第1話

文字数 5,066文字

 その情報は、最近よく参考にするようになったバードウォッチャーのブログで見つけた。東京からは、JR、三セク鉄道を乗り継いで二時間。そこからバスでさらに一時間。かなり辺鄙な場所だが、野鳥、特にキクイタダキを見る絶好のポイントがあると言う。
 僕は、日曜日、まだ暗いうちに起き出して、始発電車に乗って、そのポイントを目指した。バス停を降りる頃にはさすがにもうすっかり明るくなっていたが、あたりは人気もない山林だった。スマホを取り出すが、圏外だ。これも、ブログの情報通り。僕はスクショをタップして――予めブログの画面をスクショしてクラウドではなくスマホ本体に保存してきたのだ――、それを道案内にして林道へと入っていく。
 山林は野鳥たちの声に満ちていた。新鮮な空気に野鳥の囀り。冬の朝の寒さは厳しいけれど、それすらむしろ凛とした感じがして快い。僕は静かに歩を進めながら、キクイタダキが鳴いていないかと耳を澄ませる。だが……。
 そこで聞こえてきたのは、僕の胃腸の異常を知らせる、きゅるるるといったお腹の鳴る音だった。同時に、腹痛が襲ってくる。
 あれか、と思った。冷蔵庫の中に残っていたサンドイッチをそのままリュックに放り込んで家を出て、それを行きの電車の中で食べた。賞味期限を確認しなかったが、たしか、あれを買ったのは金曜日、いや、木曜日だ。もしかしたら、水曜日かもしれない。そういえば、封を切ったとき、口に入れたとき、変な匂いもしたような。
 だが、こんなところにトイレなどあるはずもない。とはいえ、人の目もまたない。
 野グソか、と呟いた。バードウォッチングで野山に分け入ってばかりいれば、別に、初めてというわけでもない。
 やれやれ、そう思った時だった。
 前方、木立の間に、建物が見えてきたのだ。しかも、鉄筋コンクリート作りの、大きな建物のように見える。そして何より、いくつか見える窓には、すべて明かりが灯っている。
 トイレを借りよう、そう思って建物を目指した。建物はすぐ前に見えるのに、林道との間を木々が遮り、しかも建物のある土地とは数メートルの高低差まである。どこまで行っても建物への道はない。しまいには、建物を通り過ぎてしまい、その先、見通す限り、建物へと降りていく道はない。そうこうするうちに、腹痛の限界は迫る。
 ままよ!
 僕は木立に分け入り、崖といってよい急斜面を滑り降りた。そのまま慌てて建物の入口を探すと、小さな鉄の扉があった。おそらくは裏口だろう。本当は表に回り、受付に断って入るべきところだが、やむをえない。背に腹は代えられぬ、いや、切羽詰まった腹痛には何も代えられぬ。
 僕は扉を開けた。
 そこには、無機質な蛍光灯に照らされた長い廊下が続いていた。
「すいません……」
 僕は呟きながら少し前屈みの早足で廊下を歩きトイレを探す。幾度目かの腹痛の大きな波が押し寄せる。やばい。爆発しそうだ。
 しばらくいくと廊下はT字路となり、その右側におなじみの男子マークを見つける。
 あった!
 僕はトイレに駆け込んだ。

 数分後。すっきりして、ようやく落ち着きを取り戻すと、そこで初めて、ある意味、「不法侵入」してしまった気まずさを感じた。
 おそるおそるトイレのドアを開けて廊下を覗くと、そこには白衣を着た四十絡みの男が立っていた。少し古めかしい黒縁メガネのせいか知的にみえるその男は、幸いなことに別に怒っているふうもなかった。僕は少し安心して、勝手に入り込んだ無礼を詫び、事情を話した。
「それは大変でしたね。もう大丈夫ですか?」
 男は微笑んで尋ねた。
「ええ、まあ」
「あまり大丈夫ではない?」
「まあ」
 正直、まだ腹痛は残っていた。食あたりだとすれば、もう少しトイレの傍にいた方が良いかもしれない。
「じゃ、薬、出しましょうか」
「――というとここは?」
「病院です。研究所の併設で、通常の外来はやっていませんが、腹痛の薬くらい出せますよ」
 渡りに船とはまさにこのこと。ありがたく、薬をいただくことにした。白衣の男に連れていかれ、ちょっとした待合室のようなところで長椅子に腰かけて待っていると、男が錠剤とコップを手に戻ってきた。
「これで、少し落ち着くと思いますよ」
 男は信頼感たっぷりに言う。僕は錠剤を口に放り込み、多めの水で飲み干した。
「――どうですか?」
 男が僕の顔を覗き込む。
 どうですかと言われても、すぐには……と思ったが、雑談していると数分もしないうちに、その男の顔がふわっとぼやけてきた。後はもう、おかしいと思う間もなく、僕は意識を失っていた。

 目を開けると、無機質な白い天井と、うすぐらい蛍光灯が見えた。僕はベッドに仰向けに横たわっていた。ちょっとの間、何が起きたのか分からなかったが、すぐに、そうだ薬を飲んだんだと思い出した。これはあの薬のせいだ。あれは本当に腹痛の薬だったのか。それとも……。
 僕が身じろぎし、ベッドの上に起き上がると、
「目が覚めましたか」
 と、部屋を仕切るカーテンの向こうから声がした。手を伸ばしてカーテンを開けると、僕が寝ていたのと同様のベッドがあり、いかにも入院患者といった風情の寝間着姿の男が体を起こしてこちらを見ていた。
「ここはいったい……」
 僕が聞こうとするのに被せるように、男は言った。
「あなたは運が良い」
「え?」
「ここの医療技術は、日本でも最先端です」
「あなたは、どうしてこの病院に?」
「ハイキングが趣味でしてね。山道を歩いていて、足を挫いてしまったのです。それで、足を引き摺りながら下山しようとして往生していたところで、ちょうどこの建物が目に入りましてね。だから、私も運が良かった」
 だが、男の様子は足を怪我したというものではない。明らかに顔色は悪く、腕には点滴の針が刺さっている。
「ここで足の手当てを受けていたら、先生が、胸は苦しくないですかと言うんです。言われてみると確かに苦しい。息苦しい。それで貰った薬を飲んで、検査して、そうしたら、肺に病気が見つかって。手術して」
 男が寝間着の胸を少しはだけてみせると、そこにはまだ新しい手術の跡が見えた。
「それで、さあ大丈夫となったら、今度は血便が出て、どうも消化器に異常があると調べて、今度は腹を開いたんです」
 それで男は腹を出し、カエルのように膨らんだ腹部の真ん中に走る手術跡を僕に見せた。
「そうしてようやっとその処置も済んで、今度こそもう大丈夫と思った。そうしたらまた、今度は」
 男は目を輝かせながら話し続ける。男は首筋から背中を僕に見せようとしていたが、僕はもう見てはいなかった。そんなに次から次へと病巣が出てくるなんてあるものか。それにこの男の様子は、どこかおかしい。変だ。
 僕は適当に相槌を打ちながら、ベッドから降りようとした。
 だが靴がなかった。リュックサックも無い。スマホも無い。そこで、今さらのように気づく。僕はいつの間にか着替えさせられていて、隣でしゃべり続け、手術跡を見せ続ける男とおそろいの寝間着を着ていた。
 これは何だかよく分からないが、かなりヤバい。
 僕は裸足のまま床に立った。そのリノリウムの冷たさが、僕に正気をもたらす。ここは病室で、カーテンで四つに仕切られている。残り二つを、そっと開ける。一つには、ひとめで分かる瀕死の老人が、たくさんの管につながれて死を待っていた。もう一つには、空のベッドが置いてあった。ベッドはきれいに整えられ、シーツも毛布も掛布団もなく、主がいないことを物語っていた。
 僕は、まだしゃべり続けている男を見た。
 彼はこの状態を変だとは思わないのか? それとも病院側の厚意を疑ってかかっている僕がおかしいのか。
 とにかく、病室を出て様子を見てみようと思った。
 病室中を探してみたが、僕の靴も、スリッパも、履物は何も見つからない。僕は意を決して、裸足のままでそっと病室の引き戸を開けた。そして、誰もいないことを確認して廊下に出た。
 病室の窓から見える景色で、ここはおそらく四階か五階あたりだろうと当たりをつけていた。建物の外に出るには階段を探さなくてはならない。しかし裸足だった僕は、この時点ではまだ、「脱出」をするかどうか躊躇いがあった。
 このフロアの廊下も、一階と同様に長かった。裸足というのは足音を消せる。床の冷たさが染みるが、今はむしろ音がしない方がありがたかった。
 二十メートルほど行くと、ふいに右手に階段が現れた。
 階段にも人影はない。
 僕は、注意深く階段を降り始める。
 踊り場に足をついたその時だった。
 病院内にサイレンが鳴り始めたのだ。
 何事が起きたのか?
 どうしたらよいのか、どうするべきかも分からず、サイレンの出元であろうスピーカーを探して天井を見回す。
「505-3号が逃走」
 サイレンに被さるようにスピーカーから、事務的な男の声がした。考えるまでもない、僕のことだと分かった。
「505-3号が逃走。第一優先にて、至急捕獲せよ」
 その言葉を耳にして血の気が引いた。
 ウソだろう、捕獲って、こっちは動物じゃないんだ。
 だが、上の階、そして下の階でも、ドアが開け放たれる音がした。それに続いて、何人もの走る足音が続く。
 僕はパニックに陥った。
 手術痕だらけの男の姿、それから管だらけになった瀕死の男の姿がフラッシュバックする。つかまったら殺される。おそらく二度と外には出られない――。
 だが、上の階、下の階から大勢に挟み撃ちにされ、僕に出来ることはほどんどないだろう。こんなことなら、武道でもやっておくんだった……。
「おい! 何やってる!」
 突然、背後から男の声がして、僕は文字通り飛び上がった。だが、男は後ろから僕の腕をつかむと強く引っ張り込んだ。僕は混乱する。そこは壁だったはずだ。僕は、踊り場の壁に引っ張り込まれたのだ。
 壁は半透明で、階段の様子が見えた。次の瞬間、上の階からも下の階からも、何人もの男女が駆けつけてきた。彼らは白衣を着ていた。だが誰もが、スタンガンあるいは棍棒を手にしていた。
「間一髪だったな」
 耳元で男が囁く。
 そこでようやく振り向くと、四〇絡みの男が僕のすぐ後ろに立っていた。
「あなたは……?」
「キミの先輩みたいなもんだ。あいつらに騙されて捕まり、逃げ出した」
「ここは、どこです?」
「俺にも分からない。だが、あいつらにはここは見えないし、入ってくることもできない。俺たちは、こちら側の世界を『穴倉』と呼んでいる。『穴倉』から病院への出入り口は複数ある。そこから、病院の備蓄庫に忍び込み、食べ物や衣服を調達して生き長らえている」
「俺たちって、あなた以外にも誰かいるんですか?」
「キミをいれて全部で八人だな。みんな、逃げてきた」
「この建物は一体?」
「俺にも分からない。誰にも分からない。少なくとも、本当の病院でないことは確かだな」
「ここから建物の外、表の世界へは出ていけないんですか?」
「いろいろ試したが、『穴倉』は建物の中にしか繋がっていない。だから、俺たちは『穴倉』から出てまずは建物に戻り、そこで建物の外への出口を探している。もう、ずいぶん長い間。だが、まだ見つかっていない。逆に三人、あいつらに捕まって、もう帰ってこなかった」
 なんてことだ。
 いや、これは悪い夢だ。だいたい、今いるこの空間は何だ。こんなの、ありえない。
 すると男はふっと笑った。
「キミ、こんなのありえないと思っているんだろう?」
 すっかりこちらの気持ちを読まれているようだった。
「そうだろうさ。俺だって、最初はそうだった」
 男は少し遠い目をした。いったい、この男はどれくらいの間、この『穴倉』で暮らしているのだろう。知りたかったが、恐ろしくて聞けなかった。
「さあ」
 男は言った。
「俺たちの住処に案内しよう」
 見ると、薄闇の中、下り階段が繋がっていた。これといって照明はなく、先は闇だ。そして僕の記憶が間違っていなければ、そこはすでに建物の外に出てしまっているはずの空間だった。
 僕は足を踏み出すのを躊躇う。だが、僕には他に行く場所はない。
「さあ」
 男はもう一度、僕を促した。
「どうする? それとも建物に戻るか?」
 もう一度、壁の向こう、今来た場所を振り返る。そこでは、武器を手にした白衣の男女が僕を探している。
 こんなこと全く予想もしていなかった。でもある日、それは起こり、そしてもう以前の生活へは戻れないのかもしれない。
「連れていってください」
 僕は男にそう頼み、階段へと一歩踏み出した。
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