第1話

文字数 1,953文字

 教室は偶然受験会場と同じだったが、しばらくそのことには気づかなかった。受験の日とは違った緊張感があり、それが教室の色を変えてしまっていたからだ。僕は、まるで霜のような、ぱりぱりとした緊張感だな、と感じた。すうっと冷え込むような比喩がすぐに浮かんできたということはつまり、僕が春の暖かさを意識している証拠だ。僕はこのように、今を片手間に受け取りつつ、過去を見てしまう癖がある。今というのは僕にとって、いつでも少し未来の話なのだ。

「このクラスの担任ね、めっちゃかっこいいよ、あたり引いたね。」
 おそらくは最高学年であろう女子生徒が、いつの間にか教壇に立ち、僕たちに向かって熱弁している。短いスカートと濃いめの化粧、明るい髪色と音量の大きい話声は、ギラギラとした光を放っていた。この学校に、この人の入れない部屋はないのかもしれないと、何となく思った。
 彼女はひとしきりこの学校について話すと、今度は出席番号1番から順番に、
「高校1年生としての抱負を聞いてくからね。」
 と言い出した。教室は徐々に緊張感が解け、がやがやとしだしている。僕には抱負などなかったが、自分の番が来るまでにそれらしいことを言わなければならない。とりあえず、手当たり次第にそれっぽいことを書きだそうと、鞄から筆箱と紙を取り出そうとしたとき、ふと上履き袋が目に入った。

 僕が今使っている上履き袋は、小学校3年生の頃、母親が作ってくれたものだ。それを、未だに使っている。母親は上履き袋に、僕の好きだったキャラクターのワッペンを貼ってくれた。当時の僕はそれが気に入り、毎日学校に持って行った。
 ある日、小3と小6がペアになって行く、ふれあい遠足というものがあった。年上と行動できることが嬉しかった僕は、気分が上がった拍子に、ペアのお姉さんに上履き袋を自慢した。
「あー、かわいらしくて良いんじゃない?」
 彼女は笑ってそう答えた。僕は喜んで、その後も彼女に上履き袋を自慢し続けた。
 後から聞いた話によると、彼女は僕のことを、ガキ臭いワッペンを付けた上履き袋を持っている奴として、友達に言いふらしていたらしかった。僕は恥ずかしくてたまらなくなったが、不思議と彼女を恨む気持ちにはなれなかった。いや、そんなこと思いつきもしなかった、と言う方が正確かもしれない。
 その後、卒業までその上履き袋は使わなかったが、部屋の隅にあるそれを見つめる、母親の悲しそうな顔を見かねた僕は、中学からまた使い始めた。ワッペンはこっそり剥がしてしまった。行方は分からない。学習机の上に置いたような気がするが、いつの間にかなくなっていた。

 上履き袋を見ながら、僕はまた過去にいた。あの頃が8歳で、今、僕は16歳だ。ギラギラした彼女は、気が付くと前の席の人に抱負を聞いている。周りを見渡すと、誰とも喋っていないのは、僕と、あとは数えるほどしかいなかった。

「じゃー次、君ね。君は、高1の抱負ある?」
 何か答えなくてはいけないのにも関わらず、僕は、この人かったるくなって、高校1年生って言うのやめたな、などという余計なことを考えていた。
「高校生って意識じゃなくても良いよ、例えば、16歳って考えてくれても良いし。やりたいこととか、んー、16歳と言えば、的なことでも良いしね。なんかはあるでしょ。」
 僕はとっさに、上履き袋を取り出して、彼女に見せた。
「何これ。」
「僕の、上履き袋です。これ、どう思います?」
 一瞬、教室の色が変わったような気がした。
「どうって、汚いの使ってんな―、くらいかな。物持ち良いね、君。」
 彼女は半笑いでそう答えた。それから、あからさまにめんどくさそうに、
「で、16歳ってことについては?なんかないの?」
 と言った。彼女の中で既に業務となったその質問だが、僕にとっては強く響いた。
 僕は頭の中で、かつて剥がした、行方知れずのワッペンと上履き袋とをくっつけようとしたが、ワッペンを剥がしたときの手の感触が邪魔をして上手くくっつけることができなかった。あ、

「これもう、捨てちゃって良いかな?」
 そういえば、母親は小3の年末、大掃除の日にそう言っていた。言って、ワッペンをゴミ箱に捨てていた。今思い出した、僕はまだ、あのときの上履き袋を持っている。確かに汚い。小学3年生、8歳の僕が、点滅しながら今の僕に手を振っている。分かった、ここでやっと、僕は僕の罪を満了するのだ。誰を恨むにしても心が軽い。ここからがスタート地点だ。光がない瞬間がある分、僕は彼女よりも強い。僕は今、過去も現在もないまぜに抱きしめている。それだけで、後のことはもう、ほとんどどうでも良かった。

 彼女の質問に対しての僕の答えは、
「16歳は、8歳の倍ですかね。」
 程度のものだったと記憶している。

 
 
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