第1話

文字数 2,749文字

「もううんざりだ」文明生活に倦んだ世捨て人を自認するパーシヴァル・K・ライアン氏はアーカンソー州の牧場でひとり、絶叫した。「もう金輪際、コカ・コーラもビッグマックも見たくない!」
 ライアン一族は代々アーカンソーの片田舎で牧場を経営してきた。仕事は典型的な3Kで明らかに収入は仕事内容に見合ってはおらず、昨今のお上品な学校を卒業したばかりの坊ちゃん嬢ちゃんなんかは半日で逃げ出すような環境だ。
 それでも彼は今日まで倦まずたゆまずヤギから乳を搾り、牛たちがおいしく太るように丹精込めて飼料を与えてやり、ブロイラーがぎゃあつく喚く鶏舎を清潔に保ってきたのだ。
 その結果どうなったかといえば、二束三文で牧場を手放す破目に陥ったのである。ライアン一族の広大な牧場は帝国主義的なフランチャイズ企業に目をつけられ、友好的な取引――たとえば真夜中にバズーカ砲を携帯した交渉係がやってくるとか――のすえ、売却を余儀なくされたのだった。
「俺はほとほといやになったぞ」ライアン氏は荷物を柳行李に詰め込み、颯爽と肩に担いだ。「アメリカなんざくそくらえ。二度と戻ってくるもんか」

     *     *     *

 フィジーのスバ港からが遠かった。
 典型的西洋人たるパーシヴァル・K・ライアン氏にしてみれば、フィジーなんて島は南太平洋の果ても果て、野蛮人の跳梁跋扈する人跡未踏の地だと決め込んでいたふしがある。
 ところがどっこい現地住民は褐色の肌に先祖代々受け継がれた刺青を施し、極楽鳥の羽飾りをド派手に誇示し、タロイモだけを年がら年中食べて大量の虫歯をこさえる――というような生活はぜんぜんしていなかった。
 彼らはゼネラル・モータースやらプジョーやらトヨタやらを乗り回し、ビックマックにかぶりつき、そしてもちろん――コカ・コーラを愛飲しているのだった(むろんペプシもだ)。コカコロニゼーションの波は快調に南下している。
「これじゃだめだ」文明生活に倦んだ男はつぶやいた。「もっと南へ。コカ・コーラのない世界へ!」
 スバ港からローカルポートへ接続するトランシップ船に乗り換えた男の眼前には、苦労の甲斐もあって期待通りの光景が展開した。
 かつて何百マイルもの海洋を筏で開拓した、勇敢なミクロネシアの人びとが住まう島嶼群。半壊したおんぼろ船が騒音をまき散らしながら航行し、タラワ環礁を優雅にカヌーが漂い、陸は未開のジャングルにすっぽり覆われ、その下生えを這い回るムカデ、ヒル、ダニといった熱帯の困った連中。
 そしてお待ちかね、奥地の小規模集落には先祖代々からの刺青と極楽鳥の羽飾りをまとった原住民が、おぞましいカニバリズムの儀式を執り行っているではないか! ライアン氏は息を呑み、焚火を中心に円陣を組んでなにやら呪文を唱えている野蛮人の集団に近づいていった。
「ハロー」通じるかどうか疑問だったが、彼は思い切って英語で声をかけた。「わたしはアメリカ人です」
 ひときわド派手な羽飾りをかぶった老人がゆっくりを首を回した。たぶん酋長だろう。「ハロー、アメリカ人」
「なぜ人間を食べるのかね」男はいつでも逃げられるよう絶えず気を配りながら、「周りにはおいしそうな果物が鈴なりにぶら下がってるじゃないか」
 酋長は片言の英語で厳かに宣言した。「俺たち、人、食べる。病気、治る。みんな、元気、なる!」
「ふうむ、なるほど」ライアン氏は執拗に食らいついてくる陸生ヒルを引っぺがしながら満足げにうなずいた。「こいつはいよいよ狩猟採集社会のお出ましだな」
 鉈で爆発的に繁茂するつる植物を伐採しながら彼は進む。もうすぐだ。もうすぐそこに、彼が求めてやまない石器時代の原風景があるはずなのだ。さっきの連中よりもっと原始的な人びとが。彼らこそ人類の生きた化石であり、マーガレット・ミードだかマーマレードだかが鮮やかに描き出した奇跡のように美しい野蛮人の生活にお目にかかれるのだ。
「ええいくそ」彼は毒づいた。眼前に氾濫する荒々しい河川が現出したのだ。水は昨夜の雨で増水し、濁流となってゆく手をさえぎっている。まるで文明社会へ帰れとでも言うかのよう。「ちくしょうめ、誰が帰るもんか」
 立ち往生したまま数時間をヒルへの献血に捧げた結果、ワニでもピラニアでもかかってこい、ままよと渡ろうとしたその瞬間、猛スピードで濁流を横切る影が視界に飛び込んできた。
 それは明らかにまぼろしだった。男は目をしばたき、いったん閉じた。二度深呼吸したのちにゆっくり開く。まぼろしは消えるどころかよりいっそう存在感を増している。ライアン氏は自分の正気を疑った。いま見ているものが本物のはずがない。なぜこんなジャングルに爆音を立てて川を疾走するジェットスキーなんかがあるのだ。
「おーい!」彼は力の限りカワサキのロゴが刻印されたまぼろしに向かって手を振り、のどが枯れるまで呼びかけてみた。あれに乗っているのが原住民であるはずはない。とはいえあの褐色の肌はどう見ても……。「ちょっときみ!」
 ジェットスキーは徐々にスピードを落としながら岸辺に近づいてきて、彼の目の前で停まった。アイドリングしているエンジンの音。「なんだい、おっさん」
 あろうことか英語だった。ピジン語やら得体の知れない絶滅間近の言語ではなしにだ。
「きみはいったいどこからきたんだ。俺みたいに文明に嫌気が差して逃げてきた口か」
「いんにゃ。おいらはこのあたりの生まれだよ」
「このあたりってのはつまり」こめかみをぐいぐい揉みながら、身振りで周りを指し示した。「このへんの未開の地ってことか」
「そういう言いかたは感心しないね」
「すまん、謝るよ」おそるおそる尋ねる。「で、そのしろものはいったいどういう了見なんだ」
「大枚はたいて買ったのさ、ついこないだ」少年は真っ白な歯を見せて誇らしげに笑った。「最高にクールだろ」
「そんな……」二の句を継ぐのに何十秒も要した。「こんな奥地まで毒されてるなんて」
「あんたみたいな西洋人はたまに見かけるよ。みんな失望して帰ってくけどね」少年はあくまで親切だった。「そうだ。あんたの好きそうな暮らしが見られるよ。おいらのじいさんがパートタイムで酋長のまねごとやってんだ」
 すると例の老人は有給の仕事として部族社会の長を演じていたわけだ。現代まで引き継がれたカニバリズムが聞いて呆れる。
 ライアン氏は最後の望みにすがるように、腹から次の質問を絞り出した。「好きな食べものを聞いてもいいか。ワニのかば焼きか、マンゴーか、さもなきゃタロイモか?」
 少年は屈託なく笑った。「ビックマックに決まってるじゃん。コーラとよく合うんだな、これが」
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