど、ため息だけは終わりが見えない。
「まだ引きずってんの? いい加減さあ……まあ考えといて」
「うん。ありがとね」
(変わりたい……)
 そう思っているのに、実際のところため息しか出てこない。私ってこんな性格だったっけ。昔の自分がまったく思い出せない。
 もう何ヶ月こんな生活をしているのだろう。仕事や必要な買い物以外は家に引きこもっている生活。彼と別れた時からだから、もう3カ月になる。その後、気を使った友人が色々誘ってくれるけど、どこへ行っても彼との思い出が重なり胸が苦しくなる。
 ――結婚するものと漠然と考えていた。いやそう疑わなかった。そんな自分は頭の中がお花畑だったと今では思う。
(私の何がいけなかったんだろう。これと言った趣味がなかったからかな……)
 そう自問する日々は、まるで禅のお坊さんにでもなった様な気分だ。自主的出家と言う単語が脳裏に浮かぶ。一瞬、口角が上がるのを感じたが、それも長くは続かない。
 海、山、川、水族館、テーマパーク。大体の所は行きつくしてしまった。どこへ行っても彼の影が付きまとい、いまだ受け入れられない現実を突き付けてくる。
 通販オペレーターの自分にそうそう出会いがあるわけもなく、複雑な思いが半ば諦めを伴って押し寄せる。今日こそはと思い、服を着替えて鏡の前に立ったけど、思った以上に冴えない自分を前に部屋を出ることをためらってしまう。気が付けば、ベッドに座っている自分がいる。
(何も変わらない)
 いや、変えられない自分に吐き気がする。ふと、テーブルの上の新聞広告に目が留まる。そこには見慣れない「宇宙エレベータ」の文字があった。子供の頃より、夜空の星を見上げるのが好きだったことを思い出す。
「……行ってみようかな」
 さすがに行った事がない場所には影は付きまとわないはずだ。ひょっとしたら変われるかもしれないという期待に突き動かされ部屋の扉を開ける。

 「宇宙エレベータ」は都心からやや離れたところにあった。一見すると普通のビルなので、あまり期待はできないかもしれない。
「大人1枚お願いします」
 ネットでも買えたが、まだ営業して間もないこともあり、チケット売り場もあまり混んでいない。お陰で5分後のツアーに間に合った。
「12:45分発の宇宙エレベータへご搭乗のお客様へご連絡します。ただ今より搭乗を開始いたします。チケットをお持ちのお客様は搭乗ゲートへお集まりください」

 係の人にチケットを差し出すと、「宇宙エレベータへようこそ! 宇宙の入り口への旅をお楽しみください!」と声を掛けられ、一瞬、自分へ向けられた言葉とは思えなかった。
(宇宙への入り口なんて、なんか大げさ)
 戸惑いを覚えつつも、係員の女性の満面の笑顔にのまれて笑顔で返すのが精一杯だった。 通路を進むと、そこにはいかにも宇宙施設といった内装が広がっていて、それだけでも気分が上がる。
「ただ今から上昇を開始いたします。対流圏を抜けるまで少々揺れますので、ご注意ください」
 アナウンスと共に、エレベータが上昇を開始する。窓の外にはこの町の風景が広がっていたが、上昇するにつれ景色はいつしか地球の丸みを感じさせる高度に達する。程なく成層圏の入り口に到達すると、空の青さはいつしか宇宙を感じさせる漆黒に変わっていた。
「高度8000メートルでございます。レストラン“エントランス”に到着しました」
 嘘と分かっていても、少し興奮している自分がいる。
(ただのイベント施設じゃない)
 扉が開いた途端、いい意味で期待は裏切られた。そこは想像を超えた別世界だった。まるでSF映画のセットの様な未来的な内装に思わず現実を忘れる。ひょっとしたら、私は本当に成層圏上空にいるのかもしれない。
「わあ……」
 圧巻なのは、窓の外に見える丸い地球だ。
(すごい、本物みたい)
「お客様、お席をご案いたします。こちらへどうぞ」
「あ、はい」
 ここは宇宙エレベータにあるレストランという設定だ。案内された席は奥の窓際の席だった。
(お一人様だもんね)
 思ったよりメニューが豊富なので驚く。このレストランでは宇宙飛行士が実際に食べている30種類の宇宙食が食べられる。ただ、サラダだけは地産地消らしい。悩んだ末に、カルボナーラを注文した。実際の宇宙食は200種類を超えていて、少量だが運んだ生鮮食品も食べるそうだ。
 しばらくすると料理が届く。麺が細かくなっていて見た目にはパスタには見えない。フォークというよりはスプーンで食べる感じだ。
(美味しい!)
 さすがに単に栄養を摂るだけではなく、食事の楽しみも重視されているだけに手抜かりはない。食後にコーヒーとチーズケーキも頂く。こんな気分は久しぶりだった。地上?の事がまるで遠くの出来事の様に感じる。正直なところ、地上には戻りたくないとさえ思う。

 ふと、斜め向こうの男性の机から、一枚の紙が落ちるのが見えた。男性は一心不乱に何かを書いていて、まるで気づいていない様子だ。一向に拾う気配がないので、帰るついでに拾うと、ナプキンに何やら図面のようなものが描かれている。その密度から男性にとって大切なものだと分かる。
「あの、これ落ちましたけど、これは……?」
「ああ、ありがとうございます! これは今開発している車の……いや、そんなことはどうでもいいですよね。すみません」
「いえ、そんなことはないですけど……」
「今日、ここに来たら解決策が浮かんでしまって、それでつい」
「そうなんですね。なんか分かるような気がします」本音だった。
 誠実そうなその男性は、嬉しそうに今日の体験を語りだした。もちろん、同じ体験したものとして共感できる。つい体験を共有したいという思いから、いつしか話し込んでしまった。
(時間ってこんなにも速く過ぎるんだ)
「実は、すぐ帰るつもりでお昼を食べてないんですよ。もし良かったら早めの夕食でも……あ、ご都合がありますよね。すみません」
「いえ、大丈夫です。それにまだ話の途中ですし……」
 今日、私の人生に新たな1ページが加わった。
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