第1話 腐ったミカン

文字数 1,739文字

 小学校教師の生田は道徳の時間が苦手だった。自由奔放に思いつくままに自分の意見を言う子もいれば、心ここにあらずと校庭を眺めたり、突然奇声を発したり、これはお喋りの時間だと思って延々と隣同士でふざけている子と、まったく収拾がつかない。
 小学生に他人の意見に耳を傾むけるようにさせるのは、猿に裁縫を教えるぐらい至難の業なのだ。
 生田の得意としているのは、理数系の授業で、公式によってひとつの答が導かれる科目が性に合っていた。道徳のように正しい回答はなく、すべてが正解であるみたいなものは不可解極まりなく、子どもたちの自由な発想を育てる授業といわれても、無法時間ができるだけぐらいしか思わなかった。
 しかも今日の道徳の題材は「ミカン箱の中に腐ったものがひとつあったら、あなたならばどうするのか?」というものだった。

 教材のガイドブックによると、授業全体が、腐ったミカンを捨てるという意見に流れていくようならば、ミカンを人間に置き換えても捨ててしまうのかと、生徒たちに問いてくださいという。
 逆に捨てないという意見が大勢を占めるというならば、そのまま放っておくと、ミカン箱全体が腐ってしまいますと、問いかけてくださいと書いてある。この玉虫色の進行が、根本的に嫌いなのである。
 生田は教壇の前に立つと、早速黒板に大きく「ミカン箱のなかに、くさったものがあったら、君ならばどうするかな?」と書いた。

「最初から腐っているとわかったら、買わないよな」
クラス一番のお調子者の代々木が、開口一番に言うと、クラス全員がどっと笑った。
 代々木が最初に発言した授業は、だいたい収拾がつかずに、消化不良になって時間となる。やれやれ、今日も授業が荒れるにちがいない。
「だいたい、ミカンは箱で買わないし。そんなにあったら、食べ切れなくて、結局はみんな腐っちゃうもんね」
 また全員が笑った。代々木は得意満面である。
 すると代々木に誘い出されるように、生徒たちが好き好きに思いついたことを言い出した。

「ミカンを食べすぎると、手が黄色くならない?」
「ミカンが好きって、お婆ちゃんの感覚!」
「ぼくはミカンよりグレープフルーツのほうが好きだな」
「甘いミカンの見分け方を知っているよ」
「聞きたい!聞きたい!」

 早くも授業が脱線し始めている。
 この線路が通っていない道を走らされている列車のような感覚が、生田には耐えられない。
「よし、わかった。それならば、ミカンを人間に変えてみようか?人間ならば、簡単に捨てるわけにいかないだろう?」
このひと言で騒がしかったクラスが、一瞬にして静まりかえった。
 ガイドブックに書いてある効果はあったようだ。生田は安堵した。生徒たちは真剣に考え始めたようで、一分近く沈黙が続いている。

 すると静寂を破って、上原という女子生徒が、すっと手を挙げた。
 上原は責任感と洞察力が強く、学級委員長を務めると同時に生徒会に属していて、生田も一目置いている子だ。
 心のなかで幼きジャンヌ・ダルクと命名しているほどで、この子が発言すると、授業全体が引き締まる。まさに救世主である。
 幼きジャンヌ・ダルクは腐ったミカンを人間に喩えるのは、どちらを選ぶのだろうか。もし捨てない方を選ぶようなら、腐ったミカンがひとつあるだけで全体が腐っていくと、決め台詞を言えるのだ。
 語気を強めて言ったら、お調子者の代々木たちの心にも少しは響くかもしれない。
 そう思うと、生田はわくわくしてきた。

「先生、私は人間であっても捨てるべきだと思います」
「それは大胆な意見だね。でも人間はミカンではないんだよ。どうして、捨てなくてはいけないと思ったのだろう?」
「考えてみてください。ミカンの箱が国会だとします。国民から選ばれたのに、仕事中は寝てばかりいて、地元では威張ってばかりいる。さらに無駄遣いして遊んでいたら、捨てないわけにはいけません。しかも腐ったミカンが、みんなから選ばれた、国の一番偉い人たちならば尚更です。国が滅びてしまいます。先生はどう思われますか?」

 その質問に対する回答は、ガイドブックに書かれているはずもなかった。
 生田は上原の顔を凝視した。何も言えない。
 幼きジャンヌ・ダルクの真剣な眼差しに射られたようだった。
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