第1話

文字数 3,709文字

 空の水が全部落っこちているのではないか。

 飽きもせず雨を降らし続ける灰色の雲をじっと睨みながら蝶は思った。
 数日前、ポツリポツリと降りてきた小さな雨粒に「これくらいならばすぐ止むだろう」と高をくくり、人など長らく住んでいなそうな空き家の軒下に入ったのが失敗だった。
 日が暮れてまた昇ってもなお、雨は一向に弱まる気配など見せなかった。
 腹が減っても周りには枯草しか生えておらず、土壁を這う小さな虫達を食べる気もおきない。かといって雨の降る中、この軒下を出て自慢の羽根を濡らすようなこともしたくない。
 「あーあ、お天道様はさぼりすぎてやしないかい。いいかげん腹が減って限界だ・・・」
 すると、道の向こうから傘をさした人間の女が一人近づいてきた。
 歳は四十くらいだろうか、華やかで上品な縹色の着物を身にまとっている。しかしそんな美しい着物とは裏腹に、女の顔はこの空模様のように曇っていた。
 「この人間も雨に嫌気がさしているのかねぇ。でもこいつは丁度いいや。ちょいと傘にお邪魔させもらって、別のところに移動しよう。」
 蝶は軒下でヒラリと一回転し、女が空き家の横を通り過ぎる丁度の時を見計らって、さっと女の後ろに回り込んだ。
そして傘の下からはみ出ないように気をつけながら、後ろをヒラヒラ、ヒラヒラとついていった。


 ざあざあと降り続く雨の中、女はひたすらぬかるむ道を歩き続けた。
 一体どこまでいくのやらと蝶がふわぁと欠伸をしたその時、突然女が立ち止まった。その拍子に、蝶はとてんと女の背中にぶつかった。
 「いたた・・・もう少しで羽が折れるところだった。全く、止まるなら止まると一言言ってくれよなぁ・・・」
 蝶は勝手な文句を女の背中に向かってぶつぶつ言ったが、もちろん聞こえるはずはない。
 とにかくここはどこだと蝶がキョロキョロ辺りを見渡した。
 そこは、この土地で一番大きな川にかかる橋の上だった。
 この長雨のせいだろう、川は底があるのかと思うほど濁りきり、ごおごおと大きな音を立てて流れていた。
 女はというと、橋の上からじっとその川を見つめていた。
 しばらくすると、袖の中から赤い巾着を取り出した。そしてその巾着をゴソゴソあさったかと思うと、中から菊の花を一輪取り出した。
 女はその菊の花を、荒れ狂う川に優しくそっと投げ入れた。
 そしてまるで体のどこかでも痛みつけられているかのように、眉間に深い皺を作りながら川に向かって両手を合わせた。
 「ふうん。親兄弟か子供でも亡くしたか。」
 人間や狸や犬といった腹から生まれる種族は、家族を特別大事にすると聞いている。しかし卵から生まれ、親の顔なんてついぞ見たことがない蝶からしたら、そんな気持ちは毛ほども分からなかった。
 なんでもいいから早いとこ別の場所に移動してくれないものかと、目を閉じて祈り続けている女の周りをヒラヒラ飛んだ。
 するとちょうど女の目の前を通りすぎる刹那、運悪く女がパッと目を開けてしまった。
 女は蝶を見てハッと息をのみ、こう言った。
 「お前は・・・もしかして定吉かい?定吉なんだろう?あぁ、会いに来てくれたんだねぇ・・・」
 女は目に涙を浮かべながらそう言うと、優しく包み込むように両手でそっと蝶を捕まえた。
 一体何が起きたのか分からず、ぽかんとしていた蝶だったが、真っ暗になった視界に我に返り、慌てて逃げようとしたが時すでに遅かった。
 女は手の中の蝶をつぶさないように気をつけながら、大事に大事に自分の家まで連れて帰った。
 
 女の家は土地でも有数の商家だった。
 女には一人息子がいた。しかし数年前、今日のような豪雨の日に息子は川に流され亡くなった。
 そんな女は、橋の上で捕まえた蝶を自分の息子だと思い込み、立派な籠を用意して、毎日上等な花と葉を与えて可愛がった。
 蝶は人間の息子の代わりにされるなんて冗談じゃないと思い、隙をみて逃げ出そうと目論んだ。
 運の良いことに、蝶が入れられた籐の籠は裏側が一ヵ所欠けていて、羽をピタリと閉じて歩けばちょうど抜けられるくらいの穴が開いていた。
 蝶はすぐにでも逃げ出そうと思っていた。
 しかし毎日差し出されるごちそうや、雨に羽根を濡らす心配もない暖かな寝床を前に、元来面倒くさがりの蝶は「出ようと思えばいつでも出られるのだから」と言い訳をしながら、ダラダラと日々を過ごした。
 また、毎日甲斐甲斐しく世話を焼き、優しく声をかけてくる女の姿を見ていると、なんだか落ち着く心地がしていた。こんなことを感じるのは生まれてこのかた初めてだった。

 蝶がこの家にやってきて十日ほど経った夜のことだ。
 女がいつものように蝶の部屋にやってきた。女はいつも寝る前、蝶に「今日はこんなことがあった」と語りかけるのが日課であった。蝶はその話を聞くのは嫌いではなかった。
 ひとしきり今日の出来事を喋り終えた女は、蝶におやすみと言って自室へ戻ろうとした。
 しかし背中を向けたその時、突然女がその場に倒れた。
 蝶は驚き、慌てて籠のてっぺんまで飛んだ。女は息はあるようだが、額には脂汗がにじみ、はぁはぁと肩で息をしている。
 誰か女中でも来ないかと蝶はあたりを見回したが、誰一人近くを通る気配はない。
 蝶は、どうにかして女を助けたいと思った。
 しかし、蝶に何が出来るというのだろう。
 鳥のように声を出せるわけでもなく、苦しむ女の背中をさすってやれる手も持たない。右往左往としていると、蝶の目の前に天井からスーッと一匹の蜘蛛が下りてきた。
 「おいおいおい。上からずっと見ていたがお前どうしてこの隙に逃げねぇんだい。まさか虫のくせに人間を助けようなんて思っているわけじゃあねえよなあ。」
 蜘蛛は小馬鹿にするように、ガシャンガシャンと牙の音を立てながら笑った。
 「だったら何だっていうんだ。」
 「お前正気か?ははは、それは面白え。どれ私が一丁手を貸してやろうか。」
 「お前だって虫のくせに何が出来る。」
 「へ、蜘蛛を馬鹿にするもんじゃないよ。私達はいつも天井から人間を観ているからね、人間が使う文字ってやつを書けるんだよ。そこでこの私がその辺の紙に『女が苦しんでいる』と、この自慢の糸で一筆したためて、どっかの女中の頭の上にでも落としてやるよ。ただし、ただって訳にはいかないよ。お前のその美しい羽を食わしてくれることが条件さね。」
 じゅるりと涎を垂らす蜘蛛を前に、蝶は少し考えた。悪くない取引だと思った。
 虫の世界は簡単に命が奪い奪われる世界だ。隣をヒラヒラ飛んでいた仲間の蝶が、突然鳥に食われるなんて日常茶飯事だった。
 虫達は、命は短く自分の思い通りにはならないことを当たり前に知っていた。だから命が惜しいなんて感情は持たない生物であった。
 蝶はちらりと女を見た。生意気な蜘蛛の助けを借りるのは癪だが、こんな虫の命ひとつでこの女が助かるならば、これまで生きてきた甲斐があるように感じた。
 そして、蝶は籠の中から飛び出した。




 障子の隙間から差し込んだ朝日で女は目を覚ました。
 周りには心配そうに自分を見つめる女中や医者の姿があった。
 「あの蝶はどこ・・・?」
 眠っていた間、苦しむ自分を助けるために蜘蛛に身を差し出す蝶の夢を見ていた。籠を見るとやはり蝶はいなくなっている。
 私は、また一つ大切なものを失ったのか。
 あの蝶が、定吉の生まれ変わりなんかじゃないことくらい分かっていた。
 そう思い込もうとすればするほど、虚しさばかりが心に広がった。
 しかし毎日蝶と接するうち、いつしか心に広がるのは虚しさだけではなくなった。
 「・・・・・・。」
 何も言葉が出てこない。目の端には、じわりと熱を持った涙がこみあげてきた。
 すると、横で控えていた女中がそっと肩をたたいて言った。
 「奥様、蝶でしたら奥様の布団の上にいらっしゃいますよ。」
 「え・・・?」
 おそるおそる首を起こして布団の上を見てみると、女の膝の上あたり、たしかにそこに、あの蝶がいた。
 信じられない。
 どういうことなのか、女中に尋ねた。
 「私達も不思議で仕方ないのです。昨晩、この蝶が突然女中部屋に現れました。逃げ出したと思い、私たちは捕まえようと後を追いかけました。ヒラヒラと逃げる蝶をなかなか捕まえることができず、しばらく追い続けていると、偶然蝶がこの部屋に入りました。すると奥様が倒れているではありませんか!蝶どころではなないと、私達は慌てて医者を呼び、布団や水を用意したりと騒がしくしていました。しかし不思議なことに、その間ずっと蝶は奥様のそばをヒラヒラと飛び、お傍を離れなかったのです。」
 もしかしたら本当に定吉ぼっちゃんの生まれ変わりなのかもしれませんね、と女中は目に涙を浮かべながら言った。


 「そう・・・そうなのね。」
 女中の話を聞き終えた女の手の甲に、ポタリと大粒の涙がひとつ落ちた。
 そして蝶にだけ聞こえるくらいの小さな声で、女は「ありがとう」と呟いた。
 すると蝶は羽をふわりと広げて舞い上がり、そっと寄り添うように女の肩にとまった。
 障子から差す日の光が、蝶と女を優しく包み込んでいた。



 おわり
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